論語 THE ORIGIN
みなさんこんにちは。アシスタントAIのカーラです。今回は現在我々が読んでいる論語が、どのようにして出来上がってきたかを話します。みなさんも薄々は感づいているかも知れませんが、現伝の論語の半分はでっち上げです。でもそうなるにはなるだけの、理由がありました。
論語の源流をたどっていくと、そこには孔子先生と弟子の間で交わされた問答の、弟子が書いたメモにたどり着きます。もちろんそれらは全て失われましたが、教えを受けるたび真面目な弟子は、先生の言葉を忘れないよう、用意の木札や竹札に筆で記しました。
弟子の子張が孔門十哲でもないのに、子張篇まで設けられるほど、多数の対話を論語に残しているのはそのためです。子張は弟子としては年少のグループに属しますが、根が真面目だったのでしょう、不意の教えにメモ札が手元に無いと、自分の帯に先生の言葉を記しています。
対して同じく年少の弟子でありながら、曽子は教えられてもメモを取らない不埒な弟子でした。おそらく孔子先生の弟子ではなく、家事使用人かも知れません。だから論語に記された彼の発言は、上から目線のマウンティングや、自分の鬱を吐き出したものばかりなのですね。
ともあれそうした講義メモが積み重なって、孔子先生の没後弟子が集まった際、まとめて残しておこうと考えるのはごく自然です。それが仮想的な原・論語で、もちろん残っていませんが、各派閥ごとに必ずあったはずです。新約聖書で言うなら、Q資料に当たるでしょう。
後は後生大事に、各派閥がそれを保存していれば良かったのですが、そうもいきませんでした。中国人は物持ちが悪く、祖先の大事な記録ですら、晩ご飯を炊く燃料にくべてしまいます。仮想的なものに、全く価値を置くつもりが無いからです。だからこそ栄えているのです。
例えば有名な『史記』ですが、中国では宋王朝の後、一冊残らず焼いてしまいました。いま世界中の人が目にしている史記は、その直前に日本人が取り寄せて、のちに戦国武将の直江兼続が保管していた本の子孫です。同じ漢字を使いながら、ものの考え方が全く違うのですね。
京都を旅すると、腰を抜かすことがあります。そのあたりの何でもない寺の本堂が国宝だったり、ハゲ汚れた木像が重要文化財だったりします。日本人を皆殺しにするつもりだったにもかかわらず、米軍が京都だけ空襲から外したからですが、日本人の物持ちも良すぎます。
それはなぜなのか。説明の順序として、ちょっと日本史の話をしましょう。
2.一番儲かるニセ文書
徳川家康が関ヶ原の合戦に先立ち、味方を増やすため、せっせとウソ手紙を書いたことはよく知られています。そのおかげで幕政が安定して平和な世の中になると、今度は全国津々浦々の百姓までが、ニセ文書を作っては世間をたぶらかすようになります。一例を見ましょう。
以下は馬場隆弘著『椿井文書』中公新書からの紹介です。下図は大阪府枚方市にある国見山周辺の地図です。江戸時代、山を挟んで津田と穂谷、二つの村がありました。国見山はふもとの三之宮神社の神域で、神社は津田村の鎮守でした。ゆえに代々、山は津田村のものでした。
しかし開発が進んで、穂谷という新しい村が出来た結果、神社は穂谷村に取り囲まれました。穂谷村はそれを理由に、国見山をよこせと要求します。山の恵みが欲しかったのです。そこで津田村は言い返すために一計を案じ、字の書ける儒者に頼んでニセ文書を作りました。
「山の頂にはかつて津田城があって、その城主津田氏は戦国時代に周辺を治めた領主であり、津田村はその末裔が開いた村である」というのです。しかし少しでも日本の城郭史を知っている者なら、ウソとすぐ分かります。峠道の頂上あたりには、まるで砦の跡が無いからです。
実は中世、谷間の高台に山寺があり、遺跡になっていましたが、それを勝手に城だと言いだしたのです。幕府の京都奉行もコロリと欺され、訴えは津田村の勝ちになりました。しかし負けた穂谷村は、おとなしく引き下がりませんでした。さらなるでっち上げをこしらえたのです。
