論語:原文・書き下し
原文(唐開成石経)
子曰後生可畏焉知來者之不如今也四十五十而無聞焉斯亦不足畏也巳
校訂
東洋文庫蔵清家本
子曰後生可畏也焉知來者之不如今也/四十五十而無聞焉斯亦不足畏也已矣
慶大蔵論語疏
子曰後生可畏也/〔𠂊鳥〕1知来2者3不如〔𠆢〒〕4也/卌5五十而无6聞〔𠂊鳥〕1斯𡖋7不〔口乙〕8畏也巳9
- 「焉」の異体字。「唐正議大夫上柱國巢縣開男邕府長史周利貞墓誌」刻字近似。
- 新字体と同じ。「韓勑碑」(後漢)刻。
- 新字体と同じ。原字。
- 「今」の異体字。「北魏一品嬪侯骨夫人墓誌銘」刻。
- 「四十」と同じ。原字。
- 「無」の異体字。原字。
- 「亦」の異体字。「魏山徽墓誌」(北魏)刻。
- 「足」の異体字。「北魏中書令鄭文公(義)下碑」刻。『敦煌俗字譜』所収。
- 「已」と同じ。原字。
後漢熹平石経
(なし)
定州竹簡論語
……[可畏也a,□知來]者之不如今也?卌、五下而無235……[此b亦不可畏也c]。236
- 也、阮本無、皇本、高麗本有。
- 此、今本作”斯”。
- 阮本”也”下有”已”、皇本、高麗本”也”下有”已矣”。
標点文
子曰、「後生可畏也、焉知來者之不如今也。卌五十而無聞焉、此亦不可畏也。」
復元白文(論語時代での表記)
焉 焉
※論語の本章は「焉」の字が論語の時代に存在しない。ただし「焉」が無くとも文意は変わらない。
書き下し
子曰く、生れ後れたるもの畏る可き也、焉んぞ來たる者の今に如か不るを知らむ也。卌五十にし而聞ゆる無かり焉らば、此亦た畏る可から不る也。
論語:現代日本語訳
逐語訳
先生が言った。「若者は貴ぶべきな。どうしてあとから来た者が今の者に及ばないと分かるか。ただし四十五十になっても噂が聞こえないなら、そんなざまでは同じように尊ぶ必要は無いのだ。」
意訳
若者を侮ってはならない。若いからといって自分より劣りとどうして分かる。四十五十になって何のいい話もないなら別だが。
従来訳
先師がいわれた。
「後輩をばかにしてはならない。彼等の将来がわれわれの現在に及ばないと誰がいい得よう。だが、四十歳にも五十歳にもなって注目をひくに足りないようでは、おそるるに足りない。」下村湖人『現代訳論語』
現代中国での解釈例
孔子說:「年輕人值得敬佩,怎知後代不如今人?四五十歲還默默無聞的人,就沒什麽前程了。」
孔子が言った。「若者は敬服するに値する。あとに生まれた人が今の人に及ばないとどうして分かる?四十五十になってもまだとんと名が聞こえない人は、それはもうどんな未来も無い。」
論語:語釈
子曰(シエツ)(し、いわく)
論語の本章では”孔子先生が言った”。「子」は貴族や知識人に対する敬称で、論語では多くの場合孔子を指す。「子」は赤ん坊の象形、「曰」は口から息が出て来るさま。「子」も「曰」も、共に初出は甲骨文。辞書的には論語語釈「子」・論語語釈「曰」を参照。
この二文字を、「し、のたまわく」と読み下す例がある。「言う」→「のたまう」の敬語化だが、漢語の「曰」に敬語の要素は無い。古来、論語業者が世間からお金をむしるためのハッタリで、現在の論語読者が従うべき理由はないだろう。
後(コウ)
(甲骨文)
論語の本章では”あとで”。「ゴ」は慣用音、呉音は「グ」(遣隋使より前に日本に伝わった音)。初出は甲骨文。その字形は彳を欠く「幺」”ひも”+「夂」”あし”。あしを縛られて歩み遅れるさま。原義は”おくれる”。甲骨文では原義に、春秋時代以前の金文では加えて”うしろ”を意味し、「後人」は”子孫”を意味した。また”終わる”を意味した。人名の用例もあるが年代不詳。詳細は論語語釈「後」を参照。
生(セイ)
(甲骨文)
論語の本章では”生まれた者”。初出は甲骨文。字形は「屮」”植物の芽”+「一」”地面”で、原義は”生える”。甲骨文で、”育つ”・”生き生きしている”・”人々”・”姓名”の意があり、金文では”月齢の一つ”、”生命”の意がある。詳細は論語語釈「生」を参照。
