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論語詳解472子張篇第十九(1)士は危うきを°

論語子張篇(1)要約:孔門十哲ではないですが孔子先生の高弟の一人、子張がお説教。しかしよく読んでみればまともで当たり前の事を言っているのです。まじめに仕事しろ、筋の通らぬ金は受け取るな、祭礼や葬儀をバカにするな、と。

(検証・解説・余話の無い章は未改訂)

論語:原文・白文・書き下し

原文・白文

子張曰、「士見危致命、見得思義*、祭思敬、喪思哀、其可已矣。」

校訂

武内本

憲問第十三章「見利思義、見危授命」。

復元白文(論語時代での表記)

子 金文張 金文大篆曰 金文 士 金文見 金文危 甲骨文致 金文命 金文 見 金文得 金文思 金文義 金文 祭 金文思 金文敬 金文 喪 金文思 金文哀 金文 其 金文可 金文已 矣 金文矣 金文

※張→(金文大篆)・危→(甲骨文)。

書き下し

子張しちやういはく、もののふあやふきをいのちささげ、るをすぢおもひ、まつりゐやおもひ、とぶらひかなしびおもふ、からばなり

論語:現代日本語訳

逐語訳

子張
子張が言った。「志士は危機に遭っても命がけになり、利益を見たら筋が通るか考え、祭礼には敬意を払い、葬儀には悲しみを思う。それでおしまいだ。」

意訳

子張
子張「志士たる者、危難に遭おうと命がけで責務を果たし、筋の通らぬ利益は受け取らず、祭礼では心から敬意を払い、葬儀では心から悲しむ。それで十分だ。」

従来訳

下村湖人

子張がいった。――
「士たるものは、公けの任務において危難に直面したら生命を投げ出してそれに当るべきだ。利得に恵まれる機会があったら、それをうけることが正義に合するかどうかを思うべきだ。そして祭事には敬虔の念があふれ、喪には悲哀の情があふれるならば、士と称するに足るであろう。」

下村湖人『現代訳論語』

現代中国での解釈例

子張說:「有志者應該見到危險時,奮不顧身;見到利益時,考慮道義;祭祀虔誠,居喪悲哀。這樣就可以了。」

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子張が言った。「志のある者は危険を目にしたときに、奮い立って我が身をかえりみないのでなければならない。利益を目にしたときに、道義を考慮せよ。祭祀は敬い深く行い、喪中では悲しめ。このようであればよいと言ってしまってよい。」

論語:語釈

子張

論語では孔子の年若い弟子、顓孫師子張のこと。孔門十哲には入っていないが、論語での発言はそれ並みに多い。「張」の字は論語の時代に存在しないが、固有名詞のため同音近音のいかなる漢字も置換候補になり得る。詳細は論語語釈「張」を参照。

士 金文
(金文)

論語の本章では、ほぼ「君子」に近く、孔子一門の弟子が目指すべき、貴族の最下層たる士族を言う。春秋時代の貴族は上から、諸侯-卿-大夫-士の序列で、大夫以上は領主貴族だが、士族は都市の商工民でも納税と従軍の義務を負えばなり得た。詳細は春秋時代の身分秩序論語における「君子」を参照。なお辞書的には論語語釈「士」を参照。

見危致命

危 金文大篆 致 金文
「危」(金文大篆)・「致」(金文)

論語の本章では、”危機に遭っても命がけで使命を全うする”。

「見」の初出は甲骨文。『学研漢和大字典』によると「目+人」の会意文字で、目だつものを人が目にとめること。また、目だってみえるの意から、あらわれるの意ともなる、という。詳細は論語語釈「見」を参照。

「危」の初出は甲骨文。金文は未発掘。『学研漢和大字典』によると「厂(がけ)+上と下とに人のしゃがんださま」をあわせた会意文字で、あぶないがけにさしかかって、人がしゃがみこむことをあらわす、という。詳細は論語語釈「危」を参照。

