論語:原文・書き下し
原文(唐開成石経)
季氏旅於泰山子謂冉有曰女弗能救與對曰不能子曰嗚呼曾謂泰山不如林放乎
校訂
諸本
- 武内本:不宋本弗に作る、唐石経磨滅。釋文、嗚呼一本烏乎に作る。
- 『太平御覧』(四部叢刊本):「汝不能救與」
東洋文庫蔵清家本
季氏旅於泰山子謂冉有曰汝不能救與/對曰不能子曰嗚呼曽謂泰山不如林放乎
後漢熹平石経
…與…與對白不能子白…山不如林放…
定州竹簡論語
……謂泰山不如林放乎?」41
※定州竹簡論語では「汝」の用例無く、「女」と記す。
標点文
季氏旅於泰山。子謂冉有曰、「汝不能救與。」對曰、「不能。」子曰、「嗚呼。曾謂泰山不如林放乎。」
復元白文(論語時代での表記)
※泰→大・汝→女/嗚→烏/呼→乎。論語の本章は、「與」「如」「乎」の用法に疑問がある。
書き下し
季氏泰山於旅す。子冉有に謂ひて曰く、汝救ふに能は不る與と。對へて曰く、能は不と。子曰く、嗚呼、曾て泰山の林放に如か不と謂ひし乎と。
論語:現代日本語訳
逐語訳
季氏が泰山へ旅をした。先生が弟子の冉有に言った。「お前は救えなかったのか」。答えて言った。「出来ませんでした」。先生が言った。「ああ。以前泰山は林放のようではないと言っただろうに」。
意訳
若家老が泰山へ物見遊山に行った。仕えている弟子の冉有に先生は言った。「危ないぞ? 止められなかったのかね」。「ええ」。
「バカモン! 言っただろう、泰山の険しさは、なんぼキツい性格の林法でも及ばん程だぞと。」
従来訳
季氏が泰山の山祭りをしようとした。先師が冉有にいわれた。――
「お前は季氏の過ちを救うことが出来ないのか。」
冉有がこたえた。――
「私の力ではもうだめです。」
先師がため息をついていわれた。――
「するとお前は、泰山の神は林放という一書生にも及ばないと思つているのか。」下村湖人『現代訳論語』
現代中国での解釈例
季氏準備祭祀泰山。孔子對冉有說:「你不能阻止嗎?」冉有說:「不能。」孔子說:「天哪!難道說泰山會接受他們的無禮朝拜嗎?」
季氏が泰山を祀る準備を始めた。孔子が冉有に言った。「おまえは押しとどめることが出来なかったのか?」冉有が言った。「出来ませんでした。」孔子が言った。「やれやれ。泰山はよもや、彼らの無礼な拝礼を受ける気にはなるまい。」
論語:語釈
季氏(キシ)
(甲骨文)
論語の本章では、魯国門閥三家老家(三桓)筆頭、季孫氏の当主、季康子(?-BC468)のこと。孔子が魯国の政治を執った五十代時点の当主は、先代の季桓子(?-BC492)で、別名季孫斯とも言う。本章に登場する冉有が季孫家に仕えたのは季桓子の晩年で、山登りに出掛けるとは思えない。
儒者や漢学教授は、季孫家を含む三桓は孔子の政敵で対立していたと一つ覚えのように言うが、まじめに史料を読めば、季孫家が具体的に孔子を排斥した記録はなく、孔子本人や弟子を召し抱えたりするなど、孔子が門閥の根城を壊し始めるまで協力的でさえあった。
ただし季康子に限るなら、呉国の後ろ盾で孔子が帰国した(BC484)後、何かと要求の強い呉国とそれを背景にした孔子を煙たく思ったことは確かのようで、二年後に呉が留守を越に襲われて没落を始めると、主君の哀公とつるんで孔子を閑職に追いやった。
このことは孔子の弟子である子貢と、三桓の一人であり孔子を「おじさま」と慕った孟武伯(論語為政篇6)の怒りを買い、季康子は若年で変死しているし、哀公は越国に追放されて翌年客死した。詳細は論語の人物・端木賜子貢を参照。
