論語詳解380A衛霊公篇第十五(1)衛霊公陳を’

論語衛霊公篇(1)要約:衛国亡命中の孔子先生。殿様からお呼びがかかりません。ある日やっと会見できたと思ったら、兵法を教えろとやり手の殿様。教えれば故国の魯が危なくなります。「はて何のことでしょうか」ととぼけたのでした。

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論語:原文・書き下し →項目を読み飛ばす

原文

衞靈公問陳*於孔子。孔子對曰、「俎豆之事、則嘗聞之矣。軍旅之事、未之學也。」明日遂行。

校訂

武内本

陳、釋文陣に作り、史記世家引兵陳に作る。蓋し陣は陳の俗字、史記は陳の字を解して兵陳となすなるべし。

定州竹簡論語

靈公問陳於孔……412……明日[遂行

復元白文

衛 金文霊 金文公 金文問 金文陳 金文於 金文孔 金文子 金文 孔 金文子 金文対 金文曰 金文 俎 金文豆 金文之 金文事 金文 則 金文嘗 金文聞 金文之 金文已 矣金文 軍 金文旅 金文之 金文事 金文 未 金文之 金文学 學 金文也 金文 明 金文日 金文遂 金文行 金文

※矣→已。論語の本章は也の字を断定で用いているなら、戦国時代以降の儒者による捏造である。

書き下し

ゑい靈公れいこういくさ孔子こうしふ。孔子こうしこたへていはく、俎豆まつりことすなはかつこれ軍旅いくさこといまこれまなばざるかななりと。明日あけのひつひる。

論語:現代日本語訳 →項目を読み飛ばす

逐語訳

論語 衛霊公
衛の霊公が軍事を孔子に問うた。先生が答えて言った。「祭礼のことは確かに前から聞いてます。軍隊のことはまだ学んでいませんなあ。」翌日そのまま去った。

意訳

霊公「博識なそなたのことじゃ。何かいくさの必勝法を知らぬかな?」

論語 孔子 とぼけ
孔子「はて。祭礼ならお任せ下さって結構ですが、いくさはとんと知りませぬなあ。」
…と、とぼけたが、監視を付けた前科のある霊公が何をしでかすか分からんので、翌日とっとと衛国を出た。

従来訳

論語 下村湖人

衛の霊公が戦陣のことについて先師に質問した。先師がこたえていわれた。――
「私は祭具の使い方については学んだことがありますが、軍隊の使い方については学んだことがございません。」
翌日先師はついに衛を去られた。――

下村湖人『現代訳論語』

現代中国での解釈例

衛靈公向孔子詢問排兵布陣之法,孔子說:「禮儀方面的事,我還懂一點;用兵打仗的事,我沒學過。」孔子第二天就離開了衛國。

中国哲学書電子化計画

衛の霊公が孔子に兵の配置と陣立ての法を問うた。孔子が言った。「礼儀方面のことなら、私はすでにいささか心得があります。用兵や戦争のことは、まだ学んだことがありません。」孔子は翌日すぐに衛国を離れた。

論語:語釈 →項目を読み飛ばす

衞(衛)靈(霊)公

論語 衛 金文 論語 霊 金文 論語 公 金文
(金文)

BC540-BC493。BC534年即位。論語時代の衛の代9代君主。姓は姫、名は元。妃は南子。太子は蒯聵カイカイ。やり手の君主で、小国の衛を大国・晋の圧力からよく守り抜いた。BC497、孔子が衛国に亡命した際には、特に仕事も与えないのに、粟六万斛、現代日本円換算で111億円をポンと与えている。しかし孔子を政権中枢へ据えようとはしなかった。人材がすでに揃っていたからだ。論語語釈「衛」も参照。

「霊公」は死後のおくり名で、『逸周書」諡法解によると、暴君などに付けられるおくり名。だが霊公は到底暴君とも暗君とも言えず、実は後世の儒者が勝手に付けた名前である可能性が高い。孔子が霊公を「無道だ」と論語で言ったからである(論語憲問篇20)。論語語釈「霊」も参照。

論語 陳 金文
(金文)

論語の本章では”陣立て”。初出は西周中期の金文

原義を『字通』では、神が降りてくる階段+ふくろと解し、神前に供え物の袋が並べて置いてある姿といい、ここから”並べる”の原義が生まれたという。『学研漢和大字典』では、阜+並べた土嚢と解し、土嚢を平らに列をなして並べる事だという。詳細は論語語釈「陳」を参照。

漢文では、”並べる・述べる・陣立て”の語義と、春秋時代・南北朝時代の南方の国名「陳」を知っていればたいてい間に合う。

俎豆(ソトウ)

論語 俎 金文 論語 豆 金文
(金文)

