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論語詳解055八佾篇第三(15)子太廟に入り’

論語八佾篇(15)要約:若き日の孔子先生。神主がもったいぶってやるあれこれに、一体何の意味があるのかと問いました。うろたえた神主は論点をずらしてまともに答えず、身分低く生まれた先生の出身をあげつらいます。

論語:原文・書き下し

原文(唐開成石経)

子入大廟𣫭事問或曰孰謂鄹人之子知禮乎入大廟𣫭事問子聞之曰是禮也

※「入太廟、每事問。」は論語郷党篇15に重出。

校訂

東洋文庫蔵清家本

子入太廟/毎事問或曰孰謂鄹人之子知禮乎入太廟毎事問/子聞之曰是禮也

後漢熹平石経

…太廟…子知禮…(禮?)…

定州竹簡論語

……事問。子聞之,曰:「是禮也。」51

標点文

子入太廟、每事問。或曰、「孰謂鄹人之子知禮乎。入太廟、每事問。」子聞之曰、「是禮也。」

復元白文(論語時代での表記)

子 金文入 金文大 金文廟 金文 每 金文事 金文問 金文 或 惑 金文曰 金文 孰 金文謂 金文鄹 金文大篆人 金文之 金文子 金文智 金文礼 金文乎 金文 入 金文大 金文廟 金文 每 金文事 金文問 金文 子 金文聞 金文之 金文曰 金文 是 金文礼 金文也 金文

※「鄹」→(金文大篆)。「太」→「大」。「鄹」は固有名詞のため近音同音のあらゆる音が置換候補になりうる。論語の本章は、「每」「問」「或」「孰」の用法に疑問がある。

書き下し

大廟くにつみたまやりて事每ことごとふ、るひといはく、たれ鄹人すうひとよきつねると大廟くにつみたまやりて事每ことごとふと。これいていはく、よきつねかなと。

論語:現代日本語訳

逐語訳

孔子聖蹟図 太廟問礼先生が魯国公の祖先祭殿に入って、事あるごとに質問した。ある人が言った。「誰だ、鄹ひとの子が貴族の常識を知っていると言ったのは。祭殿に入って事あるごとに質問している」と。先生はこれを伝え聞いて言った。「これが貴族の常識なのだなあ」と。

意訳

孔子 ぼんやり
若い頃、国公の祭殿で祭祀の手伝いをしたことがある。バカげた偽善ごっこを神官どもがやっていたから、一体何の意味があるのかと一々問い詰めてやった。そしたらある神主が笑ったそうだ。「誰だ、あの乱暴者の小僧が上流社会の常識を知ると言ったのは」。聞いてつぶやいた。「迷信に付き合わんのが貴族のたしなみなんだがな」と。

従来訳

下村湖人
先師が大廟に入つて祭典の任に当られた時、事ごとに係の人に質問された。それをある人があざけっていった。――
「あの(すう)の田舎者のせがれが、礼に通じているなどとは、いったいだれがいい出したことなのだ。大廟に入つて事ごとに質問しているではないか。」
先師はこれをきかれて、いわれた。――
「慎重にきくのが礼なのだ。」

下村湖人『現代訳論語』

現代中国での解釈例

孔子進太廟,每件事都問。有人說:「誰說孔子懂禮呢?進太廟,事事問。」孔子聽後,說:「這就是禮。」

中国哲学書電子化計画

孔子が魯国の祖先祭殿に入り、仕草のいちいちを全て質問した。ある人が言った。「誰が孔子を例に詳しいと言ったのか。祭殿に入って、事あるごとに質問している。」孔子は聞き終えたあと、言った。「これこそが礼だ。」

論語:語釈

 ( 、「 ( 。」 、「 。」

子(シ)

子 甲骨文 子 字解
(甲骨文)

論語の本章では、「子入太廟」では”(孔子)先生”。「鄹人之子」では”子供”。初出は甲骨文。字形は赤ん坊の象形。春秋時代では、貴族や知識人への敬称に用いた。季康子や孔子のように、大貴族や開祖級の知識人は「○子」と呼び、一般貴族や孔子の弟子などは「○子」と呼んだ。詳細は論語語釈「子」を参照。

入(ジュウ)

