論語:原文・書き下し
原文(唐開成石経)
子曰君子無所爭必也射乎揖讓而升下而飮其爭也君子
校訂
東洋文庫蔵清家本
子曰君子無所爭必也射乎/揖讓而升下而飮/其爭也君子
後漢熹平石経
…也射…
定州竹簡論語
(なし)
標点文
子曰、「君子無所爭、必也射乎。揖讓而升下、而飮。其爭也君子。」
復元白文(論語時代での表記)
揖讓
※爭→甲骨文。論語の本章は「揖」「讓」が論語の時代に存在しない。「爭」「必」「乎」「其」の用法に疑問がある。本章は後世の儒者による創作である。
書き下し
子曰く、君子は爭ふ所無きも、必ず也射乎。揖きの讓なし而升り下り、し而飮む。其の爭也君子たり。
論語:現代日本語訳
逐語訳
先生が言った。「情け深い教養人は争わない。争うなら必ず射礼だよ。お辞儀して上り下りし、そして酒を飲む。その争いは君子らしい。」
意訳
立派な紳士はケンカしない。競うなら弓仕合にしなさい。お辞儀して射場に上り下りし、射終えたら清めの盃を交わす。上品でよかろう?
従来訳
先師がいわれた。――
「君子は争わない。争うとすれば弓の競射ぐらいなものであろう。それもゆずりあって射場にのぼり、勝負がすむと射場を下って仲よく酒をのむ。争うにしても君子らしく争うのだ。」下村湖人『現代訳論語』
現代中国での解釈例
孔子說:「君子沒有可爭的事情。要爭的話,就象射箭比賽:賽前互相行禮,賽後互相緻敬。這樣的競爭,具有君子風度。」
孔子が言った。「君子は争わねばならない理由を持たない。もし争うなら、それは必ず弓比べのたぐいだ。競う前に互いに礼を行い、終えたら丁寧に敬意を表す。このような競い合いなら、君子の雰囲気を保てる。」
論語:語釈
子曰(シエツ)(し、いわく)
論語の本章では”孔子先生が言った”。「子」は貴族や知識人に対する敬称で、論語では多くの場合孔子を指すが、そうでない例外もある。「子」は生まれたばかりの赤ん坊の象形、「曰」は口から息が出て来る事を示す会意文字。「子」も「曰」も、共に初出は甲骨文。辞書的には論語語釈「子」・論語語釈「曰」を参照。
この二文字を、「し、のたまわく」と読み下す例があるが、漢語の「曰」に敬語の要素は無い。おじゃる公家の昔から、日本の論語業者が世間から金をむしるためのハッタリと見るべきで、現在の論語読者が従うべき理由はないだろう。
君子(クンシ)
(甲骨文)
論語の本章では、「よきひと」と訓読して”慈悲深い教養人”。「君」の初出は甲骨文。
「君」は「丨」”筋道”を握る「又」”手”の下に「𠙵」”くち”を記した形で、原義は天界と人界の願いを仲介する者の意。古代国家の君主が最高神官を務めるのは、どの文明圏でも変わらない。辞書的には論語語釈「君」を参照。
以上の様な事情で、「君子」とは孔子の生前は単に”貴族”「もののふ」を意味するか、孔子が弟子に呼びかけるときの”諸君”「きんだち」の意でしかない。それが後世、”情け深い教養人”「よきひと」などと偽善的意味に変化したのは、儒家を乗っ取って世間から金をせびり取る商材にした、孔子没後一世紀の孟子から。詳細は論語における「君子」を参照。
無(ブ)
(甲骨文)
論語の本章では”…が無い”。初出は甲骨文。「ム」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)。甲骨文の字形は、ほうきのような飾りを両手に持って舞う姿で、「舞」の原字。その飾を「某」と呼び、「某」の語義が”…でない”だったので、「無」は”ない”を意味するようになった。論語の時代までに、”雨乞い”・”ない”の語義が確認されている。戦国時代以降は、”ない”は多く”毋”と書かれた。詳細は論語語釈「無」を参照。
所(ソ)
(金文)
論語の本章では”…するところのこと”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は春秋末期の金文。「ショ」は呉音。字形は「戸」+「斤」”おの”。「斤」は家父長権の象徴で、原義は”一家(の居所)”。論語の時代までの金文では”ところ”の意がある。詳細は論語語釈「所」を参照。
爭(ソウ)
(甲骨文)
論語の本章では”あらそう”。この語義は春秋時代では確認できない。新字体は「争」。初出は甲骨文。金文は見つかっていない。『大漢和辞典』の第一義は”あらそう”。甲骨文の字形は「戈」”カマ状のほこ”+「又」”手”で、ほこをとって争うさま。原義はおそらく”争う”。甲骨文では人名に用いた。詳細は論語語釈「争」を参照。
