論語:原文・書き下し
原文(唐開成石経)
子曰孟之反不伐奔而殿將入門策其馬曰非敢後也馬不進也
校訂
諸本
- 春秋左氏伝武英殿十三經注疏本:「孟之側後入,以為殿,抽矢策其馬曰,馬不進也。」
東洋文庫蔵清家本
子曰孟之反不伐/奔而殿將入門策其馬曰非敢後也馬不進也
後漢熹平石経
(なし)
定州竹簡論語
[子]曰:「孟之反不伐,賁a而[殿,將入門,策其馬,曰:『非]123……也,馬不進也。』」124
- 賁、今本作「奔」。
標点文
子曰、「孟之反不伐、賁而殿、將入門、策其馬、曰、『非敢後也、馬不進也。』」
復元白文(論語時代での表記)
策
※賁→奔・將→(甲骨文)。論語の本章は、「策」の字が論語の時代に存在しない。「伐」「殿」「也」「進」の用法に疑問がある。文体は戦国時代と見なすべく、ただし内容は史実と思われる。
書き下し
子曰く、孟之反伐ら不。賁り而殿たり。將に門に入らむとして、其の馬に策ちて曰く、敢て後れたるに非ざる也、馬進ま不れば也と。
論語:現代日本語訳
逐語訳
先生が言った。「孟之反は誇らない。敗走の際にしんがりを務めた。今にも門に入ろうとする時、その馬にムチを打って言ったのには、わざと遅れたのではない、馬が進まなかったのだよ、と。」
意訳
孟之反どのはあっぱれなサムライだ。魯国軍が敗れて敗走する際にしんがりを務め、攻めかかる敵を防いだが、やっと魯国の城門に入る頃になって、「わざとしんがりを務めたのではござらぬ。馬が走らなかっただけでござる」と言ったそうだ。
従来訳
先師がいわれた。――
「孟子反は功にほこらない人だ。敗軍の時に一番あとから退却して来たが、まさに城門に入ろうとする時、馬に鞭をあてて、こういったのだ。――自分は好んで殿の役をつとめたわけではないが、つい馬がいうことをきかなかったので。――」下村湖人『現代訳論語』
現代中国での解釈例
孔子說:「孟之反不自誇,打仗撤退時,主動在後面掩護,剛進城門,他策馬快速通過歡迎隊伍,說:『不是我有膽走在最後,是馬跑不快』。」
孔子が言った。「孟之反は自慢しない。戦場で撤退するとき、中心となって後尾の援護を務め、やっと城門まで退いたとき、彼は馬に鞭打って迅速に歓迎する部隊を通り過ぎ、言った。”私は肝が太くて最後を進んだのではない。馬が速く走らなかったからだ”。」
論語:語釈
子曰(シエツ)(し、いわく)
論語の本章では”孔子先生が言った”。「子」は貴族や知識人に対する敬称で、論語では多くの場合孔子を指す。「子」は赤ん坊の象形、「曰」は口から息が出て来るさま。「子」も「曰」も、共に初出は甲骨文。辞書的には論語語釈「子」・論語語釈「曰」を参照。
(甲骨文)
この二文字を、「し、のたまわく」と読み下す例がある。「言う」→「のたまう」の敬語化だが、漢語の「曰」に敬語の要素は無い。古来、論語業者が世間からお金をむしるためのハッタリで、現在の論語読者が従うべき理由はないだろう。
孟之反(モウシハン)
魯国の貴族。おそらくは孟之側と同一人物。ただし「反」のカールグレン上古音はpi̯wăn(上)に対し、「側」はtʂi̯ək(入)で、まるで違う。論語語釈「側」を参照。
『春秋左氏伝』によれば、孟之側は魯の哀公十一年(BC484)春、斉国が侵攻してきた際に出陣し、陳瓘・陳莊・涉泗と共に、孟武伯が率いる魯国右軍に戦車に乗って加わったが敗走した。その際矢を取ってムチとし、馬を打って疾走させた。
その際の発言が本章に当たる。共にしんがりを務めた四人の内誰かの発言であり、時期も戦場でのことであって城門ではない。しかもこの時孔子は魯におらず、おそらく滞在中の衛国で報告を受け取っただろう。詳細は論語の人物:樊須子遅参照。
「孟」(金文)
「孟」とは長男のことで、公族の長男が分家して名乗ることがある。初出は殷代末期の金文。字形は「皿」”たらい”+「子」で、赤子が産湯を使っているさま。原義は”長子”。男児に限らない。金文では原義に、”始まりの”、”四季の第一月”の意に用い、戦国の竹簡では地名に、印璽では氏族名に用いた。論語語釈「孟」を参照。
