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論語詳解249郷党篇第十(15)太廟に入らば°

論語郷党篇(15)要約:後世の意図的重出。孔子先生が祭殿で無意味な動作を問い詰めた話を、後世の儒者が解釈をねじ曲げて、自分たち儒者を有り難がるよう、世間に説教するタネとして再び書き付け。重複など重々承知の確信犯です。

論語:原文・書き下し

原文(唐開成石経)

入大廟每事問

論語八佾篇15と重複。

校訂

東洋文庫蔵清家本

入太廟每事問

慶大蔵論語疏

入太庿12事問

  1. 「廟」の異体字。「唐陳崇本墓誌」刻。
  2. 新字体と同じ。「魏安樂王第三子給事君夫人韓氏墓誌銘」(北魏)刻。

後漢熹平石経

(なし)

定州竹簡論語

[入大a]□,□事問。257

  1. 大、今本作”太”、皇本、唐石経作”大”、『釋文』云”大音太是、作’太’誤”。

標点文

入大廟、每事問。

復元白文(論語時代での表記)

入 金文大 金文廟 金文 每 金文事 金文問 金文

※論語の本章は、「每」「問」の用法に疑問がある。

書き下し

大廟くにつみたまやらば事每ことごとふ。

※「大廟たいべうりて事每ことごとふ」でもかまわない。

論語:現代日本語訳

逐語訳

孔子別像
国公の祖先祭殿に入ると、事あるごとに質問した。

意訳

儒者「よいか貴様ら。孔子先生はじゃな、お殿様の祭礼を取り仕切るにも、ご自分ではじゅうじゅう手順をご存じでありながら、一つ一つ間違がいないよう、手下の神主どもに確認なさったのじゃぞ。孔子先生ですらこうなのじゃから、貴様らごときは、ワシの指示にありがたく従え。その前に指導料を出せ。」

従来訳

下村湖人

大廟に入られると、ことごとに係の人に質問される。

下村湖人『現代訳論語』

現代中国での解釈例

孔子進太廟,每件事都問。

中国哲学書電子化計画

孔子は国公の祖先祭殿に入ると、事あるごとに質問した。

論語:語釈

(


入(ジュウ)

入 甲骨文 入 字解
(甲骨文)

論語の本章では”入る”。初出は甲骨文。「ニュウ」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)。字形は割り込む姿。原義は、巨大ダムを水圧がひしゃげるように”へこませる”。甲骨文では”入る”を意味し、春秋時代までの金文では”献じる”の意が加わった。詳細は論語語釈「入」を参照。

太廟(タイビョウ)→大廟(タイビョウ)

太 楚系戦国文字 廟 金文
「太」(楚系戦国文字)・「廟」(金文)

論語の本章では”国公の霊廟”。

「太」の初出は楚系戦国文字。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補は同音の「大」。字形は「大」に一点加えたもので、『学研漢和大字典』『字通』は「泰」の略字と見なし、「漢語多功能字庫」は「大」の派生字と見なす。詳細は論語語釈「太」を参照。

「廟」の初出は西周中期の金文。字形は「广」”屋根”+「𣶃」(「潮」の原字)で、初出ごろの金文にはさんずいを欠くものがある。「古くは祖先廟で朝廷を開くものであった」という通説には根拠が無く、字形の由来は不明。原義は”祖先祭殿”。金文では人名のほか原義に用いた。詳細は論語語釈「廟」を参照。

慶大蔵論語疏は異体字「庿」と記す。「唐陳崇本墓誌」刻。

上掲の通り「大」と「太」で諸本に異同があるが、定州竹簡論語に「太」の用例は無い。文字的には論語語釈「大」を参照。

每(バイ)

毎 甲骨文 毎 字解
(甲骨文)

論語の本章では”…のたびに”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。新字体は「毎」。「マイ」は呉音。字形は髪飾りを付けてかしこまる女の姿。髪飾りは成人を意味し、母たり得る女性を示す。原義は「母」。甲骨文では原義のほか「悔」に通じて”惜しむ”、金文では加えて「敏」に通じて”はやい”、人名に、戦国の金文では”役人”を意味した。詳細は論語語釈「毎」を参照。