必(ヒツ)
(甲骨文)
論語の本章では”必ず”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。原義は先にカギ状のかねがついた長柄道具で、甲骨文・金文ともにその用例があるが、”必ず”の語義は戦国時代にならないと、出土物では確認できない。『春秋左氏伝』や『韓非子』といった古典に”必ず”での用例があるものの、論語の時代にも適用できる証拠が無い。詳細は論語語釈「必」を参照。
也(ヤ)
(金文)
論語の本章では、「や」と読んで、文頭の主語・副詞を強調する意を示す。初出は事実上春秋時代の金文。字形は口から強く語気を放つさまで、原義は”…こそは”。春秋末期までに句中で主格の強調、句末で詠歎、疑問や反語に用いたが、断定の意が明瞭に確認できるのは、戦国時代末期の金文からで、論語の時代には存在しない。詳細は論語語釈「也」を参照。
射(シャ)
(甲骨文)
論語の本章では”弓術”。初出は甲骨文。「シャ」の音で”射る”を、「ヤ」の音で官職名を、「エキ」の音で”いとう”・”あきる”の意を表す。甲骨文の字形は矢をつがえた弓のさま。金文では「又」”手”を加える。原義は”射る”。甲骨文では原義、官職名、地名に用いた。金文では”弓競技”の意に用いた。詳細は論語語釈「射」を参照。
君子=当時の貴族は戦時の将校を兼ねており、武芸として弓術は必須だった。孔子塾の必須科目、六芸にも入っている。
乎(コ)
(甲骨文)
論語の本章では、”~だよ”と訳し、勧誘の意を示す。この語義は春秋時代では確認できない。文末・句末におかれる。初出は甲骨文。甲骨文の字形は持ち手を取り付けた呼び鐘の象形で、原義は”呼ぶ”こと。甲骨文では”命じる”・”呼ぶ”を意味し、金文も同様で、「呼」の原字となった。句末の助辞として用いられたのは、戦国時代以降になる。ただし「烏乎」で”ああ”の意は、西周早期の金文に見え、句末でも詠嘆の意ならば論語の時代に存在した可能性がある。詳細は論語語釈「乎」を参照。
揖讓(ユウジョウ)
「揖」前漢隷書/「讓」晋系戦国文字
会釈して譲ること。揖は両手を胸の前で合わせて行う礼。
「揖」の初出は前漢の隷書で、論語の時代に存在しない。同音に邑とそれを部品とする漢字群。語義は挹が共有するが、初出は後漢の『説文解字』。『大漢和辞典』で”えしゃく”を引くと「揖」とともに「撎」(エイ・イ)が出てくるが、こちらも初出は『説文解字』。詳細は論語語釈「揖」を参照。
「讓」の初出は晋系戦国文字で、論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補も無い。同音は旁に襄を持つ一連の漢字群。字形は「言」+「口」+「羊」で、”羊を供えて神に何かを申す”ことだろう。従って『大漢和辞典』の語釈の中では、”祭りの名”が原義と思われる。さらに”ゆずる”の語義は派生義となる。詳細は論語語釈「譲」を参照。
而(ジ)
(甲骨文)
論語の本章では”…し終えて…”。初出は甲骨文。原義は”あごひげ”とされるが用例が確認できない。甲骨文から”~と”を意味し、金文になると、二人称や”そして”の意に用いた。英語のandに当たるが、「A而B」は、AとBが分かちがたく一体となっている事を意味し、単なる時間の前後や類似を意味しない。詳細は論語語釈「而」を参照。
升(ショウ)
(甲骨文)
論語の本章では”(射場に)上る”。初出は甲骨文。甲骨文の字形は「斗」”ひしゃく”+「氵」”液体”で、ひしゃくで一杯すくうさま。原義は”ひしゃく一杯分の量”。甲骨文では原義で、金文では加えて神霊に”酒を捧げる”、”のぼせる”の意に用いた。詳細は論語語釈「升」を参照。
下(カ)
(甲骨文)
論語の本章では”(射場から)下る”。初出は甲骨文。「ゲ」は呉音。字形は「一」”基準線”+「﹅」で、下に在ることを示す指事文字。原義は”した”。によると、甲骨文では原義で、春秋までの金文では地名に、戦国の金文では官職名に(卅五年鼎)用いた。詳細は論語語釈「下」を参照。
飮(イン)
「飲」(甲骨文・金文)