「之」(甲骨文)
「之」の初出は甲骨文。字形は”足”+「一」”地面”で、あしを止めたところ。原義はつま先でつ突くような、”まさにこれ”。殷代末期から”ゆく”の語義を持った可能性があり、春秋末期までに”…の”の語義を獲得した。詳細は論語語釈「之」を参照。
「反」(甲骨文)
「反」の初出は甲骨文。字形は「厂」”差し金”+「又」”手”で、工作を加えるさま。金文から音を借りて”かえす”の意に用いた。その他”背く”、”青銅の板”の意に用いた。詳細は論語語釈「反」を参照。
不(フウ)
(甲骨文)
漢文で最も多用される否定辞。初出は甲骨文。「フ」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)、「ブ」は慣用音。原義は花のがく。否定辞に用いるのは音を借りた派生義だが、甲骨文から否定辞”…ない”の意に用いた。詳細は論語語釈「不」を参照。
伐(ハツ)
(甲骨文)
論語の本章では”自慢する”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。「バツ」は慣用音。呉音は「ボチ」。字形は「人」+「戈」”カマ状のほこ”で、ほこで人の頭を刈り取るさま。原義は”首を討ち取る”。甲骨文では”征伐”、人の生け贄を供える祭礼名を意味し、金文では加えて人名(弔伐父鼎・年代不詳)に用いた。戦国の竹簡では加えて”刈り取る”を意味したが、”誇る”の意は文献時代にならないと見られない。詳細は論語語釈「伐」を参照。
奔(ホン)→賁(ホン)
唐石経・清家本は「奔」と記し、現存最古の論語本である定州竹簡論語は「賁」と記す。両者は近音で語義も近いが、定州本に従い校訂した。
論語の伝承について詳細は「論語の成立過程まとめ」を参照。
原始論語?…→定州竹簡論語→白虎通義→ ┌(中国)─唐石経─論語注疏─論語集注─(古注滅ぶ)→ →漢石経─古注─経典釈文─┤ ↓↓↓↓↓↓↓さまざまな影響↓↓↓↓↓↓↓ ・慶大本 └(日本)─清家本─正平本─文明本─足利本─根本本→ →(中国)─(古注逆輸入)─論語正義─────→(現在) →(日本)─────────────懐徳堂本→(現在)
「奔」(金文)
論語の本章では”敗走する”。初出は西周早期の金文。字形は「人」+「止」”あし”三つで、素早く足を動かして走るさま。原義は”走る”。金文では原義で、”忙しい”の意に用いた。戦国の金文では、”逃げる”の意に用いた。詳細は論語語釈「奔」を参照。
「賁」(秦系戦国文字)
定州論語では「賁」と書くが、「奔」と近音。初出は秦系戦国文字。論語の時代に存在しない。「ヒ」の音で”かざる”を、「フン」の音で”大きい”を、「ホン」の音で”はしる”を意味する。字形は「屮」”草”三つ+「貝」”財貨”で、財貨を飾ったさま。原義はおそらく”飾る”。詳細は論語語釈「賁」を参照。
而(ジ)
(甲骨文)
論語の本章では”そして”。初出は甲骨文。原義は”あごひげ”とされるが用例が確認できない。甲骨文から”~と”を意味し、金文になると、二人称や”そして”の意に用いた。英語のandに当たるが、「A而B」は、AとBが分かちがたく一体となっている事を意味し、単なる時間の前後や類似を意味しない。詳細は論語語釈「而」を参照。
殿(テン)
(金文)
論語の本章では”軍の最後尾”。この語義は春秋時代では確認できない。「デン」は呉音。初出は西周末期の金文。ただし字形は「𡱒」。現行字体の初出は秦系戦国文字。字形は「人」+「丌」”腰掛け”+「殳」”叩き棒”で、腰掛けに座った人を打つさま。原義はおそらく”叩く”。”しんがり”や”たかどの”の意となった経緯は不明。春秋末期までに確認できる用例は人名のみ。詳細は論語語釈「殿」を参照。
將(ショウ)
(甲骨文)