可(カ)
(甲骨文)
論語の本章では”…する意味がある”。認定の意を示す。初出は甲骨文。字形は「口」+「屈曲したかぎ型」で、原義は”やっとものを言う”こと。甲骨文から”…できる”を表した。日本語の「よろし」にあたるが、可能”~できる”・勧誘”~のがよい”・当然”~すべきだ”・認定”~に値する”の語義もある。詳細は論語語釈「可」を参照。
畏(イ)
(甲骨文)
初出は甲骨文。字形は頭の大きな化け物が、長柄武器を持って迫ってくる姿。甲骨文では”怖がる”の意が、春秋末期までの金文では”おそれうやまう”・”威力”の意が確認できる。詳細は論語語釈「畏」を参照。
也(ヤ)
(金文)
論語の本章では、「かな」「や」「なり」と読んで詠歎・反語・断定の意に用いている。初出は事実上春秋時代の金文。字形は口から強く語気を放つさまで、原義は”…こそは”。春秋末期までに句中で主格の強調、句末で詠歎、疑問や反語に用いたが、断定の意が明瞭に確認できるのは、戦国時代末期の金文からで、論語の時代には存在しない。詳細は論語語釈「也」を参照。
焉(エン)
(金文)
論語の本章では「いずくんぞ」と読んで、”なぜ”を、「たり」と読んで完了を意味する。初出は戦国早期の金文で、論語の時代に存在せず、論語時代の置換候補もない。漢学教授の諸説、「安」などに通じて疑問辞と解するが、いずれも春秋時代以前に存在しないか、疑問辞としての用例が確認できない。ただし春秋時代までの中国文語は、疑問辞無しで平叙文がそのまま疑問文になりうる。
字形は「鳥」+「也」”口から語気の漏れ出るさま”で、「鳥」は装飾で語義に関係が無く、「焉」は事実上「也」の異体字。「也」は春秋末期までに句中で主格の強調、句末で詠歎、疑問や反語に用いたが、断定の意が明瞭に確認できるのは、戦国時代末期の金文からで、論語の時代には存在しない。詳細は論語語釈「焉」を参照。
慶大蔵論語疏では異体字「〔𠂊鳥〕」と記す。ただし「灬」を「一」と草書がきしている。「唐正議大夫上柱國巢縣開男邕府長史周利貞墓誌」刻字近似。
知(チ)
(甲骨文)
論語の本章では”知る”。現行書体の初出は春秋早期の金文。春秋時代までは「智」と区別せず書かれた。甲骨文で「知」・「智」に比定されている字形には複数の種類があり、原義は”誓う”。春秋末期までに、”知る”を意味した。”知者”・”管掌する”の用例は、戦国時時代から。詳細は論語語釈「知」を参照。
來(ライ)
(甲骨文)
論語の本章では”来る”、”来たるべきもの”。初出は甲骨文。新字体は「来」。原義は穂がたれて実った”小麦”。西方から伝わった作物だという事で、甲骨文の時代から、小麦を意味すると同時に”来る”も意味した。詳細は論語語釈「来」を参照。
慶大蔵論語疏では新字体と同じく「来」と記す。「韓勑碑」(後漢)刻。
者(シャ)
(金文)
論語の本章では”そういう者”。旧字体は〔耂〕と〔日〕の間に〔丶〕一画を伴う。新字体は「者」。ただし唐石経・清家本ともに新字体と同じく「者」と記す。現存最古の論語本である定州竹簡論語も「者」と釈文(これこれの字であると断定すること)している。初出は殷代末期の金文。金文の字形は「木」”植物”+「水」+「口」で、”この植物に水をやれ”と言うことだろうか。原義は不明。初出では称号に用いている。春秋時代までに「諸」と同様”さまざまな”、”…は”の意に用いた。漢文では人に限らず事物にも用いる。詳細は論語語釈「者」を参照。
慶大蔵論語疏は新字体と同じく「者」と記す。「耂」と「日」の間の「丶」を欠く。「国学大師」によると旧字の出典は後漢の「華山廟碑」、文字史から見れば旧字体の方がむしろ新参の字形。
之(シ)
(甲骨文)
