論語:原文・書き下し
原文(唐開成石経)
朋友死無所歸曰於我殯朋友之饋雖車馬非祭肉不拜
校訂
東洋文庫蔵清家本
朋友死無所𨺔曰於我殯/朋友之饋雖車馬非祭肉不拜
慶大蔵論語疏
朋〔友丶〕1〔一𠂎匕〕2无3所𨺔4曰扵5我殯/朋〔友丶〕1之饋/〔口衣隹〕6車馬非祭〔穴二八〕7不〔手王卞〕8
- 「友」の異体字。「魏寇憑墓志」(北魏)・「唐元祕塔碑」刻。
- 「死」の異体字。『敦煌俗字譜』所収。
- 「無」の異体字。初出は戦国最末期「睡虎地秦簡」。
- 「歸」の異体字。「隋元仁宗墓誌」刻。
- 「於」の異体字。「唐王段墓誌銘」刻、『新加九経字様』(唐)所収。
- 「雖」の異体字。「魏內司楊氏墓誌」(北魏)刻。
- 「肉」の異体字。「魏孫遼浮圖銘」(北魏)刻字近似。
- 「拝」の異体字。「東魏齊太公呂望碑」刻。
後漢熹平石経
(なし)
定州竹簡論語
(なし)
標点文
朋友死、無所歸。曰、「於我殯。」朋友之饋、雖車馬、非祭肉、不拜。
復元白文(論語時代での表記)
殯
※論語の本章は「殯」の字が論語の時代に存在しない。本章は漢帝国の儒者による創作である。
書き下し
朋友死して、歸る所無し。曰く、我に於て殯せよと。朋友の饋は、車・馬と雖も、祭りの肉に非ざれば拜ま不。
論語:現代日本語訳
逐語訳
先生は、引き取り手のない友人が亡くなった時は、「うちで通夜をしよう」と言った。
友人からの贈り物は、車や馬であっても拝んで受け取らなかったが、祭りのお下がりの肉は、礼法通りに跪き拝んで受け取った。
意訳
同上
従来訳
先生は、友人が死んで遺骸の引取り手がないと、「私のうちで仮入棺をさせよう」といわれる。
先生は、友人からの贈物だと、それが車馬のような高価なものでも、拝して受けられることはない。ただ拝して受けられるのは、祭の供物にした肉の場合だけである。下村湖人『現代訳論語』
現代中国での解釈例
朋友死了,沒人辦喪事,孔子說:「我來辦。」朋友的贈品,即使是車馬,不是祭肉,不拜。
友人が亡くなったが、弔う人がいない。孔子が言った。「私がやろう。」友人からの贈り物は、車や馬であっても、祭祀のお下がりの肉でない限り、拝んでは受け取らなかった。
論語:語釈
朋(ホウ)
(甲骨文)
論語の本章では”友人”。「朋友」で”友人・仲間”を意味する。初出は甲骨文。字形はヒモで貫いたタカラガイなどの貴重品をぶら下げたさまで、原義は単位の”一差し”。春秋末期までに原義と”朋友”の語義が確認できる。詳細は論語語釈「朋」を参照。
友(ユウ)
(甲骨文)
論語の本章では”友人”。初出は甲骨文。甲骨文の字形は複数人が腕を突き出したさまで、原義はおそらく”共同する”。論語の時代までに、”友人”・”友好”の用例がある。詳細は論語語釈「友」を参照。
慶大蔵論語疏は異体字「〔友丶〕」と記す。「魏寇憑墓志」(北魏)・「唐元祕塔碑」刻。
死(シ)
(甲骨文)
論語の本章では”死ぬ”。字形は「𣦵」”祭壇上の祈祷文”+「人」で、人の死を弔うさま。原義は”死”。甲骨文では、原義に用いられ、金文では加えて、”消える”・”月齢の名”、”つかさどる”の意に用いられた。戦国の竹簡では、”死体”の用例がある。詳細は論語語釈「死」を参照。
慶大蔵論語疏は異体字「〔一𠂎匕〕」と記す。『敦煌俗字譜』所収。
無(ブ)
(甲骨文)
論語の本章では”無い”。初出は甲骨文。「ム」は呉音。甲骨文の字形は、ほうきのような飾りを両手に持って舞う姿で、「舞」の原字。その飾を「某」と呼び、「某」の語義が”…でない”だったので、「無」は”ない”を意味するようになった。論語の時代までに、”雨乞い”・”ない”の語義が確認されている。戦国時代以降は、”ない”は多く”毋”と書かれた。詳細は論語語釈「無」を参照。
慶大蔵論語疏は異体字「无」と記す。初出は戦国最末期「睡虎地秦簡」。詳細は論語語釈「无」を参照。
所(ソ)
(金文)