每 毎 異体字
慶大蔵論語疏は新字体と同じく「毎」と記す。上掲「魏安樂王第三子給事君夫人韓氏墓誌銘」(北魏)刻。

事(シ)

事 甲骨文 事 字解
(甲骨文)

論語の本章では”出来事”。動詞としては主君に”仕える”の語義がある。初出は甲骨文。甲骨文の形は「口」+「筆」+「又」”手”で、原義は口に出した言葉を、小刀で刻んで書き記すこと。つまり”事務”。「ジ」は呉音。論語の時代までに”仕事”・”命じる”・”出来事”・”臣従する”の語義が確認できる。詳細は論語語釈「事」を参照。

問(ブン)

問 甲骨文 問 字解
(甲骨文)

論語の本章では”問う”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。「モン」は呉音。字形は「門」+「口」。甲骨文での語義は不明。西周から春秋に用例が無く、一旦滅んだ漢語である可能性がある。戦国の金文では人名に用いられ、”問う”の語義は戦国最末期の竹簡から。それ以前の戦国時代、「昏」または「𦖞」で”問う”を記した。詳細は論語語釈「問」を参照。

論語:付記

中国歴代王朝年表

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検証

論語の本章は、前漢中期の定州竹簡論語には含まれるが、定州竹簡論語が埋蔵された当時の宣帝の、事実上の先代、武帝の時代にいわゆる儒教の国教化を進めた董仲舒が引用するまで、春秋戦国の誰も引用していない。文字史的には論語の時代に遡れるが、この郷党篇そのものの如何わしさを考慮すると、重複を承知で儒者が膨らましのために書き込んだと断じてよい。

董仲舒

ねじ込んだのは時期的に、董仲舒であるのはほぼ確実。詳細は論語八佾篇15検証を参照。また董仲舒については、、論語公冶長篇24余話「人でなしの主君とろくでなしの家臣」を参照。

解説

本章を含む論語郷党篇は、本章と最終章を除いて文字史的に全て後世の偽作が確定する。本章も前漢儒が郷党篇の原形を偽作する過程でねじ込んだのは確実で、つまり論語郷党篇は、史実性が一ヶ章を除いて全滅という結果になる。中国儒者にとってもそれは半ば自覚されていた。

帝政時代の儒者が論語を読んだのは、何よりもまず科挙(高級官僚採用試験)に受かるためだが、その試験が最も複雑になり、それゆえ難関となり切った最後の清王朝で合格してみせた儒者の一人、程樹徳は、『論語集釈』に膨大な注釈を残しながら、本章には「重出」とだけ、呆れたように記している。およそ考証する対象ではないと見ていたのだ。

程樹德

程樹徳が『論語集釈』を記したのは帝政崩壊後で、生活に困窮する中で誰の援助も受けず、「倦まずたゆまず、昼も夜も意気高く」(→youtube)たった一人で膨大な考証を残した。ゆえに個人的懐古趣味を論語に書き付けはしても、誰かをはばかって記した動機が無い。

古注を記した後漢儒や、付け足しを記した魏晋南北朝の儒者でさえ、その延長線上にある。

古注『論語集解義疏』

入大廟毎事問註鄭𤣥曰為君助祭也大廟周公廟也疏入大廟毎事問 或云此句煩重舊通云前是記孔子對或人之時此是録平生常行之事故两出也


本文「大廟に入りて事毎に問う」。
注釈。鄭玄「国君の祭祀を助けたことを言っている。大廟とは、周公の廟である。」

付け足し。大廟に入りて事毎に問う。ある説ではこう主張する。この話は論語にくどく重なって出る。古い注釈書にこう書いてある。「以前八佾篇に記されたのは、孔子がある人と対話した時の記録である。本章は、ふだんいつも行っている事を記したのである。だから再び出てきたのだ」。

