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論語詳解056八佾篇第三(16)射は皮を主とせず’

論語八佾篇(16)要約:当時の貴族にとって必須の技能、弓術。戦場なら話は別ですが、稽古では射手の体力に合わせた方法を、それぞれに取るべきと孔子先生は言います。無差別級で競っては、力のない者は浮かばれない、そんなお話。

論語:原文・書き下し

原文(唐開成石経)

子曰射不主皮爲力不同科古之道也

校訂

東洋文庫蔵清家本

子曰射不主皮/爲力不同科古之道也

後漢熹平石経

…(之?)…

定州竹簡論語

……古之道也。」52


→子曰、「射不主皮、爲力不同科、古之道也。」

復元白文(論語時代での表記)

子 金文曰 金文 射 金文不 金文主 金文皮 金文 為 金文力 金文不 金文同 金文斗 金文 古 金文之 金文道 金文也 金文

※科→斗。論語の本章は、「主」「之」「也」の用法に疑問がある。

書き下し

いはく、ゆみかはあてどとせちからすはしなおなじうせいにしへみちなり

論語:現代日本語訳

逐語訳

孔子 切手
先生が言った。「弓術は的を目的としない。技能のある者は同じ組に入らない。これが昔からのやり方だ。」

意訳

弓術は、まとに当てるのを目的としない。各自の技能に応じて別々に競技する。これが古式ゆかしいやり方だ。

従来訳

下村湖人
先師がいわれた。――
(しゃ)の主目的は的にあてることで、的皮(まとがわ)を射ぬくことではない。人の力には強弱があって等しくないからである。これは古の道である。」

下村湖人『現代訳論語』

現代中国での解釈例

孔子說:「射箭比賽不以射透為主,而主要看是否射得準確,因為人的力量不同,自古如此。」

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孔子が言った。「弓矢の仕合は射貫くことが目的ではない。狙いが正確かを見るのだ。なぜなら人の筋力は同じでなく、昔からこうだったのだ。」

論語:語釈

、「 。」

子曰(シエツ)(し、いわく)

君子 諸君 孔子

論語の本章では”孔子先生が言った”。「子」は貴族や知識人に対する敬称で、論語では多くの場合孔子を指すが、そうでない例外もある。「子」は生まれたばかりの赤ん坊の象形、「曰」は口から息が出て来る事を示す会意文字。「子」も「曰」も、共に初出は甲骨文。辞書的には論語語釈「子」論語語釈「曰」を参照。

この二文字を、「し、のたまわく」と読み下す例があるが、漢語の「曰」に敬語の要素は無い。おじゃる公家の昔から、日本の論語業者が世間から金をむしるためのハッタリと見るべきで、現在の論語読者が従うべき理由はないだろう。

射(シャ)

射 甲骨文 論語 八佾篇 射
(甲骨文)

論語の本章では”弓術”。初出は甲骨文。「シャ」の音で”射る”を、「ヤ」の音で官職名を、「エキ」の音で”いとう”・”あきる”の意を表す。甲骨文の字形は矢をつがえた弓のさま。金文では「又」”手”を加える。原義は”射る”。甲骨文では原義、官職名、地名に用いた。金文では”弓競技”(義盉蓋・西周)の意に用いた。詳細は論語語釈「射」を参照。

君子=当時の貴族は戦時の将校を兼ねており、武芸として弓術は必須だった。孔子塾の必須科目、六芸にも入っている。

不(フウ)

不 甲骨文 不 字解
(甲骨文)

論語の本章では”~でない”。漢文で最も多用される否定辞。初出は甲骨文。原義は花のがく。否定辞に用いるのは音を借りた派生義。詳細は論語語釈「不」を参照。現代中国語では主に「没」(méi)が使われる。

主(シュ)

主 金文 主 字解
(金文)

論語の本章では、”めがける”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。甲骨文の字形は位牌で、もとは「示」と同一だった。金文の時代では氏名や氏族名に用いられるようになったが、自然界の”ぬし”や、”あるじとする”の語義は戦国初期になるまで確認できない。戦国の竹簡でも「宔」の字形が多く見られ、のち「宗」が分化した。詳細は論語語釈「主」を参照。

皮(ヒ)

皮 甲骨文 皮 字解
(甲骨文)

