論語:原文・書き下し →項目を読み飛ばす
原文
子曰、「居上不寬、爲禮不敬、臨喪不哀、吾何以觀之哉。」
復元白文
書き下し
子曰く、上に居て寬がず、禮を爲して敬はず、喪に臨んで哀まずんば、吾何を以て之を觀む哉。
論語:現代日本語訳 →項目を読み飛ばす
逐語訳
先生が言った。「上座にいて寛大でなく、作法のしぐさをしてうやまいの心がなく、喪中に悲しまない人を、私はどのように観察したらいいのか。」
意訳
上役なのに優しさがない。お辞儀をしても腹で舌を出す。葬儀があっても悲しまない。こんな奴に見所はない。
従来訳
先師がいわれた。――
「人の上に立つて寛容でなく、礼を行うのに敬意をかき、葬儀に参列しても悲しい気持になれない人間は、始末におえない人間だ。」
現代中国での解釈例
孔子說:「作為領導對群衆不寬容;對規章不嚴肅;辦喪事不悲哀--我怎能看得下去?」
孔子が言った。「指導者になって群衆に寛容でない、法令に対して慎まない、葬儀を執り行って悲しまない、そういう者を、私はどう眺めたらよい?」
論語:語釈 →項目を読み飛ばす
寬
(金文)
論語の本章では”心が広い”。『大漢和辞典』の第一義は”いえがひろい”。
『学研漢和大字典』によると会意兼形声文字で、下部の字(音カン)は、からだのまるいやぎを描いた象形文字。まるい意を含む。寛はそれを音符とし、宀(いえ)を加えた字で、中がまるくゆとりがあって、自由に動ける大きい家。転じて、ひろく中にゆとりのある意を示す。緩と同系のことば、という。
詳細は論語語釈「寛」を参照。
論語:解説・付記
『史記』孔子世家によると、孔子は魯の政権を握ったとき、舞い上がって偉そうにしていたらしい。弟子の子路がそれをたしなめると、「尊貴な立場でへりくだるのも、またいいではないか」と開き直っている。この時期の孔子はどう考えても、晩年のように大成していない。
ただし、論語の本章は『史記』の発言に通じるものだが、高い地位に登ってもこせこせしているようでは、確かに「見所はない」。礼法を重んじた孔子は、その中心にはまごころがあると言った(論語八佾篇4)。地位が整ったのに心が伴わないでは、意味がないと思ったわけ。
「礼を為して敬わず、喪に臨んで哀しまず」とはそのことで、外見と中身の一致は、「巧言令色」を嫌うのと理由が同じ(論語学而篇3)。孔子が教えた古典についても、「仕事に使えねば意味がない」(論語子路篇5)、「中身が伴ってやっと君子」(論語雍也篇18)と言う。
孔子がこのように言った背景には、当時の魯国公が、揃ってバカ殿だった事があるかも知れない。若年時の魯公は昭公で、むやみに戈を振り回したと『左伝』にある。仕えたのは定公だが、女楽団にうつつを抜かした。晩年時の哀公は失政のあげく、越に亡命してそこで死んだ。
なお既存の論語本では吉川本に、「最後の句は、私にはよくわからないが、見所のない人物だ、ということなのであろう」とあり、日本の「論語の権威」の有り難いお言葉である。
宮崎本では、以下のように記す。

最高の責任者、委員長がつっけんどんで、その下の進行係りが失敗だらけ、会葬者がよそよそしいといったんでは、そんな場所にはいたたまれない。これは葬式の場合について言ったものらしい。現在の日本にだってこういう場合がないとは限らない。(『論語の新研究』)
なお清末民初の程樹徳は、次のような異説を紹介している。
王闓運の『論語訓』では、「これは多分、孟武伯をくさしたのだろう。孟孫氏は代々孔子の弟子になったから、だからこう言って孟武伯のダメさ加減を世間に示したのだ」という。私が思うに、本章は何か真意が明らかになるきっかけが必要であり、今は考えることが出来ない。王氏が孟武伯への悪口と取ったのも、どうしてそう言えるか、根拠が分からない。(『論語集釋』)
王闓運は「孟氏世事孔子」というが、魯国門閥家老の一家・孟孫家が孔子に師事したのはたったの二代で、最初は当主の孟僖子の遺言により、孔子と同世代の次期当主・孟懿子と、その弟の南宮敬叔の家庭教師になった。孟懿子が世を去ると孔子も間もなく世を去っており、孟武伯に不満をブツブツ言う時間があったのかは不明。ただし孟武伯にとって孔子は、子供の頃から世話になった「おじさま」であり、甘えるようなことを言ったのが論語公冶長篇7に残っている。孔子も友人の可愛い「坊っちゃん」を、いじめるようなことは言わなかったのでは?
『論語』八佾篇おわり
お疲れ様でした。