ただしそれまでは、孔子と季康子の関係は良好で、孔子がその身を案じて、本章のように言ったとしてもおかしくない。実は孔子の帰国後に呉を滅ぼす策を越に与えたのは、孔子の手先としての子貢であり(『史記』伍子胥伝18)、孔子の立場は魯の保全で一貫している。
放浪中に世話になった、隣国の衛霊公に兵法を問われた際、本章の対話相手である冉有をひとかどの部将に育てるほど兵法に詳しかったにもかかわらず、「知りませんなぁ」ととぼけたのもそれゆえだ(論語衛霊公篇1)。魯国執政の季康子の身を案じるのはむしろ当然でもあった。
「季」の初出は甲骨文。甲骨文の字形は「禾」”イネ科の植物”+「子」で、字形によっては「禾」に穂が付いている。字形の由来は不明。甲骨文では人名に用いた。金文でも人名に用いたほか、”末子”を意味した。論語ではほぼ、魯国門閥三家老家筆頭・季孫氏として登場する。詳細は論語語釈「季」を参照。
「氏」の初出は甲骨文。甲骨文の字形は人が手にものを提げた姿で、原義は”提げる”。「提」は「氏」と同音。春秋時代までの金文では官職の接尾辞、夫人の呼称に、また”氏族”の意に用いた。詳細は論語語釈「氏」を参照。
旅(リョ)
「旅」(甲骨文)/「遊」(甲骨文)
論語の本章では、”旗やのぼりを立て、大勢で出かける”こと。対して一人で出掛けることを「遊」という。初出は甲骨文。字形は「㫃」”旗やのぼり”+「人」二つ”大勢”で、旗印を掲げて多人数で出掛けるさま。もとは軍事用語で、軍隊の一単位。現代でも「旅団」という。金文の字形には、「人」が「車」になっているものがある。甲骨文では原義の”軍隊”、地名に用いた。金文では、”旅”・”携帯する”、”黒色”の意、地名・人名に用いた。戦国の竹簡では、”旅”の意に用いた。詳細は論語語釈「旅」を参照。
従来は儒者の根拠無き出任せを真に受けて、「泰山の山神を祀る」と解した。「旅」は祭祀名として甲骨文に見える、とされるが、それは中国の漢学教授が論語の本章に付けられた儒者の出任せを、甲骨文の昔にまで遡って適用しているに過ぎず、信用するに値しない。
なお武内本に、「旅は祣の仮借、山祭也」とあるが、論拠が不明で賛成できない。『大漢和辞典』によると、祣は山川の祭のことだというが、初出が不明で論語の時代に存在しない。
於(ヨ)
(金文)
論語の本章では”~に”。初出は西周早期の金文。ただし字体は「烏」。「ヨ」は”~において”の漢音(遣隋使・遣唐使が聞き帰った音)、呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)は「オ」。「オ」は”ああ”の漢音、呉音は「ウ」。現行字体の初出は春秋中期の金文。西周時代では”ああ”という感嘆詞、または”~において”の意に用いた。詳細は論語語釈「於」を参照。
泰山(タイサン)
「泰」(秦系戦国文字)・「山」(甲骨文)
魯国国都・曲阜の北80kmほどに位置する聖山。標高1545m。 道教の聖地である五つの山(=五岳)の筆頭。この山を祭る封禅の儀式は、天子の特権とされたと言われる。ふもとに魯国三桓の一家・孟孫氏の根城である、成邑がある。曲阜から近いことから、孔子一門も毎日拝んでいただろうし、孔子もここを訪れたとされる。
泰山は漢文では太山とも書かれるが、「泰」(藤堂上古音t’ad)「太」(上古音同)ともに論語の時代には存在しなかった文字=言葉で、意味は”安泰”。溺れた人を救い出すさま。だからおそらくは”大いなるお山”という意味で「大山」(同dad sǎn)と呼ばれていたはず。