本章が定州竹簡論語にあることから、本章をねじ込んだ下手人は後漢儒ではない。「煩」とは”数が多くてわずらわしい・うんざりする”の意で、古注の儒者は決して本章を好意的に捉えていない。概して前漢儒の方が後漢儒よりまじめだが、本章に限ればそうでもない。

と言うより、董仲舒が悪ど過ぎる。一方新注は、程樹徳と同様にそっけない。

新注『論語集注』

重出。


重複。

対して江戸儒の伊藤仁斎は、ほぼ確実に新古の注を読んでこう書いた。

此篇本係夫子平生之行事、故此一節前雖嘗備記之、於是又録之、非重出。


この郷党篇は、もともと孔子先生の普段の行いを記したのだから、この一節は前にあらかじめ用意して記してありはするが、ここでも記したのは、重出ではない。(『論語古義』)

では八佾篇の記事は「孔子先生の普段の行い」ではないのか、あるいは、編集意図が異なれば、同じ話の繰り返しが重出にならない、とは理屈に合わんではないか、とも言いたくなる。ゆえにそもそも日中問わず儒者に論理的整合性を求めるのは、無理と承知せねばならない。

江戸時代に国教扱いをされた朱子学の祖に楯突いたのは勇ましいが、正史を史実と信じて疑わないのと同様(論語郷党篇12余話「せいっ、シー」)、孔子を崇め奉らないと気が済まない江戸儒の儚さが思い知れる。

林羅山 林羅山 五経

仁斎先生は、30年長の林羅山のように、「国家安康」の言いがかりを作り、漢籍に「道春点」と銘打っておよそそれではまともに読めない訓点を付けた詐欺師と異なり、付けた訓点を読めばまともに漢文を読んでいたことが分かるのだが、こんにちの参考にはなりがたい。

また戦前日本で論語研究の第一人者だった武内義雄は『論語之研究』で、八佾篇の含まれた河間七篇本と、郷党篇が含まれた斉魯二篇本は、もと別の本だったという。ただし「だから重出したのだ」と結論づけるのは、現代人としてはうっかりが過ぎる。

そもそも古論語・魯論語・斉論語・河間論語の区別を言い出したのは、「武帝に至りて孔子の壁中に古文をあばき取り、二十一篇を得たり。齊、魯二と河間九篇あり、三十篇なり。」と『ロンコウ』に書いた後漢の王充で、武帝没後114年に生まれた男が、「と三十篇は、分れわたりて亡び失わ」れたはずの古魯斉河間論を、見てきたように語るのを信じるわけにはいかない。

そんな論語本、もともとありはしなかったのだ。後漢儒の油断ならなさについては、後漢というふざけた帝国を参照。

余話

まだシワ寄せ

漢文読解の困難の一つは、書き手がまるで論理的でないことで、思い付きをその都度関連付けずに書き立てる、あるいは金儲けや保身のために、真意を隠してもっともらしい言い訳をごちゃごちゃ言うから、字面を辞書で引けても、一体何を言っているのか分からない事がある。

臣湯問仲舒:「祠宗廟或以鶩當鳧,鶩非鳧,可用否?」仲舒對曰:「鶩非鳧,鳧非鶩也。臣聞孔子入太廟,每事問,慎之至也。陛下祭躬親,齊戒沐浴,以承宗廟,甚敬謹,奈何以鳧當鶩,鶩當鳧?名實不相應,以承太廟,不亦不稱乎?臣仲舒愚以為不可。


(前漢武帝の晩年。派手な外征がたたって財政が火の車になり、政府自ら皮で作ったニセ金を発行する始末。武帝は「何とかせい」と重臣を集めて御前会議を開いた。その席で、法家と呼ばれながら判決を武帝の機嫌次第で好き勝手に変え、ゴマをすって出世した廷尉=最高裁判事の張湯が、儒学をタネに武帝の私的相談役になっていた董仲舒に、口げんかをふっかけた。)

張湯「帝室の祖先祭はカネがかかりすぎる。お供えのカモを獲ってくるのも大変だ。そこらの農家で飼っているアヒルで代用してはどうか。確かにカモはアヒルではないが、どうか。」

