(検証・解説・余話の無い章は未改訂)
論語:原文・白文・書き下し
原文・白文
子夏曰、「大德不踰閑、小德出入可也。」
校訂
後漢熹平石経
子夏白大徳出入可也
定州竹簡論語
……夏曰:「大德580……
復元白文(論語時代での表記)
※踰→兪。
書き下し
子夏曰く、大き德の閑を踰えざらば、小德の出入りは可しき也。
論語:現代日本語訳
逐語訳
子夏が言った。「大きな行動が決められた枠を越えなければ、小さな行動は出入りしても悪くない。」
意訳
子夏「何のためにそれをするのか、という目的を忘れなければ、手段は多少決まりから外れてもよろしい。」
従来訳
子夏がいった。――
「大徳が軌道をはずれていなければ、小徳は多少の出入りがあっても、さしてとがむべきではない。」下村湖人『現代訳論語』
現代中国での解釈例
子夏說:「要明辨大是大非,但可以不拘小睗。」
子夏が言った。「大きな是非をはっきりさせなければならないが、ただし小さな善事にこだわらないのは許される。」
論語:語釈
子夏
論語では、孔子も若き弟子で孔門十哲の一人、卜商子夏のこと。
德
(金文)
論語の本章では、この発言が子夏のものか、後世の作文かで解釈が異なる。孔子は「徳」を”人間など生物が持つ機能”という意味で徹底して述べており、道徳とは一切関係が無い。その直弟子の子夏が、「徳」を道徳的な何かの意味で使うとは考えがたい。
仮に本章を実際の子夏の発言とするなら、大徳は大きな人間の機能=大まかな人間の行動であり、小徳はちまちま・こまごました些細な行動のこと。
初出は甲骨文。新字体は「徳」。『学研漢和大字典』によると、原字は悳(トク)と書き「心+(音符)直」の会意兼形声文字で、もと、本性のままのすなおな心の意。徳はのち、それに彳印を加えて、すなおな本性(良心)に基づく行いを示したもの、という。しかし『字通』によれば目に濃い化粧をして見る者を怖がらせ、各地を威圧しつつ巡回すること。ここから日本語で「威に打たれる」と言うように、「徳」とは人格的迫力のことだ。詳細は論語における「徳」を参照。
踰(ユ)
(篆書)
論語の本章では”越える”。枠を破って外に出ること。初出は後漢の『説文解字』。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補は「兪」。『学研漢和大字典』によると、兪は、中身を抜き取った丸木舟を表す会意文字。ただし普通は踰(越える)-逾(越えて進む)と同系の言葉として用い、相手を越えてその先に出る意。また先へ先へと越えて程度をの進む意をあらわす。踰は「足+(音符)兪(くりぬく、とりさる)」の会意兼形声文字で、中間にあるじゃま物や期限をものともせず、とりさる足の動作を示す。のりこえること、という。詳細は論語語釈「踰」を参照。
閑
(金文)
論語の本章では”枠・決まり”。論語では本章のみに登場。初出は西周中期の金文。『学研漢和大字典』によると「門+木」の会意文字で、牛馬の小屋の入り口(門)にかまえて、かってに出入りするのをふせぎとめるかんぬきの棒。▽ひまの意に用いるのは「間(すきま、あきま)」に当てた仮借的な用法だが、のちにはむしろ閑を使うことが多い、という。詳細は論語語釈「閑」を参照。
出(シュツ/スイ)
(甲骨文)
論語の本章では”はみ出る”。初出は甲骨文。「シュツ」の漢音は”出る”・”出す”を、「スイ」の音はもっぱら”出す”を意味する。呉音は同じく「スチ/スイ」。字形は「止」”あし”+「凵」”あな”で、穴から出るさま。原義は”出る”。論語の時代までに、”出る”・”出す”、人名の語義が確認できる。詳細は論語語釈「出」を参照。
入(ジュウ)
(甲骨文)
論語の本章では”へこむ”。初出は甲骨文。「ニュウ」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)。字形は割り込む姿。原義は、巨大ダムを水圧がひしゃげるように”へこませる”。甲骨文では”入る”を意味し、春秋時代までの金文では”献じる”の意が加わった。詳細は論語語釈「入」を参照。
可
(金文)
論語の本章では”してもよい”。”悪くない”と解するのもよいが、”よい”ではない。初出は甲骨文。『学研漢和大字典』によると、「屈曲したかぎ型+口」の会意文字で、訶(カ)や呵(カ)の原字で、のどを屈曲させ声をかすらせること。屈曲を経てやっと声を出す意から、転じて、さまざまの曲折を経てどうにか認める意に用いる、という。詳細は論語語釈「可」を参照。
小德出入可也
論語の本章では、”こまごました行動は原則を出入りして良い”。伝統的には「小徳は出入りするとも可なり」と読む場合があるが、「小徳出入」までが主部で、「可也」が述部だから、「小徳の出入は可なり」と読む方が理にかなっている。
論語:付記
論語の本章は文字史的には、後世の創作を疑う要素が無い。ただし「徳」の解釈を誤ると、歴代の儒者のようにオトツイの方角へ読んでしまう。上記の通り孔子生前当時の「徳」には道徳的な意味は全くない。対して従来訳の注は以下のように言う。
大徳は五倫五常といつたような道徳の大本になるもの、小徳は坐作進退の如きものを指すであろう。この言葉は、万事にひかえ目で細心な性格の子夏の言としてはめずらしい。