広々とした華北平原のまん中に、でんとそびえる泰山は、その名の通り大いなるお山に見えただろう。孔子の住まった魯の曲阜から真北に当たり、その距離は東京と富士山よりなお近い。江戸の町人が聖なるお山として富士を拝んだように、泰山は山岳信仰の山だった。
だが現代の富士登山や泰山観光が信仰とはほぼ無縁のように、古代の泰山も、必ずしも禁じられた信仰の山では無かった。その手の禁令をうるさく言い始めるのは、漢帝国成立後に、儒教が帝国の支配イデオロギーとなり、むやみに人に禁止を強いてからのことである。
孔子も物見遊山をやった。家老の季氏が、やっていけないはずが無い。
「泰」の初出は秦系戦国文字。同音に大・太。従って”大きい”・”太い”の意を持つ場合にのみ、大・太が論語時代の置換候補となりうる。字形は「大」”人の正面形”+「又」”手”二つ+「水」で、水から人を救い上げるさま。原義は”救われた”→”安全である”。
『説文解字』や『字通』の言う通り、「太」が異体字だとすると、楚系戦国文字まで遡れるが、漢字の形体から見て、「泰」は水から両手で人を救い出すさまであり、「太」は人を脇に手挟んだ人=大いなる人の形で、全く異なる。詳細は論語語釈「泰」を参照。
「山」の初出は甲骨文。「セン」は呉音。字形は山の象形、原義は”やま”。甲骨文では原義、”山の神”、人名に用いた。金文では原義に、”某山”の山を示す接尾辞に、氏族名・人名に用いた。詳細は論語語釈「山」を参照。
子(シ)
(甲骨文)
論語の本章では”(孔子)先生”。初出は甲骨文。字形は赤ん坊の象形。春秋時代では、貴族や知識人への敬称に用いた。季康子や孔子のように、大貴族や開祖級の知識人は「○子」と呼び、一般貴族や孔子の弟子などは「○子」と呼んだ。詳細は論語語釈「子」を参照。
謂(イ)
(金文)
論語の本章では”そう思うって言う”。ただ”いう”のではなく、”~だと評価する”・”~だと認定する”。現行書体の初出は春秋後期の石鼓文。部品で同義の「胃」の初出は春秋早期の金文。金文では氏族名に、また音を借りて”言う”を意味した。戦国の竹簡になると、あきらかに”~は~であると言う”の用例が見られる。詳細は論語語釈「謂」を参照。
冉有(ゼンユウ)
(甲骨文)
孔子の弟子。 姓は冉、名は求、あざ名は子有。本章ではあざ名で呼んでおり敬称。『史記』によれば孔子より29年少。政治の才を孔子に認められ、孔門十哲の一人。孔子一門の軍事力を代表する人物で、個人武で目立つ樊須子遅に対し、武将として名をはせた。詳細は論語の人物:冉求子有を参照。
冉氏一族はおそらく論語の時代の新興氏族で、その長老である冉耕伯牛は、氏族の若者に貴族にふさわしい教養を授けるべき人物を探していた。そのすすめによって孔子に弟子入りしたのが、冉有と冉雍仲弓で、冉有は教養と共に兵法を孔子に学び、文武両道を身につけた。
詳細は孔門十哲の謎を参照。
孔子一門の武人としては子路が知られるが、史料的裏付けのある子路の得意分野は行政で、一門で武将としての記録があるのは冉有だけになる。BC484、斉の来襲に際し冉有は部将として孟武伯(論語為政篇6)と魯国軍を二分して率い、勝利を得た(『春秋左氏伝』哀公十一年2)。
この時孔子は衛国に滞在中だったが、冉有が防衛戦から突破戦に移るとき、兵の武器を「戈」”カマ状のほこ”から「矛」”ヤリ状のほこ”に持ち替えさせたことを伝え聞き、「義也」”それで正解”と讃えている。これを”正義である”と解してはわけが分からない。
冉有は放浪中の孔子一行と離れて、魯国の宰相である季康子に仕えていた。戦前、季康子に「諸侯に成り上がりたかったら兵を出せ」と促し、戦後季康子に兵法を誰に習ったかを聞かれて孔子と答え、孔子の帰国を認めるよう促している(論語雍也篇15解説参照)。