入 甲骨文 入 字解
(甲骨文)

論語の本章では”入る”。初出は甲骨文。「ニュウ」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)。字形は割り込む姿。原義は、巨大ダムを水圧がひしゃげるように”へこませる”。甲骨文では”入る”を意味し、春秋時代までの金文では”献じる”の意が加わった。詳細は論語語釈「入」を参照。

太廟(タイビョウ)→大廟(タイビョウ)

太 楚系戦国文字 廟 金文
「太」(楚系戦国文字)・「廟」(金文)

論語の本章では”国公の霊廟”。

「太」の初出は楚系戦国文字。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補は同音の「大」。字形は「大」に一点加えたもので、『学研漢和大字典』『字通』は「泰」の略字と見なし、「漢語多功能字庫」は「大」の派生字と見なす。詳細は論語語釈「太」を参照。

「廟」の初出は西周中期の金文。字形は「广」”屋根”+「𣶃」(「潮」の原字)で、初出ごろの金文にはさんずいを欠くものがある。「古くは祖先廟で朝廷を開くものであった」という通説には根拠が無く、字形の由来は不明。原義は”祖先祭殿”。金文では人名のほか原義に用いた。詳細は論語語釈「廟」を参照。

上掲の通り「大」と「太」で諸本に異同があるが、定州竹簡論語に「太」の用例は無い。文字的には論語語釈「大」を参照。

每(バイ)

毎 甲骨文 毎 字解
(甲骨文)

論語の本章では”…のたびに”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。新字体は「毎」。「マイ」は呉音。字形は髪飾りを付けてかしこまる女の姿。髪飾りは成人を意味し、母たり得る女性を示す。原義は「母」。甲骨文では原義のほか「悔」に通じて”惜しむ”、金文では加えて「敏」に通じて”はやい”、人名に、戦国の金文では”役人”を意味した。詳細は論語語釈「毎」を参照。

事(シ)

事 甲骨文 事 字解
(甲骨文)

論語の本章では”出来事”。動詞としては主君に”仕える”の語義がある。初出は甲骨文。甲骨文の形は「口」+「筆」+「又」”手”で、原義は口に出した言葉を、小刀で刻んで書き記すこと。つまり”事務”。「ジ」は呉音。論語の時代までに”仕事”・”命じる”・”出来事”・”臣従する”の語義が確認できる。詳細は論語語釈「事」を参照。

問(ブン)

問 甲骨文 問 字解
(甲骨文)

論語の本章では”問う”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。「モン」は呉音。字形は「門」+「口」。甲骨文での語義は不明。西周から春秋に用例が無く、一旦滅んだ漢語である可能性がある。戦国の金文では人名に用いられ、”問う”の語義は戦国最末期の竹簡から。それ以前の戦国時代、「昏」または「𦖞」で”問う”を記した。詳細は論語語釈「問」を参照。

或(コク)

或 甲骨文 或 字解
(甲骨文)

論語の本章では”ある人”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。「ワク」は呉音。甲骨文の字形は「戈」”カマ状のほこ”+「𠙵」”くち”だが、甲骨文・金文を通じて、戈にサヤをかぶせた形の字が複数あり、恐らくはほこにサヤをかぶせたさま。原義は不明。甲骨文では地名・国名・人名・氏族名に用いられ、また”ふたたび”・”地域”の意に用いられた。金文・戦国の竹簡でも同様。詳細は論語語釈「或」を参照。

曰(エツ)

曰 甲骨文 曰 字解
(甲骨文)

論語で最も多用される、”言う”を意味する言葉。初出は甲骨文。原義は「𠙵」=「口」から声が出て来るさま。詳細は論語語釈「曰」を参照。

孰(シュク)

孰 金文 孰 字解
(金文)

論語の本章では”誰が”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は西周中期の金文。「ジュク」は呉音。字形は鍋を火に掛けるさま。春秋末期までに、「熟」”煮る”・”いずれ”の意に用いた。詳細は論語語釈「孰」を参照。

謂(イ)

謂 金文 謂 字解
(金文)

