論語:原文・白文・書き下し
原文・白文
子游曰、「吾友張也、爲難能也、然而未仁。」
校訂
後漢熹平石経
子…
定州竹簡論語
……游曰:「吾友張也為難能也,然而未仁。」583
復元白文(論語時代での表記)
※張→(金文大篆)・仁→(甲骨文)。論語の本章は、「也」「未」の用法に疑問がある。その部分は戦国時代以降の儒者による加筆である。
書き下し
子游曰く、吾が友張也、能くし難きを爲す也、然し而未だ仁ならず。
論語:現代日本語訳
逐語訳
子游が言った。「私の同窓の子張は、やりにくいことをする。そうではあるが、なのにまだ貴族らしくはない。」
意訳
子游「子張のやつは難しいことでもやってのける。だがまだ貴族らしいとは言えないな。」
従来訳
子游がいった。―― 「友人の張(ちょう)は、困難なことをやりとげる男ではあるが、まだ仁者だとはいえない。」
下村湖人『現代訳論語』
現代中国での解釈例
子游說:「我的朋友子張算很難得的了,可是還不能算仁。」
子游が言った。「我が友子張はとても難しいことでもやり遂げると認めるが、ただしやはり仁は認められない。」
論語:語釈
子游
論語では孔子の若い弟子で、文学の才を孔子に評価された孔門十哲の一人、言偃子游を指す。孔子より35年少であり、本章で批評した子張より13年長になる。
吾(ゴ)
(甲骨文)
論語の本章では”わたし”。初出は甲骨文。字形は「五」+「口」で、原義は『学研漢和大字典』によると「語の原字」というがはっきりしない。一人称代名詞に使うのは音を借りた仮借だとされる。詳細は論語語釈「吾」を参照。
春秋時代までは中国語にも格変化があり、一人称では「吾」を主格と所有格に用い、「我」を所有格と目的格に用いた。しかし論語でその文法が崩れ、「我」と「吾」が区別されなくなっている章があるのは、後世の創作が多数含まれているため。
友(ユウ)
「友」(甲骨文)
論語の本章では”同窓”。初出は甲骨文。甲骨文の字形は複数人が腕を突き出したさまで、原義はおそらく”共同する”。論語の時代までに、”友人”・”友好”の用例がある。詳細は論語語釈「友」を参照。対して「朋」は、同格に並び立つような関係の人物を言う。友人と言うより、志を同じくする仲間、同志に近い。
張
論語の本章では、孔子の若い弟子で、孔門十哲には入っていないが、それに次ぐ言及が論語に残る、顓孫師子張を指す。孔子からは”何事もやり過ぎ”と評された。なお「張」の字は論語の時代に存在しないが、固有名詞のため同音近音のいかなる別字も置換候補になり得る。辞書的には論語語釈「張」を参照。
也(ヤ)
(金文)
論語の本章では、「吾友張也」では「や」と読み、主格を強調する働きをし、「爲難能也」では「なり」と読み、句末に付いて断定の意を示す。初出は事実上春秋時代の金文。字形は口から強く語気を放つさまで、原義は”…こそは”。春秋末期までに句中で主格の強調、句末で詠歎、疑問や反語に用いたが、断定の意が明瞭に確認できるのは、戦国時代末期の金文からで、論語の時代には存在しない。詳細は論語語釈「也」を参照。
爲(イ)
(甲骨文)
論語の本章では”する”。新字体は「為」。字形は象を調教するさま。甲骨文の段階で、”ある”や人名を、金文の段階で”作る”・”する”・”~になる”を意味した。詳細は論語語釈「為」を参照。
難能
論語の本章では、”難しいこと”。
「難」は”むずかしい”。初出は西周末期の金文。原義はヤキトリと『学研漢和大字典』はいう。詳細は論語語釈「難」を参照。
「能」は”出来ること”。初出は西周早期の金文。原義はウミガメの象形。漢語は品詞が安定せず、都合によって動詞にも名詞にもその他にもなるので、品詞の判定は緩めにしておかないと、漢文読解が行き詰まる。。詳細は論語語釈「能」を参照。
