論語:原文・書き下し →項目を読み飛ばす
原文
子路、曾皙、冉有、公西華侍坐。子曰、「以吾一日長乎爾、毋*吾以*也。居則曰、『不吾知也。』如或知爾、則何以哉。」子路率爾而對曰、「千乘之國、攝乎大國*之閒、加之以師旅、因之以饑*饉、由也爲之、比及三年、可使有勇、且知方也。」夫子哂之。
校訂
武内本
無、唐石経毋に作る。釋文云、吾以鄭本已に作る、已は止也。唐石経、國下之の字あり。飢、唐石経饑に作る。
定州竹簡論語
子路、曾皙、冉有、公西華侍[坐。子曰:「以吾一日長乎爾],297毋a吾以b也。居則曰:『不吾智也!』如或智壐c,則何以哉?」298……路率d壐對曰:「千乘之國,□乎大國之間,加之以師299……因之以饑e;由也為之,比及三年,可使有勇,且𣉻方也。」300[夫子哂之。
- 毋、皇本作”無”。
- 以、鄭本作”已”。『説文』”已、以也。”、古通用。
- 智壐、今本作”知爾”。
- 率、皇本作”卒”。古通。
- 饑
、今本作”饑饉”、『釋文』云”饑、鄭本作飢”。
→子路、曾皙、冉有、公西華侍坐。子曰、「以吾一日長乎爾、毋吾以也。居則曰、『不吾智也。』如或智壐、則何以哉。」子路率壐對曰、「千乘之國、攝乎大國之閒、加之以師旅、因之以饑、由也爲之、比及三年、可使有勇、且𣉻方也。」夫子哂之。
復元白文
皙
攝
饑
哂
※坐→(甲骨文)・壐→爾・→饉。論語の本章は赤字が論語の時代に存在しない。也の字を断定で用いている。本章は前漢帝国の儒者による捏造である。
書き下し
子路・曾皙・冉有・公西華侍りて坐る。子曰く、吾一日爾乎長けるを以て、吾以ゐる也とする毋れ。居るときは則ち曰く、吾は智られず也と。如し或は壐を智るあらば、則ち何を以てせむ哉。子路率壐として對へて曰く、千乘之國、大國之閒乎攝り、之に加ふるに師旅を以ゐ、之に因るに饑を以ゐるも、由也之を爲まば、三年に及ぶ比、勇ありて且つ方を𣉻ら使む可き也と。夫子之を哂ふ。
論語:現代日本語訳 →項目を読み飛ばす
逐語訳
子路・曽皙(曽子の父)・冉有・公西華が先生のそばに控えていた。先生が言った。
「私がわずかに年長だからと言って、私に遠慮するな。君たちが私のそばにいる時は、自分は理解されないと言っているな。もし君たちを理解する者がいたら、どのようにするか。」
子路が即座に言った。「中程度の国々が、大国に挟まれて、あるいは軍隊を送りつけ、飢饉に付け込む事があっても、私がその国を治めれば、三年が過ぎる頃には、立ち向かう勇気と、国の進むべき方法を知らしめてやります。」
先生はそれを聞いてあざけり笑った。
意訳
ある日子路・曽皙・冉有・公西華が先生のそば近くに控えていた。
孔子「どうかね君たち、今日は一つ、私に遠慮無く抱負を語って貰いたい。普段ぶつくさと、仕官できないと嘆いているが、求人があったらどうだね?」
子路「いわいでか。我が魯国のような中原諸侯国は、西北は晋、東は斉、南は楚といった大国にいいようにされ、飢饉に付け込んでは攻め寄せられます。私が国政を預かるなら、三年で兵を鍛え、教育を充実し、なめられないようにして見せます。」
孔子「ヘッ。」
従来訳
子路と曾皙と冉有と公西華が先師のおそばにいたとき、先師がいわれた。――
「私がお前たちよりいくらか先輩だからといって、何も遠慮することはない。今日は一つ存分に話しあって見よう。お前たちは、いつも、自分を認めて用いてくれる人がないといって、くやしがっているが、もし用いてくれる人があるとしたら、いったいどんな仕事がしたいのかね。」
すると、子路がいきなりこたえた。――
「千乗の国が大国の間にはさまって圧迫をうけ、しかも戦争、饑饉といったような難局に陥った場合、私がその国政の任に当るとしましたら、三年ぐらいで、人民を勇気づけ、且つ彼等に正しい行動の基準を与えることが出来ます。」
先師は微笑された。
現代中国での解釈例
