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論語詳解278A先進篇第十一(25)子路曽皙冉有公西華*

論語先進篇(25)要約:後世の創作。塾生では年長組の、子路と曽子の父の曽点。さらに若い冉有ゼンユウと公西赤も加わって、孔子先生のおそばにいました。それぞれの抱負を聞きたがる先生。いわいでか、と子路が真っ先に答えたのですが…。

論語:原文・書き下し

原文(唐開成石経)

子路曽皙冉有公西華侍坐子曰以吾一日長乎爾毋吾以也居則曰不吾知也如或知爾則何以哉子路率爾而對曰千乗之國攝乎大國之閒加之以師旅因之以饑饉由也爲之比及三年可使有勇且知方也夫子哂之

  • 「曽」字:〔八田日〕。
  • 「勇」字:〔甬力〕

校訂

武内本

無、唐石経毋に作る。釋文云、吾以鄭本已に作る、已は止也。唐石経、國下之の字あり。飢、唐石経饑に作る。

東洋文庫蔵清家本

子路曽皙/冉有公西華侍坐子曰以吾一日長乎爾無吾以也/居則曰不吾知也/如或知爾則何以哉/子路率爾而對曰/千乗之國攝乎大國之間加之以師旅因之以飢饉/由也爲之比及三年可使有勇且知方也/夫子哂之

後漢熹平石経

(なし)

定州竹簡論語

路、曾皙、冉有、公西華侍[坐。子曰:「以吾一日長乎爾],297毋a吾以b也。居則曰:『不吾智也!』如或智壐c,則何以哉?」298……路率d壐對曰:「千乘之國,□乎大國之間,加之以師299……之以饑饉 外字e;由也為之,比及三年,可使有勇,且𣉻方也。」300[子哂之。

  1. 毋、皇本作”無”。
  2. 以、鄭本作”已”。『説文』”已、以也。”、古通用。
  3. 智壐、今本作”知爾”。
  4. 率、皇本作”卒”。古通。
  5. 饉 外字、今本作”饑饉”、『釋文』云”饑、鄭本作飢”。

標点文

子路、曾皙、冉有、公西華侍坐。子曰、「以吾一日長乎爾、毋吾以也。居則曰、『不吾智也。』如或智壐、則何以哉。」子路率壐對曰、「千乘之國、攝乎大國之閒、加之以師旅、因之以饑饉 外字、由也爲之、比及三年、可使有勇、且𣉻方也。」夫子哂之。

復元白文(論語時代での表記)

子 金文路 金文 曽 金文 冉 金文有 金文 公 金文西 金文華 金文侍 金文 子 金文曰 金文 㠯 以 金文吾 金文一 金文日 金文長 金文乎 金文爾 金文 母 金文吾 金文㠯 以 金文也 金文 居 挙 舉 金文則 金文曰 金文 不 金文吾 金文智 金文也 金文 如 金文或 金文智 金文爾 金文 則 金文何 金文㠯 以 金文哉 金文 子 金文路 金文率 金文爾 金文而 金文対 金文 曰 金文 千 金文乗 金文之 金文国 金文 乎 金文大 金文国 金文之 金文間 金文 加 金文之 金文㠯 以 金文師 金文旅 金文 因 金文之 金文㠯 以 金文饉 金文 由 金文也 金文為 金文之 金文 比 金文及 金文三 金文年 金文 可 金文使 金文有 金文勇 金文 且 金文智 金文方 金文也 金文 夫 金文子 金文之 金文

※壐→爾・饉 外字→饉。論語の本章は赤字が論語の時代に存在しない。「以」「之」「也」「則」の用法に疑問がある。本章は前漢帝国の儒者による創作である。

書き下し

子路しろ曾皙そうせき冉有ぜんいう公西華こうせいくわはべりてる。いはく、われじつなんぢけるをもつて、われひきゐるなりとするなかれ。るときはすなはいはく、われられずなりと。あるものなんぢらば、すなはなにもちゐむ子路しろ率壐そつじとしてこたへていはく、千じようくに大國たいこくあひだはさまり、これくはふるに師旅しりよもちゐ、これつらぬるに饉 外字ききんもちゐるも、いうこれをさまば、三ねんおよころほひいさありてみち𣉻使なりと。夫子ふうしこれわらふ。

論語:現代日本語訳

逐語訳

子路曽点子皙冉求 冉有公西赤

子路・曽セキ(曽子の父)・ゼン公西華が先生のそばに控えていた。先生が言った。

「私がわずかに年長だからと言って、私に釣られるな。君たちが私のそばにいる時は、自分は理解されないと言っているな。もしある者が君たちを理解しら、どのようにするか。」

子路が即座に言った。「諸侯国が、大国に挟まれて、そこへ軍隊を送りつけ、飢饉が続く事があっても、私がその国を治めれば、三年が過ぎる頃には、立ち向かう勇気と、国の進むべき方法を知らしめてやります。」

先生はそれを聞いてあざけり笑った。

意訳

ある日子路・曽皙・冉有・公西華が先生のそば近くに控えていた。

孔子 人形
孔子「どうかね君たち、今日は一つ、私に遠慮無く抱負を語って貰いたい。普段ぶつくさと、仕官できないと嘆いているが、求人があったらどうだね?」

子路 ニセ
子路「いわいでか。我が魯国のような中原諸侯国は、西北は晋、東は斉、南は楚といった大国にいいようにされ、飢饉に付け込んでは攻め寄せられます。私が国政を預かるなら、三年で兵を鍛え、教育を充実し、なめられないようにして見せます。」

孔子 せせら笑い
孔子「ヘッ。」

従来訳

下村湖人

子路と曾皙と冉有と公西華が先師のおそばにいたとき、先師がいわれた。――
「私がお前たちよりいくらか先輩だからといって、何も遠慮することはない。今日は一つ存分に話しあって見よう。お前たちは、いつも、自分を認めて用いてくれる人がないといって、くやしがっているが、もし用いてくれる人があるとしたら、いったいどんな仕事がしたいのかね。」
すると、子路がいきなりこたえた。――
「千乗の国が大国の間にはさまって圧迫をうけ、しかも戦争、饑饉といったような難局に陥った場合、私がその国政の任に当るとしましたら、三年ぐらいで、人民を勇気づけ、且つ彼等に正しい行動の基準を与えることが出来ます。」
先師は微笑された。

下村湖人『現代訳論語』

現代中国での解釈例

子路、曾皙、冉有、公西華陪坐,孔子說:「不要顧及我年長,而不敢講真話。你們經常說,沒人理解你們,如果有人理解並重用你們,你們打算咋辦?」子路急忙說:「較大國家,夾在大國之間,外有強敵入侵,內有饑荒肆虐,我來管理,衹要三年,可使人人有勇氣,個個講道義。」孔子微笑。

中国哲学書電子化計画

子路、曽皙、冉有、公西華が(孔子の)側に座っていた。孔子が言った。「私の年長に遠慮して、真意を話さないのをやめよ。お前たちはいつも言っている。”我々は理解されない”と。もし理解者が出てお前たちを重用してくれるとしたら、お前たちは何をしようとするのか。」子路が慌ただしく言った。「比較的大きな国が、大国の間に挟まれて、強敵が侵入し、国内では饑饉が荒れ狂っている。こういう国を私が管理し、たったの三年で、人々に勇気を植え付け、それぞれが道義を重んじるようにします。」孔子は微笑んだ。

論語:語釈

子路(シロ)

子路

記録に残る中での孔子の一番弟子。あざ名で呼んでおり敬称。一門の長老として、弟子と言うより年下の友人で、節操のない孔子がふらふらと謀反人のところに出掛けたりすると、どやしつける気概を持っていた。詳細は論語人物図鑑「仲由子路」を参照。

子 甲骨文 子 字解
(甲骨文)

「子」は論語の本章、「子路」「子羔」「子曰」では敬称、「人之子」では”子供”。

初出は甲骨文。字形は赤ん坊の象形。春秋時代では、貴族や知識人への敬称に用いた。季康子や孔子のように、大貴族や開祖級の知識人は「○子」と呼び、一般貴族や孔子の弟子などは「○子」と呼んだ。詳細は論語語釈「子」を参照。

路 金文 路 字解
「路」(金文)