論語の本章では”…の”。初出は甲骨文。字形は”足”+「一」”地面”で、あしを止めたところ。原義はつま先でつ突くような、”まさにこれ”。殷代末期から”ゆく”の語義を持った可能性があり、春秋末期までに”~の”の語義を獲得した。詳細は論語語釈「之」を参照。
不(フウ)
(甲骨文)
漢文で最も多用される否定辞。初出は甲骨文。「フ」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)、「ブ」は慣用音。原義は花のがく。否定辞に用いるのは音を借りた派生義だが、甲骨文から否定辞”…ない”の意に用いた。詳細は論語語釈「不」を参照。
如(ジョ)
(甲骨文)
論語の本章では”~のようである”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。甲骨文の字形は「女」+「𠙵」”くち”で、”ゆく”の意と解されている。春秋末期までの金文には、「女」で「如」を示した例しか無く、語義も”ゆく”と解されている。詳細は論語語釈「如」を参照。
今(キン)
(甲骨文)
論語の本章では”いまどきの者”。初出は甲骨文。「コン」は呉音。字形は「亼」”集める”+「一」で、一箇所に人を集めるさまだが、それがなぜ”いま”を意味するのかは分からない。「一」を欠く字形もあり、英語で人を集めてものを言う際の第一声が”now”なのと何か関係があるかも知れない。甲骨文では”今日”を意味し、金文でも同様、また”いま”を意味したという(訓匜・西周末期/集成10285)。詳細は論語語釈「今」を参照。
慶大蔵論語疏は異体字「〔𠆢〒〕」と記す。上掲「北魏一品嬪侯骨夫人墓誌銘」刻。
四十(シシュウ)→卌(シシュウ)
現伝論語は「四十」と記し、慶大蔵論語疏、定州竹簡論語は「卌」と記す。「十」を「ジュウ」と読むのは呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)。
「卌」曶鼎・西周中期
「四十」をまとめて「卌」で記す例は甲骨文から見られる。「卌」は『新字源』によると、会意文字で「十」+「十」+「十」+「十」の省略形。論語語釈「四」・論語語釈「十」も参照。
五(ゴ)
(甲骨文)
論語の本章では数字の”ご”。初出は甲骨文。字形は五本線のものと、線の交差のものとがある。前者は単純に「5」を示し、後者はおそらく片手の指いっぱいを示したと思われる。甲骨文の時代から数字の「5」を意味した。西周以降に、人名や官職名の例が見られる。詳細は論語語釈「五」を参照。
而(ジ)
(甲骨文)
論語の本章では”そして”。初出は甲骨文。原義は”あごひげ”とされるが用例が確認できない。甲骨文から”~と”を意味し、金文になると、二人称や”そして”の意に用いた。英語のandに当たるが、「A而B」は、AとBが分かちがたく一体となっている事を意味し、単なる時間の前後や類似を意味しない。詳細は論語語釈「而」を参照。
無(ブ)
(甲骨文)
論語の本章では”するな”。初出は甲骨文。「ム」は呉音。甲骨文の字形は、ほうきのような飾りを両手に持って舞う姿で、「舞」の原字。その飾を「某」と呼び、「某」の語義が”…でない”だったので、「無」は”ない”を意味するようになった。論語の時代までに、”雨乞い”・”ない”の語義が確認されている。戦国時代以降は、”ない”は多く”毋”と書かれた。詳細は論語語釈「無」を参照。
慶大蔵論語疏は異体字「无」と記す。「無」の同音同訓で、上古音も同じ。初出は戦国最末期の「睡虎地秦簡」。詳細は論語語釈「无」を参照。
聞(ブン)
(甲骨文1・2)
論語の本章では”聞こえる”。初出は甲骨文。「モン」は呉音。甲骨文の字形は「耳」+「人」で、字形によっては座って冠をかぶった人が、耳に手を当てているものもある。原義は”聞く”。詳細は論語語釈「聞」を参照。
斯(シ)→此(シ)
(金文)