子路、曾皙、冉有、公西華陪坐,孔子說:「不要顧及我年長,而不敢講真話。你們經常說,沒人理解你們,如果有人理解並重用你們,你們打算咋辦?」子路急忙說:「較大國家,夾在大國之間,外有強敵入侵,內有饑荒肆虐,我來管理,衹要三年,可使人人有勇氣,個個講道義。」孔子微笑。
子路、曽皙、冉有、公西華が(孔子の)側に座っていた。孔子が言った。「私の年長に遠慮して、真意を話さないのをやめよ。お前たちはいつも言っている。”我々は理解されない”と。もし理解者が出てお前たちを重用してくれるとしたら、お前たちは何をしようとするのか。」子路が慌ただしく言った。「比較的大きな国が、大国の間に挟まれて、強敵が侵入し、国内では饑饉が荒れ狂っている。こういう国を私が管理し、たったの三年で、人々に勇気を植え付け、それぞれが道義を重んじるようにします。」孔子は微笑んだ。
論語:語釈 →項目を読み飛ばす
子 路、曾 皙、冉 有、公 西 華 侍 坐 。子 曰、「以 吾 一 日 長 乎 爾、毋 吾 以 也。居 則 曰、『不 吾 智(知) 也。』如 或 智(知) 壐(爾)、則 何 以 哉。」子 路 率 壐(爾) 而 對、曰、「千 乘 之 國、攝 乎 大 國 之 閒、加 之 以 師 旅、因 之 以 饑 (饉)、由 也 爲 之、比 及 三 年、可 使 有 勇、且 𣉻(知) 方 也。」夫 子 哂 之。
曾皙/曽皙
本章の事実上の主人公。曽子の父という事になっており、息子と共に孔子の弟子だったとされる。しかし曽子がそもそも孔子の弟子ではなく、孔子家の家事使用人だった。従って実在はしたのだろうが、現在伝えられている名前だったとは考えにくい。
本名とあざ名は、『史記』弟子伝によると曾蒧子皙。蒧は草の名であり、あざ名の皙”色白”と対応しない。『論語集釋』の紹介する『史記』の異本によると曾𪒹子皙とあり、𪒹とは”色黒”。イシダイじゃあるまいし、白黒だんだら模様の顔なんてあるもんですか。
下掲『孔子家語』によると、曽子が瓜畑の世話をしていて、うっかり蔓を切ってしまった所、クワで意識不明になるまでぶん殴ったというサド親父。これは事実と思われる。サドの子はサドになる。曽子は孔子没後、子夏を恐喝して金をせびり、偉そうな説教ばかりして過ごした。
その曽子の本名とあざ名も曾参子輿であり、参”かんざし”と輿”お神輿・大地”とは全然関係がない。後世の儒者が「大地の如き尊厳ある大先生」のつもりで奉った尊称である。だが論語の描く春秋時代、人は全てあざ名を持つわけではなく、士分以上に限られた。曽子父子のあざ名のいい加減さは、要するに二人とも、士族でも孔子の弟子でもなかったことを証している。
吾一日長乎爾
「長」(金文)
論語の本章では、”私が君たちより少しばかり年長だからと言って”。「爾」は「なんじ」、”君たち”。「乎」は「より」と呼んで、論語の本章では比較を表す助辞。詳細は論語語釈「乎」を参照。
ただし孔子は弟子たちと比べて、いずれも一日ばかりの年長ではないので、これは孔子の謙遜らしく見せかけた表現。
毋吾以也
「毋」(金文大篆)
論語の本章では、”私に遠慮するな”。
これは本章を偽作した前漢の儒者が、古くさく見せるために、わざと意味不明の「以」を用いたのだが、後世の儒者は何と読んでいいか分からず迷惑している。「以」は”用いる”とその派生義を意味する言葉で、主語は吾=孔子。直訳すれば”私が用いるのであるとするな”。何のことか分からない。
文法的には三つの解釈がありうる。一つは「以」を”率いる”という動詞に読む解釈で、「吾以いる也とする毋れ」。訳は”私を指導者と思うな”。
もう一つは「以」を名詞の”理由”と解釈するもので、「吾が以也とする毋れ。」訳は”私を理由にするな”。詳細は論語語釈「以」を参照。
「也」を”完成した”という動詞に解釈し、「吾以て也るとする毋れ」と読み、”私を完成した人間だと思うな”と読めなくはない。しかし『大漢和辞典』にも『学研漢和大字典』にも、動詞としての用例はないから、これは不可。詳細は論語語釈「也」を参照。