「路」の初出は西周中期の金文。字形は「足」+「各」”あし𠙵くち”=人のやって来るさま。全体で人が行き来するみち。原義は”みち”。「各」は音符と意符を兼ねている。金文では「露」”さらす”を意味した。詳細は論語語釈「路」を参照。

曾皙*(ソウセキ)

論語 曽点子皙

論語の本章では、曽参子輿の父親、曽点子皙のあざ名。本章の事実上の主人公。曽子の父という事になっており、息子と共に孔子の弟子だったとされる。しかし曽子がそもそも孔子の弟子ではなく、孔子家の家事使用人だった(論語の人物:曽参子輿)。従って実在はしたのだろうが、現在伝えられている名前だったとは考えにくい。

本名とあざ名は、『史記』弟子伝によると曾テン子皙。蒧は草の名であり、あざ名の皙”色白”と対応しない。『論語集釋』の紹介する『史記』の異本によると曾𪒹カン子皙とあり、𪒹とは”色黒”。イシダイじゃあるまいし、白黒だんだら模様の顔なんてあるもんですか。

曽点
下掲『孔子家語』によると、曽子が瓜畑の世話をしていて、うっかり蔓を切ってしまった所、クワで意識不明になるまでぶん殴ったというサド親父。これは事実かも知れない。サドの子はサドになる。曽子は孔子没後、子夏を恐喝して金をせびり、偉そうな説教ばかりして過ごした。

その曽子の本名とあざ名も曾シン輿であり、参”かんざし”と輿”お神輿・大地”とは全然関係がない。後世の儒者が「大地の如き尊厳ある大先生」のつもりで奉った尊称である。だが論語の描く春秋時代、人は全てあざ名を持つわけではなく、士分以上に限られた。曽子父子のあざ名のいい加減さは、要するに二人とも、士族でも孔子の弟子でもなかったことを証している。

曽 甲骨文 曽 語釈
(甲骨文)

「曾」の新字体は「曽」。初出は甲骨文。字形は蒸し器のせいろうの象形で、だから”かさねる”の意味がある。「かつて」・「すなはち」など副詞的に用いるのは仮借で、西周の金文以降、その意味が現れたため、「ショウ」”こしき”の字が作られた。「甑」の初出は前漢の隷書。詳細は論語語釈「曽」を参照。

皙 篆書 皙 字解
(篆書)

「皙」の初出は後漢の説文解字。論語では本章のみに登場。訓は「はだがしろい」。戦国最末期「睡虎地秦簡」では「析」の字形を「皙」と釈文し”白い”の意に用いた例がある。字形は「析」”薪を割る”+「白」。薪の白い木肌のさま。同音は「錫」、「析」”裂く”、「裼」”肩脱ぐ”、「緆」”細布”、「淅」”米をとぐ”。文献上では論語のほか『孟子』に曽子の父の名として見える。『春秋左氏伝』にも用例があり、”白い”と解せる。詳細は論語語釈「皙」を参照。

冉有(ゼンユウ)

論語 冉求 冉有

孔子の弟子、冉求子有のあざ名。子路が孔子の亡命前に季孫家の執事を務めたのと同様、孔子放浪中に帰国して季孫家の執事として仕え、孔子の帰国工作を行った。実務に優れ、政戦両略の才があった。「政事は冉有、子路」とおそらく子によって論語先進篇2に記された、孔門十哲の一人。詳細は論語の人物:冉求子有を参照。

冉 甲骨文 冉 字解
「冉」(甲骨文)

「冉」は日本語に見慣れない漢字だが、中国の姓にはよく見られる。初出は甲骨文。同音に「髯」”ひげ”。字形はおそらく毛槍の象形で、原義は”毛槍”。春秋時代までの用例の語義は不詳だが、戦国末期の金文では氏族名に用いられた。詳細は論語語釈「冉」を参照。

有 甲骨文 有 字解
(甲骨文)

「有」の初出は甲骨文。ただし字形は「月」を欠く「㞢」または「又」。字形はいずれも”手”の象形。原義は両腕で抱え持つこと。詳細は論語語釈「有」を参照。

公西華(コウセイカ)

論語 公西赤

BC509?ー?。孔子の弟子。姓は公西、名は赤、字は子華。論語の本章ではあざ名で呼んでおり敬称。見た目が立派で外交官に向いていると孔子に評された。詳細は論語の人物:公西赤子華を参照。

公 甲骨文 公 字解
「公」(甲骨文)

「公」の初出は甲骨文。字形は〔八〕”ひげ”+「口」で、口髭を生やした先祖の男性。甲骨文では”先祖の君主”の意に、金文では原義、貴族への敬称、古人への敬称、父や夫への敬称に用いられ、戦国の竹簡では男性への敬称、諸侯への呼称に用いられた。詳細は論語語釈「公」を参照。

西 甲骨文 西 字解
(甲骨文)

「西」の初出は甲骨文。字形は西日が差す日暮れになって鳥が帰る巣の象形と言われる。呉音では「サイ」。春秋末期までに、”にし”の意に用いた。詳細は論語語釈「西」を参照。

華 金文 華 字解
「華」(金文)

「華」の初出は西周早期の金文。字形は満開に咲いた花を横から描いた象形で、原義は”花”。金文では地名・国名・氏族名・人名に用いた。詳細は論語語釈「華」を参照。

侍(シ)

論語 侍 金文 侍 字解
(金文)

論語の本章では(貴人の)”近くに待機する”。初出は西周中期の金文。ただし字形は「𢓊」。現行字形の初出は秦系戦国文字。原義は”はべる”。「ジ」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)。春秋末期までに、”はべる”・”列席する”の意に用いた。詳細は論語語釈「侍」を参照。

坐*(サ)

坐 楚系戦国文字 坐 字解
(楚系戦国文字)

論語の本章では”座る場所”。初出は甲骨文とされるが字形がまるで違う。その後は戦国文字まで絶えており、殷周革命で一旦失われた漢語と解するのが理に叶う。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。甲骨文の字形は「㔾」”跪いた人”+「因」”敷物”。楚系戦国文字の字形は「月」”肉体”+「土」。秦系戦国文字では上半分が背中合わせの「月」。同音は「痤」”腫れ物”のみ。「ザ」は呉音。戦国時代から、”すわる”・”連座する”の意に用いた。論語の時代の”すわる”は、おそらく「居」と言った。詳細は論語語釈「坐」を参照。

子曰(シエツ)(し、いわく)

君子 諸君 孔子

論語の本章では”孔子先生が言った”。「子」は貴族や知識人に対する敬称で、論語では多くの場合孔子を指す。この二文字を、「し、のたまわく」と読み下す例がある。「言う」→「のたまう」の敬語化だが、漢語の「曰」に敬語の要素は無い。古来、論語業者が世間からお金をむしるためのハッタリで、現在の論語読者が従うべき理由はないだろう。

曰 甲骨文 曰 字解
(甲骨文)

「曰」は論語で最も多用される”言う”を意味することば。初出は甲骨文。原義は「𠙵」=「口」から声が出て来るさま。詳細は論語語釈「曰」を参照。

以(イ)

以 甲骨文 以 字解
(甲骨文)

論語の本章、「毋吾以也」では”用いる”→”操って思うままにする”。「則何以哉」では”用いる”→”行動する”。その他は”用いる”→”…を手段として”。初出は甲骨文。人が手に道具を持った象形。原義は”手に持つ”。論語の時代までに、名詞(人名)、動詞”用いる”、接続詞”そして”の語義があったが、前置詞”~で”に用いる例は確認できない。ただしほとんどの前置詞の例は、”用いる”と動詞に解せば春秋時代の不在を回避できる。詳細は論語語釈「以」を参照。

吾(ゴ)

吾 甲骨文 吾 字解
(甲骨文)

論語の本章では”わたし”。初出は甲骨文。字形は「五」+「口」で、原義は『学研漢和大字典』によると「語の原字」というがはっきりしない。一人称代名詞に使うのは音を借りた仮借だとされる。詳細は論語語釈「吾」を参照。

春秋時代までは中国語にも格変化があり、一人称では「吾」を主格と所有格に用い、「我」を所有格と目的格に用いた。しかし論語でその文法が崩れ、「我」と「吾」が区別されなくなっている章があるのは、後世の創作が多数含まれているため。