「致」の初出は西周中期の金文。『学研漢和大字典』によると至は、矢がー線までとどくさまをあらわす会意文字。致は「夂(あし)+〔音符〕至(いたる)」の会意兼形声文字で、足で歩いて目標までとどくこと。自動詞の「至」に対して、他動詞として用いる、という。詳細は論語語釈「致」を参照。

「命」の初出は甲骨文。『学研漢和大字典』によると「亼(シュウ)(あつめる)+人+口」の会意文字で、人々を集めて口で意向を表明し伝えるさまを示す、という。「命」の原義は”天命”であり、天命によって享受するものだから”いのち”の意になった。詳細は論語語釈「命」を参照。

「見危致命」を、他者の危機に命を投げ出して救う自己犠牲、と取るのは無理がある。孔子の弟子はほぼ全て例外なく、士分に成り上がりたい平民であり、命あっての物種だからだ。

論語憲問篇13に、同様の言葉が子路の発言として記されている。

見利思義、見危授命
利を見ては義を思い、危うきを見ては命をさずく。

見得思義

得 金文 義 金文
「得」「義」(金文)

論語の本章では、”利益を得る機会で筋が通るか考える”。こちらも上掲の通り論語憲問篇13に同様の発言がある。「義」を道徳的な意味に解してはならない。そう読むと春秋時代の漢文が読めなくなる。

十一年春…冉有用矛於齊師,故能入其軍,孔子曰,也。

冉有2 孔子 褒める
十一年春…冉有は斉軍に矛(先の尖ったほこ)を用いた。だから突入に成功した。隣国の衛に滞在中の孔子が伝え聞いて言った。「それで正解。」(『春秋左氏伝』哀公十一年2)

「得」の初出は甲骨文。『学研漢和大字典』によると㝵(トク)は「貝(かい)+寸(て)」の会意文字で、手で貝(財貨)を拾得したさま。得は、さらに彳(いく)を加えた会意兼形声文字で、いって物を手に入れることを示す、という。詳細は論語語釈「得」を参照。

「思」の初出は春秋末期の金文。『学研漢和大字典』によると㐫(シン)は、幼児の頭に泉門(㐫門)のある姿。俗にいうおどりこのこと。思は「㐫(あたま)+心(心臓)」の会意文字で、おもうという働きが頭脳と心臓を中心として行われることを示す、という。詳細は論語語釈「思」を参照。

「義」の初出は甲骨文。『学研漢和大字典』によると我は、ぎざぎざとかどめのたったほこを描いた象形文字。義は「羊+音符我」の会意兼形声文字で、もと、かどめがたってかっこうのよいこと。きちんとしてかっこうがよいと認められるやり方を義(宜)という、という。詳細は論語語釈「義」を参照。

敬(ケイ)

敬 甲骨文 敬 字解
(甲骨文)

論語の本章では”敬虔さ”。初出は甲骨文。ただし「攵」を欠いた形。頭にかぶり物をかぶった人が、ひざまずいてかしこまっている姿。現行字体の初出は西周中期の金文。原義は”つつしむ”。論語の時代までに、”警戒する”・”敬う”の語義があった。詳細は論語語釈「敬」を参照。

祭思敬

祭 金文 敬 金文
「祭」「敬」(金文)

論語の本章では”祭礼では敬意を払う”。同様の発言が論語八佾篇12に孔子の発言として記されている。

祭如在、祭神如神在。
祭るにいますが如くし、神を祭るに神在すが如くす。

「祭」の初出は甲骨文。『学研漢和大字典』によると「肉+又(手)+示(祭壇)」の会意文字で、肉のけがれを清めて供えることをあらわす、という。詳細は論語語釈「祭」を参照。

「敬」の初出は甲骨文。『学研漢和大字典』によると苟(キョク)は、苟(コウ)ではなく、「羊の角+人+口」からなる会意文字。角に触れて、人がはっと驚いてからだを引き締めることを示す。敬は「苟(引き締める)+攴(動詞の記号)」の会意文字で、はっとかしこまってからだを引き締めること、という。詳細は論語語釈「敬」を参照。

喪思哀

喪 金文 哀 金文
「喪」・「哀」(金文)

