論語:原文・書き下し →項目を読み飛ばす
原文
子曰、「孟之反不伐、奔而殿、將入門、策其馬、曰、『非敢後也、馬不進也。』」
校訂
春秋左氏伝
孟之側後入,以為殿,抽矢策其馬曰,馬不進也。
定州竹簡論語
[子]曰:「孟之反不伐,賁a而[殿,將入門,策其馬,曰:『非]123……也,馬不進也。』」124
- 賁、今本作「奔」。
→子曰、「孟之反不伐、賁而殿、將入門、策其馬、曰、『非敢後也、馬不進也。』」
復元白文
※賁→奔・將→(甲骨文)・策→冊。論語の本章は、文末の也の字を断定で用いているなら、戦国時代以降の捏造の可能性がある。
書き下し
子曰く、孟之反伐らず。奔り而殿たり。將に門に入らむとして、其の馬に策ちて曰く、敢て後れたるに非ざる也、馬進まざる也(れば也)と。
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逐語訳
先生が言った。「孟之反は誇らない。敗走の際にしんがりを務めた。今にも門に入ろうとする時、その馬にムチを打って言ったのには、わざと遅れたのではない、馬が進まなかったのだよ、と。」
意訳
孟之反どのはあっぱれなサムライだ。魯国軍が敗れて敗走する際にしんがりを務め、攻めかかる敵を防いだが、やっと魯国の城門に入る頃になって、「わざとしんがりを務めたのではござらぬ。馬が走らなかっただけでござる」と言ったそうだ。
従来訳
先師がいわれた。――
「孟子反は功にほこらない人だ。敗軍の時に一番あとから退却して来たが、まさに城門に入ろうとする時、馬に鞭をあてて、こういったのだ。――自分は好んで殿の役をつとめたわけではないが、つい馬がいうことをきかなかったので。――」
現代中国での解釈例
孔子說:「孟之反不自誇,打仗撤退時,主動在後面掩護,剛進城門,他策馬快速通過歡迎隊伍,說:『不是我有膽走在最後,是馬跑不快』。」
孔子が言った。「孟之反は自慢しない。戦場で撤退するとき、中心となって後尾の援護を務め、やっと城門まで退いたとき、彼は馬に鞭打って迅速に歓迎する部隊を通り過ぎ、言った。”私は肝が太くて最後を進んだのではない。馬が速く走らなかったからだ”。」
論語:語釈 →項目を読み飛ばす
孟之反(モウシハン)
(金文)
魯国の貴族。おそらくは孟之側と同一人物。魯の哀公十一年(BC484)春、斉国が侵攻してきた際に出陣し、陳瓘・陳莊・涉泗と共に、孟武伯が率いる魯国右軍に戦車に乗って加わったが敗走した。その際矢を取ってムチとし、馬を打って疾走させた。
その際の発言が本章に当たる。『左伝』によれば、共にしんがりを務めた四人の内誰かの発言であり、時期も戦場でのことであって城門ではない。しかもこの時孔子は魯におらず、おそらく衛国で報告を受け取っただけに過ぎない。詳細は論語の人物:樊須子遅参照。
なお「孟」とは長男のことで、公族の長男が分家して名乗ることがある。論語語釈「孟」を参照。
伐
(金文)
論語の本章では、”武器=戈で人を脅すようにして誇ること”。『大漢和辞典』の第一義は”攻撃する”。詳細は論語語釈「伐」を参照。
奔(ホン)→賁
(金文)
論語の本章では、”吹き上がるように疾走すること”。「奔」は論語ではここだけに登場。
『学研漢和大字典』によると会意文字で、「大(ひと)+三つの止(あし)」。また上部を走の字と解し「走+二つの止(あし)」とみてもよい。ぱたぱたと急いではしるさまを示す。噴(ぷっとふき出す)と同系。勃(ボツ)(ぱっとおこる)・飛(ぱっととび出す)とも縁が近い、という。
『字通』によると会意文字で、夭(よう)+歮(しゆう)。夭は人の走る形で、歮は三止(趾(あし))。足早に奔る意を示すために、三止を加えた。〔説文〕十下に「走るなり」と訓し、「賁(ほん)の省聲なり。走と同意。倶に夭に從ふ」とするが、賁の従うところは賁飾(ひしょく)の形で、奔の従うところとその意象が異なる。金文に、祭事に従うことを「夙夜(しゆくや)奔走せよ」というのが例であり、奔走とはその際の足早な歩きかたをいう。女子には敏捷といい、敏・捷はいずれも髪飾りをした夫人が、祭事にいそしむ姿である。わが国では、祭事のときの歩きかたを「わしる」という、という。