一(イツ)

一 甲骨文 一 字解
(甲骨文)

論語の本章では、”ひとつ分”。「イチ」は呉音。初出は甲骨文。重文「壹」の初出は戦国文字。字形は横棒一本で、数字の”いち”を表した指事文字。詳細は論語語釈「一」を参照。

日(ジツ)

日 甲骨文 日 字解
(甲骨文)

論語の本章では”ひにち”。初出は甲骨文。「ニチ」は呉音。原義は太陽を描いた象形文字。甲骨文から”昼間”、”いちにち”も意味した。詳細は論語語釈「日」を参照。

長(チョウ)

長 甲骨文 長 字解
(甲骨文)

論語の本章では”長い”。長く生きた、ということ。初出は甲骨文。字形は冠をかぶり、杖を突いた長老の姿で、原義は”長老”。甲骨文では地名・人名に、金文では”長い”の意に用いられた。詳細は論語語釈「長」を参照。

乎(コ)

乎 甲骨文 乎 字解
(甲骨文)

論語の本章では、「に」と読んで”…と比較して”の意。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。字形は持ち手の柄を取り付けた呼び鐘を、上向きに持って振り鳴らし、家臣を呼ぶさまで、原義は”呼ぶ”こと。甲骨文では”命じる”・”呼ぶ”を意味し、金文も同様で、「呼」の原字となった。句末の助辞として用いられたのは、戦国時代以降になるという。詳細は論語語釈「乎」を参照。

爾(ジ)→壐(ジ)

爾 甲骨文 爾 字解
(甲骨文)

論語の本章では”お前”。また熟語「率爾」として”そのようであるさま”。初出は甲骨文。字形は剣山状の封泥の型の象形で、原義は”判(を押す)”。のち音を借りて二人称を表すようになって以降は、「土」「玉」を付して派生字の「壐」「璽」が現れた。甲骨文では人名・国名に用い、金文では二人称を意味した。詳細は論語語釈「爾」を参照。

壐 秦系戦国文字 壐 字解
(秦系戦国文字)

定州竹簡論語の「壐」の初出は斉系戦国文字。ただし字体は「鉨」。現行字体の初出は秦戦国文字。下が「玉」になるのは後漢の『説文解字』から。字形は「爾」”はんこ”+「土」または「玉」で、前者は封泥、後者は玉で作ったはんこを意味する。部品の「爾」が原字。「璽」は異体字。同音は無い。戦国最末期「睡虎地秦簡」の用例で”印章”と解せる。論語時代の置換候補は部品の「爾」。詳細は論語語釈「壐」を参照。

毋(ブ)・無(ブ)

毋 金文 毋 母 字解
(金文)

論語の本章では”…ない”。否定の辞。定州竹簡論語・唐石経はこの「毋」字で記す。現行書体の初出は戦国文字で、無と同音。春秋時代以前は「母」と書き分けられておらず、「母」の初出は甲骨文。「毋」と「母」の古代音は、頭のmが共通しているだけで似ても似付かないが、「母」məɡ(上)には、”暗い”の語義が甲骨文からあった。詳細は論語語釈「毋」を参照。

無 甲骨文 無 字解
(甲骨文)

清家本は「無」と記す。初出は甲骨文。「ム」は呉音。甲骨文の字形は、ほうきのような飾りを両手に持って舞う姿で、「舞」の原字。その飾を「某」と呼び、「某」の語義が”…でない”だったので、「無」は”ない”を意味するようになった。論語の時代までに、”雨乞い”・”ない”の語義が確認されている。戦国時代以降は、”ない”は多く”毋”と書かれた。詳細は論語語釈「無」を参照。

論語の伝承について詳細は「論語の成立過程まとめ」を参照。

原始論語?…→定州竹簡論語→白虎通義→
             ┌(中国)─唐石経─論語注疏─論語集注─(古注滅ぶ)→
→漢石経─古注─経典釈文─┤ ↓↓↓↓↓↓↓さまざまな影響↓↓↓↓↓↓↓
       ・慶大本  └(日本)─清家本─正平本─文明本─足利本─根本本→
→(中国)─(古注逆輸入)─論語正義─────→(現在)
→(日本)─────────────懐徳堂本→(現在)

也(ヤ)

也 金文 也 字解
(金文)

論語の本章では、「毋吾以也」では「や」と読んで詠嘆、”…であれよ”。「不吾智也」も詠嘆、「かな」と読んで詠嘆”…だなあ”の意。「且𣉻方也」も詠嘆、「や」または「なり」と読んで”してみせますぞ”の意。「なり」と読む断定の語義は春秋時代では確認できない。

初出は事実上春秋時代の金文。字形は口から強く語気を放つさまで、原義は”…こそは”。春秋末期までに句中で主格の強調、句末で詠歎、疑問や反語に用いたが、断定の意が明瞭に確認できるのは、戦国時代末期の金文からで、論語の時代には存在しない。詳細は論語語釈「也」を参照。

居(キョ)

居 金文 居 字解
(金文)

論語の本章では”座る”→”座って何事もせず日を過ごす”。ぼんやりと時間を過ごすこと。初出は春秋時代の金文。字形は横向きに座った”人”+「古」で、金文以降の「古」は”ふるい”を意味する。全体で古くからその場に座ること。詳細は論語語釈「居」を参照。

則(ソク)

則 甲骨文 則 字解
(甲骨文)

論語の本章では、”…すれば必ず…”。初出は甲骨文。字形は「テイ」”三本脚の青銅器”と「人」の組み合わせで、大きな青銅器の銘文に人が恐れ入るさま。原義は”法律”。論語の時代=金文の時代までに、”法”・”のっとる”・”刻む”の意と、「すなわち」と読む接続詞の用法が見える。詳細は論語語釈「則」を参照。

不(フウ)

不 甲骨文 不 字解
(甲骨文)

漢文で最も多用される否定辞。初出は甲骨文。「フ」は呉音、「ブ」は慣用音。原義は花のがく。否定辞に用いるのは音を借りた派生義だが、甲骨文から否定辞”…ない”の意に用いた。詳細は論語語釈「不」を参照。

知(チ)→智/𣉻(チ)

知 智 甲骨文 知 字解
(甲骨文)

論語の本章では”知る”。現行書体の初出は春秋早期の金文。春秋時代までは「智」と区別せず書かれた。甲骨文で「知」・「智」に比定されている字形には複数の種類があり、原義は”誓う”。春秋末期までに、”知る”を意味した。”知者”・”管掌する”の用例は、戦国時時代から。詳細は論語語釈「知」を参照。

定州竹簡論語は、普段は「智」の異体字「𣉻」と記す。本章では子路の台詞部分だけ「𣉻」と記す。二つの字形の違いによる、語義の違いは知る手がかりがぜんぜん無い。いずれ漢儒のもったい付けで、大きな寺の坊主が読み上げている経本が、たいていキンキラキンに飾られているのと同じ、大した理由はありそうに無い。

通例、清家本は「知」と記し正平本も「知」と記す。文字的には論語語釈「智」を参照。

如(ジョ)

如 甲骨文 如 字解
「如」(甲骨文)

論語の本章では”もしも”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。字形は「口」+「女」。甲骨文の字形には、上下や左右に部品の配置が異なるものもあって一定しない。原義は”ゆく”。詳細は論語語釈「如」を参照。

或(コク)

或 甲骨文 或 字解
(甲骨文)

論語の本章では”ある者”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。「ワク」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)。甲骨文の字形は「戈」”カマ状のほこ”+「𠙵」”くち”だが、甲骨文・金文を通じて、戈にサヤをかぶせた形の字が複数あり、恐らくはほこにサヤをかぶせたさま。原義は不明。甲骨文では地名・国名・人名・氏族名に用いられ、また”ふたたび”・”地域”の意に用いられた。金文・戦国の竹簡でも同様。詳細は論語語釈「或」を参照。

何(カ)

何 甲骨文 何 字解
(甲骨文)

論語の本章では”なに”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。字形は「人」+”天秤棒と荷物”または”農具のスキ”で、原義は”になう”。甲骨文から人名に用いられたが、”なに”のような疑問辞での用法は、戦国時代の竹簡まで時代が下る。詳細は論語語釈「何」を参照。