論語の本章では、”葬儀では(心から)悲しむ”。同様の発言が論語八佾篇4に孔子の発言として記されている。

喪與其易也、寧戚。
はそのつくばうよりは、むしいため。

「喪」の初出は甲骨文。『学研漢和大字典』によると「哭(なく)+口二つ+亡(死んでいなくなる)」の会意文字で、死人を送って口々に泣くことを示す、という。詳細は論語語釈「喪」を参照。

「哀」の初出は西周早期の金文。『学研漢和大字典』によると衣は、かぶせて隠す意を含む。哀は「口+(音符)衣」の会意兼形声文字で、思いを胸中におさえ、口を隠してむせぶこと、という。詳細は論語語釈「哀」を参照。

其可已矣

論語の本章では、”それでよろしい・それで十分だ”。「其」は”それで”。詳細は論語語釈「其」を参照。「可」は”よい”、詳細は論語語釈「可」を参照。「已」は”終わる”、詳細は論語語釈「已」を参照。「矣」はもと人の振り返った姿の象形で、意志のこもった断定を意味する。詳細は論語語釈「矣」を参照。

伝統的な読み下しでは、「已矣」二文字を「のみ」と読んで、「それ可なるのみ」とする。このような「この場合はこう読む」という例外は、出来るだけ少ない方がいいように思う。

論語:付記

中国歴代王朝年表

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検証

(執筆中)

解説

論語の本章の訳について、従来訳と訳者の訳は同じ事を言っているのだが、従来訳がまるで特攻隊員の任務の如く思われるのは、訳文の「べきだ」の重々しさによるのだろう。子張は”命がけで仕事をしろ”と言っているだけで、”死んでしまえ”とは言っていない。

命がけうんぬんを除けば、職業倫理としては現代でも当たり前の事を言っているに過ぎないし、現代でも例えば消防士なら、命がけも当てはまることになるだろう。孔子の教えと儒教が異なるのは、こうした自己犠牲の押し付けの有無によっても、あるいは区別できるだろう。

人は人ごとだから、軽々しく人命をうんぬんするのだ。
 SOS 電信 沈没

さて子張の「張」の字が論語の時代に無いことは上記したが、同音の「長」はあったし、その他の同音に「場」や「腸」などがある。この語呂合わせを笑い話に仕立てたのが、例の『笑府』。

監生方出塲。遇一故人。故人揖之。并揖路旁猪糞。生問。此臭物。揖之何為。答曰。他臭便臭。也是膓裡出來的。

笑府 馮夢竜
帝国大学の学生が、定期試験の会場から出てみると、たまたま知り合いに会った。知り合いは帝大生に丁寧なお辞儀をし、さらに道ばたに落ちていたブタの糞にも恭しく礼をした。

学生「何だってそんな臭いものにお辞儀なんかするんです?」
知人「臭いのは臭いですが、同じ”チョウ”から出てきたものですから。」(『笑府』巻一・出塲)

なお『笑府』の書かれた明代の口語では、「臭」は”偉そうにする・人をハッタリにかける”の意があり、普段からこの学生は、学歴を鼻にかけて嫌われていたのである。現代北京語でも見栄やハッタリを「チョウチア」という。世の中のこういう部分は、存外古今東西変わらない。

余話

笑府読まずの中国知らず

このサイトは論語のサイトでありながら、訳者がたびたび『笑府』を取り上げるのは、それなりの理由がある。漢文や中国を理解する上で、論語や『史記』は必読の書であるに違いないが、『笑府』もまたそうだからだ。そうである理由は大きく分けて二つある。

ます、お行儀のよい本ばかり読んでは相手を理解できないからだ。未経験の中学生が、異性にあらぬ期待をするのと同じで、それは必ず裏切られる。思えば壊滅的な敗戦の始まりは、中国にあらぬ期待をしたことにあった。「孔子様の国」なのに、なぜ日本にイヤガラセするのか。

中国のイヤガラセは、戦後に始まったのではなく、一次大戦直後の五・四運動に始まり、以降の政権は事あるごとに日本との条約を反故にし、在中日本人にテロを仕掛けた。日本が中国に戦争を仕掛けたと戦後は教え込まれたが、実は最初に弾を撃ったのは蒋介石だった。