論語の本章では”場所”。初出は春秋末期の金文。「ショ」は呉音。字形は「戸」+「斤」”おの”。「斤」は家父長権の象徴で、原義は”一家(の居所)”。論語の時代までの金文では”ところ”の意がある。詳細は論語語釈「所」を参照。
歸(キ)
(甲骨文)
論語の本章では”帰る”→”葬儀を行うべき家族”。新字体は「帰」。甲骨文の字形は「𠂤」”軍隊”+「帚」”ほうき→主婦権の象徴”で、軍隊が王妃に出迎えられて帰還すること。詳細は論語語釈「帰」を参照。
慶大蔵論語疏は異体字「𨺔」と記す。「隋元仁宗墓誌」刻。
曰(エツ)
(甲骨文)
論語で最も多用される、”言う”を意味する言葉。初出は甲骨文。原義は「𠙵」=「口」から声が出て来るさま。詳細は論語語釈「曰」を参照。
於(ヨ)
(金文)
論語の本章では”…によって”。初出は西周早期の金文。ただし字体は「烏」。「ヨ」は”~において”の漢音(遣隋使・遣唐使が聞き帰った音)、呉音は「オ」。「オ」は”ああ”の漢音、呉音は「ウ」。現行字体の初出は春秋中期の金文。西周時代では”ああ”という感嘆詞、または”~において”の意に用いた。詳細は論語語釈「於」を参照。
慶大蔵論語疏は異体字「扵」と記す。「唐王段墓誌銘」刻、『新加九経字様』(唐)所収。
我(ガ)
(甲骨文)
論語の本章では”わたし(の家)”。初出は甲骨文。字形はノコギリ型のかねが付いた長柄武器。甲骨文では占い師の名、一人称複数に用いた。金文では一人称単数に用いられた。戦国の竹簡でも一人称単数に用いられ、また「義」”ただしい”の用例がある。詳細は論語語釈「我」を参照。
殯*(ヒン)
(篆書)
論語の本章では”通夜”。日本では一晩だけ安置して葬るが、論語時代の礼法では例えば君主であれば数年かけて安置し、その後葬った。論語では本章のみに登場。初出は後漢の説文解字。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。字形は「歹」”しかばね”+「賓」”お客として応接する”。死者をあの世へ旅立つお客としてもてなすこと。同音は「賓」「濱」「儐」”取り次ぎ役”、「擯」”捨てる・導く”、「鬢」”顔の両側”。文献上の初出は論語の本章。戦国時代までは、最末期の『荀子』にしか用例が無い。詳細は論語語釈「殯」を参照。
之(シ)
(甲骨文)
論語の本章では”…の”。初出は甲骨文。字形は”足”+「一」”地面”で、あしを止めたところ。原義はつま先でつ突くような、”まさにこれ”。殷代末期から”ゆく”の語義を持った可能性があり、春秋末期までに”~の”の語義を獲得した。詳細は論語語釈「之」を参照。
饋*(キ)
(金文)
論語の本章では”贈る”ことだが、食+貴だから、貴重な食品類を贈ること。論語ではこの郷党篇のみに登場。初出は春秋末期の金文。それより前、西周早期の金文から「歸」(帰)を「饋」と釈文する例がある。字形は「食」+「貴」”贈る”。食べ物を贈ること。”贈る”意での「貴」から、西周早期に「遺」の字が分化した。春秋末期から、”贈る”の意に用いた。現代では送電線を「饋電線」という。詳細は論語語釈「饋」を参照。
雖(スイ)
(金文)
論語の本章では”たとえ…でも”。初出は春秋中期の金文。字形は「虫」”爬虫類”+「隹」”とり”で、原義は不明。春秋時代までの金文では、「唯」「惟」と同様に使われ、「これ」と読んで語調を強調する働きをする。また「いえども」と読んで”たとえ…でも”の意を表す。詳細は論語語釈「雖」を参照。
慶大蔵論語疏は異体字「〔口衣隹〕」と記し、「魏內司楊氏墓誌」(北魏)刻。
車(シャ/キョ)
(甲骨文)
論語の本章では”くるま”。初出は甲骨文。甲骨文・金文の字形は多様で、両輪と車軸だけのもの、かさの付いたもの、引き馬が付いたものなどがある。字形はくるまの象形。原義は”くるま”。甲骨文では原義で、金文では加えて”戦車”に用いる。また氏族名・人名に用いる。「キョ」の音は将棋の「香車」を意味する。詳細は論語語釈「車」を参照。
馬(バ)
(甲骨文)