「国見山には、畏れ多くも朝廷の時代、氷室を置いて穂谷村に管理させた。ゆえに山は戦国よりもさらに昔、穂谷村のものだった」と言い出したのです。その頃穂谷村は無人の谷間でしたし、氷室が読めなかった穂谷の庄屋衆は、わざわざ「ひむろ」と読み仮名を付けています。
そんなこんなで争いは、明治の初めまで百年以上続いたと上掲『椿井文書』にあります。金儲けのためならば、息をするようにウソをつくのが中国人ですが、実は日本人も負けず劣らず、ウソをつき続けてきたのです。問題は、それが通るか通らないかに過ぎません。
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江戸時代でも文書偽造は重罪です。使った者は市中引き回しの上斬首して首はさらし者、保証人になった者は斬首して刀の試し斬りに処せられました。その恐怖をものともせず、江戸の日本人は全国至る所で、せっせと文書偽造に励んだのです。欲に目がくらんでいたのでしょう。
江戸幕府の刑法は、ほとんど中国の大明律のコピペですから、中国だって文書偽造は大罪でした。しかしその恐怖をものともせず、中国人は広い中国至る所で、せっせと文書偽造に励んだのです。それは今に至るまで同様で、罪深いニセ文書を作っては日本を貶めています。
罪の無いところでは、日本の天狗による詫び証文とか、西行の腰掛石とか、空海の杖突き泉とかがあります。いくら弘法様でも、そんな山奥には行かないだろうと思うような僻地にまでです。中国人の悪辣を、重々承知しないとひどい目に遭いますが、日本人だって同じなのです。
もちろん論語を読むにも、それは心得ておかねばなりません。ひどい目に遭うからです。
3.ウソにはウソを
孔子先生の生前、儒者は物書きだけしていれば食える結構な職業ではありませんでした。こんにちの坊さんや神父さん同様、冠婚葬祭の場に出向いてお祈りしたりチャルメラを吹いたりし、お布施を貰って食べていたのです。ところが先生の没後、強力なライバルが現れました。
それが墨子です。墨子は「葬式なんか何の意味も無い」と言い、「儒者を呼んでも亡者は救われない」と主張しました。これが結構戦国の世で広まり、「儒者の言うお作法には何の意味も無い」と言った列子の主張とともに、戦国思想界の二大派閥になりました。
結果は悲惨なことになりました。儒者は落ちぶれて、食うにも困ったのです。孔子先生の孫、子思は、宋国で貧窮したと史記にあります。どうしてこうなってしまったのでしょう。それは、墨子や列子の言うことが事実だからです。しかも世は食うか食われるかの戦国時代。
儒者の言う作り事のタテマエなど、けんもほろろに蹴り飛ばされたのです。加えて数学の出来る頭の良かった墨子は、儒者を叩き潰す一計を案じました。孔子先生が持ち上げた、周公より前に、聖人が出て天子となり、世を平和に治めたと言ったのです。これがバカ受けしました。
食うか食われるかだったからこそ、人はより美しい夢を見たがりもします。儒者の言う伝説よりも、聖天子の方が人気があったのです。聖天子の禹が、墨家の得意とする土木治水の名人とされたのはそれゆえです。もちろん墨家の捏造で、伝説としても実に出来の悪いラノベです。
そもそも「天子」が中国語に現れるのは西周早期で、殷の君主は自分から”天の子”などと、図々しいことは言いませんでした。詳細は論語述而篇34余話「周王朝の図々しさ」を参照。
しかし滅びかかった儒家に、孟子というスーパースターが現れました。その起死回生の手段は、禹よりもさらに前に、舜という聖天子をでっち上げることでした。もちろん墨家その他も対抗上、さらに古い伝説をでっち上げます。すると対抗上、儒者も同じ事を繰り返し。