そういうろくでもない連中だと分かっていたら、日本人ももう少し冷静になれただろう。冷静にさせるべき任を負った当時の漢学教授は、読めもしない漢文を読んだと言いふらしていた。論語の解釈すら全くのデタラメである。詳細は論語八佾篇16余話「不埒な帝大総長」を参照。

漢文を読めないから歴代の中国儒者同様、孔子を聖人と奉り、その弟子を君子と呼んで世間に拝ませた。他人を拝ませる連中は一人の例外もなく、陸軍皇道派同様、実は自分を拝ませ、最終的には金を寄こせと言っている。詳細は「二・二六事件蹶起趣意書」現代語訳を参照。

この悪癖は現在もなお続き、読めない漢文を読んだと称して、世間から金をせびる悪党が絶えない。詳細は論語雍也篇27余話「そうだ漢学教授しよう」を参照。そもそも孔子が、けっこうなワルだったことはたびたび記した。論語を道徳的に読むのは間違っている。

この事実は江戸時代に、すでに日本人は知っていた。だから「論語読みの論語知らず」と言った。人の道を教えるべき論語を読んだり説教したりする者が、しばしば人でなしである事実を皮肉ったのである。これが『笑府』読むべきもう一つの理由になる。

論語も『笑府』も漢文で書いてあるから、素人にはどちらも厳めしく見える。『史記』みたいな立派な書に見える。これが漢文業者の没義道を放置する結果になった。実は『史記』も役人根性の図々しい本なのだが、まともに読んだ人がほとんどいないので世間に知られない。

詳細は論語雍也篇14余話「司馬遷も中国人」を参照。中国に対するあられもない願望同様、漢文そのものに対する無意味なおそれを消し去らないと、いつまでたっても中国を理解出来ないし、もちろん漢文は読めない。読めなくたっていいのだが、中国への理解はせざるを得ない。

隣にある、余りに巨大な人々だからだ。来日中国人が増えるにつれ、また中共政府の横暴があらわになるにつれ、日本人は昭和後半のような中学生の如き中国への幻想から目は覚めたが、幻想が深かった分いまは激高して、中国を冷静に見られなくなっている。恐ろしいことだ。

中国人は論語も書き、『笑府』も書いた。どちらも中国の事実を、一部切り取って読者に見せている。論語や『史記』だけ読んで中国を見ることが、実は日本の破滅にも繋がりかねないと理解して頂けるだろうか。敗戦からせめてくみ取るべき教訓と思って頂けないだろうか。

『笑府』が書かれた明帝国は、大中華主義に頭をやられた人には評判が悪い。鄭和の大航海を除けば、「北虜南倭」=北はモンゴルに、南は日本人にやられっぱなしだったと歎くのである。だがそもそも開祖の朱元璋が、モンゴルを北へ追いやって建てた国でもある。

そして建国後、歴代皇帝の中でもっとも口を酸っぱくして儒教を説いたのが、太祖洪武帝朱元璋でもある。だが洪武帝が世を去ると、孫の建文帝とと息子の燕王の間で殺し合いになり、現皇帝の甥を殺して燕王→永楽帝が即位した。この道徳と現実の乖離が、明国人を冷静にした。

朕以棣於親最近,未忍窮治其事。


建文帝「燕王は、儒教の教えに従って、最も尊敬すべき叔父上ゆえ、反乱を企んでいるのは知っていたが、断罪するわけにはいかなかったのだ。」(『明史』恭閔帝紀)

論語が説くような道徳など、何の役にも立たないと知れきったからである。おかげで明の社会は産業が活発化し、洪武帝没後は言論弾圧も歴代王朝の中でも緩く、『笑府』のように権威をからかっても罰せられなかった。明るい世の中と言うべきで、中国らしいとも言うべきだ。

福禄寿の追求こそ中国人の本性。それをもっともあらわにしたからだ。

参考記事

論語学而篇4余話「中華文明とは何か」

『論語』子張篇詳解:現代語訳・書き下し・原文
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