論語の本章では”もうすぐ~しようとする”。近い将来を想像する言葉。新字体は「将」。初出は甲骨文。字形は「爿」”寝床”+「廾」”両手”で、『字通』の言う、親王家の標識の省略形とみるべき。原義は”将軍”・”長官”。同音に「漿」”早酢”、「蔣」”真菰・励ます”、「獎」”すすめる・たすける”、「醬」”ししびしお”。詳細は論語語釈「将」を参照。
入(ジュウ)
(甲骨文)
論語の本章では”入る”。初出は甲骨文。「ニュウ」は呉音。字形は割り込む姿。原義は、巨大ダムを水圧がひしゃげるように”へこませる”。甲骨文では”入る”を意味し、春秋時代までの金文では”献じる”の意が加わった。詳細は論語語釈「入」を参照。
門(ボン)
(甲骨文)
論語の本章では”もん”。この語義は春秋時代では確認できない。「モン」は呉音。初出は甲骨文。字形はもんを描いた象形。甲骨文では原義で、金文では加えて”門を破る”(庚壺・春秋末期)の意に、戦国の竹簡では地名に用いた。詳細は論語語釈「門」を参照。
策(サク)
(戦国金文)
論語の本章では”むち打つ”。初出は戦国初期の金文。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。同音に「冊」、「筴」”筮竹”、「柵」(全て入)。うち春秋時代以前に存在するのは「冊」のみ。字形は「竹」+「朿」”とげ”で、原義は”竹ひご”。戦国の金文では「冊」と同じく”竹簡”の意に用いた。『大漢和辞典』で音サク訓むちに「拺」があるが、初出は不明。詳細は論語語釈「策」を参照。
一説に「策」は「冊」の異体字として扱うべきとするが、その場合の意味は”竹札”で、”ムチ”の意とは解せない。
其(キ)
(甲骨文)
論語の本章では”その”。初出は甲骨文。原義は農具の箕。ちりとりに用いる。金文になってから、その下に台の形を加えた。のち音を借りて、”それ”の意をあらわすようになった。人称代名詞に用いた例は、殷代末期から、指示代名詞に用いた例は、戦国中期からになる。詳細は論語語釈「其」を参照。
馬(バ)
(甲骨文)
論語の本章では馬車を引く”馬”。初出は甲骨文。初出は甲骨文。「メ」は呉音。「マ」は唐音。字形はうまを描いた象形で、原義は動物の”うま”。甲骨文では原義のほか、諸侯国の名に、また「多馬」は厩役人を意味した。金文では原義のほか、「馬乘」で四頭立ての戦車を意味し、「司馬」の語も見られるが、”厩役人”なのか”将軍”なのか明確でない。戦国の竹簡での「司馬」は、”将軍”と解してよい。詳細は論語語釈「馬」を参照。
曰(エツ)
(甲骨文)
論語で最も多用される、”言う”を意味する言葉。初出は甲骨文。原義は「𠙵」=「口」から声が出て来るさま。詳細は論語語釈「曰」を参照。
非(ヒ)
(甲骨文)
論語の本章では”~でない”。初出は甲骨文。甲骨文の字形は互いに背を向けた二人の「人」で、原義は”…でない”。「人」の上に「一」が書き足されているのは、「北」との混同を避けるためと思われる。甲骨文では否定辞に、金文では”過失”、春秋の玉石文では「彼」”あの”、戦国時代の金文では”非難する”、戦国の竹簡では否定辞に用いられた。詳細は論語語釈「非」を参照。
敢(カン)
(甲骨文)
論語の本章では『大漢和辞典』の第一義と同じく”あえて・すすんで”。初出は甲骨文。字形はさかさの「人」+「丨」”筮竹”+「𠙵」”くち”+「廾」”両手”で、両手で筮竹をあやつり呪文を唱え、特定の人物を呪うさま。原義は”強い意志”。金文では原義に用いた。漢代の金文では”…できる”を意味した。詳細は論語語釈「敢」を参照。
後(コウ)
(甲骨文)
論語の本章では”遅れる”。「ゴ」は慣用音、呉音は「グ」。初出は甲骨文。その字形は彳を欠く「幺」”ひも”+「夂」”あし”。あしを縛られて歩み遅れるさま。原義は”おくれる”。甲骨文では原義に、春秋時代以前の金文では加えて”うしろ”を意味し、「後人」は”子孫”を意味した。また”終わる”を意味した。人名の用例もあるが年代不詳。詳細は論語語釈「後」を参照。