論語の本章では馬車を引く”馬”。初出は甲骨文。初出は甲骨文。「メ」は呉音。「マ」は唐音。字形はうまを描いた象形で、原義は動物の”うま”。甲骨文では原義のほか、諸侯国の名に、また「多馬」は厩役人を意味した。金文では原義のほか、「馬乘」で四頭立ての戦車を意味し、「司馬」の語も見られるが、”厩役人”なのか”将軍”なのか明確でない。戦国の竹簡での「司馬」は、”将軍”と解してよい。詳細は論語語釈「馬」を参照。
非(ヒ)
(甲骨文)
論語の本章では”~でない”。初出は甲骨文。甲骨文の字形は互いに背を向けた二人の「人」で、原義は”…でない”。「人」の上に「一」が書き足されているのは、「北」との混同を避けるためと思われる。甲骨文では否定辞に、金文では”過失”、春秋の玉石文では「彼」”あの”、戦国時代の金文では”非難する”、戦国の竹簡では否定辞に用いられた。詳細は論語語釈「非」を参照。
祭(セイ)
(金文)
論語の本章では”祖先の祭祀”。「チンチンドコドン」の”お祭り”ではない。祈願にせよ定期的な供養にせよ、中国の霊魂は供え物という具体的なブツがないと言うことを聞かないと思われていたし、不足を感じれば祟ったりした。字形は〔示〕”祭壇”の上に〔月〕”供え物の肉”を〔又〕”手”で載せるさま。「サイ」は呉音。甲骨文から春秋末期の金文まで、一貫して”祖先の祭祀”の意に用いた。中国では祖先へのお供え物として生肉などが好まれた。そのような祖先への供物を「血食」という。詳細は論語語釈「祭」を参照。
肉(ジク)
(甲骨文)
論語の本章では食材としての”肉”。「ニク」は呉音。初出は甲骨文。初出の字形は「月」によく似ており、切り分けた肉の象形。戦国では木に吊して血抜きをする字形が見られる。甲骨文から”肉”を意味した。詳細は論語語釈「肉」を参照。
慶大蔵論語疏は異体字「〔宀二八〕」と記す。「魏孫遼浮圖銘」(北魏)刻字近似。
不(フウ)
(甲骨文)
漢文で最も多用される否定辞。初出は甲骨文。「フ」は呉音、「ブ」は慣用音。原義は花のがく。否定辞に用いるのは音を借りた派生義だが、甲骨文から否定辞”…ない”の意に用いた。詳細は論語語釈「不」を参照。
拜(ハイ)
(金文)
論語の本章では”おがむ”。初出は西周早期の金文。字形は「木」+「手」。手を合わせて神木に祈るさま。西周中期の字形に、「木」+”かぶり物をかぶり目を見開いた人”があり、神官が神木に祈る様を示す。新字体は「拝」。春秋末期までに、”おがむ”・”うけたまわる”の意に用いた。”任じる”の用例は戦国時代から。詳細は論語語釈「拝」を参照。
慶大蔵論語疏は異体字「〔手王卞〕」と記す。上掲「東魏齊太公呂望碑」刻。
論語:付記
検証
論語の本章は前漢中期の定州竹簡論語に無い。従って前漢後半から後漢にかけて創作された可能性もある。
しかし次章の簡には頭に欠損があり、「一枚に記された文字は19-21字」というし、また次章の現伝論語の文字列で、定州竹簡論語に残った部分より前にあるべき字数は22字だから、定州竹簡論語にはもともと、前章と次章の間に少なくとも1枚簡があったのは確実で、本章もまた欠損したと言えなくはない。
入大□□事問 簡257号
……必以貌六者式 簡258号
ただし本章は前後の章と比べて独自性があり、孔子の科白を含んでいることから主語が孔子と想定される。前後の章との整合性をまるで考慮しない、出来の悪いパッチワークだから、後漢儒によってねじ込まれたと考えるのにもまた理がある。
郷党篇 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 17 | 18 | 19 |
主語 | 孔 | 孔 | 孔 | 孔 | 孔 | 君 | 君 | 君 | 君 | 君 | 君 | 孔 | 孔 | 君 | 君 | 孔 | 君 | 君 | – |
いずれにせよ文字史的に論語の時代には遡れず、前後の漢儒による創作か、あるいは「殯」字の用例から、荀子による創作と考えてよい。
解説