論語の本章では”祭礼”。「俎」は供え物の肉を置くまな板状の台。論語では本章のみに登場。「豆」は供え物の穀物・めしを盛るたかつき。「俎豆」二文字で祭礼・儀式を言う。「俎上にのせる」とは、まな板の上にのせるように、物事を検討すること。
論語 俎豆

論語語釈「俎」論語語釈「豆」も参照。

論語 則 解字
論語の本章では”とりもなおさず”。原義は料理を盛った青銅器と、食事用ナイフの組み合わせで、不可分にセットになっている事を表す。詳細は論語語釈「則」を参照。

嘗(ショウ)

論語 嘗 金文
(金文)

論語の本章では、”以前に”。原義は”舐める”で、少し食べてみることから、”試みる”の意もある。”かつて・以前に”の意味になったのは、音が「曽」と通じたため。詳細は論語語釈「嘗」を参照。

軍旅

論語 軍 金文 論語 旅 金文
(金文)

論語の本章では、”軍事”。「旅」はもともと軍隊の一単位を意味し、その場合は”たび”ではない。旗を持って大勢の者が行列で進むさま。現代の「旅団」という言葉にその語義を留めている。詳細は論語語釈「軍」論語語釈「旅」を参照。

遂(スイ)

論語 遂 金文
(金文)

論語の本章では、「ついに」と読み、”そのまま”。超多義語で、”遂げる”が『大漢和辞典』の第一義。「ついに」の用法については、漢文読解メモ:「ついに」を参照。

論語:解説・付記

論語の本章の問答を、『史記』衛世家では、衛国家老の孔文子に問われたことになっている。霊公の死去の直後で衛の国情が荒れ、まさに内乱が起ころうとしていた時だった。孔子は答えず衛を去ったとある。どちらの問答も史実か、あるいは司馬遷のミスなのかは分からない。

軍事についても孔子は詳しかった。だから孔子は空とぼけている。『春秋左氏伝』によると、哀公十一年(BC484)、斉が魯を攻めた時、弟子の冉有センユウは孔子の兵法で勝利している。また『史記』孔子世家では、筆頭家老の季康子に問われて、冉有は以下のように答えた。

論語 冉求 冉有
(哀公八年、BC487、孔子65歳)、冉有は李氏の将軍になり、斉と郎の地で戦い、斉に勝った。李康子が言った。「そなたはどこで戦いを学んだのか。生まれつき才があったのか。」冉有が言った。「孔子先生に教わりました。」

孔子が空とぼけた理由は分からない。儒者は霊公が孔子の教説を尊ばなかったから、あるいは単に霊公がアホウだったから教えなかったと言っている。狂信から来た個人の感想で当てにならない。訳者の個人的感想は異なる。孔子は他国に軍事を教えるのがイヤだっただけだ。

衛国は魯国西北の隣国。孔子は褒めなかったが、殿様の霊公はやり手。そして時は春秋末期の戦乱時代、軍務大臣の王孫は有能、その他の諸大臣も出来物が揃っている(論語憲問篇20)。その軍事力増大に手を貸せば、魯国が危なくなりかねない。孔子はそれを恐れたのだ。

孔子は自分を各国政界に売り込みたいのは山々だったが、その主張は「政権をごっそり寄こせ」というもので、だからどこでも仕官できなかった。一方諸侯が求めたのは富国強兵の策で、孔子全体ではなく才能の一部分を求めた。売り方買い方が揃わない。浪人は当然だった。
論語 耐乏生活

霊公も孔文子も、孔子が空とぼけているのを知っていただろう。霊公との問答の時点は、孔子が衛国内で不穏な工作をして監視された最中であり、孔文子との時点は、衛国に内乱が起きると分かりきっていた。「乱邦に居らず」(論語泰伯篇13)の言葉通り、孔子は逃げたわけ。

孔子は身を守るについても、したたかだった。

警告

漢文業界の者は嘘つき中国人そっくりで、微塵も信用ならぬ(→理由)ので、数言申し上ぐ。


出典明記の引用は自由だが(ネット上では可動リンク必須)、盗用・剽窃は居合を嗜む有段者の訳者が、櫓櫂の及ぶ限り追い詰める。言い訳無用。訳者が「やった」と思ったら、全国どこでも押し込む。頭にきたら海外にも出かけ、バッサリやってすぐ帰る。訳者は暇であるし、惜しむものを持っていないし、面倒が苦にならぬゆえ、こうして古典を研究している。

刀の手入れは毎日している。そして未だ人を斬ったことが無い。

盗作・剽窃の通報歓迎。下手人を成敗した後、薄謝進呈。他人にやらせた者も同罪、まずそ奴から追い回してぶっ○○る。覚悟致せ。

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