つまり季孫家の家宰として主家の野心を知り尽くしており、終戦直後に季孫家が主導する増税策にも協力した。これをきっかけに孔子との間に食い違いが起きたようである(論語子路篇14)。
論語の本章では、「冉有」とあざ名=敬称で記されている。
「冉」は日本語に見慣れない漢字だが、中国の姓にはよく見られる。初出は甲骨文。同音に「髯」”ひげ”。字形はおそらく毛槍の象形で、原義は”毛槍”。春秋時代までの用例の語義は不詳だが、戦国末期の金文では氏族名に用いられた。詳細は論語語釈「冉」を参照。
「有」の初出は甲骨文。ただし字形は「月」を欠く「㞢」または「又」。字形はいずれも”手”の象形。原義は両腕で抱え持つこと。詳細は論語語釈「有」を参照。
曰(エツ)
(甲骨文)
論語で最も多用される、”言う”を意味する言葉。初出は甲骨文。原義は「𠙵」=「口」から声が出て来るさま。詳細は論語語釈「曰」を参照。
漢石経では「曰」字を「白」字と記す。古義を共有しないから転注ではなく、音が遠いから仮借でもない。前漢の定州竹簡論語では「曰」と記すのを後漢に「白」と記すのは、春秋の金文や楚系戦国文字などの「曰」字の古形に、「白」字に近い形のものがあるからで、後漢の世で古風を装うにはありうることだ。この用法は「敬白」のように現代にも定着しているが、「白」を”言う”の意で用いるのは、後漢の『釈名』から見られる。論語語釈「白」も参照。
汝(ジョ)
論語の本章では”お前”。
「汝」(甲骨文)
「汝」の初出は甲骨文。字形は〔氵〕+〔女〕で、原義未詳。「漢語多功能字庫」によると、原義は人名で、金文では二人称では「女」を用いた。そのほか地名や川の名に用いられた。春秋時代までの出土物では、二人称の用例は見られない。詳細は論語語釈「汝」を参照。
「女」(甲骨文)
定州竹簡論語は論語の本章では該当部分を欠損しているが、他の箇所では「汝」と記さず「女」と記す。日本伝承本でも、宮内庁蔵清家本は「女」と記す。
字の初出は甲骨文。字形はひざまずいた女の姿で、原義は”女”。甲骨文では原義のほか”母”、「毋」として否定辞、「每」として”悔やむ”、地名に用いられた。金文では原義のほか、”母”、二人称に用いられた。「如」として”~のようだ”の語義は、戦国時代まで時代が下る。詳細は論語語釈「女」を参照。
弗(フツ)→不(フウ)
唐石経を祖本とする現伝論語は「弗」と記し、現存最古の論語本である定州竹簡論語はこの部分を欠損し、論語の本章について現存最古の古注本である東洋文庫蔵清家本、次いで古い宮内庁蔵清家本では「不」と記す。これに従い校訂した。論語の伝承について詳細は「論語の成立過程まとめ」を参照。
原始論語?…→定州竹簡論語→白虎通義→ ┌(中国)─唐石経─論語注疏─論語集注─(古注滅ぶ)→ →漢石経─古注─経典釈文─┤ ↓↓↓↓↓↓↓さまざまな影響↓↓↓↓↓↓↓ ・慶大本 └(日本)─清家本─正平本─文明本─足利本─根本本→ →(中国)─(古注逆輸入)─論語正義─────→(現在) →(日本)─────────────懐徳堂本→(現在)
(甲骨文)
「弗」は論語の本章では”~でない”。初出は甲骨文。甲骨文の字形には「丨」を「木」に描いたものがある。字形は木の枝を二本結わえたさまで、原義はおそらく”ほうき”。甲骨文から否定辞に用い、また占い師の名に用いた。金文でも否定辞に用いた。詳細は論語語釈「弗」を参照。
(甲骨文)
