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論語詳解496子張篇第十九(25)陳子禽子貢に’

論語子張篇(25)要約:子貢の弟弟子で、孔子先生に辛口の子禽が言います。兄者の腰は低すぎる、孔子先生がそんなに偉いんですかと。子貢がコラとたしなめます。よおく聞け、孔子先生の偉さはなあ、はしごで登れぬ天と同じだと。

論語:原文・白文・書き下し

原文・白文

陳子禽謂子貢曰、「子爲恭也、仲尼豈賢於子乎。」子貢曰、「君子一言以爲知*、一言以爲不知*、言不可不愼也。夫子之不可及*也、猶天之不可階而升也。夫子*之得邦家者、所謂『立之斯立、道*之斯行、綏之斯來、動之斯和。其生也榮、其死也哀』。如之何其可及也。」

校訂

諸本

  • 武内本:唐石経、智知に作り、及下也の字あり。夫子の下之の字あり、導道に作る。

後漢熹平石経

…一言㕥爲不知言不可不慎也夫子之不可及也猶天之…

  • 「不」字:〔一八个〕。
  • 「慎」字:最後の一画を欠く。前後の漢帝国にいみ名が「愼」(慎)の皇帝はいない。『漢石經考異補正』版木の摩滅、画像化に伴う損失によるか。

定州竹簡論語

子禽謂子貢a:「子[為恭也],593……壹b言以為知,壹b言[以為不知,言不可不慎也]。594……[不可]及也,猶天之不可階而升也。夫子c得[邦家]595……道之斯行,綏之斯來,動之斯和。其生也596……哀α,如之何其可及也?」597

  1. 今本”貢”字下有”曰”字。
  2. 壹、今本作”一”。
  3. 今本”子”字下有”之”字。
  1. 「哀」は、対句として不自然であり、「衰」の誤字と解した。

→陳子禽謂子貢、「子爲恭也、仲尼豈賢於子乎。」子貢曰、「君子壹言以爲知、壹言以爲不知、言不可不愼也。夫子之不可及也、猶天之不可階而升也。夫子得邦家者、所謂『立之斯立、道之斯行、綏之斯來、動之斯和、其生也榮、其死也衰』。如之何其可及也。」

復元白文(論語時代での表記)

陳 金文子 金文禽 金文謂 金文子 金文江 金文 子 金文為 金文兢 金文也 金文 仲 金文其 金文賢 金文於 金文子 金文乎 金文 子 金文江 金文曰 金文 君 金文子 金文一 金文言 金文㠯 以 金文為 金文智 金文 一 金文言 金文㠯 以 金文為 金文不 金文智 金文 言 金文不 金文可 金文不 金文慎 金文也 金文 夫 金文子 金文之 金文不 金文可 金文及 金文也 金文 猶 金文天 金文之 金文不 金文可 金文階 金文而 金文升 金文也 金文 夫 金文子 金文得 金文邦 金文家 金文者 金文 所 金文謂 金文 立 金文之 金文斯 金文立 金文 道 金文之 金文斯 金文行 金文 妥 綏 金文之 金文斯 金文来 金文 動 金文之 金文斯 金文和 金文 其 金文生 金文也 金文栄 金文 其 金文死 金文也 金文哀 金文 如 金文之 金文何 金文其 金文可 金文及 金文也 金文

※貢→江・恭→兢・豈→其。論語の本章は「尼」の字が論語の時代に存在しない。「之」「也」「爲」の用法に疑問がある。ただし「尼」は固有名詞のため、同音近音のいかなる漢字も論語時代の置換候補になりうる。

書き下し

陳子禽ちんしきん子貢しこういはく、ゐや仲尼ちうぢあにかしこ子貢しこういはく、君子もののふひとことさとしとされ、ひとことさとからさるれば、ことつつしからなり夫子ふうしおよからてんきざはしのぼからるがごときなり夫子ふうし邦家くに所謂いはゆるこれつらばここち、これみちびかばここき、これやすんずらばここきたり、これうごかさばここなごみ、くるさかえ、するおとろふ。かくごときはなんおよけむ