論語の本章では「これ」と読み、”そのような状況”の意。四十五十になっても一向にうだつが上がらないようなざまでは、の意。初出は西周末期の金文。字形は「其」”籠に盛った供え物を祭壇に載せたさま”+「斤」”おの”で、文化的に厳かにしつらえられた神聖空間のさま。意味内容の無い語調を整える助字ではなく、ある状態や程度にある場面を指す。例えば論語子罕篇5にいう「斯文」とは、ちまちました個別の文化的成果物ではなく、風俗習慣を含めた中華文明全体を言う。詳細は論語語釈「斯」を参照。
(甲骨文)
定州竹簡論語の「此」は”これ”。初出は甲骨文。「止」”あし”+「人」で、人が足を止めたところ。原義は”これ”。甲骨文から”これ”の意に用いた。詳細は論語語釈「此」を参照。
亦(エキ)
(金文)
論語の本章では”それもまた”。初出は甲骨文。字形は人間の両脇で、派生して”…もまた”の意に用いた。”おおいに”の意は甲骨文・春秋時代までの金文では確認できず、初出は戦国早期の金文。のちその意専用に「奕」の字が派生した。詳細は論語語釈「亦」を参照。
慶大蔵論語疏では「𡖋」と記す。ただし「灬」を「一」と草書がきしている。「魏山徽墓誌」(北魏)刻。
足(ショク/シュ)→可(カ)
現伝論語、古注最古の慶大蔵論語疏は「足」と書き、”足りる”→”…するのに十分だ”。定州竹簡論語では「可」と書き、”…する意味がある”。
「疋」(甲骨文)
「足」の初出は甲骨文。ただし字形は「正」「疋」と未分化。”あし”・”たす”の意では「ショク」と読み、”過剰に”の意味では「シュ」と読む。同じく「ソク」「ス」は呉音。甲骨文の字形は、足を描いた象形。原義は”あし”。甲骨文では原義のほか人名に用いられ、金文では「胥」”補助する”に用いられた。”足りる”の意は戦国の竹簡まで時代が下るが、それまでは「正」を用いた。詳細は論語語釈「足」を参照。
慶大蔵論語疏では異体字「〔口乙〕」と記す。上掲「北魏中書令鄭文公(義)下碑」刻。『敦煌俗字譜』所収。
(甲骨文)
「可」の初出は甲骨文。字形は「口」+「屈曲したかぎ型」で、原義は”やっとものを言う”こと。甲骨文から”…できる”を表した。日本語の「よろし」にあたるが、可能”~できる”・勧誘”~のがよい”・当然”~すべきだ”・認定”~に値する”の語義もある。詳細は論語語釈「可」を参照。
四十五十而無聞焉、斯亦不可畏也
句読を切り変えて、「焉」を後の句頭に持ってくると、以下の通り意味が変わる。
(四十五十になっても噂にならなくとも、どうしてたいそう取るに足る価値が無いだろうか。)
仮に論語の本章が顔回追悼ばなしだとすると、無名のまま四十ほどで死んでいった顔回を孔子がおとしめるとは思えず、この切り分けには理がある。また孔子は「聞人」=”目立ち者”を嫌っており、論語では顔淵篇20で「一人前ではない」と言い切り、『史記』『孔子家語』では、「聞人」(有名人)として有名だった少正卯を処刑している。
一方、孔子は51歳で中都の代官に任命され、政界デビューを果たした。それを思うと、遅くとも五十代で有名にならなくちゃいかんよと説いたのかも知れず、どちらが正しい解釈か訳者は迷っている。
已(イ)
論語の本章では”…てしまった”。断定を示す。定州竹簡論語では欠く。唐石経、慶大本は「巳」字で記し、清家本は「已」字で記す。唐代の頃、「巳」「已」「己」字は相互に通用した。事実上の異体字と言ってよい。
(甲骨文)
「巳」(シ)の初出は甲骨文。字形はヘビの象形。「ミ」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)。甲骨文から十二支の”み”を意味し、西周・春秋の金文では「已」と混用されて、完了の意、句末の詠嘆の意、”おわる”の意に用いた。詳細は論語語釈「巳」を参照。
(甲骨文)