訳者の見解としては、「以」を”率いる”の意に取るのは『左伝』『国語』『戦国策』にも例があるので、これに従った。おそらく儒者どものもくろみも、今挙げた先秦の文献と同様に「以」を用いて、古さを演出することにあっただろう。ろくでもない奴らだ。
「毋」の音は「ブ・ム」で、「無」と通じて”ない・…するな”。『学研漢和大字典』によると指事文字で、「女+━印」。女性をはずかしめてはならないとさし止めることを━印で示したもの。無(ム)・(ブ)や莫(マク)・(バク)と同系で、ないの意味を含む。特に禁止の場合に多く用いられる、という。詳細は論語語釈「毋」を参照。
不吾知也→不吾智也
「知」(金文)
論語の本章では、”自分は知られないのだ”。無主語のnot-O-Vの倒置表現。『学研漢和大字典』による「知」の原義は、真っ直ぐに事実を言い当てること。論語の時代、「知」と「智」は書き分けていない。「𣉻」は「智」の異体字。詳細は論語語釈「知」・論語語釈「智」を参照。
率
論語の本章では”いきなり”。論語では本章のみに登場。本来「卒」と書くべき所、もったいを付けて古くさく見せるために、あえて間違った字を用いた。
初出は甲骨文。カールグレン上古音はsli̯wəd(去)。詳細は論語語釈「率」・論語語釈「卒」を参照。
千乘(乗)之國(国)
「乗」(金文)
論語の本章では、魯国程度の、中ぐらいの国のこと。”戦車千乗を持つ大国”と伝統的に解釈されるが、調べると魯国程度の国のことであるらしいし、季氏の当主・季康子は、自国を「千乗の国」と言っている。論語語釈「乗」も参照。
攝(摂:ジョウ)
(金文大篆・篆書)
論語の本章では”はさまる”。最も知られた語義は、”とる”。この文字の初出は後漢の『説文解字』で、論語の時代に存在しない。代替候補も見つからない。詳細は論語語釈「摂」を参照。
師旅
(金文)
論語の本章では”軍隊・軍事”。「師」も「旅」も、本来は”軍隊”。現代日本語でも「師団・旅団」という言葉が残る。詳細は論語語釈「師」・論語語釈「旅」を参照。
因之以饑饉→因之以饑
「飢」(金文大篆)
論語の本章では、”飢饉に付け込んで”。藤堂本では「因」を「かさぬる」と読んでおり、軍隊で威嚇された上に、飢饉が重なると解釈している。
『学研漢和大字典』によると「饑」は会意兼形声文字で、「食+(音符)幾(わずか、いくらもない)」。飢(食物がわずか)・肌(キ)(きめのこまかいはだ)と同系。僅(キン)(わずか)・饉(キン)(食物がわずか)は、その語尾がnに転じたことば、という。詳細は論語語釈「饑」を参照。
「饉」は論語では本章のみに登場。定州竹簡論語のの字は、『大漢和辞典』にもなく、饉の異体字として扱う以外に方法が無い。恐らくは「卒」をあえて「率」と書いたように、古くさく見せるための悪質なハッタリだろう。
『学研漢和大字典』によると会意兼形声文字で、「食+(音符)僅(とぼしい)の略体」。▽飢・饑の語尾が転じたことば。僅(キン)(わずか)と最も近い、という。詳細は論語語釈「饉」を参照。
哂(シン)
(金文大篆)
論語の本章では、”あざけるように笑うこと”。論語では本章とその続きのみに登場。
孔子は「気にせず望みを言いなさい」と言っておきながら、子路が正直に答えるとあざけった、というのである。実に悪質な捏造と言ってよい。藤堂博士は真面目な人だから、一生懸命この漢字の語義を鹿爪らしく仕立てようとしているが、成功しているとは言えない。
前漢に限らず儒者は、箸と筆と賄賂以上に重い物を持とうともしないひょろひょろどもで、子路のような武人を徹底的に見下した。本章の孔子がおよそ人間としてあり得ないような残忍をやらかしても、子路が相手ならかまわないだろう、というわけである。やはりろくでなしだ。