董仲舒「カモはアヒルではない*。アヒルもカモではない。それがしは、”孔子先生は祖先祭の時、手順を一々質問した”と聞いている。まことに御霊への敬意を尽くした至りというべきだ。今皇帝陛下はおん自ら祭祀を取り仕切り給い、なまぐさを避け身を清めてから、祖先の霊をお祀りし給う。まことにおん慎みの深さは素晴らしいと申すべきだ。それなのにどうしてアヒルをカモと言って誤魔化してよいものか。もしカモをアヒルで代用したらどうなるか。名前と中身が合っていない。それでご先祖さまをお祀りするなど、まことによろしくないのではないか。

皇帝陛下に申し上げます。それがし董仲舒は、愚かながら、よろしくないと考える次第でございます。」(『春秋繁露』郊事対1)


*日中共にアヒルを「家鴨」と書くように、アヒルはカモを飼い慣らすうちに体が大きくなって飛べなくなった鳥。白いのを想像するが、カモと同様さまざまな色の種がいる。

これは論語の本章(と論語八佾篇15)を引用した初出だが、董仲舒の言った「不亦不稱乎」のたった5文字が訳しにくい。「不稱」が「不亦」なの、と言うのだが、「稱」(称)の代表的意味は”主張する”・”讃える”の2つ。「亦」は”それもまた”・”おおいに”の2つ。

さらに細かい語釈を挙げれば膨大になる。とりあえず代表的意味だけでも2×2で4通り。

名實不相應,以承太廟 不亦 不稱
名前と中身が合っていない。
それで帝室のご先祖さまをお祀りする
それも…でない 主張されない
大いに…でない 讃えられない

しかも漢文は能動/受動の態は記号無しで勝手に変わる。その選択も悩ましいがここではおく。張湯の理屈が「カネがもったいない」と明解なのに対し、董仲舒は礼儀作法にもったいを付けることで出世を狙っているのだから、ぐずぐずと言葉を繰り返して意図を隠している。

結局、直前の「名實不相應,以承太廟」”名前と中身が合っていない。それで帝室のご先祖さまをお祀りする”に引き続くのだから「よくないこと」なのだろうと見当を付け、それとよく繋がる”大いに/讃えられない/のではない/か”の解釈を、しぶしぶ選ばざるを得ない。

実は董仲舒にも明確な論理がある。箸の上げ下げにももったいを付ける解釈権を握ることで、金儲けの手段にしていたのだから、供え物がどうあるべきか、その解釈権は絶対に手放せなかった。その真意をごまかして有り難そうに説教するから、何を言っているか分からなくなる。

しかも張湯の真意も実は「金がもったいない」ではない。武帝が金欠を歎くから、ゴマをするために「もったいない」と言っただけであり、重ねてあわよくば儒家の解釈権を横取りしようとした。ウソツキとウソツキの相談だから、第三者にわかりにくいのはもっともである。

人間の頭はそれなりに論理的に出来ており、とりわけ他人の話を読み聞きする場合は、その話に論理的整合性があるものとして解釈しようとする。ところが自分で好き勝手に書き言いする場合、反射的に言葉を垂れ流しているだけだから、論理的整合性が無い事の方が多い。

もちろん、論理的に言葉を綴る訓練を重ねれば話は別だが、ごく普通の人にそれは無理というもので、ただ儒者だけがとりわけ非論理的なわけではない。問題はそういうとりとめの無い話を読み聞きしなければならない立場になったときで、例えば調書を書く警察官もそうだ。

警察ではその訓練をするようだが、相手の話に勝手な枠組みをはめて文にして、「これで間違いないか」と念を押し、間違いありません、と署名させる事になっている。一旦署名したが最後、「そんなことはなかった」と裁判で言い立てても聞いて貰えない。

だがそうでもしないと、文書を基本とする行政や司法が成り立たないのも事実で、事実は文書によって焼き固められ、それが事実という事にして世の中が回っている。論語の史実を求める作業も同様で、とりわけ漢字の解釈は、漢文業界の権威が一旦記すと事実にされてしまう。