論語の本章では”酒を飲む”。初出は甲骨文。新字体は「飲」。初出は甲骨文。字形は「酉」”さかがめ”+「人」で、人が酒を飲むさま。原義は”飲む”。甲骨文から戦国の竹簡に至るまで、原義で用いられた。詳細は論語語釈「飲」を参照。
既存の論語本では、”負けた側が罰杯として飲む”とある例が多いが、互いに飲むとする史料もある。甲骨文を見ると、酒ツボをのぞき込んで飲んでいるように、また金文を見ると、酒ツボから飲んでいる人を、後ろから「早く代われよ!」と文句を言っているように見えて面白い。
揖讓而升下、而飮。
古注では「揖讓而升下、而飮」と句読を切り、”お辞儀して射場に上り下りし、そして飲む”と解す。
古注『論語集解義疏』
揖讓而升下而飮註王肅曰射於堂升及下皆揖讓而相飲也。
本文「揖讓而升下而飮」。注釈。王粛「射礼は屋根のある射場で行い、上り下りはどちらもお辞儀を伴い、そして互いに酒を飲むのである。」
古注は記号「而」の存在により、「而升下」と「而飮」はともに「揖讓」の下部ディレクトリに属する、と考えているようだ。
揖讓┬而升下 └而飮
対して通説では「揖讓而升、下而飮」と句読を切り、”お辞儀して射場に上がり、下りて飲む”と解す。これは新注による。
新注『論語集注』
揖讓而升者,大射之禮,耦進三揖而後升堂也。下而飮,謂射畢揖降,以俟眾耦皆降,勝者乃揖不勝者升,取觶立飲也。
「揖讓而升」とは、射礼の際、競技者が二人並んで射場に進み、三度お辞儀してから射場に上がることをいう。「下而飮」とは、競技が終わればお辞儀して射場から下り、競技者の組が全員射場から下がるのを待って、勝者がお辞儀し敗者が盃を差し出し、その盃を取って立ったまま飲むことをいう。
新注はA而Bの文型がつ並立していると考えているようだ。
揖讓-而-升 下-而-飮
両者の当否は文法・語法的には甲乙付けがたい。だが孔子は弓比べを「優雅な君子の争い」だと言っている。射場に立つ前は丁寧にお辞儀したのに、射終えると互いに知らんふり、勝手に下がってガバガバ飲む、という新注的解釈は、訳者には優雅とは思えない。
其(キ)
(甲骨文)
論語の本章では”その”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。甲骨文の字形は「𠀠」”かご”。かごに盛った、それと指させる事物の意。金文から下に「二」”折敷”または「丌」”机”・”祭壇”を加えた。人称代名詞に用いた例は、殷代末期から、指示代名詞に用いた例は、戦国中期からになる。詳細は論語語釈「其」を参照。
論語:付記
検証
論語の本章は、前漢初期に儒者が礼法を周代にかこつけて創作した『小載礼記』に再録するまで、春秋戦国の誰一人引用していない。論語の時代に無い文字を用い、定州竹簡論語にも無いことから、前漢のいずれかの段階で創作されたと考えるのが筋が通る。
解説
この『礼記』の記述を根拠に、周代に主催者が王から村長に至る各級の弓術大会、すなわち「射礼」が行われたと儒者は言った。『小載礼記』はまるまる一篇を「射礼」にあて、主催者の階級によって射場のしつらえや、大会当日までの準備に細かな規定がある。
こういう差別の体系を帝政期の儒者は「礼」と言った。礼を知る者と知らない者との間で、不思議な上下関係が発生し、カネや暴カによらずとも、人を恐れ入らせることができる。宗教と手口は同じで、要するに特権階級が自分らの特権に社会が文句を言わないよう黙らせるための仕掛け。
今の中国は人民共和国で、社会に階級があってはならないはずだが、古代に関しては「射礼」なる差別ごっこがあってもよいことになっている。中共のヒモ付き御用学者(国務院政府特殊津貼専家)だった劉雨(1938-2020)は、「漢語多功能字庫」によると次のように言っている。
「射」乃古代教育中的「六藝」之一,指的固是射箭,但金文所見「射」皆非用於軍事或田獵上,反而多為王侯的射禮。
「射」の字は古代教育の「六芸」の一つであり、もとより弓矢を射ることだが、金文での「射」は、全て軍事でも狩猟でもない場面で用いられ、多くは王侯が行う「射礼」を意味した。
だが論拠の孔子の言葉が創作である以上、「射礼」などというものが周代にあったか極めて如何わしく、劉雨の言い分はまことに儒者の後裔らしい出任せだ。金文の時代は殷末から戦国まで続いたが、例外を除き戦乱続きで、「射」は礼儀ではなく、軍事や狩猟と不可分だった。
