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論語の人物:樊須子遅(はんしゅ・しち)

仁の情けを知りたがる畑仕事が好きな孔子の若き二代目ボディーガード

至聖先賢半身像「樊遅」

国立故宮博物院蔵

略歴

BC515 or BC505-?。姓は樊、名は須、字は子遲(遅)。樊遅とも呼ばれる。『史記』によれば孔子より36年少、『孔子家語』によれば46年少で、魯国出身。孔子の弟子で、『孔子家語』によれば若くして門閥三家老家筆頭の季氏に仕えた。子路が季氏や衛国に仕えたあとでは、樊遅が孔子の身辺警護を務めたと思われ、孔子はあちこちに連れ回っている。

百度百科によれば、季氏に仕え冉求の部下として戦場働きをした後で、帰国した老齢の孔子に仕えたとされる。確証は無いが、状況証拠的にそうなるだろう。

なお樊遅の「遅」の字(音チ、カールグレン上古音dʰi̯ər)は、原義は動物のサイ。ただし出典が確かな金文には見られない。同訓(おくれる)近音(チ)の「軧」は金文以前に遡れない。しかし動物のサイ「犀」(音シ、カールグレン上古音siər)は西周時代の金文にあるから、樊遅の名前は「遅れ」ではなく勇猛な「サイ」である。
犀 金文
「犀」(金文)

論語での扱い

六カ章で記載がある。全て孔子との問答であり、子路篇の「どうやったらたくさんお米が取れるんでしょう?」「知らんよワシは。お百姓さんに聞きなさい」というやりとりで孔子にあきれられている。ただし孔子は、孫のように若く素直な樊遅を可愛がったようで、「小人なるかな」とあきれた言葉も、「お馬鹿さんだなあ」という愛情表現に受け取れる。

孔子は散歩には樊遅を連れ歩き、出かける際には樊遅に馬車の手綱を執らせた。

樊遅はあまり頭の回転は速くなかったようだが、同様に「ウスノロ」と孔子に言われた曽子のようにやたらと兄弟弟子を批判して回るような所はなく、年下の子夏にも「先生から仁を教わったんだが、よくわからない。何のことだろうね?」と腰を低くして補足説明を頼んでいる。

ちなみに武道の世界では一般に、年齢が上の者より段位が上の者が上座に座る。孔子塾も同様だったのだろうか。なおブッダは在世中、自分のサンガ(教団)では互いに「友よ!」と平等に呼びかけさせたが、仏滅に当たって遺言し、年齢ではなく入信からの年数によって上下関係を定めたという。この年数を法臘(ホウロウ)といい、日本の禅寺でも守られているという(中村元『ブッダ最後の旅』)。

他の典籍での扱い

他の学派からの批判や批評はなく、後世の儒者の書き物にも、論語の注釈程度の記録しかないが、理由はそれほど大人物とも見なされていなかったからだろうし、弟子も取らず自分の派閥も持たなかったのだろう。忠実なボディーガードを勤め上げたと思われる。