論語の本章では”…だと評価する”。ただ”いう”のではなく、”…だと認定する”。現行書体の初出は春秋後期の石鼓文。部品で同義の「胃」の初出は春秋早期の金文。金文では氏族名に、また音を借りて”言う”を意味した。戦国の竹簡になると、あきらかに”~は~であると言う”の用例が見られる。詳細は論語語釈「謂」を参照。

鄹人(スウひと)

鄹 古文 人 甲骨文
「鄹」(古文)・「人」(甲骨文)

論語の本章では、孔子の父、一説に叔梁紇シュクリョウコツと伝えられる人物のこと。

「鄹」は『大漢和辞典』によると、”あつまる”・”むら”だという。初出は不明。後漢の『説文解字』に記載がない。「スウ」(平)の音は魯の都市名・国名を示し、「シュ」(去)の音は”集落”を示す。字形は「聚」”あつまる”+「阝」または「邑」”むら・まち”で、人々の集まった集落。部品の「聚」が現れるのは、楚・秦の戦国文字からになる。論語時代の置換候補は、理屈の上では存在しないのだが、固有名詞のため近音同音のあらゆる音が置換候補になりうる。詳細は論語語釈「鄹」を参照。

「人」は論語の本章では”某地方出身者”。訓読では「○ひと」と読んでそのように解する慣習になっている。初出は甲骨文。漢音は「ジン」、呉音は「ニン」。字形は人の横姿。甲骨文・金文では、人一般を意味するほかに、”奴隷”を意味しうる。対して「大」「夫」などの正面形には、下級の意味を含む用例は見られない。詳細は論語語釈「人」を参照。

「鄹」は論語の時代に確認できないが、マイナーな地名が必ずしも青銅器に残るとは限らないので、論語の時代に文字や言葉が無かったと断定するのはためらう。

従来の論語本では、ここを”鄹の田舎者”と解するのがお作法になっているが、国都曲阜と鄹は隣町で20kmほどしか離れておらず、「鐘を叩けば聞こえる」と『左伝』に書かれたチュよりもずいぶん近い。「それほど国都の権威は高かったのだ」と解するのが一つ。
陬 地図

後漢末に書かれた王符の『潛夫論』によると、叔梁紇は「鄹大夫」(鄹の代官)だったという。『孔子家語』にもその記載がある。『潛夫論』は出世に失敗したひねくれ儒者の言い分であり、おそらく王符の想像の産物だろうが、それに従えば田舎者だのとさげすまれる程身分は低くない。

また『孔子家語』には叔梁紇を「武力絶倫の士」と記しており、下級の職業軍人だったと一般の論語本に言われる。そうなると孔子が笑われたのは、田舎者の子だったからではなく、神主から見れば野蛮な武人の子だったから、ということになる。

ひょろひょろ儒者の言いそうなことではある。だが史実の若者孔子は、当時の魯国の祭祀に通じてはいなかっただろう。孔子は母親が巫女だったから、それなりに祭祀の心得はあったが、民間の冠婚葬祭を職業とする巫女の祭祀と、国公の祭祀に違いがあるのは当然だからだ。

まして魯国は周王族の一人で、摂政まで務めた周公の末裔だから、その祭祀は一層格が高く、言い換えるなら知らねばならない有職故事が多かったはず。巫女の家上がりの孔子が、それに通暁していたとは考えがたい。

之(シ)

之 甲骨文 之 字解
(甲骨文)

論語の本章では”~の”。初出は甲骨文。字形は”足”+「一」”地面”で、あしを止めたところ。原義はつま先でつ突くような、”まさにこれ”。殷代末期から”ゆく”の語義を持った可能性があり、春秋末期までに”~の”の語義を獲得した。詳細は論語語釈「之」を参照。

知(チ)

知 智 甲骨文 知 字解
(甲骨文)

論語の本章では”知る”。現行書体の初出は春秋早期の金文。春秋時代までは「智」と区別せず書かれた。甲骨文で「知」・「智」に比定されている字形には複数の種類があり、原義は”誓う”。春秋末期までに、”知る”を意味した。”知者”・”管掌する”の用例は、戦国時時代から。詳細は論語語釈「知」を参照。

禮(レイ)

礼 甲骨文 礼 字解
(甲骨文)

