論語:原文・書き下し
原文(唐開成石経)
衞靈公問陳於孔子孔子對曰俎豆之事則甞聞之矣軍旅之事未之學也明日遂行
校訂
諸本
武内本:陳、釋文陣に作り、史記世家引兵陳に作る。蓋し陣は陳の俗字、史記は陳の字を解して兵陳となすなるべし。
東洋文庫蔵清家本
衞靈公問陳於孔子/孔子對曰俎豆之事則甞聞之矣/軍旅之事未之學也/明日遂行
後漢熹平石経
(なし)
定州竹簡論語
衛靈公問陳於孔……412……明日[遂行
標点文
衞靈公問陳於孔子。孔子對曰、「俎豆之事則嘗聞之矣。軍旅之事未之學也。」明日遂行。
復元白文(論語時代での表記)
※論語の本章は、「問」「嘗」「未」「明日」「遂」の用法に疑問がある。
書き下し
衞の靈公陳を孔子於問ふ。孔子對へて曰く、俎豆之事は則ち嘗て之を聞け矣。軍旅之事は未だ之を學ばざる也と。明日遂て行る。
論語:現代日本語訳
逐語訳
衛の霊公が軍事を孔子に問うた。先生が答えて言った。「祭礼のことは確かに前から聞いてます。軍隊のことはまだ学んでいませんなあ。」翌日そのまま去った。
意訳
霊公「博識なそなたのことじゃ。何かいくさの必勝法を知らぬかな?」
孔子「はて。祭礼ならお任せ下さって結構ですが、いくさはとんと知りませぬなあ。」
…と、とぼけたが、監視を付けた前科のある霊公が何をしでかすか分からんので、翌日とっとと衛国を出た。
従来訳
衛の霊公が戦陣のことについて先師に質問した。先師がこたえていわれた。――
「私は祭具の使い方については学んだことがありますが、軍隊の使い方については学んだことがございません。」
翌日先師はついに衛を去られた。――下村湖人『現代訳論語』
現代中国での解釈例
衛靈公向孔子詢問排兵布陣之法,孔子說:「禮儀方面的事,我還懂一點;用兵打仗的事,我沒學過。」孔子第二天就離開了衛國。
衛の霊公が孔子に兵の配置と陣立ての法を問うた。孔子が言った。「礼儀方面のことなら、私はすでにいささか心得があります。用兵や戦争のことは、まだ学んだことがありません。」孔子は翌日すぐに衛国を離れた。
論語:語釈
衞靈公(エイレイコウ)

「孔子事跡図解」(文化二年)より
BC540-BC493。BC534年即位。論語時代の衞(衛)の代9代君主。衛は孔子の生国・魯の北にあった中規模諸侯国。
霊公の姓は姫、名は元。妃は南子。太子は蒯聵。霊公はやり手の君主で、小国の衛を大国・晋の圧力からよく守り抜いた。BC497、孔子が衛国に亡命した際には、特に仕事も与えないのに、粟六万斛、現代日本円換算で111億円をポンと与えている。しかし孔子を政権中枢へ据えようとはしなかった。人材がすでに揃っていたからだ。
「霊公」は死後のおくり名で、『逸周書」諡法解によると、暴君などに付けられるおくり名。だが霊公は到底暴君とも暗君とも言えず、実は後世の儒者が勝手に付けた名前である可能性が高い。孔子が霊公を「無道だ」と論語で言ったからである(論語憲問篇20)。
(甲骨文)
「衞」の初出は甲骨文。新字体は「衛」。中国・台湾・香港では、新字体がコード上の正字として扱われている。甲骨文には、「韋」と未分化の例がある。現伝字体につながる甲骨文の字形は、「方」”首かせをはめられた人”+「行」”四つ角”+「夂」”足”で、四つ角で曝された奴隷と監視人のさま。奴隷はおそらく見せしめの異民族で、道路を封鎖して「入るな」と自領を守ること。のち「方」は「囗」”城壁”→”都市国家”に書き換えられる。甲骨文から”守る”の意に用い、春秋末期までに、国名・人名の例がある。詳細は論語語釈「衛」を参照。