「能~」は「よく~す」と訓読するのが漢文業界の座敷わらしだが、”上手に~できる”の意と誤解するので賛成しない。読めない漢文を読めるとウソをついてきた、大昔に死んだおじゃる公家の出任せに付き合うのはもうやめよう。
学研『全訳用例古語辞典』「よく」条
《副詞》
- 十分に。念入りに。詳しく。
《竹取物語・御門の求婚》 「よく見てまゐるべき由(ヨシ)のたまはせつるになむ」
《訳》
念入りに見てまいるようにとの意向をおっしゃられたので。- 巧みに。上手に。うまく。
《宇治拾遺物語・一三・九》 「木登りよくする法師」
《訳》
木登りを上手にする法師。- 少しの間違いもなく。そっくり。
《万葉集・一二八》 「わが聞きし耳によく似る葦(アシ)のうれの足ひくわが背」
《訳》
私が聞いたうわさにそっくり似ている葦の葉先のように足の弱々しいわが夫よ。
む甚だしく。たいそう。
《今昔物語集・二七・四一》 「よく病みたる者の気色(ケシキ)にて」
《訳》
甚だしく病んでいるようすで。- よくぞ。よくも。よくもまあ。▽並々でない事を成しとげたとき、また、成しとげられなかったときに、その行為の評価に用いる。
《竹取物語・竜の頸の玉》 「よく捕らへずなりにけり」
《訳》
よくもつかまえなかったものだ。- たびたび。ともすれば。
《浮世床・滑稽》 「てめえ、よくすてきと言ふぜ」
《訳》
おまえ、たびたびすてきと言うぜ。
「難能」は修飾語→被修飾語の関係で、”出来ることが難しいこと”を意味する。
然
(金文)
論語の本章では”確かにそうである”。初出は春秋早期の金文。『学研漢和大字典』による原義は焼き肉の脂がたれて燃える姿。のち、然を指示詞ゼン・ネンに当て、それ・その・そのとおりなどの意をあらわすようになった、という。詳細は論語語釈「然」を参照。
而(ジ)
(甲骨文)
論語の本章では”それなのに”。初出は甲骨文。原義は”あごひげ”とされるが用例が確認できない。甲骨文から”~と”を意味し、金文になると、二人称や”そして”の意に用いた。英語のandに当たるが、「A而B」は、AとBが分かちがたく一体となっている事を意味し、単なる時間の前後や類似を意味しない。詳細は論語語釈「而」を参照。
未(ビ)
(甲骨文)
論語の本章では”今までにいない”。初出は甲骨文。「ミ」は呉音。字形は枝の繁った樹木で、原義は”繁る”。ただしこの語義は漢文にほとんど見られず、もっぱら音を借りて否定辞として用いられ、「いまだ…ず」と読む再読文字。ただしその語義が現れるのは戦国時代まで時代が下る。詳細は論語語釈「未」を参照。
仁(ジン)
(甲骨文)
論語の本章では、”貴族(らしさ)”。初出は甲骨文。字形は「亻」”ひと”+「二」”敷物”で、原義は敷物に座った”貴人”。詳細は論語語釈「仁」を参照。
通説的な解釈、”なさけ・あわれみ”などの道徳的意味は、孔子没後一世紀後に現れた孟子による、「仁義」の語義であり、孔子や高弟の口から出た「仁」の語義ではない。字形や音から推定できる春秋時代の語義は、敷物に端座した”よき人”であり、”貴族”を意味する。詳細は論語における「仁」を参照。
論語:付記
『論語集釋』は本章について別解を示している。
此友字係動詞,言我所以交子張之故,因其才難能可貴,己雖有其才,然未及其仁也。蓋文人相輕,係學者通病,豈聖門而有此哉?未仁指子游說,如此既可杜貶抑聖門之口,且考大戴禮衛將軍文子篇:孔子言子張不弊百姓,以其仁爲大。是子張之仁固有確據。王氏此說,有功聖經不小。
ここでの「友」は係動詞で、”友人にする理由は”の意。全体で、”私が子張と友人づきあいをするのは、難しいこともやってのけるその才能が貴重だからで、私にも才が無いわけではないが、子張の実践している仁には及ばない”と言っている。