史書としては『春秋左氏伝』(左伝)に対斉防衛戦の活躍が記されているから引用する。長いので下に現代語訳も書く。

〔哀公〕十一年(BC484)春、斉は鄎(ソク、斉の地名、魯が前年に攻めた)が故と為して、国書、高無(共に人名、斉の大夫)、師(軍隊)を帥(ひき)いて我(魯国)を伐つ。清(地名)に及ぶ。季孫其の宰たる冉求に謂いて曰く、斉の師清に在るは、必ずや魯が故也(魯国を狙っているのだ)、之を若何せん(どうやって防ごうか)。求曰く、一子守りて二子従い(ご家老方の一人は宮殿警護に、二人は出陣して)公(あなた)は竟(国境)に諸(これ)を禦(ふせ)ぐべしと。季孫曰く、能わ不(ぶるぶる、とんでもない)。求曰く、封疆之間に居れと(せめてご自分の領地外までは出陣して下さい)。季孫、二子(叔孫氏・孟孫子)に告ぐるも、二子可なら不となす(怖がって出てこなかった)。求曰く、若(も)し不可ならば、則ち君出づる無かれ(じゃあしょうがない、せめて殿様は隠れておられよ)。一子師を帥いて城(まち)を背にし而(て)戦うも、属せ不る者は、魯の人に非ざる也(ご家老の一人が、都城を背にして戦っているのに、駆けつけない者は非国民だ)。魯之群室(ご家老方の)、兵車は斉之それ於(よ)り眾(おお)きなり、一室(家老家の一家だけでも)敵の車に優ぐれる矣(なり)、子(あなた)何ぞ患(うれ)えん焉(なる)や。二子之戦うを欲せ不る也(や)、宜(よろし)く政(まつりごと)季氏に在(あ)らん(二家が逃げ回るならば、政権はあなたの天下だ)。子之身に当たりて(あなたの代になって)、斉の人魯を伐つに、而(し)て戦う能わ不らば、子之恥也(ここで逃げたら男がすたりますぞ)。大は諸侯於(に)列せ不ら矣(ん)と(諸侯になりたくても家老のままで終わりますぞ)。季孫朝於(に)従わ使め(冉求を伴って国公に謁見し)、当氏之溝(掘り割りの名)於(に)俟(ま)たしむ。〔叔孫〕武叔呼び而(て)戦いを問い焉(ぬ)るに、対(こた)えて曰く、君子に遠慮有り、小人何ぞ知らんと(叔孫子が冉求に戦いを問うたが、私如きが知るわけないでしょうと答えた)。〔孟〕懿子強いて之(これ)を問うに、対えて曰く、小人は材を慮(おも)う而(て)言い、力を量り而共する者也と(それがし如きは分際をわきまえて言い、身を挺するものです)。武叔曰く、是れ我を丈夫成ら不ると謂う也と(あんたなんかオトコじゃないよと言われたのだ)。退き而乗を蒐(あつ)む(屋敷に帰って戦車を集めた)。孟孺子洩(人名。孟武伯)右師(魯国軍の右備え隊)を帥い、顏羽(人名)これが御たり。邴洩(ヘイセツ、人名)〔車〕右為(た)り(戦車の右側に乗ってほこを執った)。冉求左師(左備え隊)を帥い、管周父(人名)御たり、樊遲右為り。季孫曰く、須也弱からんと(樊遅はまだ小僧だからダメなんじゃないか)。有子(=冉有)曰く、用に就くは命焉(ならん)と(ここで出陣するのも運命です)。季孫之甲(鎧を着た戦士)七千あるに、冉有、うち武城の人三百を以て、己が徒卒と為し、老幼は宮を守らしめ、雩門(ウモン、雨乞い台の門)之外于(に)次(やど)れり。五日にして、右師は之を従わしめるに(孟武伯が右備え隊を率いて出陣すると)、公叔務人(人名。公族の一人)見保者而(みまもりて)泣きて曰く、事充ちて政重く、上は謀る能わ不、士は死する能わ不(労役も税も重く、為政者は考える能が無く、士族は死ぬ覚悟もなく逃げ回っている)、何を以て民を治めん。吾既に之を言える矣、敢えて勉め不らん乎(や)と(口に出した以上はがんばらないと)。師、斉の師に及びて郊〔外〕于(に)戦うに、斉の師、稷曲(地名)自(よ)りきたるも、師溝を踰え不(斉軍が攻めかかってくるのに、魯軍は堀から出ようとしなかった)。樊遲曰く、能わ不るに非る也、子(冉求)を信じ不れば也、請うらく、三たび刻まば而(しか)して之を踰えんと(越えられないんじゃないんです。冉求どのに信用がないからです。三度命令を徹底させれば越えますよ)。之(かく)の如くして、眾(=衆。軍勢)之に従い、師は斉軍に入る。右師奔(はし)るに(右備えが敗走すると)、斉人之に従う(追撃にかかった)。陳瓘,陳莊,涉泗,孟之側(いずれも人名)後より入り、以て殿(しんがり)と為る。矢を抽(ぬ)き其の馬に策(むちうち)て曰く、馬進ま不れば也。林不狃(人名)之伍(兵士)曰く、走らん乎と(逃げましょうか)。不狃曰く、誰か如から不ると(みんな逃げたいのだ)。曰く、然らば則ち止まらん乎と(では踏みとどまって戦いますか)。不狃曰く、悪(いづく)んぞ賢ならんかと(それで立派とは言えぬ)。徐(ゆる)やかに歩み而死せり(うろうろしているうちに戦死した)。〔魯国の〕師、甲首(かぶと首)八十を獲たりて、斉の人師いる能わ不(陣形が無茶苦茶になった)。宵(よい)に諜(偵察隊)の曰く、斉の人遁(に)げたりと。冉有之に従うを請うも(冉求は追撃を望んだが)、三たび季孫許さ弗(ず)。孟孺子、人に語りて曰く、我顔羽の如から不るも、而て邴洩於(より)は賢(まさ)れり(顔羽ほどではないが、邴洩よりはましに戦ったぞ)。子羽鋭敏なりて、我戦いを欲せ不而て能く黙れるに、洩曰く、之を駆(お)えやと(私は怖くて黙っていたが、顔羽は勇戦し邴洩は”追え追え!”と口だけは兵を叱咤した)。公為(=公叔務人)与(と)其の嬖僮(ヘイドウ、お気に入りの小姓)汪錡(オウキ、人名)〔戦車に〕乗るも、皆死して皆殯(もがり)す。孔子曰く、能く干戈(カンカ。ここではさすまたと鎌状のほこ)を執りて以て社稷を衛る。殤む無き可き也と(小姓も武器を執ってよく国を守ったのだ。大人並みに扱って葬ってよい)。冉有、斉の師於(に)矛を用ゆ。故に能く其の軍に入る。孔子曰く、義也と(それで正解)。