論語:現代日本語訳

逐語訳

陳子禽が子貢に言った。「あなたの恭しい態度は(不釣り合いです)、孔子先生がどうしてあなたより優れているでしょうか。」子貢が言った。「貴族や知識人は、一言で賢いと評価され、一言で賢くないと評価されるから、言葉は慎まないことが出来ない。孔子先生に及ぶことが出来ない有様とは、あたかも天にはしごを掛けて登れないのと同じだ。孔子先生が一国の政権を得たら、丁度言われているように、国が成り立つようにすれば成り立ち、国を導けばその道を国が行き、国を落ち着ければ民が慕い寄り、国を動かせば民が和み合って従う。先生が生きれば国が栄え、亡くなれば衰える。そのような有様に、どうやって及ぶと言うのか。」

意訳

子禽「兄者は腰が低すぎます。孔子先生はそんなに偉い人じゃないでしょう。」

子貢 怒り
子貢「コラ! 何てこと言うんだ。君子たる者、たった一言で評価が決まってしまうぞ? 言葉に気を付けろ。お前は孔子先生の偉さを知らないだけなんだ。教えてやるから、よおく耳をかっぽじって聞け!」
子禽「はあ。」

子貢「先生の偉さはな、はしごを掛けても天に昇れないのと同じだ。先生が政治を取れば、あの善政を讃える歌と同じだぞ?」

♪政務を取りたまえば あら不思議
国は栄える 民従う
安らぐ暮らしに 遠くの者まで慕い寄る
そのお触れを疑う者なく みなこぞって精を出す
生きておわせば国賑わい みまかればすなわち国沈む

子貢「…と、いうわけだ。私やお前如きが、至れる境地ではないと知るがよいぞ。」

子禽「はあ。」

従来訳

下村湖人

陳子禽が子貢にいった。――
「あなたはご謙遜が過ぎます。仲尼先生といえどもあなた以上だとは私には思えません。」
すると子貢がいった。――
「君子は一言で知者ともいわれ、一言で愚者ともいわれる。だから、口はうっかりきくものではない。先生が、われわれの到底及びもつかない方であられるのは、ちょうど天に梯子をかけて登れないのと同じようなものだ。もし先生が国家を治める重任につかれたら、それこそ古語にいわゆる、「これを立つればここに立ち、これを導けばここに行われ、これを安んずればここに来り、これを動かせばここに和やわらぐ。その生や栄え、その死やかなしむ。」とある通り、民生もゆたかになり、道義も作興し、人民は帰服して平和を楽しみ、先生の御存命中はその政治をたたえ、亡くなられたらその徳を慕うて心から悲しむだろう。とても、とても、私などの及ぶところではないのだ。」

下村湖人先生『現代訳論語』

現代中国での解釈例

陳子禽對謂子貢說:「你是謙虛吧,孔子哪裏比你強?」子貢說:「君子說一句話就可以表現出是否明智,所以說話不可以不謹慎。孔子的高不可及,如同天不能搭階梯爬上去一樣。他如果有機會治理國家,就能做到傳說的那樣,得到老百姓的全力擁護,萬衆一心,共享太平。他生也光榮,死也可哀,怎麽談得上趕上他呢?」

中国哲学書電子化計画

陳子禽が子貢に言った。「君は謙虚だね、こうしはそんなに君に比べて偉いのか?」子貢が言った。「君子は一言話しただけですぐさま賢いかそうでないかが表れる。だから話は慎まないではいられない。孔子の高さは及べない、天にはしごをかけて登れないのと同じだ。彼がもし国家を治める機会があったら、必ず伝説が言うように出来ただろう、つまり民衆を全力で守り、住民が一心同体となって、共に平和な世を楽しめた。彼は生前誉れに包まれ、没後は悲しまれた。どうやって彼に及ぶ法を語ることが出来るか?」

論語:語釈

陳子禽(チンシキン)

子禽

論語では孔子一門の一人で、名はコウ。おそらくは孔子の直弟子ではなく、子貢の門人。論語季氏篇16が史実とすると、孔子に先立った一人息子のと問答しているので、孔子の直弟子の可能性はあるが、孔子と直問答した記述は論語になく、季氏篇16の史実性も怪しい。