哉(サイ)

𢦏 金文 哉 字解
(金文)

論語の本章では”…か”。疑問の意を示す。この語義は春秋時代では確認できない。初出は西周末期の金文。ただし字形は「𠙵」”くち”を欠く「𢦏サイ」で、「戈」”カマ状のほこ”+「十」”傷”。”きずつく”・”そこなう”の語釈が『大漢和辞典』にある。現行字体の初出は春秋末期の金文。「𠙵」が加わったことから、おそらく音を借りた仮借として語気を示すのに用いられた。金文では詠歎に、また”給与”の意に用いられた。戦国の竹簡では、”始まる”の意に用いられた。詳細は論語語釈「哉」を参照。

率爾(ソツジ)→率壐(ソツジ)

論語の本章では”あわただしく”。この語義は春秋時代では確認できない。論語では本章のみに登場。「爾」を「壐」に書き換えたのは漢儒のもったい付けで、何の意味も無い。上掲の通り「爾」の原義は”はんこ”であり、カールグレン上古音はȵi̯ăr(上)。”そうであるさま”の意は、カールグレン上古音で近音の「然」ȵi̯an(平)の空耳アワーでしかない。また「然」がこの語義を獲得するのは戦国時代であり、論語の時代の漢語ではない。論語語釈「然」も参照。

江戸落語や時代劇でお侍が「率爾ながら尋ね申す」と言っているのは、当時の落語作者などが論語を読んでいたことを思わせるのだが、同時に「論語の言葉を使うと武士らしく聞こえる」という演出でもある。”いきなりこんな事を尋ねて申し訳ありませんが…”の意。

論語の本章で子路についてこの表現を用いたのは、子路筋肉ダルマ説にどっぷり浸かったもので、この説を嬉しがる漢儒とは異なり、史実の子路は血気盛んではあったがやり手の行政家で、「率爾」に事を行うような男が、衛霊公に押し付けられた難治のまちを治められるはずがない。詳細は論語の人物:仲由子路を参照。

率 甲骨文 率 字解
(甲骨文)

「率」は論語では本章のみに登場。初出は甲骨文。動詞・形容詞での漢音は「ソツ」、呉音は「シュチ」。名詞”わりあい・きまり”での漢音は「リツ」、呉音は「リチ」。名詞”かしらだつもの”での漢音は「スイ」、呉音も同じ。甲骨文では”引く”の意で用い、以降戦国末期まで”引く”系統の語義しか確認できない。論語の本章のような形容詞的用法は、”いきなり”の意味で本来「卒」と書くべき所を、漢帝国の儒者がもったいを付けて「率」と書き、古くさく見せたのであり、悪質な誤字の一種と言ってよい。詳細は論語語釈「率」を参照。

而(ジ)

唐石経を祖本とする現伝論語では、「率爾」と「對」の間に「而」字を記すが、定州竹簡論語は記さない。従って「而」字を無いものとして校訂した。

而 甲骨文 而 解字
(甲骨文)

論語の本章では”それなのに”。初出は甲骨文。原義は”あごひげ”とされるが用例が確認できない。甲骨文から”~と”を意味し、金文になると、二人称や”そして”の意に用いた。英語のandに当たるが、「A而B」は、AとBが分かちがたく一体となっている事を意味し、単なる時間の前後や類似を意味しない。詳細は論語語釈「而」を参照。

對(タイ)

対 甲骨文 対 字解
(甲骨文)

論語の本章では”回答する”。初出は甲骨文。新字体は「対」。「ツイ」は唐音。字形は「サク」”草むら”+「又」”手”で、草むらに手を入れて開墾するさま。原義は”開墾”。甲骨文では、祭礼の名と地名に用いられ、金文では加えて、音を借りた仮借として”対応する”・”応答する”の語義が出来た。詳細は論語語釈「対」を参照。

千乘之國(センショウのくに)

乗 戦車 字解

論語の本章では”戦車千両を動員できる国”→”諸侯国”。”大国”と解すると春秋時代の語義から外れるばかりか、文意も通じない。

孔子の生前、生国の魯でも千両程度の戦車は持っており、その保有国を”大国”と見なす考えは無い。孔子の生前「大国」と言えば、まず黄河文明の覇者である北方の晋、対となる長江文明の盟主である南方の楚で、あとはかつて覇者を出した東方の斉が数に入るだけ。のちに天下統一を果たす秦は西方で威勢がいいだけ、「鮒じゃ鮒じゃ」と松の廊下でバカにされない程度の田舎大名に過ぎない。

文献上で「千乘之國」=”大国”の風味﹅﹅を言い出したのは孔子没後一世紀に現れた孟子だが、「万乗の国」に次ぐ規模の国として述べており、必ずしも”大国”のつもりで言ったとは限らない。

…上下交征利而國危矣。萬乘之國弒其君者,必千乘之家;千乘之國弒其君者,必百乘之家。

孟子
…(孟子が梁の恵王に説教した。)殿さま、よろしゅうございますか。殿さまも家来も自分勝手に欲をむき出しにするから、国が危うくなるのですぞ。その結果、隙あらば万乗の国を奪ってやろうと千乗の家臣がたくらみ、千乗の国を奪ってやろうと百乗の家臣がたくらむ世の中になってしまいました。殿さまも首をちょん切られたくなかったら、よぉくそのあたりをお考えになって下さい。(『孟子』梁恵王上)

春秋戦国の世で最大規模の国と言えば周王朝、それに次ぐ規模の国と言えば諸侯にほかならないから、”諸侯”を口じゃみせんで”千乗の国”と言い換えただけと解した方がいい。

千乘は大國也(『論語集解義疏』本章の「疏」)

対して漢儒は無考えなまま「千乘」→”大国”だと言い回った(『小載礼記』坊記篇など)。論語の本章に古注の付け足し(疏)を書き付けた南北朝の儒者も、本文がこのあと「大國の閒にはさまり」とあるのをまじめに読まず、やはり無考えなまま”大国”と記した。

論語の本章、この部分は次のようになっており、「千乘之國」が「大國之閒」に「攝る」と解さないと文意が通じない。中国語は古来SVO構造の言語だからだ。

千乘之國(S)、(V)乎大國之閒(O)、加之以師旅、因之以饑饉 外字(=饉)

また「千乘」=「大國」になるなら、”大国が大国に挟まって、そこに軍事攻撃を加え、饑饉に苦しめられる”と解するしか無いが、大国同士が国力に任せて好き勝手な抗争をしているところへ、孔門の重鎮である子路がのこのこやってきて、手助けしてやる必要がどこにあるだろうか。

おそらく本章を偽作した漢儒の腹づもりでは、子路はすぐに出しゃばる、いかつい筋肉ダルマなのだが、それでも孔子一門が大国に手を貸してやる絵図は描いていなかったはずで、弱きを助け強きをくじく正義の味方であらねばならない。古注儒者の不真面目がどこまでひどいかお分かりだろうか。

なお「千乘之國」について詳細は、論語学而篇5語釈も参照。

千 甲骨文 千 字解
(甲骨文)

「千」の初出は甲骨文。字形は「人」+「一」で、原義は”一千”。古代は「人」ȵi̯ĕn(平)で「一千」tsʰien(平)を表した。従って「人」に「三」や「亖」を加えて三千や四千を示した例がある。論語の時代までに、”多い”をも意味するようになった。詳細は論語語釈「千」を参照。

乗 甲骨文 乗 字解
(甲骨文)

「乘」の初出は甲骨文。新字体は「乗」。「ジョウ」は呉音。甲骨文の字形は人が木に登ったさまで、原義は”のぼる”。論語の時代までに、原義に加えて人名、”乗る”、馬車の数量詞、数字の”四”に用いられた。詳細は論語語釈「乗」を参照。

之 甲骨文 之 字解
(甲骨文)

「之」の初出は甲骨文。字形は”足”+「一」”地面”で、あしを止めたところ。原義はつま先でつ突くような、”まさにこれ”。殷代末期から”ゆく”の語義を持った可能性があり、春秋末期までに”~の”の語義を獲得した。詳細は論語語釈「之」を参照。

国 甲骨文 漢高祖劉邦
(甲骨文)