「不」は漢文で最も多用される否定辞。初出は甲骨文。「フ」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)、「ブ」は慣用音。原義は花のがく。否定辞に用いるのは音を借りた派生義だが、甲骨文から否定辞”…ない”の意に用いた。詳細は論語語釈「不」を参照。
能(ドウ)
(甲骨文)
論語の本章では”~できる”。初出は甲骨文。「ノウ」は呉音。原義は鳥や羊を煮込んだ栄養満点のシチューを囲む親睦会で、金文の段階で”親睦”を意味し、また”可能”を意味した。詳細は論語語釈「能」を参照。
「能~」は「よく~す」と訓読するのが漢文業界の座敷わらしだが、”上手に~できる”の意と誤解するので賛成しない。読めない漢文を読めるとウソをついてきた、大昔に死んだおじゃる公家の出任せに付き合うのはもうやめよう。
救(キュウ)
(金文)
論語の本章では”救う”。初出は西周末期の金文。字形は「求」”むし”+「攴」(攵)”手を加える”。害虫を叩き潰すさま。同音に「攻」「降」があることから、原義は恐らく”寄生虫を下して治療する”。金文では”救う”の意に用いた。詳細は論語語釈「救」を参照。
與(ヨ)
(金文)
論語の本章では疑問辞”…か”。この語義は春秋時代では確認できない。新字体は「与」。初出は春秋中期の金文。金文の字形は「牙」”象牙”+「又」”手”四つで、二人の両手で象牙を受け渡す様。人が手に手を取ってともに行動するさま。従って原義は”ともに”・”~と”。詳細は論語語釈「与」を参照。
對(タイ)
(甲骨文)
論語の本章では”回答する”。初出は甲骨文。新字体は「対」。「ツイ」は唐音。字形は「丵」”草むら”+「又」”手”で、草むらに手を入れて開墾するさま。原義は”開墾”。甲骨文では、祭礼の名と地名に用いられ、金文では加えて、音を借りた仮借として”対応する”・”応答する”の語義が出来た。詳細は論語語釈「対」を参照。
嗚呼(オコ)
「嗚」(楚系戦国文字)・「呼」(隷書)
論語の本章では”ああ”という嘆き。又これとは別に、”馬鹿者”の意があって「烏滸」とも記し、今のベトナムに住む異民族の名でもあった。ただし”馬鹿者”の語義は、春秋時代では確認できない。
「嗚」の初出は楚系戦国文字。それより前は「烏」または「於」と記し、「烏」と「於」は春秋末期より”…において”の用法が確認できる。初出の字形は「烏」+先にカギの付いた棒で、おそらく烏を追うさま。詳細は論語語釈「嗚」を参照。
「呼」の初出は前漢の隷書。それより以前は「乎」と書き、初出は甲骨文。字形は「口」+「乎」で、呼び鐘を鳴らし口でも呼び寄せるさま。原義は”よぶ”。詳細は論語語釈「呼」を参照。
曾(ソウ)
(甲骨文)
論語の本章では”以前”。新字体は「曽」。初出は甲骨文。字形は蒸し器のせいろうの象形で、だから”かさねる”の意味がある。「かつて」・「すなはち」など副詞的に用いるのは仮借で、西周の金文以降、その意味が現れたため、「甑」”こしき”の字が作られた。「甑」の初出は前漢の隷書。詳細は論語語釈「曽」を参照。
如(ジョ)
甲骨文
論語の本章では”~のようである”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。甲骨文の字形は「女」+「𠙵」”くち”で、”ゆく”の意と解されている。春秋末期までの金文には、「女」で「如」を示した例しか無く、語義も”ゆく”と解されている。詳細は論語語釈「如」を参照。
林放(リンホウ)
「林」(甲骨文)/「放」(金文)