論語学而篇10では孔子について子貢と問答しているが、季氏篇と同様に孔子に対しては辛口で、かつ学而篇の問答は孔子没後の思い出話の可能性が高い。『孔子家語』によれば孔子より40年少。孔子神格化以降の公式な人物像は以下の通り(百度百科より和訳)。

南頓侯陳亢(BC508?~BC430)、あざ名は子元、または子禽、または子亢。春秋時代の頓子国(現在の河南省項城市南頓鎮)出身。十八歳で孔子に入門し、のち孔子に付き従って衛国に赴き、儒者として衛国に仕官した。河南省郡志の記載によると、北宋の大中祥符元年 (AD1008)真宗皇帝が孔子に玄聖文宣王の位階を追贈した際、陳亢も南頓侯の爵位を追贈された。明の嘉靖九年(AD1530)に、世宗皇帝が至聖先師の称号を孔子に追贈した際には、孔子廟で孔子と共に祀られた。

謂 金文
(金文)

論語の本章では”論評する”。同じ「いう」でも、何かについて、それをめぐってあれこれ言うこと、と『学研漢和大字典』にある。詳細は論語語釈「謂」を参照。

子貢

子貢

論語では、孔子の直弟子で、弁舌の才を評価された孔門十哲の一人、端木賜子貢のこと。「貢」の字は論語の時代に存在しないが、固有名詞のため、同音近音のいかなる漢字も論語時代の置換候補になりうる。論語語釈「貢」を参照。

子(シ)

子 甲骨文
(甲骨文)

論語の本章では”先生”。具体的には子貢を指す。初出は甲骨文。論語での用例はほとんど孔子を意味するが、ここでは例外。本来は王の息子を意味し、高貴な身分であることから、貴族や師匠への敬称へと転用された。詳細は論語語釈「子」を参照。

爲(イ)

為 甲骨文 為 字解
(甲骨文)

論語の本章では”する”・”…であるとする”。後者の用法は、春秋時代以前では確認できない。新字体は「為」。字形は象を調教するさま。甲骨文の段階で、”ある”や人名を、金文の段階で”作る”・”する”・”~になる”を意味した。詳細は論語語釈「為」を参照。

恭 古文
(古文)

論語の本章では”控えめで丁寧である”。初出は楚系戦国文字。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補は「兢」。すなわち「戦戦兢兢」の「兢」であり、”恐れてブルブル震えるような気持ちでいる”という有様を指す。『学研漢和大字典』による原義は、ものを両手で差し上げるさま、という。詳細は論語語釈「恭」を参照。

なお「恭」の字は本章と共に、子禽と子貢の対話である論語学而篇10にも現れている。

也(ヤ)

也 金文 也 字解
(金文)

論語の本章では、複数あるそれぞれが各個に解釈しうる。初出は事実上春秋時代の金文。字形は口から強く語気を放つさまで、原義は”…こそは”。春秋末期までに句中で主格の強調、句末で詠歎、疑問や反語に用いたが、断定の意が明瞭に確認できるのは、戦国時代末期の金文からで、論語の時代には存在しない。詳細は論語語釈「也」を参照。

子爲恭也

ここでの「也」は断定であり、「子はキョウたるなり」と読み下すのが伝統的な論語の解釈で、特に矛盾はない。しかし、この「也」を主格を提示し強調する意だと解し、「や」と読み下した場合、書き言葉だと文法的におかしいが、この部分が口語ならば矛盾がなくなる。

子爲恭也、仲尼豈賢於子乎。
文語:あなたが恭しい態度でいることは、仲尼はあなたより優れているだろうか。
口語:兄者の腰の低さよ、孔子先生がそんなに偉いんですか。

「爲」の新字体は「為」。初出は甲骨文。甲骨文字は「手+象」の会意文字で、象に手を加えて手なずけ、調教するさま。甲骨文の段階で、”ある”や人名を、金文の段階で”作る”・”する”・”~になる”を意味した。詳細は論語語釈「為」を参照。