「賁」は、カールグレン上古音でpiărと読んで”かざる”、bʰi̯wənと読んで”大きい”、pwənと読んで”走る”。pwənの同音に「奔」があり、置換候補となる。
殿
(金文)
論語の本章では音が「臀」(おしり)と通じ、”後ろ・最後”。論語での登場は本章のみ。カールグレン上古音はdhiənまたはtiən。前者の同音は殄”つくす・やむ”のみ。後者の同音は典”つかさどる”のみ。いずれにも”しんがり”の語釈は『大漢和辞典』に無い。
『大漢和辞典』の第一義は”大きな建物”。
『学研漢和大字典』によると会意兼形声文字で、左側は臀(デン)(しり)の原字で「尸(シ)(からだ、しり)+兀(こしかけ)+冂(台)」の会意文字。大きい尻をずっしりと台上に乗せたさまを示す。殿はそれを音符とし、殳(動詞の記号)をそえた字で、尻をむちでうつこと。
ただし、その音符の字はもとずっしりと大きく重いの意を含んでいるので、殿はずっしりと土台を構えた大きい建物の意に転用され、また、尻は人体の後部にあるため、しんがりをつとめるの意となった。
墩(トン)(ずっしりした土台)・豚(トン)(ずっしりと重いぶた)などと同系のことば、という。
『字通』によると会意文字。𡱂(とん)+殳(しゆ)。𡱂は臀(とん)の初文。人が丌(き)(牀几)に腰かけている形で、臀(しり)の部分を強調した字。殳はおそらく攴(ぼく)の意。殿は臀たたきの俗を示す字のようである。〔説文〕三下に「撃つ聲なり」とし、〔太平御覧、一七五〕に引く〔説文〕には「堂の高大なる者なり」とみえる。〔詩、小雅、采薇〕「天子の邦を殿(をさ)む」の〔毛伝〕に「鎭(しづ)むるなり」とあるのは、動詞の用法であるから、殿字の初義と関係があろう。殿堂の意は臀と関係があるべきではないから、あるいは㞟(でん)の字義であるかもしれない。〔説文〕八上に㞟を「偫(たくは)ふるなり」と訓するが、神尸の前に薦腆(せんてん)する意とみられ、その祀所を殿といい、堂というものと思われる、という。
策
(金文)
論語の本章では、『大漢和辞典』の第一義と同じく”ムチ”。論語での登場は本章のみ。初出は上掲戦国末期の金文で、論語の時代に存在しない。カールグレン上古音はtsʰĕk。同音の冊は、音通する文字として『大漢和辞典』が扱っている。
『学研漢和大字典』によると会意兼形声文字で、朿(シ)・(セキ)はとげの出た枝を描いた象形文字。刺(さす)の原字。策は「竹+〔音符〕朿(シ)(とげ)」で、ぎざぎざととがっていて刺激するむち。また竹札を重ねて端がぎざぎざとつかえる冊(短冊)のこと。
積(端がぎざぎざとするように重ねる)・朔(サク)(木をぎざぎざに並べたさく)などと同系のことば、という。
『字通』によると形声文字。声符は朿(し)。朿は責の声符、責に嘖・幘(さく)の声がある。朿は先のとがった長い木。〔説文〕五上に「馬の箠(むち)なり」という。〔論語、雍也〕「其の馬に策(むちう)つ」のように、動詞にも用いる。文字をしるす簡策の策は、冊が本字。冊は柵の初文であるが、のち簡策・編冊の意に用いる。策は簡策の意より策謀・籌策の意となった、という。
敢
(金文)
論語の本章では『大漢和辞典』の第一義と同じく”あえて・すすんで”。詳細は論語語釈「敢」を参照。
論語:解説・付記
既存の論語本では吉川本にも、論語と『左伝』の記載の違いを記す。
上記樊遅のリンク先にも書いたが、この話にはおかしな所があって、中国の弓は日本で言う半弓であり、矢も短く軽い。軽いが例えばモンゴル騎兵の持つ弓は小さくとも、遠距離を飛び高い貫通力を持つ。
戦車から半弓の矢を差し出した所で、馬の尻に届くはずがない(図は兵馬俑出土の実測値で作製)。これは戦場を知らない儒者の創作と思われるが、もう一つ『春秋左氏伝』の筆者左丘明が盲人だったと言われる証拠になるかも知れない。見えないものは、想像して書くしかない。
コメント
[…] 將入門、策其馬曰、非敢後也、馬不進也。(『論語』雍也) 〔將に門に入らんとして、其の馬に策て曰く、敢えて後るるに非る也、馬進ま不れば也、と。〕 […]