論語では本章のみに登場。論語の本章では、”(皮で作った)まと”。初出は甲骨文。同音に疲、罷、被、鞁”馬の飾り”。なお「比」”比べる・競う”はbʰi̯ər(平/去)またはpi̯ər(上/去)で、きわめて近い。字形は頭の大きな獣の皮+「又」”手”で、獣の皮を剥ぎ取るさま。原義は”皮(を剝ぐ)”。甲骨文での語義は不明。金文では褒美に与えた”皮”、戦国の金文では「彼」に通じて指示代名詞に用いた。詳細は論語語釈「皮」を参照。

儒者がでっち上げた面倒くさい射礼(じゃらい)=射技大会の儀式では、布の幕を張って中央に皮を張り、「鵠」と書いておく。これを侯(まと)という。鵠とは大型で白い水鳥のことだが、ここからまん中を射貫くこと、図星を言い当てることを「正鵠を射る」という。

爲(イ)

為 甲骨文 為 字解
(甲骨文)

論語の本章では”する”。新字体は「為」。字形は象を調教するさま。甲骨文の段階で、”ある”や人名を、金文の段階で”作る”・”する”・”~になる”を意味した。詳細は論語語釈「為」を参照。

力(リョク)

力 甲骨文 力 字解
(甲骨文)

論語の本文では”能力”。初出は甲骨文。「リキ」は呉音。甲骨文の字形は農具の象形で、原義は”耕す”。論語の時代までに”能力”の意があったが、”功績”の意は、戦国時代にならないと現れない。詳細は論語語釈「力」を参照。

同(トウ)

同 甲骨文 同 字解
(甲骨文)

論語の本章では”集める”→”同じにする”。初出は甲骨文。「ドウ」は慣用音。呉音は「ズウ」。甲骨文・金文の字形には下部の「𠙵」を欠くものがある。上部は人がかついで乗るこしで、貴人が輿に乗って集まってくるさま。原義は”あつまる”。甲骨文では原義に、また「興」の略字として”おきる”の意に用いた。金文では原義のほか、戦国の金文では”そろえる”の意に用いた。詳細は論語語釈「同」を参照。

科(カ)

科 隷書 科 字解
(前漢隷書)

論語の本章では”競技の等級”。論語では本章のみに登場。初出は前漢の隷書で、論語の時代に存在しない。カールグレン上古音はkʰwɑ。同音は薖(草の名・寛大なさま)のみで、同じく『説文解字』が初出。字形は「禾」”イネ科の植物”+「斗」”ます”+「一」で、穀物の種類ごとに印を付けたはかり。原義は”種類”。詳細は論語語釈「科」を参照。

部品の斗は、容量・重量の単位であり、それを量る柄杓の意でもある。つまり”量・程度”の意味があり、論語時代の置換候補となる。

古(コ)

古 甲骨文 古 字解
(甲骨文)

論語の本章では”むかし”。初出は甲骨文。甲骨文の字形は「口」+「中」”盾”で、原義は”かたい”。甲骨文では占い師の名、地名に用い、金文では”古い”、「故」”だから”の意、また地名に用いた。詳細は論語語釈「古」を参照。

之(シ)

之 甲骨文 之 字解
(甲骨文)

論語の本章では”~の”。初出は甲骨文。字形は”足”+「一」”地面”で、あしを止めたところ。原義はつま先でつ突くような、”まさにこれ”。殷代末期から”ゆく”の語義を持った可能性があり、春秋末期までに”~の”の語義を獲得した。詳細は論語語釈「之」を参照。

道(トウ)

道 甲骨文 道 字解
(甲骨文)

論語の本章では”やり方”。初出は甲骨文。「ドウ」は呉音。動詞で用いる場合は”みち”から発展して”導く=治める・従う”の意が戦国時代からある。”言う”の意味もあるが俗語。字形に「首」が含まれるようになったのは金文からで、甲骨文の字形は十字路に立った人の姿。原義は”みち”。”道徳”の語義は戦国時代にならないと現れない。詳細は論語語釈「道」を参照。

也(ヤ)

也 金文 也 字解
(金文)

論語の本章では、「なり」と読んで”である”。断定の意を示す。この語義は春秋時代では確認できない。初出は事実上春秋時代の金文。字形は口から強く語気を放つさまで、原義は”…こそは”。春秋末期までに句中で主格の強調、句末で詠歎、疑問や反語に用いたが、断定の意が明瞭に確認できるのは、戦国時代末期の金文からで、論語の時代には存在しない。詳細は論語語釈「也」を参照。