不可不愼也

「慎まざるべからざるなり」と読めば断定、「…かな・や」と読めば詠歎。

之(シ)

之 甲骨文 之 字解
(甲骨文)

論語の本章では”…の”・”これ”。初出は甲骨文。字形は”足”+「一」”地面”で、あしを止めたところ。原義はつま先でつ突くような、”まさにこれ”。殷代末期から”ゆく”の語義を持った可能性があり、春秋末期までに”~の”の語義を獲得した。詳細は論語語釈「之」を参照。

不可及也

「およぶべからざるや」と読み、「…については」という主題の強調。

猶…不可階而升也

「なお…きざはししてのぼるべからざるがごときなり」と読んで、断定を意味する。

可及也

「およぶべけんや」と読み、疑問・反語を意味する。

仲尼(チュウジ)

孔子別像

論語のみならず漢文一般では、孔子のあざ名とされる。仲は次男を意味し、尼は母親が尼山に祈って孔子を産んだという伝説に基づく。ただし「尼」の初出は前漢の隷書で、論語の時代に存在しない。従って孔子在世当時のあざ名ではなく、後世の創作。おそらく「仲二」=”次男坊”という呼び名に、後世いかめしい漢字が当てられただけ。詳細は論語語釈「尼」を参照。

豈 古文
(古文)

論語の本章では”なぜ~か”。反語を意味する。初出は秦系戦国文字で、論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補は「其」。『学研漢和大字典』によると、もとはにこやか・賑やかなさまを意味したが、指示詞のと音が通じたので転用され、指示・強調を加えて反問する語気をあらわすようになった、という。詳細は論語語釈「豈」を参照。

賢 金文
(金文)

論語の本章では”優れている”。初出は西周中期の金文。語源的には、宝箱を上からじっと見つめて、抜け目なく管理すること。吉川本に「むしろ”偉い”を意味する」というが、根拠が明らかでない。詳細は論語語釈「賢」を参照。

於 金文
(金文)「

論語の本章では”~よりも”。漢文では一般的に「おいて」と読み下し、”~で”の意味に使われることが多い。初出は西周早期の金文。『学研漢和大字典』によると「はた+=印(重なって止まる)」の会意文字で、じっとつかえて止まることを示す。ただし、ああと鳴くからすを烏というのと同じく、於もまたああという感嘆詞にあてる、という。詳細は論語語釈「於」を参照。

慎 金文
(金文)

論語の本章では”慎む・慎重になる”。新字体は「慎」。初出は西周中期の金文。『学研漢和大字典』によると、眞(シン)(=真)は、欠けめなく充実したこと。愼は「心+(音符)眞」の会意兼形声文字で、心が欠けめなくすみずみまでゆきとどくこと、という。詳細は論語語釈「慎」を参照。

夫子(フウシ)

夫 甲骨文 子 甲骨文
(甲骨文)

論語の本章では”孔子先生”。従来「夫子」は「かの人」と訓読され、「夫」は指示詞とされてきた。しかし論語の時代、「夫」に指示詞の語義は無い。同音「父」は甲骨文より存在し、血統・姓氏上の”ちちおや”のみならず、父親と同年代の男性を意味した。従って論語における「夫子」がもし当時の言葉なら、”父の如き人”の意味での敬称。詳細は論語語釈「夫」を参照。

「子」は貴族や知識人に対する敬称。論語語釈「子」を参照。

猶 金文
(金文)

論語の本章では「なお…ごとし」と読み下して”…のようなものである”。再読文字の一つ。詳細は論語語釈「猶」を参照。

階 金文
(金文)

論語の本章では”はしご段”。

『学研漢和大字典』では「阜(土盛り)+(音符)皆(きちんとそろう)」の会意兼形声文字とするが、へんはどう見てもはしご段であり、こざとへんだからといって”おか”と解釈するのには同意しかねる。

『字通』はこの字のへんを、神梯=神が天から祭壇など祭の場へ上り下りするはしごであり、もと祭壇の階を言う語であった、とする。詳細は論語語釈「階」を参照。

升 金文
(金文)