論語の本章では”貴族の常識”。単なる礼儀作法だけでないことは、論語における「礼」を参照。従って訓読も礼法に限る「ゐや」ではなく「よきつね」となる。神主側は語義のうち、”礼儀作法”を強調して言い、孔子は広義で抗議した。

新字体は「礼」。しめすへんのある現行字体の初出は秦系戦国文字。無い「豊」の字の初出は甲骨文。両者は同音。現行字形は「示」+「豊」で、「示」は先祖の霊を示す位牌。「豊」はたかつきに豊かに供え物を盛ったさま。具体的には「豆」”たかつき”+「牛」+「丰」”穀物”二つで、つまり牛丼大盛りである。詳細は論語語釈「礼」を参照。

乎(コ)

乎 甲骨文 乎 字解
(甲骨文)

論語の本章では、詠歎の派生義として”…か”。疑問の意を示す。初出は甲骨文。甲骨文の字形は持ち手を取り付けた呼び鐘の象形で、原義は”呼ぶ”こと。甲骨文では”命じる”・”呼ぶ”を意味し、金文も同様で、「呼」の原字となった。句末の助辞や助詞として用いられたのは、戦国時代以降になる。ただし「烏乎」で”ああ”の意は、西周早期の金文に見え、句末でも詠嘆の意ならば論語の時代に存在した可能性がある。詳細は論語語釈「乎」を参照。

聞(ブン)

聞 甲骨文 聞 甲骨文
(甲骨文1・2)

論語の本章では”質問する”。初出は甲骨文。「モン」は呉音。甲骨文の字形は「耳」+「人」で、字形によっては座って冠をかぶった人が、耳に手を当てているものもある。原義は”聞く”。詳細は論語語釈「聞」を参照。

是(シ)

是 金文 是 字解
(金文)

論語の本章では、”これ”。初出は西周中期の金文。「ゼ」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)。字形は「睪」+「止」”あし”で、出向いてその目で「よし」と確認すること。同音への転用例を見ると、おそらく原義は”正しい”。初出から”確かにこれは~だ”と解せ、”これ”・”この”という代名詞、”~は~だ”という接続詞の用例と認められる。詳細は論語語釈「是」を参照。

也(ヤ)

也 金文 也 字解
(金文)

論語の本章では、「かな」と読んで詠歎の意を示す。「なり呼んで断定にも解せるが、この語義は春秋時代では確認できない。初出は事実上春秋時代の金文。字形は口から強く語気を放つさまで、原義は”…こそは”。春秋末期までに句中で主格の強調、句末で詠歎、疑問や反語に用いたが、断定の意が明瞭に確認できるのは、戦国時代末期の金文からで、論語の時代には存在しない。詳細は論語語釈「也」を参照。

論語:付記

中国歴代王朝年表

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検証

論語の本章は、いわゆる漢帝国における儒教の国教化を進めた董仲舒が、前半のみ引用(訳文)するまで、春秋戦国の誰も引用していない。

臣聞孔子入太廟,每事問,慎之至也。

董仲舒
それがしが聞いたところによると、孔子先生は太廟に入って、所作のあるたびに質問したと言います。慎み深さの至りと言うべきです。(『春秋繁露』郊事對1)

董仲舒についてより詳しくは、論語公冶長篇24余話を参照。

従って事によると、本章は董仲舒のでっち上げの可能性があるもののその証拠を欠き断言できない。ただ本章の孔子の発言≒非神論は、先秦両漢の誰にも理解出来なかったこと、本八佾篇の複数の章と同じで、だからだろうか、以下を除いて誰も論じようとしなかった。

子入太廟,每事問。不知故問,為人法也。孔子未嘗入廟,廟中禮器,眾多非一,孔子雖聖,何能知之?:「以嘗見,實已知,而復問,為人法?」孔子曰:「疑思問。」疑乃當問邪?實已知,當復問,為人法,孔子知五經,門人從之學,當復行問,以為人法,何故專口授弟子乎?不以已知五經復問為人法,獨以已知太廟復問為人法,聖人用心,何其不一也?以孔子入太廟言之,聖人不能先知,十也。

王充
先生は太廟に入って、所作ごとに質問した。知らないから聞いたのであり、知らない事は確かめるのが人の道というものだ。孔子はそれまで太廟に入った事がなく、祭殿にしつらえてあった祭器は数多くあって一つではない。孔子は聖人だったけれども、どうして初めて見る道具の使い方や意義が分かろうか。