「國」の新字体は「国」。初出は甲骨文。字形はバリケード状の仕切り+「口」”人”で、境界の中に人がいるさま。原義は”城郭都市”=ユウであり、春秋時代までは、城壁外にまで広い領地を持った”くに”ではない。詳細は論語語釈「国」を参照。

加えて恐らくもとは「邦」と書かれていたはずで、漢帝国になって高祖劉邦のいみ名を避ける(避諱ヒキ)ため、当時では同義になっていた「國」に書き換えたのが、そのまま元に戻らず現伝していると考えられる。詳細は論語語釈「邦」を参照。

攝(ショウ)

摂 隷書 攝 字解
(隷書)

論語の本章では”はさまる”。間に存在すること。新字体は「摂」。「セツ」は慣用音。初出は前漢の隷書で、論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。同音に「葉」があり、『大漢和辞典』は”おさえる・あつめる”の語釈を載せる。ただし物証として漢代の帛書以前にその語義は確認できない。字形は「扌」+「聶」”とる”で、物事を手に取るさま。原義は”とる”。部品の「聶」の初出は楚系戦国文字。詳細は論語語釈「摂」を参照。

大(タイ)

大 甲骨文 大 字解
(甲骨文)

論語の本章では”大きな”。初出は甲骨文。字形は人の正面形で、原義は”成人”。甲骨文から”大きい”・”成人”の意に用いた。「ダイ」は呉音。詳細は論語語釈「大」を参照。

閒(カン)

間 金文 間 字解
(金文)

論語の本章では”あいだ”。この語義は春秋時代では確認できない。新字体は「間」。ただし唐石経も清家本も新字体と同じく「間」と記す。ただし文字史からは旧字「閒」を正字とするのに理がある。「ケン」は呉音。初出は西周末期の金文。字形は「門」+「月」で、門から月が見えるさま。原義はおそらく”かんぬき”。春秋までの金文では”間者”の意に、戦国の金文では「縣」(県)の意に用いた。詳細は論語語釈「間」を参照。

加(カ)

加 金文 加 字解
(金文)

論語の本章では”付け加える”→”送りつける”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は西周早期の金文。字形は「又」”右手”+「𠙵」”くち”。人が手を加えること。原義は”働きかける”。金文では人名のほか、「嘉」”誉める”の意に用いた。詳細は論語語釈「加」を参照。

師(シ)

師 甲骨文 師 字解
(甲骨文)

論語の本章では”軍隊”。初出は甲骨文。甲骨文は部品の「𠂤タイ」の字形と、すでに「ソウ」をともなったものとがある。字形の「𠂤」は兵糧を縄で結わえた、あるいは長い袋に兵糧を入れて一食分だけ縛ったさま。原義は”出征軍”。「帀」の字形の由来と原義は不明だが、おそらく刀剣を意味すると思われる。全体で兵糧を担いだ兵と、指揮刀を持った将校で、原義は”軍隊”。日本語での「師団」とはその用法。甲骨文の段階ではへんの𠂤だけでも”軍隊”を意味した。それが”教師”の意に転じた理由は、『学研漢和大字典』では明確でなく、『字通』では想像が過ぎる。”将校”→”指導者”と考えるのが素直と思う。甲骨文の語義は不明。金文では原義の他、教育関係の官職名に、また人名に用いられたという。さらに甲骨文・金文では、”軍隊”の意ではおもに「𠂤」が用いられ、金文でははじめ「師」をおもに”教師”の意に用いたが、東周になると「帀」を”技能者”の意に用いた。詳細は論語語釈「師」を参照。

旅(リョ)

旅 甲骨文 論語 旅
「旅」(甲骨文)

論語の本章では、”軍隊”。初出は甲骨文。字形は「㫃」”旗やのぼり”+「人」二つ”大勢”で、旗印を掲げて多人数で出掛けるさま、軍隊の一単位。現代でも「旅団」という。金文の字形には、「人」が「車」になっているものがある。甲骨文では原義の”軍隊”、地名に用いた。金文では、”旅”・”携帯する”、”黒色”の意、地名・人名に用いた。戦国の竹簡では、”旅”の意に用いた。詳細は論語語釈「旅」を参照。

因(イン)

因 甲骨文 因 字解
(甲骨文)

論語の本章では”つならる”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。カールグレン上古音はʔi̯ĕn(平)。甲骨文の字形は「囗」”寝床”+「大」”人”だが、異形字体に寝床が掻い巻きや寝袋になっているものがある。原義は”床に就く”。甲骨文では”南方”を意味し、金文では西周中期に接続詞”…だから”の用例がある。ただし”…によって”の用例は、戦国時代の竹簡まで時代が下る。詳細は論語語釈「因」を参照。

近い字形に「困」”くるしむ”があり、もし「困」の誤字だとすると、論語の本章のこの部分は「困之以饑饉 外字」”その国を饑饉が苦しめ”と解せる。論語語釈「困」を参照。

この想像はまるまる宙に浮いては居ない。「因」の字は甲骨文→金文→戦国文字→文献時代と脈をつないだが、「困」の字は甲骨文のあと一旦絶え、戦国文字から再び見られるようになる。つまり孔子の生前、”困る”ことを「因」と記した可能性はかすかながらある。今後の発掘を待ちたい。

饑*(キ)・飢(キ)

饑 隷書 饑 字解
(隷書)

論語の本章では”穀物の不作”。定州本・唐石経はこの「饑」字で記す。初出は秦系戦国文字。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。字形は「食」+音符「幾」。同音は幾とそれを部品とする漢字群多数。初出の「睡虎地秦簡」為吏31に「衣食饑寒」とあり、”穀物が不足する”と解せる。文献上では論語の本章に次ぎ、戦国初期『墨子』七患篇に「五穀不收謂之饑」とあり、穀物が実らず収穫できないこと。戦国中期の『孟子』にも見られる。詳細は論語語釈「饑」を参照。

飢 隷書
(秦代隷書)

清家本は上古音で近音の「飢」と記す。初出は秦の隷書。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。カールグレン上古音の同音は存在しない。文献上の初出は春秋末期『孫子』。戦国初期『墨子』、中期『孟子』、末期『荀子』『韓非子』にも見られる。だがこれらの文字がいつ記されたかは分からない。詳細は論語語釈「飢」も参照。

饑→飢となったのは、上古音で「幾」ki̯ər(平)→「几」kǐei(上)ゆえだろう。字形的には系列を同じくしていない。音的には付属記号の違いを共通率半減、əとeも半減とみなすと、音素の共通率は50%トントンとなるだけで、声調も異なる。ただし◌̯(音節副音)と ̆(超短音)がどう違うのか、訳者には判じかねている。

饉*→饉 外字*(キン)

饉 金文 饑 字解
(金文)

論語の本章では”日照りで農作物が実らない”。初出は西周中期の金文。字形は「𩙿」(食)+「堇」で、「堇」は「𦰩」+「火」。雨乞いに失敗したみこを焼き殺す様。全体で”耕地の日照り”。定州竹簡論語では「𦰩」+「土」で、耕地が日照りで枯れ果てること。『大漢和辞典』にもなく、「饉」の異体字として扱う以外に方法が無い。初出の西周中期に金文から”不作”と解せる。論語の時代に存在が確認され、かつ”飢える”を意味しうる言葉だが、正確に言えば語義は”不作”であって”飢える”ではない。

由(ユウ)

論語の本章では、仲由子路のいみ名=本名。師の孔子に対しての自称であるため、へり下っていみ名を名乗っている。

由 甲骨文 由 字解
「由」(甲骨文)

「由」の初出は甲骨文。上古音は「油」と同じ。字形はともし火の象形だが、甲骨文では”疾病”の意で、また地名・人名に用いた。金文では人名に用いた。”よって”・”なお”・”すじみち”の意は、戦国時代の竹簡から。平芯の石油ランプが出来るまで、人間界では陽が落ちると事実上闇夜だったから、たしかに灯火に”たよる・したがう”しかなかっただろう。詳細は論語語釈「由」を参照。

爲(イ)

為 甲骨文 為 字解
(甲骨文)

論語の本章では”する”→”統治する”。新字体は「為」。字形は象を調教するさま。甲骨文の段階で、”ある”や人名を、金文の段階で”作る”・”する”・”~になる”を意味した。詳細は論語語釈「為」を参照。