論語:付記

中国歴代王朝年表

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検証

論語の本章は、「射不主皮」を前漢の『儀礼』が載せるほかは(郷射礼51)、先秦両漢の誰も引用していない。もっとも、「古之道也」は、各学派が自分の意見を正当化するために、多種多様に使っている。文字史的には論語の時代に遡りうるから、とりあえず史実と扱って構わない。

湯又讓瞀光曰:「知者謀之,武者遂之,仁者居之,古之道也。吾子胡不立乎?」瞀光辭曰:「廢上,非義也;殺民,非仁也;人犯其難,我享其利,非廉也。吾聞之曰:『非其義者,不受其祿;無道之世,不踐其土。』況尊我乎!吾不忍久見也。」乃負石而自沈於廬水。

論語 荘子
(殷の湯王が夏の桀王を討とうとして家臣のベン隨、ボウ光に相談した。ところが二人とも「知りません」と言ったので、伊インを参謀にして桀王を討った。戦勝後、伊尹は宰相の地位を卞隨に譲り、卞隨はさらに瞀光に譲った。だが瞀光も嫌がった。)

湯王「頭の良い者は計略を考え、腕の立つ者は悪を斬り、人の良い者はふさわしい地位に就くのがいにしえの道だ。そなたほどの出来者が、何で仕事をしようとしないのだ?」

瞀光「お上を討つなどは正義に反します。いくさで民を殺すのは人の道ではありません。兵たちに死ぬ目に遭わせながら、自分はのうのうと王位に就いたのは、図々しい者のすることです。私はこう聞いております。”後ろ暗い話なら、報酬を受け取るな。ひどい世の中なら、そんな所から出て行け”と。それなのに殿は、私に宰相になれとは。とうてい耐えられません。おさらばでござる。」そう言って石を背負って川に身投げしてしまった。(『荘子』譲王15)

楊朱曰:「豐屋美服,厚味姣色,有此四者,何求於外?有此而求外者,无猒之性。无猒之性,陰陽之蠹也。忠不足以安君,適足以危身;義不足以利物,適足以害生。安上不由於忠,而忠名滅焉;利物不由於義,而義名絕焉。君臣皆安,物我兼利,古之道也

楊朱
楊朱「造りのよい住まいに縫いのよい衣服、美味しい料理に美しい異性、この四つのほかに、何が人に必要だろうか? それ以外を欲しがる奴は、貪欲の病気にとりつかれているのだ。この病は、陰陽の巡りにひそむ毒虫だ。

忠義を尽くしても主君が不安がる。それでは首をちょん切られる。正義を貫いても全然儲からない。自分の生涯が台無しになる。主君が安心するのは家臣の忠義にではない。だから忠義を言い立てる者は滅ぶ。儲かるのは正義に依らない。だから正義を言い立てる者は滅ぶ。

(そういううそデタラメが世に絶えて、)主君も家臣も信頼し合い、まわりも自分も儲かるのが、いにしえの道だ。」(『列子』楊朱17)

古者先王盡力於親民,加事於明法。彼法明則忠臣勸,罰必則邪臣止。忠勸邪止而地廣主尊者,秦是也。群臣朋黨比周以隱正道、行私曲而地削主卑者,山東是也。亂弱者亡,人之性也。治強者王,古之道也

韓非子
むかしの王は努めて民と親しみ、行政を行うには明示した法に従った。法が明示されていれば家臣は忠義を励み、罪は必ず罰すれば悪の家臣は居なくなった。

そのようにしたために領土を広げ、君権が強くなったのが秦国だ。家臣がつるんで正しい政道を阻み、私利私欲に走った結果、領土を縮め君権が弱くなったのが斉国だ。

乱れて弱くなったものは滅ぶのが、人の本来の姿だ。よく整い強い者が王になるのが、いにしえの道だ。(『韓非子』飾邪2)

論語 春秋諸国と諸子百家

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解説

論語の本章に話を戻せば、「爲力不同科」は現代スポーツの常識でもあり、読者にも納得できるだろう。だが「射不主皮」とは、なんたる馬鹿げた精神主義か、当たらねば意味が無いではないか、と思われても仕方がない。だが弓は当てようとすればするほど、当たらない。

あらゆる武術に共通する鉄則は、無駄な力をかけないことだ。力んで立っている者が「膝カックン」で転ぶ道理と同じで、人間の筋力には限界があるからには、持てる力を必要なときに必要なだけ用いるのが、どの武術でも奥義と言ってよい。弓術もその例外でない。