儒者も日中の漢学教授も、「礼」を礼儀作法の中だけに限定して考えたがる。しかし孔子生前の礼とは、もっと広く、貴族の一般常識を指していた(論語における「礼」)。そして当時の君子=貴族はほぼ例外なく戦士であり、射礼も現役軍人による競技会と考えるべきだ。
余話
騎兵の射撃武器
周王朝や諸侯国が領民に弓術を奨励したことはあったろうし、弓術大会も開かれただろうが、それはひとえに強兵のためだった。前近代の中国史とは、漢人と北方遊牧民との抗争史に他ならないが、騎馬で押し寄せてくる遊牧民に、唯一有効だったのが弓矢だったからだ。
中国の弓は、和弓のように長大ではなく、西洋の狩人が持っているような半弓を用いる。それは論語時代も変わりなく、戦場では戦車長が弓を持って長距離攻撃を担当した。訳者の経験も交えると、弓とは当たるものではない。まして揺れる戦車から射るとなるとなおさらだ。
ヨーロッパに火器を主武器にする騎兵が現れると、やがて竜騎兵と呼ばれた。射程を犠牲にして弾の拡散、つまり命中率を狙ったラッパ銃を持ったからで、その発砲が火を噴くドラゴンにたとえられた。揺れと飛び道具の命中が、いかに両立しがたいかを物語っている。
同時期、清の騎兵も銃を装備したが、鳥銃と呼ばれる準狙撃銃だった。だが先込め銃だから一発撃てば終わりで、ゆえに必ず弓矢も同時に携行した。狩猟民の満洲人にはなじみがあったからだが、速射で数打つためだった。やはり揺れと命中が、両立しがたい事を物語っている。
従って春秋時代、戦車に乗って戦う軍人は、武芸の稽古をする余裕の有る貴族に限られた。弓は熟達するのに時間がかかるのと引き替えに、連射が利く。従って戦時に徴兵される庶民は歩兵として戦い、主に長柄武器を持たされ、飛び道具の場合は器械仕掛けの弩を持たされた。
弩は目当てが付いているから当てやすく、引き絞ったままの姿勢を保つ必要もないので、弓よりは稽古に時間がかからなかった。ただし弩機に貴重な青銅が要り、作りも精密なので弓ほど量産できなかった。だから普段から半弓を扱いなれている猟師は、戦場で重宝されただろう。
近代ヨーロッパでも施条狙撃銃に慣れた猟師は、庶民を徴募しマスケット銃を持たせた戦列歩兵とは別に編成され、ドイツ系の軍隊では猟兵と呼んだ。やがて歩兵もボルトアクション銃を持ち狙撃が可能になると、猟兵は高度な訓練を受けたエリート兵の名へ転用された。
なお孔門十哲の一人・子夏の弟子とされる李悝は、論語の時代からそう遠くない戦国初期を生きたが、次のような伝説が伝わっている。
李悝為魏文侯上地之守,而欲人之善射也,乃下令曰:「人之有狐疑之訟者,令之射的,中之者勝,不中者負。」令下而人皆疾習射,日夜不休。及與秦人戰,大敗之,以人之善射也。
李悝は魏の文侯に仕えて、上地(上党、山西省)の知事に任じられたが、住民に弓術を仕込みたいと考えた。そこでお触れを出していわく、「もし裁判で両方の言い分に決着が付かない場合は、弓比べをさせて、当たった方の勝訴とし、当たらなかった者は敗訴とする。」
お触れが下ると、領民はこぞってイソイソと弓の稽古を始め、日夜飽きずにやり続けた。そのうち秦との戦が起こったが、強兵で知られる秦兵が、負けて逃げ帰ったのは、上地の住民に、さんざん射すくめられたからだ。(『韓非子』内儲上47)
李悝が住民に持たせたのは半弓だったろうが、クレシーやアジャンクールの戦いのように、弓隊は騎馬軍団、それも槍を持つ重装騎兵でさえ撃退できる。後漢末までの、鐙を持たない遊牧民の騎兵ならなおさらで、長柄武器を持たないから歩兵の集団は追い散らされる心配がない。
棒術の有段者として確言できる。長柄武器は集団をなぎ払うことが出来る。代わりに足腰が安定していないと、遠心力で自分がすっ転ぶ。馬上で転べば落馬は必至で、落ちた騎兵がわっと歩兵に取り囲まれたら、それはもうむごい目に遭わされる。鐙は世界史を塗り替えたのだ。
北方遊牧民の匈奴が、のちに漢の高祖劉邦の軍を、あわやという所まで追い詰めながら、ついに中華帝国を圧倒できなかったのは、ひとえに鐙の不在による。時代が下って匈奴が鐙を持ち、鮮卑と名を変えた西晋あたりの時代になって、ようやく遊牧民は華北を制圧した。
この鮮卑人の政権が、やがて南北朝を統一して隋唐帝国を建てるに至る。
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