比(ヒ)

比 甲骨文 比 字解
(甲骨文)

論語の本章では「ころあい」と読んで”時期”。…となったその後には、の意。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。字形は「人」二つ。原義は”ならぶ”。甲骨文では「妣」(おば)として用いられ、語義は”先祖のきさき”。また”補助する”・”楽しむ”の意に用いた。金文では人名・器名の他”ならべる”・”順序”の意に用いた。詳細は論語語釈「比」を参照。

及(キュウ)

及 甲骨文 及 字解
(甲骨文)

論語の本章では”~に達する”。初出は甲骨文。字形は「人」+「又」”手”で、手で人を捕まえるさま。原義は”手が届く”。甲骨文では”捕らえる”、”の時期に至る”の意で用い、金文では”至る”、”~と”の意に、戦国の金文では”~に”の意に用いた。詳細は論語語釈「及」を参照。

三年(サンデン)

論語の本章では”三年間”。「サンネン」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)。

三 甲骨文 三 字解
(甲骨文)

「三」の初出は甲骨文。原義は横棒を三本描いた指事文字で、もと「四」までは横棒で記された。「算木を三本並べた象形」とも解せるが、算木であるという証拠もない。詳細は論語語釈「三」を参照。

年 甲骨文 年 字解
(甲骨文)

「年」の初出は甲骨文。「ネン」は呉音。甲骨文・金文の字形は「秂」で、「禾」”実った穀物”+それを背負う「人」。原義は年に一度の収穫のさま。甲骨文から”とし”の意に用いられた。詳細は論語語釈「年」を参照。

可(カ)

可 甲骨文 可 字解
(甲骨文)

論語の本章では”~できる”。初出は甲骨文。字形は「口」+「屈曲したかぎ型」で、原義は”やっとものを言う”こと。甲骨文から”~できる”を表した。日本語の「よろし」にあたるが、可能”~できる”・勧誘”…のがよい”・当然”…すべきだ”・認定”…に値する”の語義もある。詳細は論語語釈「可」を参照。

使(シ)

使 甲骨文 使 字解
(甲骨文)

論語の本章では”~させる”。初出は甲骨文。甲骨文の字形は「事」と同じで、「口」+「筆」+「手」、口に出した事を書き記すこと、つまり事務。春秋時代までは「吏」と書かれ、”使者(に出す・出る)”の語義が加わった。のち他動詞に転じて、つかう、使役するの意に専用されるようになった。詳細は論語語釈「使」を参照。

勇(ヨウ)

勇 金文 勇 字解
(金文)

論語の本章では、”勇気がある”。現伝字形の初出は春秋末期あるいは戦国早期の金文。部品で同音同訓同調の「甬」の初出は西周中期の金文。「ユウ・ユ」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)。字形は「甬」”鐘”+「力」で、チンカンと鐘を鳴るのを聞いて勇み立つさま。詳細は論語語釈「勇」を参照。

且(シャ)

且 甲骨文 主 字解
(甲骨文)

論語の本章では”その上”。初出は甲骨文。字形は文字を刻んだ位牌。甲骨文・金文では”祖先”、戦国の竹簡で「俎」”まな板”、戦国末期の石刻文になって”かつ”を意味したが、春秋の金文に”かつ”と解しうる用例がある。詳細は論語語釈「且」を参照。

方(ホウ)

方 甲骨文 論語 方 字解
(甲骨文)

論語の本章では”(正しい)方法”。国の進むべき進路。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。字形は「人」+「一」で、字形は「人」+「一」で、甲骨文の字形には左に「川」を伴ったもの「水」を加えたものがある。原義は諸説あるが、甲骨文の字形から、川の神などへの供物と見え、『字通』のいう人身御供と解するのには妥当性がある。おそらく原義は”辺境”。論語の時代までに”方角”、”地方”、”四角形”、”面積”の意、また量詞の用例がある。”やっと”の意は戦国時代の「中山王鼎」まで下る。秦系戦国文字では”字簡”の意が加わった。詳細は論語語釈「方」を参照。

夫子(フウシ)

論語の本章では”孔子先生”。”父の如き人”の意味での敬称。

夫 甲骨文 論語 夫 字解
(甲骨文)

「夫」の初出は甲骨文。論語では「夫子」として多出。「夫」に指示詞の用例が春秋時代以前に無いことから、”あの人”ではなく”父の如き人”の意で、多くは孔子を意味する。「フウ」は慣用音。字形はかんざしを挿した成人男性の姿で、原義は”成人男性”。「大夫」は領主を意味し、「夫人」は君主の夫人を意味する。固有名詞を除き”成人男性”以外の語義を獲得したのは西周末期の金文からで、「敷」”あまねく”・”連ねる”と読める文字列がある。以上以外の語義は、春秋時代以前には確認できない。詳細は論語語釈「夫」を参照。

哂*(シン)

哂 隷書 哂 字解
(隷書)

論語の本章では”嘲り笑う”。口を膨らませ、歯茎を見せてあざけり笑うこと。論語では分割前の本章のみに登場。初出は不明。戦国時代の資料にもないが、時代が下っても『定州竹簡論語』より新しくはない。論語時代の置換候補はない。字形は「口」+音符「西」。同音に「娠」”はらむ”、「矧」”いわんや・ながい・はぐき”。「矧」の初出は後漢の隷書。”矢を矧ぐ”は日本語だけの語義。漢代の『礼記』曲礼上篇に「笑不至矧」とあるので、おそらく漢代の言葉だろう。詳細は論語語釈「哂」を参照。

孔子は「気にせず望みを言いなさい」と言っておきながら、子路が正直に答えるとあざけった、というのである。実に悪質な捏造と言ってよい。藤堂博士は真面目な人だから、一生懸命この漢字の語義を鹿爪らしく仕立てようとしているが、成功しているとは言えない。

藤堂明保
先生は(相変わらず威勢のよいことよとて)口から息をもらして笑われた。(藤堂明保『論語』)

前漢に限らず儒者は、箸と筆と賄賂以上に重い物を持とうともしないひょろひょろどもで、子路のような武人を徹底的に見下した。本章の孔子がおよそまともな人間としてあり得ないような侮蔑をやらかしても、筋肉ダルマの子路が相手ならかまわないだろう、というわけである。

論語:付記

中国歴代王朝年表

中国歴代王朝年表(横幅=800年) クリックで拡大

本章(今回~論語先進篇末尾)は論語の中で最も長い章なので、分割して記す。

検証

論語の本章、今回部分は、前漢にならないと見られない言葉が複数含まれていることから、前漢以降の創作は確実で、しかも定州竹簡論語に含まれているから、前漢中期までには論語の一章として成立していた。創作者として最も疑わしいのは、論語の他章にも、いくつも偽作を混ぜ込んだ董仲舒だが、本章を董仲舒の手になるとまで断定は出来ない。

なお董仲舒については、論語公冶長篇24余話「人でなしの主君とろくでなしの家臣」を参照。

解説

今回から始まるこの長い章は、孔子の一番弟子である子路、曽子の父親である曽皙、孔子の高弟である冉有、有名弟子である公西華の四人に、孔子が各自の抱負を問い、曽皙の答えを一番と称揚した上に、曽皙との間で退出した他の三弟子の論評を語る筋立てになっている。

論語の本章が偽作である以上、その目的は曽皙を称揚することにあるのは子供でも分かるし、曽皙の子である曽子の流れを引くとする前漢儒の、自己正当化が最終目的なのは、まともな思考力のある人間なら誰にも分かる。また筋立てが、『孔子家語』致思第八(1)そっくりでもある。

だが曽皙は孔門として何ら実績を残していないし、息子の曽子も同様に実績が無い。対して三弟子は

という、当時の新興「君子」=役人としての実績が記録されている。もっとも公西華の実績には文字史上疑わしい点が無いではないが、記録皆無の曽子と比べればまだましな君子と言える。曽子は孔子との対話が1つしかなく(論語里仁篇15)、しかも後世の創作が確定しており、孔子の弟子とは言いがたい。その曽子が儒家の宗匠として貴ばれるようになった経緯については、論語の人物:曾参子輿を参照。