弓は引き絞り、その体勢をしばらく維持する必要がある。この持久の必要があるために、余計な力を使ってはすぐにくたびれてしまう。いつ放つかは誰も教えてくれず、何も基準となるものがない。当てようとすればそこに欲が加わり、焦ってその時ではないのに放ってしまう。

あるいは放つべき時を失う。足の安定した射場で放つ場合ですら、たるか中たらないかは「それ」が決める(オイゲン・ヘリゲル『弓と禅』)。訳者はこの呼吸を自分の体験として文字にしようとしているのだが、こればっかりはどうも経験の無い人には伝えがたい。

孔子生前の弓とは、貴族の必須技能で、戦場で揺れる戦車に乗りながら、矢を中てる腕前が求められた。孔子塾の塾生は、ほぼ全てが庶民の出身で、孔子塾で学ぶことで、貴族に成り上がろうとした。だから孔子が言ったのは、「中てなくてよい」ということではない。

論語 春秋戦国時代 戦車
孔子一門にとって、射術は徹頭徹尾実用の技能で、最後には中たらなければならなかった。射の精神的な何かは、中たるに伴う技能に過ぎない。なぜなら中てられなければ貴族になれない。貴族になれないなら、孔子塾に入った意味が無い。詳細は論語における「君子」を参照。

中てなくてはならないが、中たるようになるに必要なカリキュラムや等級分け、それを説いたのが論語の本章と見るべきだ。まずは中てようとする欲を除く。次に出来すぎる者がまざって、他の者がやる気をなくすのを防ぐ。ドングリの背比べが、最も良く伸びるのだ。

ゆえにこの武術的背景を理解しないで、論語の本章を理解することは出来ない。武術の背景無しに論語の本章が、どのように理解されてきたかを示そう。

古注『論語集解義疏』

註馬融曰射有五善一曰和志體和也二曰和容有容儀也三曰主皮能中質也四曰和頌合雅頌五曰興武與舞同也天子有三侯以熊虎豹皮為之言射者不但以中皮為善亦兼取之和容也…註馬融曰為力為力役之事也亦有上中下設三科焉故曰不同科也

馬融
注釈。馬融「射礼には五つの利点がある。一つに心身の調和を取る。二つに顔つきを和ませ、和んだ顔つきは礼法にかなう。三つに的を狙って本質の中心を知る。四つに伴奏される古歌と調和し、古歌のみやびを知る。五つに武を発展させる。舞と同じである。天子は三種類の的を持っており、それぞれ熊・虎・豹の皮で作ってある。射礼というのは単に的に当てることをよしとするのではなく、容姿を穏やかにすることを合わせ狙うのである。」…注釈。馬融「為力とは力仕事をすることである。それには上中下三つに区分する。だから不同科と言ったのである。」

おそらく馬融は射礼(政府主催の弓術大会)を見たことはあっても、自分で弓を放ったことは無いはずだ。弓で心身の調和が取れるのはその通りだが、武術は温和な人間だけを作りはしない。温和な武道人は少なくないが、それ以上に乱暴者も多い。

馬融がこのような大げさを弓術になすりつけたのは、もちろん国教の経典解釈を珍妙にして自分の所有とし、学ばざるを得ない役人志望者から袖の下を受け取る口実にしただけで、本当に論語に何が書いてあるか、弓術の何たるかを知ろうとしたのではない。

そもそも「天子」の言葉が中国語に現れるのは西周早期で、殷の君主は自分から”天の子”などと図々しいことは言わなかった。詳細は論語述而篇34余話「周王朝の図々しさ」を参照。

ついでに新注も見ておこう。

新注『論語集注』

為,去聲。射不主皮,鄉射禮文。為力不同科,孔子解禮之意如此也。皮,革也,布侯而棲革於其中以為的,所謂鵠也。科,等也。古者射以觀德,但主於中,而不主於貫革,蓋以人之力有強弱,不同等也。記曰:「武王克商,散軍郊射,而貫革之射息。」正謂此也。周衰,禮廢,列國兵爭,復尚貫革,故孔子歎之。楊氏曰:「中可以學而能,力不可以強而至。聖人言古之道,所以正今之失。」