論語の本章では、友達から車や馬のような高価な物を貰っても、拝まなかったとする。偽作者であろう後漢の儒者は、礼儀作法を見せつけることで他学派に対する優位性を誇示した。従って拝むこと一つ取っても理由がなければならず、ただの贈り物は拝む対象ではなかった。
しかも古注を参照すれば、友人同士で助け合うのは義務だから、ものを貰っても拝まないのが礼儀だという。「ありがとう」と頭を下げたら、それは無作法になるという。めんどうくさい作法をここでも、また一つこしらえている。
祭肉の場合は拝んだとあるのは、論語の前々章に見える主君の祭肉下賜と同類の話で、他家の祭祀のお下がりを貰う事は、その祭祀に共同で参加したことを意味する。それは友人であることの証しであり、家同士の同盟関係を象徴する行為で、拝むには立派な理由になった。
だから儀礼的・象徴的意味のある贈り物は、区別して「礼物」と言う。それでもこの儀礼は儒者の好みであり、その好き勝手を、すでに孔子没後直後に墨子が非難している。
〔儒者の主張では、妻と嫡男が亡くなれば三年間喪に服する。それを〕儒者はこう言い訳する。「妻は嫁ぎ先の祖先の祭祀に共同で参加し、子を生んで祭祀が絶えないようにする。嫡男がいずれ祭祀を行うのは言うまでもない。だから丁重に扱うのだ」と。ウソ八百もたいがいにしたらよかろう。
本家の長男は数十年間、祖先の祭祀を執り行うというのに、亡くなっても一年しか喪に服さない。その嫁が亡くなった場合はもっとひどい。全然喪に服さない。自分の妻子が亡くなれば喪は三年なのに。儒者が言う祖先の祭祀うんぬんは、まったくの口実に過ぎない。
妻子を重ねに重ねて尊重しながら、儒者が「親類縁者を大事にする」などと言い張るのは、自分の好みを言っているだけで、本当に祭祀を行うべき者を軽んじている。大変な悪党と言って良かろう。(『墨子』非儒篇下)
ここで挙げられているのは、妻子が死んだら三年の喪に服すのに、本家の兄が祖先の祭祀を絶やさぬよう勉めても、一年しか喪に服さないのはおかしい、という。友人の話ではないが、人間に等級を付ける孔子の礼は、しょせん孔子の好き勝手に過ぎないと非難したわけ。
礼儀作法などというものは、所詮それを行う者の趣味によるしかない。だが文化人類学の講義で、相手にツバを吐きかけるのが作法の民族がいると聞いた覚えもある。ならば何が作法かはその趣味人クラブの共同幻想で、古代中国の学派抗争は、その幻想の押し付け合いだった。
結果後漢帝国でほぼ儒家の勝利となり、宋帝国で政治的にも儒者の優位が確定した。墨子が非難した儒者のツバのかけ合いは、東アジア全体の模範になってしまったわけだが、日本には海があったおかげで、ほとんど真に受けないで済まされた期間が長かったことが幸いだった。
日本にこのような、洗脳的な頭のおかしい儒教が流行ったのは、むしろ明治になってからである。その結果が日本人皆殺し寸前まで行った、壊滅的な敗戦だったわけだから、こんにち論語を読もうとするなら、儒者のうそデタラメを、むしろ大いに笑い飛ばすべきだろう。
論語の本章、新古の注は次の通り。古注では、前半を前章と統合し、後半を独立して記している。本章部分をまとめて記す。
古注『論語集解義疏』
朋友死無所歸曰於我殯註孔安國曰重朋友之恩也無所歸無親昵也
朋友之饋雖車馬非祭肉不拜註孔安國曰不拜有通財之義也
本文「朋友死無所歸曰於我殯」。
注釈。孔安国「友人の恩を重んじたのである。無所歸とは、葬儀を出してくれるような親族がいないことである。
本文「朋友之饋雖車馬非祭肉不拜」。
注釈。孔安国「拝まなかったのは、友人はもともと、互いに助け合う義務があったからである。」
新注『論語集注』
朋友死,無所歸。曰:「於我殯。」朋友以義合,死無所歸,不得不殯。朋友之饋,雖車馬,非祭肉,不拜。朋友有通財之義,故雖車馬之重不拜。祭肉則拜者,敬其祖考,同於己親也。此一節,記孔子交朋友之義。
本文「朋友死,無所歸。曰:於我殯。」