論語の本章、新古の注は次の通り。

古注『論語集解義疏』

子路曾晳註孔安國曰曾晳曾參父也名㸃也冉有公西華侍坐子曰以吾一日長乎爾無吾以也註孔安國曰言我問汝汝無以我長故難對也居則曰不吾知也註孔安國曰汝常居云人不知己也如或知爾則何以哉註孔安國曰如有用汝者則何以為治乎子路卒爾而對註卒爾先三人對也曰千乗之國攝乎大國之閒加之以師旅因之以饑饉註苞氏曰攝攝迫乎大國之閒也由也為之比及三年可使有勇且知方也註方義方也夫子哂之註馬融曰哂笑也


本文「子路曾晳」。
注釈。孔安国「曾晳は曾參の父であり、いみ名は㸃(=点)である。」

本文「冉有公西華侍坐子曰以吾一日長乎爾無吾以也」。
注釈。孔安国「わしはお前たちに問うのだが、わしが年長だからと言って遠慮してはならぬ、の意である。」

本文「居則曰不吾知也」。
注釈。孔安国「お前たちはいつも、他人が自分を理解しない=高く評価して官職に就かせないと言っている、の意である。」

本文「如或知爾則何以哉」。
注釈。孔安国「ある者がお前を官職に就けたらどのような方法で政治を行うかと聞いたのである。」

本文「子路卒爾而對」。
注釈。「卒爾とは、三人に先立って答えることである。」

本文「曰千乗之國攝乎大國之閒加之以師旅因之以饑饉」。
注釈。包咸「攝とは大国の間で力を加えて圧力を掛けられることである。」

本文「由也為之比及三年可使有勇且知方也」。
注釈。「方とは筋道の通った道のことである。」

本文。「夫子哂之」。
注釈。馬融「哂とは笑うことである。」

論語の本章、今回部分の古注で特徴的なのは、誰のものかわからない無記名の「註」があることで、註をまとめた三国魏初期の何晏が手にしたテキストで、すでに誰が書いた注釈か分からなくなっている可能性がある。古注の注記者のうち頻出の孔安国が、高祖劉邦の名を避諱しないなど実在性が疑わしいことを合わせ考えると、現伝の論語に偽作を多くねじ込んだ董仲舒が、匿名で書き込んだのではないかといらん想像をしたくなる。

なぜなら何晏は自分の編著として、注釈者を一々特定したかったはずで、その気なら「孔安国曰」としてしまってもよかったはずで、わざわざ不明のまま残したからには、不明であることが天下公然、いや不明でないと大勢が困ったはず。つまり儒家にとって開祖の言行録が、大部分武帝の腰巾着によるでっち上げとは言えなかったから、「董仲舒曰」とは書けなかったかもしれないのである。

ただ、無記名「註」の一般解釈は、編者の何晏が書き込んだと判断することで、人類史上、甘やかされて出来上がった人間がどこまで愚劣になるかの極致と言える何晏の注釈を、訳者はまじめに聞く気にならない。何晏の何たるかについては、論語郷党篇19余話「水を飲むな」を参照。

新注『論語集注』

子路、曾皙、冉有、公西華侍坐。坐,才臥反。皙,曾參父,名點。子曰:「以吾一日長乎爾,毋吾以也。長,上聲。言我雖年少長於女,然女勿以我長而難言。蓋誘之盡言以觀其志,而聖人和氣謙德,於此亦可見矣。居則曰:『不吾知也!』如或知爾,則何以哉?」言女平居,則言人不知我。如或有人知女,則女將何以為用也?子路率爾而對曰:「千乘之國,攝乎大國之間,加之以師旅,因之以饑饉;由也為之,比及三年,可使有勇,且知方也。」夫子哂之。乘,去聲。饑,音機。饉,音僅。比,必二反,下同。哂,詩忍反。率爾,輕遽之貌。攝,管束也。二千五百人為師,五百人為旅。因,仍也。穀不熟曰饑,菜不熟曰饉。方,向也,謂向義也。民向義,則能親其上,死其長矣。哂,微笑也。


本文。「子路、曾皙、冉有、公西華侍坐。」
坐は才-臥の反切で読む。皙は曾參の父で、あざな名は點。

本文。「子曰:以吾一日長乎爾,毋吾以也。」
長は上げ調子に読む。言葉の意味は、わしはお前たちより多少の年長者ではあるが、それに遠慮せずものを言え、ということ。たぶんこのように言うことで、言いたいだけいわせて志を観察しようとしたわけで、聖人の雰囲気を調和させる技術、へり下る精神が、ここにも見られるのである。

本文「居則曰:不吾知也!如或知爾,則何以哉?」
言葉の意味はこうである。お前たちは普段何かと、他人が自分を理解しない=高く評価しないと歎いている。もし理解者が現れたら、どのように役に立ってみせるのか。

本文「子路率爾而對曰:千乘之國,攝乎大國之間,加之以師旅,因之以饑饉;由也為之,比及三年,可使有勇,且知方也。」夫子哂之。
乘は尻下がりに読む。音は機である。饉の音は僅である。比は必-二の反切で読むこと、以下同じ。哂は詩-忍の反切で読む。率爾とは、軽々しく慌ただしいさまを言う。攝とは締め付けることである。二千五百人の兵団を師といい、五百人を旅という。因は”それによって”の意である。穀物が実らないのを饑といい、野菜が不作なのを饉という。方とは向うことである。つまり”正義の方角に向かう”と言ったのである。民が正義に従うようになれば、とりもなおさず目上を尊敬し、戦死を名誉と心得るようになる。哂とは、微笑むことである。

新注についても、いつも通り訳者はぜんぜん当てにしていないのだが(論語雍也篇3余話「宋儒のオカルトと高慢ちき」)、これもいつも通り読みやすいことは認める。ただ今回に限ると、「哂,微笑也」の解釈にはやや頭をひねった。

「微」の初出は甲骨文なのだが(論語語釈「微」)、原義は”繊細な美しさ”であり、「笑」の初出は楚系戦国文字(論語語釈「笑」)、「微笑」を”繊細で美しい笑み”というのは戦国時代以降の漢語。”かすかに”の語義は『孟子』滕文公下にも見えているから、宋代の「微笑」を”ほほえみ”と訳すのを不当とは言えない。

だが上掲語釈の通り、「哂」とは”歯茎を見せてせせら笑う”を意味する漢代の漢語であり、論語の本章を偽作した者はもちろん孔子に子路をあざ笑わせておとしめ、その分実在も怪しい曽皙を持ち上げようとしているのだが、新注を書いた朱子はぜんぜんそんなようには読み取っていない。

「聖人の気を和ませへりくだるの徳、此にもまた見るべき矣(なり)。」孔子が弟子をせせら笑うような陰険爺さんだとは思えなかったのである。漢儒も宋儒もカネのためなら平気ででっち上げをやる詐欺漢揃いだったが、本章のこの部分に限れば、宋儒の方が開祖を尊敬しているのが見て取れる。

余話

救いの女神

デカブリストの乱

ワシリー・フョードロビチ・ティム「元老院広場のデカブリスト」

現代社会で見られる「お釈迦さま」も「イエスさま」も、慈悲深そうな姿で描かれる。キリストとは救世主だけを意味するのではないそうだが(wiki)、正教会でスパスカヤспасскаяとは明確に”救世主の”の女性形で、明瞭に聖母を意味すると言える資料は手元にないが、クレムリンの時計塔はスパスカヤ塔という。

正教会にはあまたの慈悲深そうな聖母のイコンがあるから、それを見てスパスカヤを思い浮かべない正教徒はいないだろう。その信仰はあるいは尊いと言って差し支えないが、いわゆるデカブリストとして知られる連中は、中性で「スパセーニャ同盟サユース」Союз спасенияと自称していた。

もちろんデカブリストは男の集まりで、男性形で「スパスキー同盟」と言えるのに、わざわざ男でも女でもない集まり、と自称したわけ。ロシア語として表現そのものには違和感がないが、「そのうちどこからか救いが来るでしょう」の含意があり、決して「我らこそが祖国を救うのだ」という決意を含んだ言い方ではない。