論語 朱子 新注 論語 楊時
爲の字は尻下がりに読む。射不主皮とは、郷射(村々で行われたとされる弓術大会。ただし漢儒のでっち上げ)の礼法規定にある。孔子が聖王の定めた礼法をこのように理解していたのである。皮とは革で、布を張って的にし、その中心に革を取り付けたのである。いわゆる「まとなか」である。科とは等級である。むかしは弓の腕で人徳を量った。ただし的の中心を狙っても、革を貫くことを目的としなかった。おそらく人によって腕力に差があるので、等級を分けたのである。言い伝えに曰く、「武王が殷を滅ぼし、軍を解散させて郊外で弓術大会を開き、的の革を射貫く者が出たところで止めた」という。将にこの言い伝えの通りである。周が衰えて礼法が廃れ、諸侯国が兵を挙げて争うようになって、再び的を貫通させることを貴ぶようになった。だから孔子はそれを歎いたのである。

楊時「当てる法は学んで出来るようになる。腕力は強ければいいと言うものではない。聖人がいにしえの道を言ったのは、当時すでにそうした作法が忘れられていたからである。」

有り体に申して、これは全く弓を持ったことのない者の言い分だ。宋代は儒家が政官界を独占し、その理由は科挙(高級官僚採用試験)の合格にあった。つまりひ弱な人間が社会の枢要を占めたわけで、儒者官僚がどれほど軍人を卑しめたかは『水滸伝』から分かる。

楊時は人格破綻者が多い宋儒の中でも極めつけの悪党の一人で、北宋が金軍に攻められそうになるとどこかに姿を隠し、大混乱の果てに南宋が成立すると、ノコノコ現れて官職にありついた。そして自分では何もせず、講和を急ぐ当時の政権に食ってかかることを生業とした。

だから南宋までオカルトにふけってモンゴルに攻め潰された。最後の儒者は孤島で少年皇帝を守りつつ、最後にはみな立派に戦い、あるいは皇帝と王朝に殉じた。自業自得とはいえそうやって責任を取った。詳細は論語雍也篇3余話「宋儒のオカルトと高慢ちき」参照。

余話

不埒な帝大総長

宋儒は最後にはデタラメの責任を取ったが、日本の漢学界はデタラメのまま今に至る。読めもしない漢文を読んだと称して世間をびっくりさせ、利権をチュウチュウ吸い取るのが日本の漢学教授のしてきたことで、歎くにも驚くにも当たらない。戦前にも次のような例がある。

服部宇之吉: 國譯漢文大成經子史部第一卷 四書・孝經『論語』

服部宇之吉
子曰く、しや主皮しゆひせず、ちからしなおなじうせざるがためなり。いにしへみちなり。

【大意:このしやうしやれいいてこうせいたんまとせいちうすることのみをしゆとしにもぢうえうなるでうけんあるをわすれしをいましめられたものである。】

此は儀禮の文で、本文には射禮不皮とある。射禮は大射賓射燕射を云ふ。皆禮樂を以て弓を射る故である。大射の的は布の侯を張り、中央に皮を置く。之を鵠といふ。主皮とは、鵠たる皮を射貫くことを主とするのである。禮射には唯皮を置くことを主とせず、その外に和志、和容、和頌、興武などの四ケ條の條件があつて、何れも揃はなければならぬ。

「などの四ケ條」と煙幕を張って書いていることから、馬融が書いた五ヶ条も、新注も自分で解読せず、どこかの解説本を元に、テケトーなことを書いているのが上掲新古の注との対比で分かるだろう。宇之吉は戦前に帝大総長を務めた漢学教授だが、戦前はこれで務まった。

宇之吉のデタラメはここだけではない。一例は論語郷党篇12語釈#不敢嘗を参照。

論語は漢学の基本だが、その論語の本章すら読めなかったから、日本語に無い「主皮」などという造語をした。読めていなかったことは自分から訳とは言わずに大意と言った事から正直に白状している。戦後の漢学教授の「訳」もこれと同程度のが珍しくない。

幸田露伴や中島敦を例に出し、戦前の漢文読解程度は高かったと思う人がいるかも知れない。だが帝大教授でもこの程度で、幸田や中島も儒者の出任せは多く記憶していたかも知れないが、自分で原文と格闘して解釈したわけではない。つまりオトツイの方角に読んでいた。

しかしそれも遠く過ぎ去った過去で、明治以降の日本人がちょんまげを結わなくなったように、IT以前の世の中でどんなにバカバカしいことが常識だったとしても、現代人は鼻でせせら笑えばそれでしまい。漢学界はまだ結いたがる人がいるが、遠くない将来に消え果てる。

だから歎くにも驚くにも当たらないと言う。若い漢学徒の前途に、青い海が開けている。

参考記事

『論語』八佾篇:現代語訳・書き下し・原文
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