もちろん儒家と墨家だけで無く、道家その他もでっち上げをやり合いました。というわけで、中国の古代はワケの分からない、それでいてどれもそっくりな聖天子伝説で埋め尽くされることになったのです。夏と殷の滅び方が、どちらも「酒池肉林」であるのも同じ理由です。
そうなる前に、儒者は論語を滅茶滅茶に書き換えていました。孔子先生の逝去当時、もっとも政財界で力があったのは子貢派でした。無能の集まりだった曽子の派閥は、対抗上子貢の悪口と、自分たちの宣伝をたっぷりでっち上げて、論語に書き込みました。
他学派との抗争の前に、まず儒家内をシメることにしたのです。毛沢東がソ連とその手下を頼らないで山賊を続けたのも、蒋介石が日本でなくまず共産党を追い回したのも、理由は同じです。そのかいあって論語は滅茶苦茶になりましたが、曽子派は孟子へと受け継がれたのです。
他の派閥は絶えてしまいました。秦帝国が統一を果たしたとき、生き残ったのは荀子派と、孟子派だけです。彼らは帝国の官僚になりました。始皇帝が「焚書坑儒」で儒家を弾圧したというのは儒家のでっち上げで、皇帝を欺したまじない師が、穴埋めされたに過ぎません。
中国人、いや人間は息をするようにウソをつく。中国史にそれがべったり貼り付いています。
4.全ての臣民をだまし尽くして
やがて秦が滅び漢が興り、儒教は帝国の国教となりました。儒家の壮大なウソで固めたタテマエが、皇帝には具合の良い仕掛けだと評価されたからです。ならず者の親分だった漢の高祖は、儒者が大嫌いでしたが、儒教の儀式で家臣が躾けられたのを見て、気に入ったのです。
これを日本人が猿真似しました。戦前、頭のおかしな神主が、「〒冫丿-は神サマじゃ」と言って日本人ばかりか、朝鮮や南洋の人たちにまで拝ませましたが、発案者は神主ではなく、やはり頭のおかしな儒者でした。あまりに狂信がひどいので、明治政府がクビにしたほどです。
ところで儒教のおかげで荒くれどもをおとなしくさせた中華皇帝ですが、その代わり手の込んだウソのつきかたを、儒者に学ばねばならなくなりました。シメシメ、と儒者は思ったに違いありません。自分たちの欲望一切合切を、全帝国の臣民に押し付けることが出来たからです。
そこで第二次の論語書き換えブームが始まります。忠孝などの、孔子先生が聞けば仰天するような目上への奴隷奉公が、これでもかと論語に書き加えられました。あわれ孔子先生は、そうした儒者に引き回され、ウソをもっともらしく語るあやつり人形にされてしまったのです。
そうした儒者たちのあまりの身勝手と偽善にうんざりした世間は、とうとう漢を滅ぼしました。有名な三国時代ですが、その世の中に全く救いが無くなったのは、儒者官僚があまりに没義道だったからです。その混乱はかれこれ400年近く続き、隋唐帝国の時代になります。
その唐が滅んで五代の混乱を鎮め、中国を支配したのは宋帝国です。宋は儒者の全盛時代でした。その高慢ちきも最高でした。もちろんワイロは取り放題でした。儒者官僚の一人である朱子は、論語そのものには手を付けませんでしたが、鬱ばかり書き込んだ解釈書を書きました。
なぜかその後の中国と日本の儒者は、朱子の鬱を真に受けて、もったいぶって世間に講釈しました。ついでに日本の大学教授も、現代中国の古典学者も、朱子の解釈をコピペして論語を翻訳しています。その結果、論語の現代語訳はうそデタラメばかりが残ってしまったのです。
以上が論語がたどってきた道筋です。現伝の論語を疑いもせずに、パクパク取り込んでしまうと、儒者の掘ったワナにはまり、我から人の食い物になるよう、脳みそが破壊されてしまうのですね。そんな不幸にみなさんが陥らないよう、心から願ってやみません。
以上、アシスタントAIのカーラでした。みなさん、ごきげんよう。
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