論語の本章では”のぼる”。初出は甲骨文。『学研漢和大字典』によると、「ます+手」の会意文字で、穀物や液体をますに入れて持ちあげ、はかるさまを示す。持ちあげるの意、という。詳細は論語語釈「升」を参照。

得邦家者

高祖劉邦

論語の本章では”一国の政権を握れば”。「邦家」は論語の時代の諸侯国を指すと古来解する。「邦」は漢帝国治下では高祖劉邦のいみ名として避諱すべき文字であり、本章が後漢滅亡後に手を入れられたことを示している。詳細は論語語釈「邦」を参照。

「家」は『字通』によれば犠牲獣を埋めて地鎮祭を行った建物の意であり、甲骨文では一族の祖先祭殿をも意味するという。土地神と穀物神を意味する「社稷」が”国家”を意味するように、領域と祭殿を組み合わせて”くに”を意味することは、『詩経』大雅・思斉にも「以て家邦をおさむ」とあるという。詳細は論語語釈「家」を参照。

またここでの「者」は、主格を特に取り上げて提示する働きをする。”~とは、それは”。詳細は論語語釈「者」を参照。

立(リュウ)

立 甲骨文 立 字解
(甲骨文)

論語の本章では”確立させる”。初出は甲骨文。「リツ」は慣用音。字形は「大」”人の正面形”+「一」”地面”で、地面に人が立ったさま。原義は”たつ”。甲骨文の段階で”立てる”・”場に臨む”の語義があり、また地名人名に用いた。金文では”立場”・”地位”の語義があった。詳細は論語語釈「立」を参照。

斯 金文
(金文)

論語の本章では、「すなわち」「ここに」と読み下し、”~ならば…である・~したら…する”を意味する。前後の句をつなぐ意を示す。初出は西周末期の金文。『学研漢和大字典』によると、「其(=箕。穀物のごみなどをよりわける四角いあみかご)+斤(おの)」の会意文字で、刃物で箕(ミ)をばらばらにさくことを示す、という。詳細は論語語釈「斯」を参照。

道(トウ)

道 甲骨文 道 字解
「道」(甲骨文)

論語の本章では”導く”。”言う”の意味もあるが俗語。名詞で用いる場合は”みち”から発展して”方法”。初出は甲骨文。字形に「首」が含まれるようになったのは金文からで、甲骨文の字形は十字路に立った人の姿。「ドウ」は呉音。詳細は論語語釈「道」を参照。

行(コウ)

行 甲骨文 行 字解
(甲骨文)

論語の本章では”行く”。初出は甲骨文。「ギョウ」は呉音。十字路を描いたもので、真ん中に「人」を加えると「道」の字になる。甲骨文や春秋時代の金文までは、”みち”・”ゆく”の語義で、”おこなう”の語義が見られるのは戦国末期から。詳細は論語語釈「行」を参照。

綏(スイ)

綏 古文
(古文)

論語の本章では”落ち着かせる”。「妥当」の「妥」に当てた用法。初出は甲骨文。金文では、妥の字と書き分けられていない。『学研漢和大字典』による原義は、いきりたつ女をまあまあと手でなだめて落ち着かせるさま、という。詳細は論語語釈「綏」を参照。

論語郷党篇18では、馬車に取り付けられたつり革としての用例がある。

來(ライ)

来 甲骨文 来 解字
(甲骨文)

論語の本章では”服属する”。初出は甲骨文。新字体は「来」。原義は穂がたれて実った”小麦”。西方から伝わった作物だという事で、甲骨文の時代から、小麦を意味すると同時に”来る”も意味した。詳細は論語語釈「来」を参照。

春秋戦国時代の庶民には戸籍らしきものがあったとされるが、領主や国君が暴政を行うと、ただちに反乱を起こすか、さもなくば逃げ散ってより暮らしやすい国に移動した。論語の本章はそうした遠い地の民が”やってる”ことを意味し、儒教的価値観では善政の証拠とされる。