也(ヤ)
(金文)
論語の本章では、「なり」と読んで断定の意に用いている。この語義は春秋時代では確認できない。初出は事実上春秋時代の金文。字形は口から強く語気を放つさまで、原義は”…こそは”。春秋末期までに句中で主格の強調、句末で詠歎、疑問や反語に用いたが、断定の意が明瞭に確認できるのは、戦国時代末期の金文からで、論語の時代には存在しない。詳細は論語語釈「也」を参照。
進(シン)
(甲骨文)
論語の本章では”すすむ”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。字形は「隹」”とり”+「止」”あし”で、一説に鳥類は後ろへ歩けないことから”すすむ”を意味するという。甲骨文では”献上する”の意に、金文では”奉仕する”の意に、戦国の金文では”推挙する”の意に用いた。戦国の竹簡では、”進歩”、”前進”の意に用いた。詳細は論語語釈「進」を参照。
論語:付記
検証
論語の本章は、同じ様子を『春秋左氏伝』が記している。
哀公…十一年春…右師奔,齊人從之,陳瓘,陳莊,涉泗,孟之側後入,以為殿,抽矢策其馬曰,馬不進也,
哀公十一年(BC484)春…魯の右軍が敗走すると、斉の軍勢は追撃にかかった。陳瓘、陳荘、渉泗、孟之側は戦車を最後尾に乗り付け、しんがりを引き受けた。矢を抜き取って牽き馬にムチを打ちながら、「馬が進まないのでござる」と言った。(『春秋左氏伝』哀公十一年2。この条全訳は下記)
これを除くと論語の本章は、先秦に誰一人再録していない。再録は時代が下った南北朝期に成立した『後漢書』馮岑賈伝に「孟之反奔而殿,亦何異哉」とあるのみ。事実上の初出は前漢中期埋蔵の定州竹簡論語で、完全な文は後漢末から南北朝にかけて成立した古注になる。
古注『論語集解義疏』
…註孔安國曰魯大夫孟之側也與齊戰軍大敗不伐者不自伐其功也…註馬融曰殿在軍後者也前曰啓後曰殿孟之反賢而有勇軍大奔獨在後為殿人迎為功之不欲獨有其名故云我非敢在後距敵也馬不能前進耳
注釈。孔安国「孟之反とは魯の家老格である孟之側である。斉軍と戦って部隊が大敗した。不伐とは自分の功績を誇らなかったという事である。」
注釈。馬融「殿とは軍の最後尾である。最前部を啓といい、最後尾を殿という。孟之反は賢明で勇気もあった。自軍が大崩壊して逃げ散る中で一人残ってしんがりを努めた。人が誉めて功績だと認めたが、名誉を独り占めするのを望まなかった。だから”わざと残ったのではない。馬が進まなかったのだ”と言った。」
孔安国は前漢前半の人物とされるが、実在が疑わしいのはいつもと同じ。
論語の本章は論語時代での「策」の不在と、その他の言葉の用法から、戦国時代の漢語と見なすべきで、元ネタとなった?『春秋左氏伝』も同様に春秋時代の文章とは言えない。だが偽作の動機が不明で、このような伝承はあったと言って良い。
解説
論語の本章が現代の論語読者に与える情報は少なくない。まず本章によって、『春秋左氏伝』のより詳細な記事を読むよう促され、その記事を読むと、春秋の君子は戦士に他ならなかったこと、一門から冉有が出陣して部将を務め、他にも樊遅が出陣したこと、勝利を導いた戦法を孔子が教えたことを見て取れるからである。少し長いが引用する。
哀公十一年(BC484)春、斉は魯が前年に鄎を攻めた報復として、家老の国書と高無㔻に軍を率いさせて攻め寄せた。斉軍が清の地に至った報が届くと、亡命中の孔子から離れて季孫家に仕え、執事を務めていた冉有に、当主の季康子が聞いた。「斉軍が清まで来たという事は、我が国都の曲阜まで攻め寄せるつもりだろう。どうすればいい?」
冉有「三桓(魯国門閥三家老家)のご当主お一人が国都を守り、お二人が軍を率いて迎撃すればいいでしょう。康子様はぜひ迎撃のため国境までお進みください。」
季康子「相手は大国の斉軍じゃぞ? 出陣などとんでもない。」
冉有「ではせめてご自分の領地の境までは出陣して下さい。」