これまでの儒者には粗忽者が多く、学問をすると脳みそがいかれて変な読みをする。これではどうやっても、孔子様の聖なる教えを理解することは出来ない。”仁には及ばない”のが子游であるという説は、聖なる教えをおとしめてきた人の口を閉ざすものだ。
また『大載礼記』衛将軍文子篇にも、「孔子は子張を評して、庶民を苦しめないと言った。その仁が大きいと言った」とある。これは子張の仁が確立されていたことの証拠だ。
この説を唱えた王闓運の言い分は、聖なる経典の偉大さを示す立派なものだ。(程樹徳『論語集釋』)
つまり子游は、「年下の子張と対等に付き合う理由は、子張がすごいからで、自分はとても及ばない、とりわけ仁の実践は子張の方が優れている」と自己批判したと解している。
漢語的には無理の無い解釈だが、子張と同年代で、子游にとっては同じく弟弟子の子夏を、「教えがチマチマしておる」と罵倒する(論語子張篇12)ような子游が、こうもしおらしいとは思えない。普通にせんべいをかじりながら言うような気分で、子張を評したのだろう。
訳者の見るところ、子張は確かに仁=貴族らしくなかっただろう。理由は子張が仕官した記録が無いことで、さんざん就職活動をしたにもかかわらず(論語為政篇18)仕官できなかったのは、諸侯や卿大夫が雇う気を起こさないほど、子張の貴族としての技が足りなかったからだ。
その代わり戦国末期の荀子に罵倒される程度には、その派閥が残っていた。荀子は当時の儒学界のボスで、目障りに思う程度には、子張派がはばを利かせていたことになる。つまり子張は、私塾の経営者としては成功したのだろう。大隈重信や福沢諭吉と同じである。
弟陀其冠,衶禫其辭,禹行而舜趨:是子張氏之賤儒也。
冠を貧乏くさくかぶり、ぼそぼそともっともらしいことを言い、古代の伝統だからと変な動作を見せ物にするのが、子張派の腐れ儒者どもだ。(『荀子』非十二子篇17)
なお『論語集釋』が言う『大載礼記』の記述は次の通り。
業功不伐,貴位不善,不侮可侮,不佚可佚,不敖無告,是顓孫之行也。孔子言之曰:『其不伐則猶可能也,其不弊百姓者則仁也。詩云:「愷悌君子,民之父母。」』夫子以其仁為大也。
(子貢が衛の将軍・文子に、孔子一門の人物評を問われて答えた。)
業績を誇らず、高位高官に登りたがらず、後悔せずさばさばしていて、失敗しそうなことでもやってのけ、それでも”どうだすごいだろう”などとは言わない。これが子張という男です。
孔子は子張をこう評しました。「自慢しないのは能があるからだ。民衆を苦しめないのは仁があるからだ。詩に言う、”情け深い君子こそ、民の父母”と。」孔子は子張の仁を、大したものだと評価したのです。(『大載礼記』衛将軍文子篇9)
「仁」の解釈を、孟子の言う「仁義」と捉えていることから、この記述はウソ八百で、『論語集釋』の所説は、これゆえにも崩れることになる。なお清末民初の時代を生きた程樹徳が、儒教や論語を「聖」と読んでいるのには時代的背景がある。
清朝を滅ぼしたのは孫文だが、そのスローガンは「駆除韃虜」(満洲の野蛮人どもをつまみ出せ)だった。ハエやカと同じ扱いで呼んだのである。そして立国した民国は、中華文明の偉大さを顕彰するのに忙しかった。大総統以下が、式典でぞろぞろとした儒者服を着たりもした。
だからこその「聖教」呼ばわりで、江戸期の文化を「旧弊」呼ばわりした明治維新とは事情が違う。日本は、さっさと近代国家建設を目指したが、中国ではそうも行かなかったわけ。「託古改正」(昔にかこつけて改革する)は現中国もそうで、『毛語録』が復活したらしい。
ゆえに中国を知るには、長~い目が必要である。
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