デカブリストはソ連時代に、革命の先駆者としてめちゃくちゃに持ち上げられ、だいたい真っ赤に染まった日本の学界や教育界もそのように子供に教え込んだ。「子供にウソ教えやがったらただじゃおかないぞ」と言わんばかりの写真が残る(論語泰伯編19余話「こどもだまし教室」)、ケマル=アタテュルクが知れば真っ赤になって怒りそうな話だが、同業や類業者の四方八方、みんな真っ赤な人しかいなかったのだから、日本の教科書が持ち上げて書いたのも無理は無い(論語公冶長篇15余話「マルクス主義とは何か」)。

デカブリストの青年将校は、アレクサンドル1世の急逝に乗じて、何も知らない近衛の兵卒を首都中央に集結させて気勢を上げた。説得に向かったペテルブルク総督は将校のピストルに撃たれてしばらく後に死去したが、その直前、兵卒=人民に撃たれなかったのを知って喜んだという。

このように反乱はただ世間から浮いた貴族の思い込みだけが原動力で、兵はわけがわからぬまま立ち尽くしているうちに鎮圧された。デカブリストは後先考えないちゃらんぽらんや、動機がナポレオン戦争後の大軍縮*にあることを思えば、我が国の二二六事件と同じく、格好いい連中ではない。

*エカテリーナ2世の末年、ロシア陸軍の総兵力は40万だったという。次代パーヴェル1世の軍縮で35万ほどに削減された。しかしナポレオンのロシア遠征直前、次代アレクサンドル1世は戦争不可避とみてロシア陸軍の総兵力を72万人まで増やした。戦中にはさらに90万を超えたが、戦後はもちろん財政厳しく復員せねばならず、にわかで増えた若手将校には昇進が難しくなった。陸軍省は屯田兵制を進めて収拾を図ったが失敗した。その結果がデカブリストの乱だった。そもそもアレクサンドル自身が、父帝パーヴェル1世の軍縮に不満を募らせた青年将校のクーデターで即位した。「救いの同盟」は、山梨・宇垣軍縮やワシントン・ロンドン会議で昇進が難しくなって暴れ出した日本帝国陸海軍の青年将校と、反乱の動機がほぼ同じと訳者は睨んでいる。

さて史実の孔子は、お釈迦さまともイエスさまとも違い、長い間慈悲深い救済者を期待されなかった。面倒見の良い師匠ではあったが、時に弟子を政争のため切り捨てる冷酷さを持ち合わせていた(論語の人物:司馬耕子牛)。時代を隔てた弟子ながら、戦国末期の荀子は「鬼遣らいのお面のような顔をしていた」とひどいことを言っている(『荀子』非相)。

それでも「どうか遠慮無く日頃の抱負を言ってくれ」と言われてそのまま言ったら、「哂」=嘲り笑ったというのはサディストのすることで、要するに自分に自信が無い者のすることだ。同時代の誰より教養人で、塾で教えるほどには武芸の達人で、現代換算で111億円もの年俸があった(論語憲問篇20)孔子には無縁の話だから、論語の本章が前漢儒による偽作であるのは内容からも明らか。

その孔子像は温和な教師ではなく無慈悲な審判者で、本尊として担ぎ回る儒者にとっては、その方が都合が良かったに違いない。「恐れこそ神の本質なのだ」(「巨神兵東京に現わる」)。人は慈悲深い者を平気で踏みにじるが、恐ろしい者を裏切ることは出来ないとマキアベリも言った。

だが裏を返せば、論語の本章が偽作された前漢前半の時代、儒家の権威が低かったのを物語る。武帝の祖母が大の道家好きで、老子をバカにした儒者をイノシシの檻に閉じこめて決闘させたりしたのは(『史記』儒林伝)、孔子の権威も諸家の開祖の一人としてのそれに過ぎなかったからだ。

だが後漢になるとやや事情が変わる。開祖の光武帝が儒家マニアだったことから、儒家は諸家の筆頭の地位には収まった。役人の採用にも儒者らしさが求められた。当然、「こんなひどい人が教祖なんて」という声が上がっただろう。そこで困ったのが、後漢随一の儒者と讃えられた馬融だった。

馬融に智者らしい知性を求めるのがほとんど不可能であることは、後漢というふざけた帝国に記した通りだが、官界を上手く泳ぎ渡って学界のボスに収まった程度には、小知恵が回った。その結果が論語の本章今回部分の古注に記された、「哂とは笑なり」という馬融の言い訳になる。

馬融
実は「哂」の字は史書に限れば、先秦両漢のいずれにも見られない。ただし後漢初期に、古論語・魯論語・斉論語という出任せを言って後世を惑わせた王充が、別の所で次のように講釈している、

人有陰過,亦有陰善。有陰過,天怒殺之;如有陰善,天亦宜以善賞之。隆隆之聲,謂天之怒;如天之喜,亦哂然而笑。人有喜怒,故謂天喜怒。


(王充が雷談義をした。)人には人知れず悪事を働く者もおり、善根を積む者もいる。悪事を働いた者は天罰で(落雷が当たり)殺される。善根を積んだ者には亦宜(=たぶん)天のご褒美があろう。大きな雷鳴を、天の怒りという。だが天が喜んでいるなら、それは大口を開けて上から目線で笑っているのだ(哂然而笑)。人に喜怒の感情があるように、天にも喜怒の感情がある。(『論衡』雷虚)

「哂」の同音である「矧」”はぐき”は『漢書』にも『後漢書』にも見えるから、馬融が「哂」を”あざけりわらう”の意だと知らなかったはずは無い。ただ上掲王充の言い廻しから、「上から目線」ではあるが何かしら慈悲深い笑みのような解釈が出回っていたことを物語る。

ただし後漢の漢語として「哂」の慈悲深さがそれで確定する訳ではなく、後漢の「哂」の用例は、もう一つ『説文解字』の一本にあるものだけで、文意が通じず、おそらく「晒」”さらす”の誤字と思われる。その一本とは『四部叢刊初編』本で、誤字が多くて訳者も迷惑したことがある(論語郷党篇2余話「説悶怪事」)。

結局先秦両漢の「哂」として残るのは、あと一つ、戦国時代を通じて編まれたと思しき『列子』の一節のみで、もちろん”嘲り笑う”の意味で使っている。

昔者宋國有田夫,常衣縕黂,僅以過冬。暨春東作,自曝於日,不知天下之有廣廈隩室,綿纊狐狢。顧謂其妻曰:「負日之煊,人莫知者;以獻吾君,將有重賞。」里之富室告之曰:「昔人有美戎菽,甘枲莖芹萍子者,對鄉豪稱之。鄉豪取而嘗之,蜇於口,慘於腹,眾哂而怨之,其人大慚。子此類也。」

楊朱
むかし宋の国に田舎者の百姓がいて、寒くなってもほぐし麻の綿入れでようやく冬を越す生活をしていた。春になると畑仕事に出、陽に晒され汗水垂らして生き延びており、世の中に金持ちやお屋敷、絹の綿入れ*や毛皮のコートがあるのを知らなかった。その妻に語っていわく、「この世にお天道様ほど温かいものがあるのを人は知らない。ぜひ殿さまに野良に出るよう勧めて、たんまりと褒美を頂こう。」

さっそく出掛けようとするのを村の庄屋が止めた。「昔のことじゃが、野生えの豆やら野草やらを喰って、村の庄屋に”美味いから喰え”と言った者がおる。ためしに喰ってみた庄屋は口がゆがみ、腹を下した。そこで使用人など大勢で食わせた者を嘲り笑い、”よくもこんなものを”と怒り狂った。食わせた者は入る穴がないほど恥を掻いた。おまえさん、おんなじ目に遭うよ。」(『列子』楊朱16)


*綿花が中国に入ってくるのは宋代から。

結局後漢の漢語としての「哂」は語義が一つに絞れない。いかつい「孔子様」がやさしい「孔子さま」に変化するのは、上掲新注の通り、科挙によって儒家の制覇が確定した、宋代を待たねばならないのかもしれない。それでも儒者は権威の発行元を孔子に求めたのであり、救済を期待しなかった。

参考動画

デカブリストと二二六叛乱将校の愚劣を三つ言おうか。一つ。自分が人殺しをしている野蛮人の自覚がないこと。二つ。動機が我欲でしかないのが分からない無教養、もしくは中途半端な読書。三つ、むごいことをしながら、自分でない者に救いを求めるメルヘンだ。

『論語』先進篇:現代語訳・書き下し・原文
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