季康子が孟孫家・叔孫家の当主に冉有の策を言うと、二人とも怖がって出てこなかった。冉有は仕方なく言った。「では仕方がありません。出陣しなくとも結構です。もしお一人でも前線に出て下されば、従軍しない者を非国民だと笑い物にできましたのに。それにご家老方がお持ちの戦車隊を合わせれば、斉軍より数が多くなります。我が季孫家の戦車隊だけでも、敵の戦車隊より優れています。康子様、そんなに怯えることはありませんぞ。それに孟孫家と叔孫家が戦わないというなら、政治での発言権を失って、康子様の思うがままになりましょう。今ご当主となっている間に、斉が我が魯国に攻め寄せたのに、戦えないと仰るなら、それは家名を傷付けることになりますぞ。いずれ独立して諸侯になろうと願っても、それは叶わなくなるでしょう。」
そう言われて季康子は冉有を連れて哀公に謁見させたのち、私兵を委ねて防禦陣地を築かせた。その冉有の所へ、叔孫家の当主の武叔の使いが来て呼んだので行ってみると、作戦をどうすればいいのかと言う。冉有「君子は先々にまで考えがあるものですから、陸軍大臣である武叔様には腹案がおありでしょう。それがし如きが口を挟もうとは思いません。」同席していた孟懿子が「かまわぬ。言うてみよ」というので、冉有は言った。「それがし如きの小者は、身の程を知って口を慎み、筋力を信じて身を捧げるものです。」それを聞いて武叔は、「ははは、ワシをオトコじゃないよと笑うのじゃな」と破顔し、そのまま屋敷に帰って私兵を集めた。
こうして迎撃軍が組織され、孟懿子の子である孟武伯が魯国の右備えの部将に任じられた。顔羽がその指揮車の御者を勤め、邴洩が指揮車の右側に立ってほこを執った。冉有は左備えの部将に任じられ、指揮車は管周父が御者を務め、同門の樊遲がほこを執った。季康子が「樊遅はまだ子供だからダメなんじゃないか?」と言うと、冉有は「ここで出陣するのも運命です」と答えた。
季孫家の私兵に甲冑武者は七千人いたが、冉有はそのうち武城に駐屯していた精鋭三百人を突撃隊として自分の指揮下に置き、幼い武者や老いた武者は都城に残して宮殿を守らせ、部隊を編成し終えると郊外の雨乞い台で野営した。それから五日過ぎて、右備えを編成し終えた孟武伯が出陣すると、公族の公叔務人が見送りながら泣いて言った。「多難な世情で政治運営が難しいのに、為政者は正しい政策を実行できず、貴族は戦を怖がって逃げる。これではどうやって民を治められると言うのだ。そうだ、そう思うなら、私も務めを果たさなければ。」公叔務人も従軍した。
魯の迎撃軍が斉軍に接触して、国都の郊外で戦うことになった。斉軍は稷曲の地の方向から進撃してきた。ところが魯の軍勢が塹壕から出て戦おうとしない。樊遅が車上の左隣に立つ兄弟子の冉有を見て言った。「戦えないのではありません。兄者を信じていないからです。今すぐ、三度兵を叱咤演説して下さい。そうすれば塹壕から進み出るでしょう。」
冉有がその通りにすると、果たして軍勢は突撃を始め、斉軍に撃ってかかった。だが孟武伯の右備えは武運つたなく撃退された。斉軍が追撃に移ると、敗走する右備えに所属していた陳瓘、陳壮、涉泗、孟之側の四人が車を引き返して最後尾に回り、しんがりとなって防戦した。(四人の誰かが)えびらから矢を一本抜いて引き馬をむちうち、言った。「馬が前に進まないのだ。」
そのさなか、林不狃が率いる歩兵分隊の兵が、隊長の不狃に「逃げましょうか」と言った。不狃「みんなそうやって逃げたがっているんだ。」兵「では踏みとどまって戦いますか。」不狃「それでは知恵の回る人間とは言えない。」そう言ってうろうろしているうちに、林不狃は戦死した。
他方で冉有が率いる魯軍の左備えは順調に進撃を続け、斉軍のかぶと首八十を獲った。それで将校が不足して斉軍は陣立てが無茶苦茶になった。戦ううちに日が暮れた。冉有は兵を留めて偵察隊を放ったが、隊は帰って来て「斉軍は敗走しました」と報告した。冉有は季康子に追撃の許可を求めたが、三度頼んでも認めなかった。