「已」の初出は甲骨文。字形と原義は不詳。字形はおそらく農具のスキで、原義は同音の「以」と同じく”手に取る”だったかもしれない。論語の時代までに”終わる”の語義が確認出来、ここから、”~てしまう”など断定・完了の意を容易に導ける。詳細は論語語釈「已」を参照。
論語:付記
検証
論語の本章は前漢後期の劉向が『新序』で再録するまで、先秦両漢の誰一人引用していない。『史記』にも引用が無く、その代わり定州竹簡論語にはあるから、前漢前半には成立していたことになる。論語時代での「焉」の不在はどうにもならないが、漢文は疑問辞無しで平叙文がそのまま疑問文になるから、後世の創作を証す決定的な証拠にはならない。
だがその他にも用例の怪しい漢字があることから、本章を史実の孔子の言葉と断じるのは難しい。
解説
論語の本章を、後漢から南北朝にかけての儒者は、若者全般に対する畏敬の念を説いたものだと解している。
古注『論語集解義疏』
子曰後生可畏也焉知來者之不如今也註後生謂年少也四十五十而無聞焉斯亦不足畏也已矣疏子曰至已矣 云後生可畏者後生謂年少在已後生者也可畏謂有才學可心服者也云焉知云云者焉安也來者未來事也今謂我今師徒也後生既可畏亦安知未來之人師徒教化不如我之今日乎言不可誣也云四十云云者又言後生雖可畏若年四十五十而無聲譽聞達於世者則此人亦不足可畏也孫綽云年在知命蔑然無聞不足畏也
本文「子曰後生可畏也焉知來者之不如今也」。
注釈。後生とは若者を言う。
本文「四十五十而無聞焉斯亦不足畏也已矣」。
付け足し。先生は限定の極みを言った(この部分は江戸儒者の根本武夷による付け足し)。「後生可畏」とあり、後生とはすでに生まれている者より若い者のことである。「可畏」とは、才能や学問があるなら恐れ入るべきだという事である。「焉知うんぬん」とあり、焉とはなぜということである。「来者」とはまだ来ていないもののことである。「今」とは今の自分たち師弟という事である。若者をおそれるべきであるなら、それならどうしてまだ生まれていない者の師弟が我ら師弟より劣っていると言えるか、ということである。馬鹿にしてはいけないと言ったのである。「四十うんぬん」は、若者を恐れるべきだけれども、四十五十になっても世間に名声が無い者は、おそれるに足りないという事である。
孫綽「年齢が知命=五十(→論語為政篇4)になってもぼんやりとして名が聞こえないなら、おそれるに足りないのである。」
新注を編んだ朱子も又、若者全般への畏敬を説いたとする。
新注『論語集注』
焉知之焉,於虔反。孔子言後生年富力彊,足以積學而有待,其勢可畏,安知其將來不如我之今日乎?然或不能自勉,至於老而無聞,則不足畏矣。言此以警人,使及時勉學也。曾子曰:「五十而不以善聞,則不聞矣」,蓋述此意。尹氏曰:「少而不勉,老而無聞,則亦已矣。自少而進者,安知其不至於極乎?是可畏也。」
「焉知」の焉の音は、於-虔の反切である。
孔子が言ったのは、後から生まれた者は体力に優れているし、勉強する時間もたっぷりある。その力は畏敬すべきで、どうして現在の自分程度に成長しないと言えようか、ということだ。だが中には怠け者もいるだろうし、老いても名声が聞こえないようでは、全く畏れるに足りないのだ、と。
裏を返せばこの言葉は、時間を惜しんで勉強すべきだと戒めている。『大載礼記』で曽子は言った。「五十になってよいうわさを聞かないようでは、それはすなわち”聞こえない”というものだ」と。この言葉はおそらく、勉学を励ます言葉だろう。
尹焞「若いときに勉強せず、老いても無名のままでは、つまりもう終わっている。だが若いときから研鑽に励んだ者なら、どうして知恵を極めることが出来ないと言い切れるか? だからそういう若者には、敬意を払うべきなのだ。」
だが論語の本章を子罕篇のこの場所に置いた編者には、「後生」=「顔淵」の意図があっただろう。顔淵を讃えた前々々章に始まる一連の章は、顔淵神格化キャンペーンの一端として記されたと思われ、そうなるといわゆる儒教の国教化を進めた、董仲舒一派の作が疑われる。董仲舒についてより詳しくは、論語公冶長篇24余話を参照。また董仲舒による顔淵神格化の詳細は、論語先進篇3解説を参照。