だがその権威も儒者と同程度には論理性が無いから、個人のとりとめのない感想に過ぎないと捉えた方がよい。日本の漢文業界でも、さる学界の権威の代表著作を読んでみると、逆裏対偶の区別もついていないことが明白になる。だがそれをもてはやさないと業者は務まらない。

例えばT大では、中国史は隋唐まで古代という。対してK大では、秦漢までを古代とする。昭和の後半、両学がこの定義をめぐって論争を引き起こしたが、西洋史と共通の物差しで中国史を見た場合、T大の言い分は分が悪く、その元ネタ本は逆裏対偶の区別がついていない。

同様の理由で「儒者に論理的整合性を求めるのは無理」と上記した。こういう状況を漢文的故事成語では、「木にりて魚を求む」という。言ったのは孔子没後100年に生まれ、滅んでいた儒家を商材に、戦国の世で一儲けを企んだ孟子で、世間師だけに話は面白い。

だがその論理は無茶苦茶だ。一例として『孟子』滕文公上4を現代語訳しておいた。どうしてこういう理屈が漢文業界で今なお通用するかと言えば、確かに木から魚を釣ろうとしても無理だが、木くらげは取れるし木魚も作れるからだ。魚が無いなら木くらげで我慢せよという。

あるいは木魚を削って世に売り出し、その代金で魚を買えという。「そんな無茶苦茶な」と言いたくはなるが、そもそも読み手聞き手となる、大多数の漢文業界人の頭が論理的に出来ていないから、「そんなものか」とみな分かったような顔をして暮らしている。

事は漢文業界に限らない。焼き固めた調書が示すように、世の人もたいていはそれで暮らしている。そもそも事実を追い求めることが、生身の人間にとっては野暮にほかならず、その時の気分がよければ、ウソでもハッタリでもかまわない。生きているうちに笑う者の勝ちだ。

私田 私田 私田
私田 公田 私田
私田 私田 私田

話を漢文の非論理性に戻すと、一例として孟子が言い回った「井田制」がある。900畝の農地を井の字に9つに仕切って、外側の1区画100畝ずつを8家に配分し、真ん中の100畝を共同で耕して税収に充てるという理屈だが、これを事実と認定したくても脳が拒否する。

そんなことねえだろ、と無意識のうちに気持ち悪がるからだ。中国人ならずとも人類は、公田をまじめに耕すように出来ていない。荒れ放題に任せて「実りがありませんでした」とお上に言い訳するにきまっている。そして村落のみならず人の集団には必ず親玉がいる。

同時に耕作のみならず人のすることには、必ず運不運がつきまとう。というわけでいくら始めに平等に土地を分けても、8家の間に必ず貧富の差が出る。親玉は救済の代わりに土地を寄こせと言うに決まっているし、食うに困れば土地を売り飛ばすのも人の性というものだ。

こうして半世紀も過ぎる頃、井田はすっかり親玉の所有となり、他家は小作人に身を落とす。怖い物が無くなった親玉は凶暴化するに決まっており、小作人は経済以外でも親玉の支配にぶちのめされて呻吟するはめになる。ここまで来てようやっと、ウソを受け容れる気になる。

「大昔の聖王の世ではね、土地が均等に分け与えられたのだよ。」

中国史上、王朝が行き詰まると必ずこう言って世間の賛同を得る者が出る。そういう者にが有卦に継いだ場合、次の王朝の開祖となる。有卦が中途半端に終わると、黄巾の乱のような始末になる。後漢末ばかりでなく中国史は、こういう繰り返しでもある。

それは多分、人民共和国も同じ様な結末を迎えるはずだ。有り体に言ってしまえば、井田制をせせら笑えるのは余裕のある者だけで、古来人類の大多数はワラにもすがるはかない暮らしを続けてきたから、実は井田制を真に受ける方が多数派と言ってよい。

そして多数派は常に少数派を押し流す。事実を言い立てても、何の抵抗にもなりはしない。

参考動画

字幕を日本語に設定してonにするのをおすすめ。

『論語』郷党篇:現代語訳・書き下し・原文
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