論語の本章では、孔子の弟子の一人。論語ではこの八佾篇にあと一回出てくるだけで(論語八佾篇4)、当時の記録もない。その論語八佾篇4の記述を参考にする限り、厳しい性格だったと思われる。
「林」の初出は甲骨文。字形は「木」二つ。木の多い林のさま。原義は”はやし”。なお「森」は、甲骨文では横並び三本で記される。甲骨文では地名・国名に、金文では氏族名や人名に、また戦国末期の金文では原義に用いられた。詳細は論語語釈「林」を参照。
「放」の初出は西周末期の金文。字形は「方」”ふね”+「攴」(攵)で、もやいを解くさま。原義は”はなつ”。金文では、”ほしいままに”の用例がある。詳細は論語語釈「放」を参照。
乎(コ)
(甲骨文)
論語の本章では、”~であるのになぁ”と訳し、詠歎を示す。文末・句末におかれる。初出は甲骨文。甲骨文の字形は持ち手を取り付けた呼び鐘の象形で、原義は”呼ぶ”こと。甲骨文では”命じる”・”呼ぶ”を意味し、金文も同様で、「呼」の原字となった。句末の助辞として用いられたのは、戦国時代以降になる。ただし「烏乎」で”ああ”の意は、西周早期の金文に見え、句末でも詠嘆の意ならば論語の時代に存在した可能性がある。詳細は論語語釈「乎」を参照。
曾謂泰山不如林放乎
この句に関する既存の論語本の議論第一は、巨大な自然物である泰山と、一人間に過ぎない林放とを対比するちぐはぐさ。そこで上記のように、林放は前々章のように極めてカタブツで、自他共に厳しい人物と想像した。例えば「槍ヶ岳のような男」と聞けば、冷たく険しい男を想像することが、日本語でも可能になる。
第二は、「泰山不如林放」が誰の発言か。ここでは孔子として訳したが、冉有であるとしても全く差し支えない。その際の訳は”ああ。お前も泰山の険しさを、林放の性格とは比べものにならないと言っていたのに”。
なお「A不如B」は、必ずしも”AはBに及ばない”を意味しない。漢語は日本語と同様、主部は動作主体を示すのではなく文の主題を示し、語順も前部は主題を示し後部はそれに従属する説明を示す。論語の本章で言えば、「泰山」が主題であり、”林放よりもっと険しい”と解して構わない。
論語:付記
検証
論語の本章は、前漢の韓嬰(BC200?-BC130)が「季氏為無道,僭天子,舞八佾,旅泰山,以雍徹」”季氏は横暴で、天子の真似をし、八佾を舞わせ、泰山を祭り、雍の歌で食事を終えた”と『韓詩外伝』に記し、次いで劉向(BC77-BC6)が「是以泰山終不享李氏之旅」”だから泰山は季氏の祭祀を受け付けなかったのだ”と『説苑』に記すまで、誰も引用していない。
以上の例によると、前漢ではすでに「旅」=”祭祀”の解釈が確立していたことが分かるが、それが論語の時代まで遡及できる理由にはならない。”祭祀”の語義にこだわるのでなければ、論語の本章は史実の孔子と冉有の対話と解してよい。
解説
古来議論が多い章で、既存の論語本では従来訳のように、”家老が思い上がって泰山を祭ろうとした”と解する例が多い。しかし”祭る”とはどこにも書いていない。家老の僭上越権を嘆く言葉が多い、論語八佾篇の頭部に収められているので、そうであろうと想像されているだけ。
また封禅の確実な記録は、孔子より300年後の始皇帝からになる。100年前の覇者・斉の桓公が行おうとして、管仲に止められたという記録や、周王がその前の時代にやったらしいというのがあるのみ。従って祭るのが天子の特権かどうかもわからない。
そもそも「天子」の言葉が中国語に現れるのも西周早期で、殷の君主は自分から”天の子”などと図々しいことは言わなかった。詳細は論語述而篇34余話「周王朝の図々しさ」を参照。