中国史上、最古の古典の一つである論語だが、そうした記述は子路篇4にも見える。また孔子の自称後継者である孟子が、魏(梁)の恵王と対談した記述に、王が「よそより善政を敷いておるというのに、ちっとも隣国の民が慕い寄ってこない」と嘆くくだりがある。

察鄰國之政、無如寡人之用心者。鄰國之民不加少、寡人之民不加多、何也。(『孟子』梁恵王上篇)

論語の本章では”さかえる”。論語では本章のみに登場。新字体は「栄」。初出は西周早期の金文。『学研漢和大字典』によると、𤇾(エイ)・(ケイ)は、まわりをかがり火でとりまくことを示す会意文字。榮は「木+(音符)𤇾」の会意兼形声文字で、木全体をとりまいて咲いた花。はでな意となる、という。詳細は論語語釈「栄」を参照。

其生也榮、其死也哀

論語の本章では、”生きていると栄え、死ぬと悲しむ”の意だが、「生→死」に呼応する「栄→哀」は対句として不自然であり、「哀」は「衰」の誤りに違いない。ただしそれを支持する版本は無い。

「哀」のままだとすると、「其生也榮、其死也哀」は「そのいくるやさかえ、そのしするやあわれまる」と受身に解釈するしかないが、受身を示す記号が無い。「しするやかなし」とも読めるが、「栄」と主語が入れ替わっている。他人がその死を”かなしむ”ことになるからだ。

立之斯立~其死也哀

ここでの「其」は孔子を指す。論語の本章が史実とすると、この部分の前に「所謂」があるので、当時そのような言い廻し、おそらく歌があったと思われる。春秋時代頃までの歌詞は、必ずしも韻を踏まないが、それぞれのカールグレン上古音を下記する。

  • 立之斯立(gli̯əp ȶi̯əɡ si̯ĕɡ gli̯əp)
  • 道之斯行(dh ȶi̯əɡ si̯ĕɡ ɡʰɑŋ)
  • 綏之斯來(sni̯wər ȶi̯əɡ si̯ĕɡ ləg)
  • 動之斯和(dʰuŋ ȶi̯əɡ si̯ĕɡ ɡʰwɑ)
  • 其生也榮(ɡʰi̯əɡ sĕŋ di̯a ɡi̯wĕŋ)
  • 其死也衰(ɡʰi̯əɡ si̯ər di̯a ʂwi̯ər)

如之何

論語の本章では”どのようにして”。受験生を悩ます「如何」の間に目的語の「之」が挟まった形だが、それは平安朝以来の読み下しの流儀を引きずったに過ぎず、逐語的に「かくの如きは何ぞ」と読み下しても一向に差し支えない。

「如」の初出は甲骨文。『学研漢和大字典』によると、「口+〔音符〕女」の会意兼形声文字で、もと、しなやかにいう、柔和に従うの意。ただし、一般には、若とともに、近くもなく遠くもない物をさす指示詞に当てる、という。詳細は論語語釈「如」を参照。

論語:付記

中国歴代王朝年表

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孔子 梯
論語の本章は、おおむね金文まで遡れること、また口語らしい表現があることから、史実の問答を伝えると言っていい。ただし孔子をくさす子禽を、兄弟子の子貢がたしなめる筋立ては論語学而篇10と同じであり、子張篇の終わりに重出する子貢ばなしの一つでしかない。

つまりこれら子張篇の子貢ばなしから分かるのは、一門で最も出世した子貢でありながら、こと孔子に対しては、しおらしいご立派な弟子でした、ということに止まり、要するに子貢派の宣伝である事を免れない。

免れないが、子貢の孔子に対する尊崇の篤さは、孔子没後、師の墓のかたわらに小屋がけし、その服喪の期間も他の弟子の倍であったことが伝えられるように、おそらく本物だったろう。出世したからこそ、事実を伝えるだけで宣伝になったのである。
孔子聖蹟図 治任別帰

本章をもって子張篇は終わる。引き続く堯曰篇は付録に過ぎず、論語は本章で事実上終わると言っていい。

『論語』子張篇おわり

お疲れ様でした。

『論語』子張篇:現代語訳・書き下し・原文
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