(金文)
「靈」の初出は西周早期の金文。ただし字形は「霝」または「𠱠」。「霝」の字形は甲骨文よりあるが、”雨が降る”の意であるらしく、”たましい”の意で用いたのは西周早期から。殷周革命の結果と思われる。現行字形はその下に〔示〕”祭壇”または〔心〕を加える。新字体は「霊」。西周の金文では”精霊”の意に、春秋の金文では”素晴らしい”の意に用いた。詳細は論語語釈「霊」を参照。
「公」(甲骨文)
「公」の初出は甲骨文。字形は〔八〕”ひげ”+「口」で、口髭を生やした先祖の男性。甲骨文では”先祖の君主”の意に、金文では原義、貴族への敬称、古人への敬称、父や夫への敬称に用いられ、戦国の竹簡では男性への敬称、諸侯への呼称に用いられた。詳細は論語語釈「公」を参照。
問(モン)
(甲骨文)
論語の本章では”問う”。この語義は春秋時代では確認できない。「問」の原義は実は分からない。初出は甲骨文。「モン」は呉音。字形は「門」+「口」。甲骨文での語義は不明。西周から春秋に用例が無く、一旦滅んだ漢語である可能性がある。戦国の金文では人名に用いられ、”問う”の語義は戦国最末期の竹簡から。それ以前の戦国時代、「昏」または「𦖞」で”問う”を記した。詳細は論語語釈「問」を参照。
陳(チン)
九年衛鼎・西周中期
論語の本章では”陣立て”。戦場での用兵術。「陣」は初出が不明で、カールグレン上古音がdʰi̯ĕn(去)であり、同音同調で字形も似ているため、「陳」が転用されたとみられる。現在は「陣」としての「陳」の用例が春秋末期までに見つかっていないが、おそらく古くから「陣」として用いていたと想像できる。
「陣」は〔阝〕”階段”+〔車〕”戦車”で、戦車隊が主力だった西周~春秋時代、連隊>大隊>中隊>小隊のように、階層立てて戦車を配置し部隊を編成すること、またそうして編成した部隊を前線で展開して陣立てを作ること。
「陳」の初出は西周中期の金文。字形は〔阝〕”はしご”+〔東〕で、原義は不明。春秋末期までに確認できる語義は、国名や人名のみ。うち国名の「陳」は、「曹」と並んで孔子存命中に滅亡した諸侯でもある。詳細は論語語釈「陳」を参照。
於(ヨ)
(金文)
論語の本章では”~に”。初出は西周早期の金文。ただし字体は「烏」。「ヨ」は”~において”の漢音(遣隋使・遣唐使が聞き帰った音)、呉音は「オ」。「オ」は”ああ”の漢音、呉音は「ウ」。現行字体の初出は春秋中期の金文。西周時代では”ああ”という感嘆詞、または”~において”の意に用いた。詳細は論語語釈「於」を参照。
孔子(コウシ)
論語の本章では”孔子”。いみ名(本名)は「孔丘」、あざ名は「仲尼」とされるが、「尼」の字は孔子存命前に存在しなかった。BC551-BC479。詳細は孔子の生涯1を参照。
論語で「孔子」と記される場合、対話者が目上の国公や家老である場合が多い。詳細は論語先進篇11語釈を参照。
(金文)
「孔」の初出は西周早期の金文。字形は「子」+「乚」で、赤子の頭頂のさま。原義は未詳。春秋末期までに、”大いなる””はなはだ”の意に用いた。詳細は論語語釈「孔」を参照。
(甲骨文)
「子」は論語の本章では「孔子」と「兄之子」に用いる。前者は貴族や知識人への敬称、後者は”子供”。初出は甲骨文。字形は赤ん坊の象形。春秋時代では、貴族や知識人への敬称に用いた。季康子や孔子のように、大貴族や開祖級の知識人は「○子」と呼び、一般貴族や孔子の弟子などは「○子」と呼んだ。詳細は論語語釈「子」を参照。