そういううさんくささを感じたからだろうか、明代の『笑府』は本章もネタにしている。
鎮守太監觀風。出後生可畏鳥為題。衆俱笑。璫問其故。教官禀曰。諸生以題目太難。求减得一字也好。璫笑曰。既如此。减後字。只做生可畏鳥罷。
或疑太監何以附古艷。曰。從來富貴的。有得幾箇不俯仰內相。
地方監督官を務める宦官(当時の宦官は無学をバカにされることが多かった)が巡回してきて、ある所の国立中等学校にやって来た。生徒たちを試すのだと宦官は言い、「後生畏るべし、いずくんぞ」の題で小論文を書けという。句読の切り方がおかしいので、生徒たちはゲラゲラ笑い出した。
教官が気を利かせて、「生徒たちにはこの題は少し難しいようですから、一字減らしてはどうでしょう」と言った。監督官さま曰く、「ホウそうか。よしよし。では、”生畏るべし、いずくんぞ”でどうじゃ?」
編者曰く、ある人が、「なんでこの話を”古艷部”(古くより人が艷むもの、財産)に入れたんです?」と聞くので、「昔から富貴になった者で、宦官にペコペコしなかった者がどんだけいるかい?」と答えた。(『笑府』巻一・太監)
ただこの宦官はまだ人がいいと言うべきだろう。後漢、唐、明は宦官の横暴によって滅びたとよく言われる。たしかにそれらの末期、宦官の専横、強欲、残忍は常人の理解を超えるものだった。『笑府』を編んだ馮夢竜は明末の人だから、宦官の恐ろしさを知っていたはずだ。
だが中には、こういう憎めない宦官もいたのだろう。
余話
DK畏るべし
訳者がそういうのにはそれなりの確信がある。有名な心理実験で、被験者を看守役と囚人役に分けたところ、もとは温和な人物でも、看守役を務めてしばらくすると残忍な人格に変化し、危険と判断されて実験は中止になった。制約が無ければ人は、簡単に残忍に成り下がる。
この実験は疑わしいともいわれるが、今はおく。
上記の通り、「畏」は化け物が武器を持って襲ってくる姿だった。現代日本で人数の多い世代に、敗戦後の概ね昭和20年代に生まれた「DK」がある。娯楽の無い敗戦直後に急増したのは理の当然だが、敗戦したからには親以上の世代は、団Kに説くべき道徳や倫理が無かった。
その結果D塊世代は街頭から山奥まで暴行の限りを尽くしたのだが、日本社会は大目に見た。その理由を警察官僚だった佐々淳行は、警視総監が忝くもテ冫丿-から「DKを甘やかせ」とお言葉を賜ったから、と嬉しそうに『T大落城』に書いた。ツケは現場に押し付けられた。
訳者は当時機動隊員だった武道の師範先生から、警察幹部への不信と、巷間言われる説と全然違うDKの行状と警官隊の甚大な被害をじかに伺っている。ツケは下の世代にも押し付けられた。徳育を受けない人間が何をするか、訳者は我が身を切り刻む体験としてよく知っている。
訳者の少年期はひどい時代で、若年期のDK世代が暴れ回った反動で、子供は奴隷として扱えという常識がまかり通った。訳者の小5・6の担任もDKで、モップ棒を持ち歩き児童を殴っていた。中学校は強制収容所と化し、学校を出てすぐのDK世代が面白がって看守を務めた。
男子生徒は丸刈り強制、刃向かうと押さえつけられバリカンで刈られた。高校でも修学旅行に持っていくべき品目に無かったドライヤーを持ってきたというので、DK教師に殴刂殺された生徒もいた。遅刻した生徒を校門の鉄扉で挟み殺したDK教師は、裁判で執行猶予が付いた。
つまり社会もそれをよしとしていたのだ。「後世畏るべし。」日本社会が化け物のようなDKの乱暴に恐れおののいた狼狽えだろう。でないとここまでの「常識」がまかり通った説明が付かない。訳者が『夜と霧』の世界をなんとなく想像できるのは、こうした経験が与っている。