夢想家の桓公が、どこかから聖王の行う祭祀として泰山封禅を吹き込まれ、やりたがったのはありえることだ。だが実務家の管仲は、そういうデタラメが民間に浸透しているとは言いがたいと断じ、政治宣伝には役立たないから、おやめなさいと止めたのだろう。
そもそもご近所の名山にお参りするのが、そんなに悪い事とも思えない。新古の注は以下の通り。
古注『論語集解義楚』
註馬融曰旅祭名也禮諸侯祭山川在其封內者也今陪臣祭泰山非禮也
注釈。馬融「旅とは祭祀の名である。礼の規定では、諸侯は領地内にある山川を祀るが、諸侯の家臣が泰山を祀るのは礼に背くのである。」
新注『論語集注』
旅,祭名。泰山,山名,在魯地。禮,諸侯祭封內山川,季氏祭之,僭也。
旅とは祭祀の名である。泰山は山の名である。魯にある。礼法の規定では、諸侯は領内の山川を祀る。季氏がそれを祀るのは、思い上がりである。
論語の時代=春秋時代の基本資料は『春秋左氏伝』だが、そこでは人名として「楚子旅」「子旅氏」、”たび”として「商旅于市」「彼賓旅也」、地名として「旅松」とあるほかは、全て”軍隊”の意。『国語』もたび”として「旅于裔土」「往觀旅」「禮賓旅」「舍于逆旅」がある他は、全て”軍隊”の意。「旅」を”祭祀”と言い出したのは、漢儒の出任せと断じて良い。
余話
山県有朋のまともさ
明治陸軍が建軍したとき、幕府陸軍から「陸軍」「歩兵」「大隊」「連隊」の語は引き継いだが、徴兵制によって規模が拡大し、技術も進んだことで、とうてい幕府陸軍の用語だけでは足りなくなった。「旅団」もその一つで、えらく古い漢籍から用語を持ってきた。
「連隊」が概ね千人程度の集団を指すのに対して、「旅団」はその3倍から5倍の戦闘集団を指す。文献上の初出は『論語』で、「加之以師旅」(論語先進篇25)、「王孫賈治軍旅」(論語憲問篇20)、「軍旅之事」(論語衛霊公篇1)と見える。いずれも”軍隊”を意味する。
大村益次郎や山県有朋にはよほど漢籍の教養があったらしく、幕府時代までは「小荷駄」と呼んでいた輸送部隊に「輜重兵」という語を当てた。「輜重」の文献上の初出は『孫武兵法』だが、『老子道徳経』での用例も、それと時期を争うぐらいに古い。
舉軍而爭利,則不及;委軍而爭利,則輜重捐。是故卷甲而趨,日夜不處,倍道兼行,百里而爭利,則擒三將軍,勁者先,疲者後,其法十一而至;五十里而爭利,則蹶上將軍,其法半至;卅里而爭利,則三分之二至。是故軍無輜重則亡,無糧食則亡,無委積則亡。故不知諸侯之謀者,不能豫交;不知山林、險阻、沮澤之形者,不能行軍,不能鄉導者,不能得地利。
(地の利はいくさの大事だが、作戦立案で地の利に目が眩んではいけない。)先に兵を出して地の利を得ておこうとしても、うまくいかない。見かけの兵力に頼って地の利を確保しに行っても、輜重が消耗するだけだ。
仮に鎧を着けずに兵を走らせ、日夜休みなく進んで、行軍の距離を倍にしたところで、部将が三人とも捕らえられるだけだ。なぜなら体力のある者が先に戦場に着き、無い者は遅れるに決まっているから、それでは決戦場に集められる兵力は元の十分の一にしかならないからだ。
五十里を強行軍させたら、兵は置いてけ堀になって総大将が討ち取られる。なぜなら戦場に間に合う兵は半分でしかないからだ。三十里を強行軍して地の利を得ようとしても、間に合う兵は三分の二しかいない。
だから強調して言うのだが、輜重を伴えないなら必ず負ける。糧食が無いから必ず負ける。その他備品類の備蓄も無いから必ず負ける。