ある人「すでに見たものについて、本当に意義が分かっていて、それでも問うのは、人の道ですか?」孔子「自信の無いことなら、問うて当たり前だ。」

自信が無かったから、孔子は問うたのか? 本当に意義を知っていて、それでもまた確認するのも、人の道と言うべきだ。孔子は儒学の五経に通じたっことになっており、弟子は孔子の言う通り学んだが、何度も質問を重ねるのが、人の道というものだ。

だがどうして、孔子は口伝えに教えるだけで、教科書を書かなかったのだろう。実は孔子は五経に十分通じておらず、だから自信の無いことはたびたび人に問うた。分かってわざわざ太廟で問うたばかりではないのである。聖人とはものの考えが複雑で、何で一つの理由だけで同じ行動をとるものか。

孔子が太廟で質問したことは、聖人だろうとみたことがないものは知らないという、当たり前の事実だ。これがわきまえるべき事実の十番目である。(王充『論衡』知実11)

また孔子を捕まえて「鄹人之子」と言ったのも論語の本章のみで、目が疲れてうっかりすると読み間違う次の例を含め、先秦両漢の誰も記していない。説いたのは他人のためにはスネ毛一本抜かなかった楊朱とされ、南宋時代の注釈から「疑心暗鬼」の故事成句が生まれた。

人有亡鈇者,意其鄰之子。視其行步,竊鈇也;顏色,竊鈇也;言語,竊鈇也;作動態度,无為而不竊鈇也。俄而抇其谷而得其鈇,他日復見其鄰人之子,動作態度,无似竊鈇者。

楊朱 列子鬳齋口義
ある人が斧を紛失した。どうも隣家の子が怪しい。そう思ってその歩き方を見ると、いかにも盗っ人のようである。顔つきを見ると、いかにも盗んだような後ろ暗さがある。しゃべっているのを聞くと、いかにも盗んだらしく聞こえる。立ち居振る舞い全てが、盗んでいないとは思われない。

そんなある日、仕事場の谷を通りがかると、斧が置いたままにあった。それから隣家の子を見ると、立ち居振る舞い全てに、全然怪しいところがない。(世の中そんなもので、人の思い込みほどあてにならないものはない。)(『列子』説符34)

鬼 甲骨文 鬼 字解
「鬼」甲骨文

漢語で「鬼」とはオニではなく、たまに祟りのすごいのがあり得ても、基本は「亡霊」で、姿もはっきりしないお化けに過ぎない。たまたま頭だけが大きく見えるお化けを、中国人は「鬼」と呼んだ。だから斧をなくした男が思ったのは、はかないお化けでしかない。

化け物の 正体見たり 枯尾花、というわけだ。

解説

既存の論語本では吉川本に、「おそらくは孔子の急激な出世をそねむ人間であったであろう」とあるが全然違う。論語八佾篇10で検討した通り、孔子は古代には希な開明的精神の持ち主で、神や霊魂を正面から否定はしなかったが、迷信に振り回されることもなかった。

本章の時期は「鄹ひとの子」と神主が言ったことから、叔梁紇を直接知っている者がまだ神主の中に居た時で、つまりはまだ孔子が宰相格になる五十代よりずいぶん前になるが、孔子は神主がもったいぶってやる所作を、一体何の意味があるのかと問い詰めた。

背景に合理を背負っていない神主は、黒魔術的な作り事を言うか、相手の出身という、論点をずらした反撃しか、出来なかったに違いない。それに対して孔子は、「これが礼=貴族にふさわしい教養である」と答えた。当時の貴族は戦士であり、孔子は合理的な貴族を目指した。

そこが孔子の革命児たるゆえんで、慣習を因習と斬って捨てた武装集団や官僚集団は、歴史のある段階で強大な力を持つことがある。それゆえ孔子とその一門は、門閥にも注目され、有能な人材として取り立てられることになった。それが孔子を宰相格まで上らせた。

「子は怪力乱神を語らず」(論語述而篇7)。この合理性は、孔子没後一世紀で孟子によって崩され、漢帝国による国教化で崩れが固定化し、宋学によって黒魔術化した。だが孔子のもつ合理性は、僅かではあるがその後の儒教にも残り続けた。