『学研漢和大字典』によると会意兼形声文字で、西は、ざるを描いた象形文字。すきまから水や息が漏れ去る意を含む。哂は「口+(音符)西」で、口もとから息が漏れること。遷(セン)(中身が抜け去る)と縁が近い、という。詳細は論語語釈「哂」を参照。
論語:解説・付記
本章は論語の中で最も長い章なので、分割して記す。
あらかじめ断っておけば、本章は後世の捏造で、ただの数あわせのために付け足されたに過ぎない。話の筋立ても、『孔子家語』致思第八(1)そっくりであり、話の成立もかなり時代が下り、あらすじを換骨奪胎して曽子のおやじ・曽点を権威づけたに過ぎない。
その理由はおいおい書いていくが、論語にはこうしたろくでもない話まで含まれている。そして曽点について儒者ですらも、必ずしも「孔子先生の高弟・曽子先生のお父上」として敬っていたわけではない。それどころかとんでもないサド親父だとまで言った。
曾子耘瓜,誤斬其根。曾晢怒,建大杖以擊其背,曾子仆地而不知人久之。有頃乃蘇,欣然而起,進於曾晢曰:「嚮也參得罪於大人,大人用力教參,得無疾乎?」退而就房,援琴而歌,欲令曾晳而聞之,知其體康也。孔子聞之而怒,告門弟子曰:「參來,勿內。」曾參自以為無罪,使人請於孔子。子曰:「汝不聞乎?昔瞽瞍有子曰舜,舜之事瞽瞍,欲使之,未嘗不在於側;索而殺之,未嘗可得。小棰則待過,大杖則逃走,故瞽瞍不犯不父之罪,而舜不失烝烝之孝。今參事父,委身以待暴怒,殪而不避,既身死而陷父於不義,其不孝孰大焉!汝非天子之民也,殺天子之民,其罪奚若?」曾參聞之,曰:「參罪大矣!」遂造孔子而謝過。
曽子が瓜畑の世話をしている最中、うっかり蔓を切ってしまった。芋づる式に瓜がダメになったと知って曽点が真っ赤になって怒り、クワを振り上げて曽子の背中を執拗にぶちのめした。その場に倒れた曽子はしばらく気を失ったままだったが、やがて息を吹き返すと嬉しそうに立ち上がり、家に飛んで帰って曽点に言った。
「先ほどは大変申し訳ないことを致しました。クワを振るって戒めを下されましたが、おけがはございませんでしたか?」そのまま自室に引き籠もって、チンチャカ琴をかき鳴らしてわあわあと歌った。曽点に歌を聴かせて、大したことない、と思わせるためである。
それを伝え聞いた孔子は、真っ赤になって怒った。「あの馬鹿者が! 皆の者! 曽子めが来ても、ワシの部屋に入れるな!」自分は全然悪くない、むしろ立派なことをしたと思っている曽子が、弟子仲間に無理を言って取り次いで貰うと、孔子は説教を始めた。
「あのな、お前も知っての通り、いにしえの舜王の親父はろくでなしだった。即位前の舜王は、親父が用を言い付けると言うことを聞いたが、親父が自分を殺そうとしたときは姿を隠した。親父が小クワを振り回している間はくたびれるまで待ち、大クワを振り回し始めたら飛んで逃げた。おかげで親父も虐待の犯罪者にならずに済み、舜王も孝行者だという評判を保った。
そこへ行くとお前は何だ。父親の発狂をただぼんやりと待ち、殴られるに任せた。もし死にでもしたら、父親を殺人犯にするところだったんだぞ。親不孝も甚だしい。それにお前だって、天子様の民ではないか。天子様の民を殺した罪とは、そう軽いものではないぞ。」
曽子はしょぼくれて「済みませんでした」とあやまった。(『孔子家語』六本10)
舜を創作したのは孔子より一世紀後の孟子であり、孔子が舜を説くはずもないが、クワでぶちのめしたのは曽点のやりそうなことであり、少なくとも舜の親父なみのクズだったという常識は、戦国時代以降の儒者に共有されていたのだ。
コメント
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[…] このあと曽子はウスノロらしい無い知恵を絞って偽善の限りを尽くすのだが、それを見抜いた孔子は「あ奴をワシの部屋に入れるな!」とまで激怒した。詳細は論語先進篇25の付記を参照。 […]