「万事にひかえ目で細心な性格の子夏」というのはその通りで、有力弟子の中では一番の若手であり、孔子一門の古株が通り抜けてきた、斬った張ったの戦場経験が無い。従って説教が辛気くさいのは無理ないことだが、そこは子夏も孔子の弟子で、それなりの覚悟はあった。
子夏問於孔子曰:「居父母之仇如之何?」孔子曰:「寢苫枕干,不仕,弗與共天下也。遇於朝市,不返兵而鬭。」曰:「請問居昆弟之仇如之何?」孔子曰:「仕弗與同國,御國命而使,雖遇之不鬭。」曰:「請問從昆弟之仇如之何?」曰:「不為魁,主人能報之,則執兵而陪其後。」
子夏「親の敵討ちにはどうすればいいですか。」
孔子「市場の近くで小屋がけし、楯を枕に寝なさい。仕官はせず、仇討ちに専念しなさい。仇を生かしておいてはならない。そ奴がノコノコと朝市にやって来たら、その場でバッサリ討ち果たし、家に武器を取りに帰って取り逃すことのないように。」
子夏「兄弟の敵討ちにはどうすればいいですか。」
孔子「仕官してもいいが、仇と同じ国に仕えてはならない。もし君命で仇と顔を合わせることがあっても、我慢して撃ちかかったりしないように。」
子夏「いとこの敵討ちにはどうすればいいですか。」
孔子「自分から撃ちかかってはならない。もし主人が仇を討つなら、その時は武器を取って主人の助太刀をしなさい。」(『孔子家語』曲礼子夏問1)
重複を恐れず記せば、『孔子家語』の偽作説は冤罪だったことが定州漢墓竹簡の発掘で判明している。ともあれ孔子も、もし子夏が刃物を見るのも怖がるような、今で言う一般人なら、こんな説教はしないだろう。腕に覚えのある春秋時代の君子だからこそだ。
詳細は論語における「君子」を参照。子夏の武勇伝は伝わっていないし、顔淵のように隠されたとも思えないが(孔門十哲の謎)、「子夏は足りない」(論語先進篇15)という孔子の評だけが、子夏の人柄を表すわけではない。大胆になるべきときには、なることを知っていた。
次に論語の本章で指摘できるのは、前章との間にもう一章あったのではないか、という疑いだ。定州竹簡論語の前章と本書は、横書きで図示すれば次の通り。…は竹簡の解読不能部分。
…………………………而後諫未信則以為謗也簡579号
……………………夏曰大德……………………簡580号
前章は「…而後諫、未信、則以爲謗己也」で終わっており、本章は「子夏曰大徳…」で始まる。簡580号の「夏」以前に何字あったか、『定州漢墓竹簡論語』には記載が無いが、簡一枚に19-21字記されていたというから、「夏」の前の解読不能部分は、16字まであり得る。
本章冒頭の「子」の字を引けば、なお15字まであり得るわけで、論語の一章にはこれより少ないものはあまたあるから、現在では失伝した章が、ここに書かれていたのでは、と想像することが可能だ。ただし確言できる話ではない。
論語の本章の言葉は、もとは孔子と同時代の斉の宰相・晏嬰の言葉だったとする説がある。
晏子曰:「…且吾聞之,大者不踰閑,小者出入可也。」晏子出,仲尼送之以賓客之禮,不計之義,維晏子為能行之。」
(景公のお供で魯を訪れた)晏子が言った。「…それに私はこう聞いています。基本方針が掟を超えないなら、些事は多少外れてもかまわない、と。」晏嬰は孔子の前を去り、孔子は晏嬰を賓客の礼儀で見送った。取り繕いをしない正しさは、ただ晏嬰だけが行うことが出来た。(『晏子春秋』景公使魯有事已仲尼以為知禮2)
銀雀山漢簡の出土により、『晏子春秋』は戦国時代まで成立が遡るとされるが、竹簡にこの部分があるかどうかは分からない。また本章の別の解釈として、清儒・方観旭の『論語偶記』は次のように言う。『論語集釋』から孫引きして訳を示す。
大德小德皆有德之人、大小者、優劣之謂也。孟子曰「小德役大德。」是其證。
「大徳・小徳は、どれも徳の有る人を言う。大小とは、徳の優劣を言う。孟子に”小徳は大徳に使われる”とあるのがその証拠だ。」
「徳」を何かの道徳のように言う、この意見には賛成できない。『孟子』も論語と同様に、相当に後世の儒者による偽作が竄入しており、とりわけ天命思想を説いた部分は、その発案者である前漢の董仲舒一派の手による偽作が疑われる。
董仲舒についてより詳しくは、論語公冶長篇24余話を参照。『孟子』の該当部分は次の通り。
孟子曰:「天下有道,小德役大德,小賢役大賢;天下無道,小役大,弱役強。斯二者天也。順天者存,逆天者亡。齊景公曰:『既不能令,又不受命,是絕物也。』涕出而女於吳。
孟子が申しました。「天下に原則があれば、徳の少ない者が徳の多い者に使われ、小知恵のある者は大賢者に使われる。天下に原則が無くなると、小さい者が大きい者に使われ、弱い者が強い者に使われる。
両者の違いは天に原因がある。天に従う者は生き延び、逆らう者は死に絶える。だから斉の景公も言った。”(わが斉は呉に)すでに言うことを聞かせられないし、また天の恵みにも見放されている。そして二度と会えないだろう。」そう言って泣きながら娘を呉に嫁がせた。(『孟子』離婁上篇7)
高校教科書的には孟子のライバルとされる荀子が、著作にズバリ「天論篇」を書いて天命を否定しているので、ライバルである孟子は天命を主張したと考えがちだが、荀子は孟子より60も年下で、かつ天命を唱える人物は孟子に限らない。
論語だけで手一杯の訳者には、孟子の面倒まで見切れないので、偽作の断定は出来ないが、印象的には董仲舒による竄入だとと見ている。
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