論語:原文・白文・書き下し
原文・白文
子游曰、「喪致乎哀而止。」
校訂
後漢熹平石経
斿曰喪致乎而止
定州竹簡論語
(なし)
復元白文(論語時代での表記)
※論語の本章は、「乎」の用法に疑問がある。
書き下し
子游曰く、喪は哀乎致し而止む。
論語:現代日本語訳
逐語訳
子游が言った。「服喪は悲しみを尽くせば終わる。」
意訳
子游「え~、ご遺族のみなさん。心より、お悔やみ申し上げます。さぞお嘆きのことでしょう。一切は手前どもが承りましたので、ひたすらナニガシ様のご冥福をお祈り下さい。」
従来訳
子游がいった。―― 「喪にあたっては、哀悼の至情をつくせばそれでいいので、形式をかざる必要はない。」
下村湖人『現代訳論語』
現代中国での解釈例
子游說:「辦喪事,衹要能表達出悲哀的感情就可以了。」
子游が言った。「喪中を過ごすには、ただ哀しみを表面に出す感情があればそれで十分だ。」
論語:語釈
子游(シユウ)
論語では、孔子の若い弟子で子夏と共に文学の才を孔子に認められた孔門十哲の一人、言偃子游のこと。地方代官を務めた際、孔子がやって来ると聞いて、住民を駆り出してチンチンどんどんのヤラセを行う(論語陽貨篇4)など、いかがわしいところがあったとされる。ただし論語のそれらの章は、史実が確認できていない。
喪
(金文)
論語の本章では、死者との別れを悲しむ礼儀作法。初出は甲骨文。『大漢和辞典』の第一義は”死ぬ”であり、第二義が”喪(に服する)”。第三義以降でやっと”うしなう”の意味がある。『学研漢和大字典』によるとばらばらに離散する意を含むといい、仏教における五蘊=人間を形作る要素、が離散することを死と見なすのに似ている。詳細は論語語釈「喪」を参照。
致
(金文)
論語の本章では”極まりまで行い尽くす”。初出は西周中期の金文。原義は「至」と同じく”ある地点まで到達すること”だが、「至」が自動詞であるのに対して「致」は他動詞を意味する。『学研漢和大字典』に”ぎりぎりの線まで力を尽くす”の語釈を載せる。詳細は論語語釈「致」を参照。
日本正教会で、いわゆる殉教者を致命者と訳したのは、この意を汲んだのだろう。
乎(コ)
(甲骨文)
論語の本章では、”~を”と訳し、助詞的働きをする。初出は甲骨文。甲骨文の字形は持ち手を取り付けた呼び鐘の象形で、原義は”呼ぶ”こと。甲骨文では”命じる”・”呼ぶ”を意味し、金文も同様で、「呼」の原字となった。句末の助辞として用いられたのは、戦国時代以降になる。ただし「烏乎」で”ああ”の意は、西周早期の金文に見え、句末でも詠嘆の意ならば論語の時代に存在した可能性がある。詳細は論語語釈「乎」を参照。
哀
(金文)
論語の本章では”悲しみ”。初出は西周早期の金文。『学研漢和大字典』による原義は衣+口で、衣で口を隠してむせび泣くこと。「愛」の、論語の時代の置換候補字でもある。詳細は論語語釈「哀」を参照。
而(ジ)
(甲骨文)
論語の本章では”…して、それだけで”。初出は甲骨文。原義は”あごひげ”とされるが用例が確認できない。甲骨文から”~と”を意味し、金文になると、二人称や”そして”の意に用いた。英語のandに当たるが、「A而B」は、AとBが分かちがたく一体となっている事を意味し、単なる時間の前後や類似を意味しない。詳細は論語語釈「而」を参照。
本章の場合、「致乎哀」=”哀しみ尽くす”、而=”それだけで”、止=”十分だ”、ということ。
止
(金文)
論語の本章では”十分である”。初出は甲骨文。『学研漢和大字典』によると足の形を描いた象形文字で、足がじっとひと所にとまることを示す。趾(シ)(あし)の原字、という。詳細は論語語釈「止」を参照。
伝統的読み下しでは、「而止」で「のみ」と読む本がある。漢文では「已」を「のみ」と読む場合があるように、「止」のような”終わる”意の語が、限定の意に転用されることがある。それを踏まえた上で、論語の時代は一文字一語義で、熟語は無いのが原則だから、できるだけ分解して読み下さなければならない。
論語:付記
論語の本章は、論語八佾篇4と呼応する。
この八佾篇の章と本章は、ともに史実と見てよいが、従来訳のように「形式をかざる必要はない」と解するのは美しい誤解というもので、葬儀屋の大旦那として名を馳せることになった子游にとっては、大いに形式を飾って貰わねば経営上困るのである。
儒者とは元来、坊主と葬儀屋を足して二で割ったような職業だった。
人は親族の死にうろたえる。それに付け込んでどこまで稼げるかが、坊主と葬儀屋の腕の見せ所で、それゆえ遺族には「ひたすら悲し」んで貰う方が子游にとって都合が良い。古代では人の死は日常の出来事で、現代とはうろたえが異なるが、坊主と葬儀屋の都合に変わりは無い。
また上掲した他章に見られる子游のヤラセは、必ずしも史実とは言えないが、子游派がその後どのような集団になったかは、戦国末期の荀子による証言がある。