對曰(タイエツ)(こたへていわく)
論語では、身分の高い者から問われて、回答するときにこの表現を用いる。
(甲骨文)
「對」の初出は甲骨文。新字体は「対」。「ツイ」は唐音。字形は「丵」”草むら”+「又」”手”で、草むらに手を入れて開墾するさま。原義は”開墾”。甲骨文では、祭礼の名と地名に用いられ、金文では加えて、音を借りた仮借として”対応する”・”応答する”の語義が出来た。詳細は論語語釈「対」を参照。
(甲骨文)
「曰」は論語で最も多用される、”言う”を意味する言葉。初出は甲骨文。原義は「𠙵」=「口」から声が出て来るさま。詳細は論語語釈「曰」を参照。
俎*豆(ソトウ)
論語の本章では祭壇上の”まな板とたかつき”→”祭礼”。
(金文)
「俎」は論語では本章のみに登場。事実上の初出は西周中期の金文。甲骨文の字形は〔月〕”にく”。つまり「肉」字と不分離。金文以降は〔爿〕”台”+〔月〕。呉音は「ショ」。甲骨文の用例には別解もあって、「宜」とも解される。西周の金文では”切り分けた肉”、あるいは”供え物のお下がりの肉”の意に用い、春秋の金文では「祖」を「俎」と記す例がある。詳細は論語語釈「俎」を参照。
「豆」(甲骨文)
「豆」の初出は甲骨文。字形は食物を盛ったたかつきの象形。甲骨文では地名に用い、春秋末期までの金文では”食器”・”まめ”の意に用いた。詳細は論語語釈「豆」を参照。
之(シ)
(甲骨文)
論語の本章では”~の”。指示詞「これ」でもありうるが、漢字の指示詞には至近の事物を指す「此」、やや離れた事物を指す「其」、取り立てて指し示すべき事物を指す「之」、個物ではなく事態や環境全体を指す「斯」などがある。
「之」の初出は甲骨文。字形は”足”+「一」”地面”で、あしを止めたところ。原義はつま先でつ突くような、”まさにこれ”。殷代末期から”ゆく”の語義を持った可能性があり、春秋末期までに”~の”の語義を獲得した。詳細は論語語釈「之」を参照。
事(シ)
(甲骨文)
論語の本章では”事務”。初出は甲骨文。甲骨文の形は「口」+「筆」+「又」”手”で、口に出した言葉を、小刀で刻んで書き記すこと。つまり”事務”。「ジ」は呉音。詳細は論語語釈「事」を参照。
則(ソク)
(甲骨文)
論語の本章では、”必ず”。初出は甲骨文。字形は「鼎」”三本脚の青銅器”と「人」の組み合わせで、大きな青銅器の銘文に人が恐れ入るさま。原義は”法律”。論語の時代=金文の時代までに、”法”・”則る”・”刻む”の意と、「すなわち」と読む接続詞の用法が見える。詳細は論語語釈「則」を参照。
嘗(ショウ)
(金文)
論語の本章では”かつて”。この語義は春秋時代では確認出来ない。唐石経・清家本の「甞」は異体字。初出は西周早期の金文。字形は「冂」”建物”+「旨」”美味なもの”で、屋内でうまいものを食べる様。原義は”味わう”。唐石経、清家本の「甞」は異体字。春秋時代までの金文では地名、秋の収穫祭の意に用いた。戦国の竹簡では、”かつて”の意に用いた。詳細は論語語釈「嘗」を参照。
聞(ブン)
(甲骨文)
論語の本章では”聞いて知る”。初出は甲骨文。「モン」は呉音。甲骨文の字形は「耳」+「人」で、字形によっては座って冠をかぶった人が、耳に手を当てているものもある。原義は”聞く”。詳細は論語語釈「聞」を参照。
論語の時代、「聞」は間接的に聞くこと、または知らない事を教わって明らかにすることを意味した。
矣(イ)
(金文)