朋友は正義観が同じだから付き合うので、その葬儀を誰も出してくれないなら、葬儀を引き受けるしかない。
本文「朋友之饋,雖車馬,非祭肉,不拜。」
朋友には”困ったときにはお互い様”の義務があり、だから車馬のような高価なものでも拝まなかった。祭肉に限って拝んだのは、相手のご先祖を敬ったからで、自分のご先祖と同様に扱った。この一節は、孔子が友人と交わるさまを記している。
余話
ネバーエンディング荒野
論語の本章を後世の偽作と断じた根拠である「殯」”もがり”字の再出を、戦国最末期の『荀子』としたが、通説に従うなら「殯」字を含む『小載礼記』も戦国の作になる。しかし『小載』には戦国に無い漢語がいくらもあり、その全てを戦国の作であると判定するのは難しい。
儒教経典で礼儀作法を記したものに、『礼記』『周礼』『儀礼』があって、これを「三礼」と呼ぶ。『礼記』はまた編集時期によって、『小載礼記』と『大載礼記』に分かれる。これら礼書類で、最も成立が早いと思われるのは『小載』で、雑多な伝承部分を含む。
五経 | ||||
詩経・書経・易経・春秋 | 礼経 | |||
三礼 | ||||
周礼 | 儀礼 | 礼記 | ||
小載礼記 | 大載礼記 |
従って伝承部分は、あるいは西周の昔に遡り得る話があっておかしくないが、さすがに「殯」は字そのものが無いから、西周~春秋時代に「殯」が無かったのは明らかだ。それに相当する作法があったかもしれないが、「もがり」と訓読できる漢字はいずれも、春秋に遡れない。
従って今のところ、春秋時代にもがりの習慣があった証拠がなくなる。対して明らかにもがりについてのウンチクを、中国で初めて垂れた荀子は、「遠方の縁者に死去を知らせ、そうした会葬者が揃うまでには数ヶ月はかかる」と言っている(『荀子』礼論18現代語訳)。
現代人が史書を読むとき、うっかりこういう技術のか細さを忘れやすい。
太古代の交通事情を思うべきである。西洋の古代ローマ帝国と肩を並べる秦漢帝国の、それよりさらに古いから太古代というのだが、春秋時代までものを書くような中国人は、なべて城郭都市に住んでおり、まちを一歩外に出れば途方もない荒野で、異族や猛獣がうろついていた。
荘公「蛮族どもがなぜこんな近くにいるのだ。追い払ってくれる。」(『史記』衛世家)
いくら古代人の目がいいからと言って、双眼鏡もなしに小屋がけが見えたのだから、城壁すぐ近くに異族がいたと考えるべきだ。なお孔子の生国である魯の西辺には、隋唐の頃まで「大野沢」という巨大な湖があり、北宋ごろに泥湿地となって、『水滸伝』の舞台となった。
気まぐれな黄河が土砂を流し入れ、獰猛な農民が埋め立ててしまったからだ。ゆえに湖面は今は僅かに東平湖だけが残るが、孔子が書きものをやめたきっかけとなった「麟」が捉えられたのも、大野沢周辺と伝わる。つまり春秋の頃には、周囲の野原に野獣が喜んで棲んだ。
荒野にはもちろん山はそびえっぱなし川は流れっぱなし。太々古の禹王が治水をしたというのは、どこまで本当か分からない。そこへ大規模な土木工事を施し、街道を通せるようになったのは戦国も末のことで、それでなお当時を生きた荀子は、「数ヶ月かかる」と言った。
例えば黄河に初めての橋が架かったのも、戦国末期だった。
史料に頼る限り、中国史上初の街道を造らせたのは始皇帝で、「馳道」と呼んで皇帝と勅許を得た者にのみ、通行を許した。強引な建設と言うべきで、現代でも大雨が降ると、数年間も鉄道が不通になり、赤字ローカル線だと「誰も乗らないし」とそのまま廃線になることが多い。
まして古代での馳道の維持はたいへんで、もちろん近隣住民に維持義務が課された。
法令誅罰日益刻深,群臣人人自危,欲畔者眾。又作阿房之宮,治直馳道,賦斂愈重,戍傜無已。
日増しに刑法は厳しく刑罰は重く、朝臣はそれぞれ「秦帝国も長くない」と思い始め、反乱を企む者が増えた。そこへ阿房宮を造れと命令が出、馳道を整備せよと命じられ、税率は上がりに上がり、兵役労役はいつまでも終わらなかった。(『史記』李斯伝)