敗れた右備えを率いた孟武伯は、戦いが済んでから人に言った。「御者の顔羽ほど勇ましくはなかったが、ほこを執った邴洩よりは立派に戦ったぞ。顔羽は敢然と車を飛ばし、私はおじけて黙って弓を射、邴洩は敵兵を追え追えと叫んでいただけだった。」
「務めを果たそう」と泣いて従軍した公族の公叔務人と、そのお気に入りの小姓だった汪錡は戦車に乗って戦ったが、二人とも戦死して安置所に横たえられた。
いくさの様子は冉有が使いをやって国外滞在中の孔子に伝えた。孔子は公叔務人と小姓のありさまを知ると、「兵器を手に取って国を守ったのだ。あっぱれな武者だと讃えるべきで、泣き濡れてはいけないな。」冉有が突破戦で戈(カマ状のほこ)ではなく矛(槍状のほこ)を兵に持たせて斉軍を破ったと知ると、孔子は「それで正解」と評した。(『春秋左氏伝』哀公十一年2)
冉有はこの戦勝を背景にして、季康子に孔子の帰国を認めるよう迫った。
李康子「そなたはどこで戦いを学んだのか。生まれつき才があったのか。」
冉有「孔子先生に教わりました。」
李康子「孔子はどんな人なのか。」
冉有「先生を用いれば諸国でのあなたの評判が良くなり、その採用は、民衆に知らせても、先祖の霊や山川の神に当否を問うても、後悔することがありません。先生を呼び戻せば、きっとそうなるでしょう。ただし、たとえ千社=二万五千戸の領地を与えて厚遇すると言っても、先生はそれにつられてふらふらとやって来るような方ではありませんぞ。」
李康子「では私は孔子を呼ぼうと思うが、良いか。」
冉有「先生を呼ぶなら、有象無象の凡人が、先生をうんざりさせるようなことをせねば、まあよろしいでしょう。」
…
李康子は、公華、公賓、公林〔といった孔子の政敵〕を追放し、贈り物を用意して孔子を迎えたので、孔子は魯に帰った。孔子は魯を去っておよそ十四年で、魯に帰ったのである。(『史記』孔子世家)
論語の本章、新注は次の通り。
新注『論語集注』
殿,去聲。孟之反,魯大夫,名側。胡氏曰「反即莊周所稱孟子反者是也。」伐,誇功也。奔,敗走也。軍後曰殿。策,鞭也。戰敗而還,以後為功。反奔而殿,故以此言自揜其功也。事在哀公十一年。
殿は尻下がりに読む。孟之反は、魯の家老格である。名は側。胡寅氏によると、”荘周が讃えた孟子反と同一人物だ”という。伐は功績を誇ることである。奔は敗走することである。軍の最後尾を殿という。策はムチである。いくさに負けて戻るとき、しんがりを務めるのは功績となる。敗走の中で踏みとどまってしんがりになったのだが、自分の功績を隠す言葉と分かる。出来事は哀公十一年のことである。
謝氏曰:「人能操無欲上人之心,則人欲日消、天理日明,而凡可以矜己誇人者,皆無足道矣。然不知學者欲上人之心無時而忘也,若孟之反,可以為法矣。」
謝良佐「人は心を操って、無欲で上品になれる。つまり他人がよってたかって日に日に無いことにしようとしても、天のことわりは日に日に明らかだからだ。凡俗は自分を誇ることが出来るが、それでは人の道には全然至らない。そして自己研鑽に励む者を知らない。励む者は孟之反のように、上品な人間たるべくすぐさま自慢の種を忘れる。これは見習うべきである。」
余話
物理的に届かない
論語の本章や『春秋左氏伝』にはおかしな所があって、中国の弓は日本で言う半弓であり、矢も短く軽い。軽いが例えばモンゴル騎兵の持つ弓は小さくとも、遠距離を飛び高い貫通力を持つ。
戦車から半弓の矢を差し出した所で、馬の尻には届かない(図は兵馬俑出土の実測値で作製)。矢の話は戦場を知らない儒者の創作だろうが、もう一つ『春秋左氏伝』の筆者左丘明が盲人だったと言われる証拠になるかも知れない。見えないものは、想像して書くしかないからだ。
参考記事
- 論語八佾篇7余話「騎兵の射撃武器」
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