論語の本章では、”すでに…している”。初出は殷代末期の金文。字形は「𠙵」”人の頭”+「大」”人の歩く姿”。背を向けて立ち去ってゆく人の姿。原義はおそらく”…し終えた”。ここから完了・断定を意味しうる。詳細は論語語釈「矣」を参照。
軍旅(クンリョ)
論語の本章では”軍隊の運用”。
(金文)
「軍」の初出は春秋末期の金文だが、一説に部品として西周の金文にも見える。「グン」は慣用音で、漢音(遣隋使・遣唐使が聞き帰った音)でも呉音(それ以前に日本に伝わった音)でも読みは「クン」。初出の字形は「勹」”包む”の中に「車」であり、戦車に天蓋ととばりを付けた指揮車を示すか。詳細は論語語釈「軍」を参照。
「旅」(甲骨文)/「遊」(甲骨文)
「旅」の初出は甲骨文。字形は「㫃」”旗やのぼり”+「人」二つ”大勢”で、旗印を掲げて多人数で出掛けるさま。もともと軍事用語で、軍隊の一単位。現代でも「旅団」という。金文の字形には、「人」が「車」になっているものがある。甲骨文では原義の”軍隊”、地名に用いた。金文では、”旅”・”携帯する”、”黒色”の意、地名・人名に用いた。戦国の竹簡では、”旅”の意に用いた。詳細は論語語釈「旅」を参照。
未(ビ)
(甲骨文)
論語の本章では”今までにない”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。「ミ」は呉音。字形は枝の繁った樹木で、原義は”繁る”。ただしこの語義は漢文にほとんど見られず、もっぱら音を借りて否定辞として用いられ、「いまだ…ず」と読む再読文字。ただしその語義が現れるのは戦国時代まで時代が下る。詳細は論語語釈「未」を参照。
學(カク)
(甲骨文)
論語の本章では”学ぶ”。「ガク」は呉音。初出は甲骨文。新字体は「学」。原義は”学ぶ”。座学と実技を問わない。上部は「爻」”算木”を両手で操る姿。「爻」は計算にも占いにも用いられる。甲骨文は下部の「子」を欠き、金文より加わる。詳細は論語語釈「学」を参照。
未之學(いまだこれをまなばず)
本来「未學之」となるべき所、目的語の「之」を述語動詞の「學」の前に出している。漢語では甲骨文の頃から、否定文の場合目的語を前に出す場合がある。
也(ヤ)
(金文)
論語の本章では、「かな」と読んで詠嘆の意を示す。「知りませんなあ」と孔子がとぼけているのである。初出は事実上春秋時代の金文。字形は口から強く語気を放つさまで、原義は”…こそは”。春秋末期までに句中で主格の強調、句末で詠歎、疑問や反語に用いたが、断定の意が明瞭に確認できるのは、戦国時代末期の金文からで、論語の時代には存在しない。詳細は論語語釈「也」を参照。
明日(メイジツ)
論語の本章では”明くる日”と解するしか無いが、この語義は春秋時代では確認出来ない。文字列「明日」も、戦国時代にならないと確認出来ない。
「明」(甲骨文)
「明」の初出は甲骨文。字形は太陽と月の組み合わせ。原義は”明るい”。呉音(遣隋使・遣唐使より前に日本に伝わった音)は「ミョウ」、「ミン」は唐音(遣唐使廃止から江戸末期までに伝わった音)。甲骨文では原義で、また”光”の意に用いた。金文では”清める”、”厳格に従う”、戦国の金文では”はっきりしている”、”あきらかにする”の意に用いた。戦国の竹簡では”顕彰する”、”選別する”、”よく知る”の意に用いた。詳細は論語語釈「明」を参照。
(甲骨文)
「日」の初出は甲骨文。「ニチ」は呉音。原義は太陽を描いた象形文字。甲骨文から”昼間”、”いちにち”も意味した。詳細は論語語釈「日」を参照。