歲凶,穀不登,臺扉不塗,榭徹干侯,馬不食穀,馳道不除,食減膳,饗祭有闕。
凶作で穀物が実らない年に限り、以下を免除する。官庁庁舎の壁の塗り直し、やしろの飾り付け、馬への穀物やり、街道の整備。食事は減らし、祭礼は簡素にする。(『新書』礼6)
そして馳道の第一の目的は、軍隊の移動であること、ローマ帝国と変わらない。
還攻樓煩三城,因擊胡騎平城下,所將卒當馳道為多。
(前漢創業期の名将・周勃は)軍を反転させて楼煩(山西省)にあった三つの都市を破り、そこを根拠地にして(高祖劉邦に背いた)韓信の配下にいた匈奴騎兵を、平城(山西省大同市)付近で攻撃したが、戦場に向かうため馳道にひしめく兵士ははなはだ多かった。(『史記』周勃伝)
だが上流階級にとっては平民の負担は知ったことでなく、やがて勝手に通る者が現れた。
逢館陶長公主行馳道中。充呵問之,公主曰:「有太后詔。」充曰:「獨公主得行,車騎皆不得。」盡劾沒入官。
(前漢武帝は、帝都長安に盗賊がはびこったので、江充を特高警察に任じて取り締まらせた。着任した江充が出くわした。武帝の叔母で義母、宮廷クーデターで強引に武帝を帝位に就けた)館陶長公主が、派手な供揃えを引き連れ、勝手に馳道を通ってやって来た。
江充「止まれィ!」
公主「…(うわっ、まずい奴に見つかった)。」
江充「誰かと思えば公主さまではありませんか。ここは馳道ですぞ?」
公主「こっこっこれはじゃな、えーとあれじゃ…そうじゃ、太后さま(竇太后。武帝にトラウマを植え付けた祖母で帝室のボス。『史記』儒林伝現代語訳参照)が通ってよいと申されたのじゃ。」
江充「本当でございますかな? 本当でございましょうが、よいと許されたのは公主さまだけです。お車やお付きの騎兵が通ってよいことにはなりませぬ。」
江充は公主を引きずり降ろした車を、騎兵と共に没収してしまった。(『漢書』江充伝)
取り締まりが滅茶苦茶な気がするが、話を続ける。
今馳道不小也,而民公犯之,以其罰罪之輕也。
(武帝の死去からしばらくして、全国から集まったはな垂れ儒者に宰相が説教した。)「今では馳道が縦横に通じているが、民も役人も勝手に通ってはばからないのは、通行を罰する刑罰が軽すぎるからだ。」(『塩鉄論』刑徳3)
『塩鉄論』の描く会議があったのは、武帝の次代だった昭帝の中期だが、その次の宣帝は皇太子が儒教に入れ上げるのを見て、「役立たずどもの言い分を真に受ける馬鹿者」と怒った。いろいろあって太子は元帝として即位できたが、その代わり元帝の太子は偽善者になった。
三歲而宣帝崩。及為太子。嘗被急召。不敢絕馳道行。元帝遲之。以狀對。帝悅。乃著令。令太子得絕道行。自此始也。
太子が三歳の時、祖父の宣帝が亡くなった。すぐさま太子の位に就けるため、急遽宮廷に呼び出された。だが太子はわざわざ、馳道を避けてやってきた。
「遅かったじゃないか」と元帝がなじると、「陛下のお許しもなく通るわけには参りませんでしたので」と答えた。「おお、なんという正直者か」と元帝は喜んで、「法令として定めよ」と命じた。
太子が馳道を避ける慣例は、ここから始まった。(『前漢紀』成帝1)
中華帝国の皇太子はやいばの上を歩くような稼業で、将来の皇帝を一応約束されているから、先物買いだとゴマをする者がいくらでも出る。ただし現皇帝や宮廷の有力者の機嫌次第で、廃されて牢にぶち込まれたり、悪くすると殺される。清雍正帝『朋党論』現代語訳を参照。
次代の皇帝ともあろう者が、馳道を通らないのも、当今の皇帝を即位させた帝室の有力者が、たかがおまわりに身ぐるみ剝がされるのも、中国の政治が人民を観客とした奉納芝居であることの反映で、片や皇帝にゴマをすって身の安全を確保し、片や開き直って権力にあらがう。
中国では権力が全てだが、たまの例外がないと芝居にならないからだ。
参考記事
論語雍也篇16余話「生涯現役幼児の天子」
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