三家老「ぶるぶる。斉が攻めてきた。」
冉求「じゃあ出陣して下さい。」
三家老「ぶるぶる。ことわる。」
冉求「しょうがない人たちだ。ついてるモノついてます?」
叔孫「なんじゃと! やったろーじゃないか! 戦車だ戦車だ戦車を集めよ!」
冉求「季氏どの、ここで踏ん張れば殿様に昇格ですぞ? 逃げ回る奴は非国民です。」
季氏「あ、そーか。じゃ兵隊出すかな。」
冉求「おい樊遅! 出番だぞ。」
樊遅「はーい。」
季氏「まだ小僧じゃないか。」
冉求「これも運命です。」
公叔務人「こんな子供まで前線に…これも我ら貴族が悪いのだ。私も出陣しよう。」

斉右軍「やっちまえー!」
冉求「進め-!」
魯左軍「ぶるぶる。」
樊遅「信用されてませんなあ、冉求さん。」
冉求「こうらあ! 進めー! 進めー! 進めー!」
魯左軍「おりゃー!」

孟武伯と魯右軍「やられたー!」
斉左軍「やっちまえー!」
孟武伯の御者顔羽「かくなる上は突撃あるのみ! ハイヨー! パシッ!」
牽き馬「ヒヒーン。パカラッパカラッ!」
車「ガラガラガラガラガラガラガラガラガラガラ!」
孟武伯「ちょっ…待っ…お、かぶと首。ギリギリ…ヒョウ!」
矢「プス。」
孟武伯の同乗で戈執り邴洩ヘイセツ「行け行けえ、行ったれー!」

孟武伯「コラ! しゃべってないで敵の首を刈らんか、首を。」
魯の陳瓘ら四人「孟武伯どのーッ、お引き下され! 我ら馬が進まぬゆえ、しんがりを務めるでござる。」
魯の林不狃リンフチュウの兵「こりゃダメですな。逃げますか。」
林不狃「どいつもこいつも弱っちいな。」
兵「では踏みとどまります?」
林不狃「それで勇者さま、というわけにはいかないよ。…ぶらぶら。」
斉左軍「かぶと首じゃあー!」
林不狃「うぐっ!」