遂(スイ)
(金文)
論語の本章では「やがて」と訓読して”そのまま”。この語義は春秋時代では確認出来ない。初出は西周早期の金文。金文では「述」で「遂」を表した例が多いという。字形は〔辶〕+〔㒸〕で、〔㒸〕は〔八〕”導く”+〔豕〕”ぶた”に分解できる。全体で路上を家畜を率いて通り行くさま。原義は”従える”。詳細は論語語釈「遂」を参照。
「遂」を「つひに」と訓読するのは、”とうとう”などと混同するので賛成しない。「ついに」と読む句形については、漢文読解メモ:「ついに」を参照。
行(コウ)
(甲骨文)
論語の本章では”行く”→”去る”。初出は甲骨文。「ギョウ」は呉音。十字路を描いたもので、真ん中に「人」を加えると「道」の字になる。甲骨文や春秋時代の金文までは、”みち”・”ゆく”の語義で、”おこなう”の語義が見られるのは戦国末期から。詳細は論語語釈「行」を参照。
論語:付記
検証
論語の本章は、語法的に怪しい点がいくつもあるが、文字史的には全て論語の時代までさかのぼることが出来る。後世の引用としては、「衛霊公問陳」が定州竹簡論語よりやや先行する『史記』孟子伝に、前漢末『楊氏法言』五百巻第八に、『後漢書』光武帝本紀に見える。「俎豆~未之学」は『史記』孔子世家に見える。ただしその後ろはこうなっている。
明日,與孔子語,見蜚鴈,仰視之,色不在孔子。孔子遂行,復如陳。
翌日、霊公は孔子と語ったが、空を飛ぶ雁を仰ぎ見ているだけで、孔子を気にかける様子も無かった。孔子はそのまま去り、陳に戻った。
とりあえず文字史から、史実の出来事として扱う。
解説
論語の本章の問答を、『史記』衛世家では、衛国家老の孔文子に問われたことになっている。霊公の死去の直後で衛の国情が荒れ、まさに内乱が起ころうとしていた時だった。孔子は答えず衛を去ったとある。
軍事についても孔子は詳しかった。だから孔子は空とぼけている。『春秋左氏伝』によると、哀公十一年(BC484)、斉が魯を攻めた時、弟子の冉有は孔子の兵法で勝利している。また『史記』孔子世家では、筆頭家老の季康子に問われて、冉有は以下のように答えた。

(哀公八年、BC487、孔子65歳)、冉有は李氏の将軍になり、斉と郎の地で戦い、斉に勝った。李康子が言った。「そなたはどこで戦いを学んだのか。生まれつき才があったのか。」冉有が言った。「孔子先生に教わりました。」
孔子が空とぼけたのは当然で、隣国の軍事強化に手を貸したくなかったからだ。衛国は魯国西北の隣国。殿様の霊公はやり手、そして時は春秋末期の戦乱時代、軍務大臣の王孫賈は有能、その他の諸大臣も出来物が揃っている(論語憲問篇20)。その軍事力増大に手を貸せば、魯国が危なくなりかねない。
孔子存命の頃から、大国ではないが由緒はあった春秋諸侯国が隣国に併合されるようになった。孔子が世を去るBC479の前年には南方の陳国が、それより先BC487には曹国が、孔子没後6年後には一度は覇者を気取った呉国が滅びている。
霊公も孔文子も、孔子が空とぼけているのを知っていただろう。霊公との問答の時点は、孔子が衛国内で不穏な工作をして監視された最中であり、孔文子との時点は、衛国に内乱が起きると分かりきっていた。「乱邦に居らず」(論語泰伯篇13)の言葉通り、孔子は逃げたわけ。
孔子は身を守るについても、したたかだった。
余話
(思案中)
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