そして敵国の意図を知らない者は、あらかじめ決戦場をここだと想定することも、必要兵力を見積もることも出来ない。戦地の山林や山谷、河川湖沼の地理を知らなければ、軍を進めることは出来ない。現地に明るい道案内が確保できなければ、地の利など得られるわけが無い。(『孫武兵法』軍事2)
重為輕根,靜為躁君。是以聖人終日行不離輜重。雖有榮觀,燕處超然。奈何萬乘之主,而以身輕天下?輕則失本,躁則失君。
自分を過信する者は、自分を支えるものを馬鹿にする。何事も無く過ぎていく時が、かえって君主に何かさせようと心をざわめかせる。
だから聖人は出掛けるにも、常に輜重の側を離れない。伊達の薄着は格好良く見えても、モコモコに着る用意をして伊達の真似をする気を起こさない。いわんや天下の主たる者が、自分の思い込みで天下を軽々しく取り扱ってはならない。
油断し用意の無い者は存在理由を失うし、心がざわめけば君主の座を失うからだ。(『老子道徳経』26)
歴史的人物としての孫武は、孔子とほぼ同時代人だが、『孫武兵法』もまた後世の改竄を免れず、戦国時代以降の漢語が混じっている。対して孔子に「礼」=貴族の常識を教えた老子は実在したろうが、一世紀以上のちにも老子と呼ばれる人物が出るために、仙人扱いされた。
ただ現伝の『老子』はブツとして戦国の竹簡にあり、『孫子』とその古さを競うというわけ。
更に余談として、山県有朋は司馬遼太郎が悪党として描いたので、昭和の後半当たりからえらく世間での評判が悪かったが、「徴兵制を敷くからには議会政治は当然だろう」と思っており、日露戦争の時に与謝野晶子に悪口を言いふらされても、放置して全く弾圧しなかった。
和歌を能くし、漢詩もうまかった。今に残るのは造園の巧みさで、訳者が見た範囲では、京都の無鄰菴は東京の椿山荘と違って宴会場として繁盛しているわけではないから、維持管理に経費を掛けられないはずだが、それでも冬枯れの季節であろうと一見の価値がある。
また日露戦直前に政界の要人が緊迫した会議を開いた洋館も保存されており、誰でも見ることが出来る。無鄰菴の名はおそらく論語里仁篇25「徳は孤ならず、必ず鄰有り」から来ているのだろうが、「自分には人徳が無い」と思っていないと名づけない名前でもある。
庭の池には琵琶湖疎水の水を引いたが、多額の税金で開通させた疎水の水を、「庭のため」という理由では引かせて貰えず、「近隣の防火用水のため」という理由でやっと許可が下りた。司馬は明治政府の威張り返った独裁者として山県を描いたが、ずいぶん違うようである。
コメント
いつも楽しく拝見しております。
泰山と林放を比較するおかしさから、険しさとする解釈は非常に面白いと思いました。
ただこの章に関して、宮崎市定も同様の不自然さを感じて、「曾て泰山を謂うこと、林放の如くならざりしか」と読んで、泰山と林放ではなく冉有と林放が並置されていると解釈しています。また、海外でも一般的にそのように訳されているとのことです。(『論語の新研究』『論語の新しい読み方』)
文法の当否は全然分からないのですが、個人的に宮崎の解釈は非常に自然で、なおかつ前々章との整合性も取れていると感じます。
以上の説ついて、どう思われますでしょうか。よろしくお願いします。
宮崎博士の解釈を訳者は否定しません。古典は古人の言葉の断片だからです。発言者の意図は今人が想像するしかありません。その想像は多様にあり得ます。合理的に明らかにおかしくない限りです。ただ少しでも古人の意図に近づこうとするなら、今人はせいぜい異なる資料による補助線を引くしかありません。幾何の解法のようにです。従って『左伝』など伝える当時の政治的背景から、訳者は上掲のように解釈しました。