今うろ覚えで典拠が分からないが、ある男がいたずらで、山村の木のうろにウナギを入れておき、担ぎ回った村人によって「ウナギ教」が出来て大いに流行ったが、帰ってきた男がウナギ様を食べてしまい、とたんにウナギ教が滅んだという教訓小説が清代までにあった。

宮崎市定博士訳による『鹿州公案』にも、土着の淫祠邪教を打ち払うのが知識人たる儒者の務め、と主人公が張り切る場面がある。孔子の時代の儒学は決して黒魔術ではなく、庶民が成り上がって貴族になるための実用学問だった。神を担ぎ回る暇は、師弟共に無かったのである。

余話

いかがわしいドイツ

訳者は粗暴に加担しないが、礼法は時と場によって異なることを知っている。学生時代に聴講した文化人類学の講義で、ある民族ではツバを掛け合うのが敬礼だと聞いたことがある。そのまねをしようとは全然思わないが、その場の礼法に不案内な人を笑うのはいけないと思う。

儒教が帝政時代を生き延びたのはその反対で、「礼儀三百、威儀三千」と言われる煩瑣な作法を人々に押し付けることによって権力の維持に加担し、「中華」という幻想を維持した。儒の持つこうした一面を、戦国時代以降の漢語で「儒術」という。

だが現代では、礼法に不案内な人に恥をかかせないことの方が道徳的だろう。国際的な式典でのドレスコードが、いわゆる西洋風の礼服とともに、各民族の伝統衣装でも何ら構わないのは、人類の進歩の一つだろう。野蛮はいけないが、むやみに人を傷付けるのもいけない。

日本でこの教えとして知られている話に、さる西洋の貴人が客を招いたところ、客は知らずに手洗い用のフィンガーボールの水を飲んでしまい、主人はそれが無作法と笑いもせず、客に合わせて自分も飲んだというのがある。この話は客を中国人として、中国にもあるようだ。

ここでは李丹崖による話を紹介しよう。

「俾斯麦的敬礼」

「ビスマルクの敬礼」

1896年,年逾七旬的李鸿章奉命出访俄、德、英、法诸国。德国是他行程的第二站。当他到达德国觐见了德皇之后,立即前往德国汉堡,前去探望俾斯麦。

1986年、七十歳を超した李鴻章は朝命を奉じて海外に使いし、露・独・英・仏諸国を訪れた。ドイツは旅程の第二国目だった。李鴻章はドイツ皇帝(ウィルヘルム2世)に拝謁ののち、すぐにハンブルグを訪れ、(引退していた)ビスマルクを訪れた。

俾斯麦是19世纪后半叶的德国宰相,曾经协助普鲁士经过一系列战争最终使德国实现了统一。后来,人们把这位铁腕人物尊称为“铁血宰相”。而在俾斯麦眼里,东方也有一位和他一样权倾朝野的铁血人物——李鸿章,他一直想与李鸿章会晤一次。今日,幸得机缘,自是欢喜万分。为尽地主之谊,俾斯麦举行了盛大的宴会来招待李鸿章。

ビスマルクは19世紀後半のドイツ宰相で、プロイセンを強大化させドイツ統一を成し遂げた。その手腕を人は「鉄血宰相」と讃えた。そのビスマルクの元に、東洋の有名人で権勢を極めた鉄血の人、李鴻章が訪れたわけである。ビスマルクはかねてより李鴻章と会いたいと思っており、それがようやくかなったこの日、運命をことのほか喜んだ。それゆえに李鴻章をもてなそうと、盛大な宴会を開いた。

席间,俾斯麦与李鸿章居中而坐。他们边用餐边促膝而谈。桌上摆的是新鲜水果和丰盛午宴,俾斯麦欣然邀李鸿章品尝。一番推杯换盏之后,俾斯麦命侍者为每位客人送上一杯白开水。李鸿章当时正好口渴,见有白开水,遂拂袖举杯一饮而尽,并优雅地收杯于桌上。殊不知,李鸿章这一饮,竟闹出了一个笑话。因为,依照西方习俗,那杯白开水是供客人吃过水果后洗手用的,而李鸿章竟然把它喝到了肚子里。