冉求と樊遅の左軍「かぶと首八十じゃあー!」
斉右軍「やられたー!」

偵察隊「斉軍が逃げました。」
冉求「追撃しましょう。しましょう。しましょう。」
季氏「ぶるぶる。ことわる。」
孟武伯「ボクもそこそこ戦ったぞ。顔羽ほどじゃないけど。」
人々「公叔務人どのも、お小姓と共に討ち死にか…。」

国外にいる孔子「どれどれ、これが戦いの報告か…ほお、お小姓も立派に戦ったのか。大人の儀礼で弔って当然だな。それに冉求の報告も…何々、こたびは戈ではなく、真っ直ぐな矛で突撃して、もくろみ通り突破できましたと? うむ。よろしい。」

ここで他の史料には、季氏(おそらく季康子)と冉求の問答も記す。

季氏「どこで戦いを学んだのか?」
冉求「孔子先生に学びました。」
季氏「へぇー。兵法も達者なんだ、あの先生。」
冉求「もちろんでございます。万能なのですよ、あの方は。」


なお「矢を取ってムチとした」とあるが、当時の中国の弓は日本で言う半弓で、矢も腕より長いことはない。主兵器であったクロスボウ=弩の矢なら、もっと短い。揺れる戦車から矢を手にしても、馬の尻にも届かず落車の危険この上ない。

「戈を逆さまにして馬にむち打った」というのならわかるが、重い鎧を着たまま、車を降りて馬と併走したならとんでもないアスリートであり、おそらくは軍事を知らないひょろひょろの儒者がでっち上げた作り事だろう。
弩

論語での発言

1

先生、そりゃどういう意味です?(為政篇)

2

仁って何です?(為政篇ほか)

3

子夏くん、いま先生からこれこれと教わったんだが、どういう意味だろうね。(顔淵篇)

4

先生! どうやったらお米がたくさん取れるんでしょう? …お百姓さんに聞きなさい、ですか? ではどうやったら野菜がたくさん取れるんでしょう? …やっぱりお百姓さんですか。(子路篇)

論語での記述

  1. 孟懿子問孝。子曰、「無違。」樊遲御、子吿之曰、「孟孫問孝於我、我對曰、『無違。』」樊遲曰、「何謂也。」子曰、「生、事之以禮。死、葬之以禮、祭之以禮。」(為政篇)
  2. 樊遲問知。子曰、「務民之義、敬鬼神而遠之、可謂知矣。」問仁。曰、「仁者先難而後獲、可謂仁矣。」(雍也篇)
  3. 樊遲從遊於舞雩之下曰、「敢問崇德、修慝、辨惑。」子曰、「善哉問。先事後得、非『崇德』與。攻其惡、無攻人之惡、非『修慝』與。一朝之忿、忘其身以及其親、非『惑』與。」(顔淵篇)
  4. 樊遲問「仁」。子曰、「愛人。」問「知」。子曰、「知人。」樊遲未達、子曰、「舉直錯諸枉、能使枉者直。」樊遲退、見子夏曰、「鄕也吾見於夫子而問『知』、子曰、『舉直錯諸枉、能使枉者直』、何謂也。」子夏曰、「富哉言乎。舜有天下、選於衆、舉皋陶、不仁者遠矣。湯有天下、選於衆、舉伊尹、不仁者遠矣。」(顔淵篇)
  5. 樊遲請學稼、子曰、「吾不如老農。」請學爲圃、曰、「吾不如老圃。」樊遲出、子曰、「小人哉、樊須也。上好禮、則民莫敢不敬。上好義、則民莫敢不服。上好信、則民莫敢不用情、夫如是、則四方之民、襁負其子而至矣、焉用稼。」(子路篇)
  6. 樊遲問「仁」。子曰、「居處恭、執事敬、與人忠。雖之夷狄、不可棄也。」(子路篇)
論語人物図鑑
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