訳者は当時も今も不逞のやからで、目上にとって可愛げのある者だったことが無い。特に知れきった授業をしゃべり見え透いた説教を語る中学教師を心底見下していたし、それを隠しおおせるほど、教師とは絵空事を語らざるを得ない商売と理解出来るほど、大人ではなかった。
全ての人にとって必要なのは、教え方ではなく教わり方と、付き合うしかない愚劣な目上のあしらい方だ。それを知らなかった訳者への反動はすさまじかった。ああいうDK教師に取り囲まれて、よくもまあ命が助かり、身体に障害を負わずに済んだものだとつくづく思う。
ほんの数年の世代や地域の差で、学校という場はこんなに違ってくる。DKは好き勝手に怖くない者に暴カを振るい、時に殺しておきながら、自分に暴カが降りかかる兆しが見えると、とたんに「暴カ反対」を言い募った。何度も繰り返しこの耳で聞いた、いや聞かされた。
――人によく似たこの姿も
――人と同じこの言葉も
――まるで人のような振る舞いも――すべては人を欺き捕食するために獲得した、進化の証。
――姿形は似ていても、私達は人類とは程遠い。
――だって私達は人類の言う所の”人食いの化け物”なんだから。――全く別の生き物なんだよ。(山田鐘人・アベツカサ『葬送のフリーレン』第88話)
DKの残忍は、年齢を重ねても改まらなかった。1995年にも、当時40歳だったDK教師が、日常的に生徒に暴カを加えた挙げ句、人目の無いところで女子生徒を殴刂殺した事件が起こった。人は醸造品と違い、時間で円熟しない。人格を左右するのは、ひとえに置かれた環境だ。
それをありありと知る体験もした。県立高校に上がると、教師によるこうした残忍はすっかり無くなった。理由の一つは生徒の中に、卒業後そのままT大やK大の医学部に入るような者がいたから、程度の低い教師を配置すると、生徒にバカにされ授業が崩壊したからだろう。
訳者も若気の至りで、ずいぶんと国語や地歴科の教師をおちょくってしまった。
だがそれより大きな理由があった。生徒の父母や祖父母親類縁者に、県知事以下県の政財官界の要職者や、代議士・中央官僚とその出身者がいたから、教師は下手なことをするとクビになったり、もの凄い山奥の分校や、手の付けようのない悪たれのいる学校に飛ばされたりする。
だから「後生畏るべし」となったわけで、人間界は存外、サル山の社会と変わらない。閲覧者諸賢は、弱い立場のコンビニの店員さんなどに、怒鳴り散らしているDK世代を見たことが無いだろうか。論語衛霊公篇39、「教えあり、たぐい無し」とはこういう事をいう。
DKの粗暴性は、統計にも見える。警察庁発表の粗暴犯の統計を表にしてみると次の通り。
DK世代は加齢が伴っても、その粗暴が収まらないことが見て取れる。
知育体育ばかりではなく、徳育もまた人にとって必要で、そうでなければナチの看守のような魔物が出来上がってしまう。そして教育の中で、最も難しいのがこの徳育だ。教師もまた、人格者でなければ生徒にバカにされて徳育が成り立たず、世の人格者は常に少ないからだ。
文芸評論家だった村上兵衛は、陸軍幼年学校→士官学校を経て戦時中は陸軍将校だった人だが、陸軍省の人事用語に、「教育適」というのがあったという。陸軍の最高官の一人が教育総監だったように、帝国陸軍は教育には海軍より熱心だったように思われる。
村上氏の著書によると、幼年学校や士官学校に配属された将校には、とりわけ「教育適」の人格者が多かったようで、本気で「大東亜共栄圏」や「国家神道」を信じる程度には知性的ではなかったが、時には官途の不利も省みず、献身的に働いた人が少なくなかったらしい。
もし人生の中で「教育適」な教師に出会えたなら、その幸福は喜んでいいと思う。
*ただし母校には立派な先生もいらっしゃったと急いで書いておく。
参考記事
- 論語泰伯編1余話「あるDKの厚顔無恥」
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