偷儒憚事,無廉恥而耆飲食,必曰君子固不用力:是子游氏之賤儒也。
立派な司祭のふりをして、葬儀があると聞けば飛ぶように集まって来て、恥知らずにもひたすら飲み食いし、そのくせ”君子は力仕事なんかしない”といって威張り返り、お布施をたかって帰って行く。こういう連中が、子游派の腐れ儒者だ。(『荀子』非十二子篇17)
従って子游の言葉を冷静に読むなら、従来訳のようには解せない。また伝統中国の喪は大がかりで、専用のむしろがけした小屋に移り住み、専用のボロ服をまとい、専用の粗末なめしを専用の食器で食って、親の喪なら三年間過ごす。もちろんそうした専用品は、儒者が売る。
直に売らなくても、商品の認定料を取る。
というのは、誰がどのように死んだかで、喪服の意匠などの作法が異なるので、それに外れた服喪を過ごすと、世間から「親不孝者だ」と悪口を言われるからだ。もちろんそういう規則は、儒者が商売の都合で複雑にした。「礼儀三百、威儀三千」といわれるのがそれだ。
そしてどんなに子をいじめた親父が死のうと、わあわあとうそ泣きをして暮らさねばならない。このようなおかしな服喪がいつ始まったか、漢代の『礼記』より前には確かめようが無いが、儒者は「太古よりの礼法だ」と言い回った。もちろん商売のためだ。
やる方も服喪は世間への見せ物で、そうやって「孝行者だ」という評判を集める。漢帝国では、地方の孝行者を知事が推薦して高級官僚に出来たから、どんなぐれたガキでも一発勝負でそういうのを目指す。中国ではひとたび官僚になると、それで一族が三代食えるほど儲かる。
裏返すと、もし役人だろうとこういう見せ物をやらないと、「親不孝者だ」と皇帝に告げ口する連中が必ず現れる。従ってやはりどんなにクズのバカ親父が死のうと、しおらしく辞職し、儒者じるしのついた小屋に住まい服をまとい、毎日わあわあとうそ泣きして暮らした。
いずれにせよ儒者は儲かって仕方がない。こういう見せ物が、子游の頃に揃っていたはずが無いが、せっせと新しい作法や意匠を子游がこしらえたとする想像は、大いにあっていい。上掲八佾篇の章も、「見せ物は大いにやれ」と孔子が言っている。孔子もまた商売人だった。
孔子と同時代の賢者であるブッダは、出家した弟子が一切の世俗事をするのを禁じた。禁じ得たのは当時のインド社会に、一般人が出家者を敬い養う習慣があったこと、さらにブッダとその教団は、大国コーサラ・マガダの国王に帰依され、その保護を受けていたからだ。
給孤独長者のような、金満家の寄進も半端な額ではなかった。
だが孔子が一門に世俗事を禁じたら、直ちに餓えることになる。孔子は魯国で宰相の任にあったときと、亡命先の衛国で捨て扶持を貰った際には、現代換算で年俸111億円の収入があったから、ブッダのまねが出来たかも知れない。だが衛国を追われてのちはそうもいかない。
だから「陳で包囲されて食糧が尽きた」(論語衛霊公篇2)りする。従って孔子は弟子に、アルバイトの坊主稼業禁止を言い渡せなかったし、おそらくその気も無かっただろう。論語の本章はそういう文脈で理解すべきで、子游が形式にこだわらなかったとするのは誤読と言ってよい。
これはあるいは、当時の中印両国の経済環境によるかも知れない。孔子の生きた春秋時代後期に、貨幣があったかどうか、専門家の歯切れはよろしくない。論語にも貨幣に対する言及が無いのに対し、初期仏典には金貨に対する言及がある。貨幣経済はインドの方が進んでいた。
高校世界史的には、世界初の金属貨幣はオリエントのリディアでBC670ごろに発行されたとする。その発行はアケメネス帝国にも受け継がれた。孔子と同時代のダリウス1世がアフガニスタンを占領したように、オリエントとの関係が深いインドの貨幣発行は早かった。
中村元博士は「金貨が一般化したのはクシャーナ朝以降のことであるから」とし、『スッタニパータ』のとある言葉を「黄金」と訳している(岩波文庫版、p273)。だが現在では、ブッダの生きた十六大国時代、貨幣が跛行されていたとwikipediaは言う(貨幣史)。
上記給孤独長者がブッダ一門に寄進しようと、祇陀(ジェータ)太子の私有地の払い下げを願い出たところ、太子は代価として地面一杯に金貨を敷き詰めるよう求めた。長者が本当に敷き詰め始めたので、感じ入った太子はすぐさまブッダに寄進した。これが祇園精舎の縁起という。
貨幣で財産を蓄えられると、巨万の富豪が現れる。土地は武力の保護が要るし、穀物は必ず劣化するし、奴隷は食べさせねばならない。いずれも持つには限りがある。だが貨幣は蓄積が極めて容易で、だからこそ、富豪がブッダの教団を丸ごと食わせた話が初期仏典に複数ある。
対して孔子と直弟子は、極めて心細い経済の社会で、身を振らなければならなかったのだ。
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