その席で、ビスマルクは李鴻章と共に宴席の真ん中に座った。二人は食事を摂りつつ膝を突き合わせて話し合った。テーブルの上には新鮮な果物と山盛りのご馳走が並び、ビスマルクは楽しげに李鴻章を迎えて味わった。コースの第一餐が終わると、ビスマルクは使用人に命じて、参加者各自にぬるま湯を一椀配らせた。李鴻章は丁度のどが渇いていたので、そのぬるま湯を見ると、袖を払って(清朝のぞろぞろとした礼服を着ていたのであろう)一気に飲み干した。そして優雅に椀をテーブルの上に置いた。李鴻章には思いもよらないことだが、この挙は笑い話になるところだった。なぜかと言えば、西洋の習俗では、このぬるま湯は客が果物を食べ終えた後に、手を洗うためのものだったからだ。しかし李鴻章はそれを飲んでしまったというわけ。

李鸿章此举,让俾斯麦在内的所有人目瞪口呆!在场的一些人忍不住想笑,但看到俾斯麦一脸严肃的表情,谁也不敢笑出来,只有压在心底,等待俾斯麦的反应。这时候,只见俾斯麦微笑着望着李鸿章,也迅速端起那杯白开水,向大家示意了一下后,一饮而尽!大家瞬间明白了他的用意,他是怕李鸿章因误饮洗手水而难堪,意在解围啊!

李鴻章のこの始末に、ビスマルクのまわりの者は呆れ、会場には笑いをこらえている者もいた。だがビスマルクは謹厳な顔つきを変えもしなかったので、誰も笑うことが出来なかった。それだけにビスマルクがどう応じるのだろうかと、人々の視線が集まった。その時、ビスマルクは微笑みながら李鴻章を見、ぬるま湯を満たした椀を持ち上げ、参加者に示した後、一気に飲み干した。参加者はその意を悟った。ビスマルクは李鴻章に恥をかかさないようにしたのだ、とはっきりした。

这是一个无比细小的举动,但通过它,却让我们感到俾斯麦这个“铁血宰相”强悍作风之下善解人意的另一面:他对客人的尊重。

これは些細な所作に過ぎなかったが、誰にでも分かる話でもある。ビスマルクの「鉄血宰相」の顔の下には、人をよく理解する一面があり、客人を尊敬する心があった。

这是俾斯麦和李鸿章交往的一个瞬间。也许李鸿章临终也不知道这件事情的真相,但是,西方史学家却记下了这一个瞬间,他们把这样一个经典的时刻称为“俾斯麦的敬礼”!

これはビスマルクと李鴻章の交流の一端に過ぎない。だが李鴻章は終世、この時何が起こったのか、真相を知らなかったかも知れない。だが西洋の歴史家は、この一瞬を書き留め、この教訓的なひとときを「ビスマルクの敬礼」と呼んでいる。

原文はhttps://www.yuanyeer.com/novel_read/10359413より引用した。ただし文中に言う「西方史学家却记下了这一个瞬间」が本当かどうか知らない。「Bismarck salute」でググってもそれらしき話を訳者は見つけられなかった。

中国とドイツの関係は一筋縄ではいかない。ウィルヘルム2世は「黄禍論」を唱えた張本人だったからだ。だが中国は清朝以来、どうもドイツ人が好きらしい。日本を脅かした北洋艦隊の戦艦はドイツ製だったし、蒋介石に「日本を攻めろ」と焚き付けたのもドイツ将校だった。

中国でも台湾でも偉大な民族運動として宣伝されている五・四運動も、青島がドイツに占領されているのはかまわんが、日本に占領されるのは我慢ならんという、中国人なりの「日禍論」から来ている。そして一次大戦で敗れたドイツは理由不明ながら、蒋介石に軍事援助した。

二次大戦後にフォルクスワーゲンが中国での生産をさっさと始めたことも、この関係の延長線上にあるだろう。蒋介石の起こした日中戦争がのちに、日本人にとって壊滅的な敗戦に繋がったことは、上掲した微笑ましい話と同等には、記憶しておく価値があると思う。

『論語』八佾篇:現代語訳・書き下し・原文
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