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論語詳解488子張篇第十九(17)人未だ自ら致す*

論語子張篇(17)要約:ウスノロ曽子の孔子先生思い出ばなし。人は自分で全力を尽くそうとしても、できるものではない。ただし親が亡くなった時なら、全力で泣くことが出来るだろうよ、と。ご立派な孝行話ですが、それは親次第では。

(検証・解説・余話の無い章は未改訂)

論語:原文・白文・書き下し

原文・白文

曾子曰、「吾聞諸夫子。人未有自致者也*、必也親喪乎。」

校訂

諸本

  • 武内本:(清家本也者に作る。)唐石経・漢石経者也に作る。
  • 論語集釋:漢石經作「吾聞諸子人未有自致也者」。

後漢熹平石経

曾子白吾聞諸子人未有自致也者必也親喪乎


→曾子曰、「吾聞諸子。人未有自致也者、必也親喪乎。」

復元白文(論語時代での表記)

曽 金文子 金文曰 金文 吾 金文聞 金文者 金文子 金文 人 金文未 金文有 金文自 金文致 金文也 金文者 金文 必 金文也 金文親 金文喪 金文乎 金文

※曽子は孔子家の家事使用人で弟子ではない。論語の本章は定州竹簡論語に存在しない。句末で「也」の字を用いている。「也」「親」「乎」の用法に疑問がある。本章は後漢儒による創作である。

書き下し

曾子そうしいはく、われこれけり。ひといまみづかいたものらざるは、かならおや

論語:現代日本語訳

逐語訳

曽子が言った。「私はこういうことを先生から伝え聞いた。人は自分でやり通してしまうということが存在しないのは、必ず親の喪だろうか。」

意訳

曽子 ウスノロ
曽子「又聞きだが、先生はこう仰ったそうだ。人は自分でそうしようとしても、限界までやり尽くすことは出来ない。ただ例外があるとすれば、親の喪に服す時だろうね、と。」

従来訳

下村湖人

曾先生がいわれた。――
「私は先生がこんなことをいわれたのをきいたことがある。人間が自己の全部を出しきってしまうということは、先ずないものだが、せめて親の死を悲しむ時ぐらいは、そうありたいものだ、と。」

下村湖人『現代訳論語』

現代中国での解釈例

曾子說:「平時,人很難表露自己的感情;衹有死了親人,感情才能表露無遺。」

中国哲学書電子化計画

曽子が言った。「普段の人間は、自分の感情をめったに表に出さないが、ただ親しい人が亡くなったときに限り、思いのまま感情をあらわに出来る。」

論語:語釈

曾(曽)子

曽子

論語では孔子の若い弟子とされた人物で、「魯」=ウスノロと評されたシン輿のこと。曽子が孔子家の使用人だった可能性はあるが、弟子だった可能性は極めて疑わしい。文字的には論語語釈「曾」(曽)論語語釈「子」を参照。

吾(ゴ)

吾 甲骨文 吾 字解
(甲骨文)

論語の本章では”わたし”。初出は甲骨文。字形は「五」+「口」で、原義は『学研漢和大字典』によると「語の原字」というがはっきりしない。一人称代名詞に使うのは音を借りた仮借だとされる。詳細は論語語釈「吾」を参照。

春秋時代までは中国語にも格変化があり、一人称では「吾」を主格と所有格に用い、「我」を所有格と目的格に用いた。

ただしこの区別も、春秋時代の終わりと共に消滅した。その意味では本章が、孔子在世前後の時代までさかのぼる可能性を示しているが、後漢儒による古さを演出する小細工だとすると、とんでもない悪党のしわざとも言える。論語解説「後漢というふざけた帝国」も参照。

聞 譖

論語の本章では”伝え聞いた”。春秋時代の漢語では、直接的、意図的に聞く事を「聴」と言い、間接的・受動的に聞く事を「聞」と言う。聞きたくなくても聞こえてきた場合も「聞」という。詳細は論語語釈「聞」を参照。

本章は曽子が師の孔子から直に聞いたのではなく、又聞きで聞いたことになる。だがおそらくそうではなく、「聞」と「聴」の違いが分からない後漢儒が、自ら掘った墓穴。

諸 金文 慎 諸
(金文)

論語の本章では”これ”。『学研漢和大字典』による原義はひと所に大勢が集まったさまだが、音を借りて「これ」という近称の指示詞をあらわす。「之於」(シヲ)の略だと伝統的に言われる。詳細は論語語釈「諸」を参照。

この事情は「者」も同様で、論語里仁篇6「不仁をにくむそれ仁を成すなり」は、「者」を人格と捉えている限り読解できない。

夫子(フウシ)

夫 甲骨文 子 甲骨文
(甲骨文)

論語の本章では”先生”。従来「夫子」は「かの人」と訓読され、「夫」は指示詞とされてきた。しかし論語の時代、「夫」に指示詞の語義は無い。同音「父」は甲骨文より存在し、血統・姓氏上の”ちちおや”のみならず、父親と同年代の男性を意味した。従って論語における「夫子」がもし当時の言葉なら、”父の如き人”の意味での敬称。詳細は論語語釈「夫」を参照。

「子」は貴族や知識人に対する敬称。論語語釈「子」を参照。

致 金文
(金文)

論語の本章では”やり尽くす”。初出は西周中期の金文。『学研漢和大字典』によると、至は、矢がー線までとどくさまをあらわす会意文字。致は「夂(あし)+〔音符〕至(いたる)」の会意兼形声文字で、足で歩いて目標までとどくこと。自動詞の「至」に対して、他動詞として用いる、という。詳細は論語語釈「致」を参照。

ただし何をやり尽くすのかが書いてないので、古来儒者や漢学者があれこれと個人的感想を言った。古注は以下の通り。

馬融曰言人雖未能自致盡於他事至於親喪必自致盡也…致極也言人於他行方可有時不得自極然及若親喪則必宜自極其哀

古注 馬融 古注 何晏
馬融曰く、人は他の事だと自分でやり尽くし通せるものではないが、親の喪なら必ずやり尽くし通すものだ。

(何晏カアン曰く)致は極のことである。そのこころは、人は他の行いでは時として自分から極めることが出来ないが、もし親の喪ならば、必ず容易に自分で哀しみを極めることになる、ということだ。(『論語集解義疏』)

うまいこと言い逃れた馬融と、あえて「哀しみ」と言ってのけた何晏だった。新注は以下の通り。

致,盡其極也。蓋人之真情所不能自已者。尹氏曰:「親喪固所自盡也,於此不用其誠,惡乎用其誠。」

朱子 新注 尹焞
(朱子曰く)致とは、その極めをやり尽くすことだ。考えて見るに、人の本当の心というものは、自分で始末がつけられない所で現れるものだろう。

尹焞イントン曰く、「親の喪とはもとより、自分を尽くして当然の場面である。それなのに誠意を抱こうとしないのは、誠意を抱くことそのものを嫌っているのだ。」(『論語集注』)

うまく言い逃れているばかりか、尹焞のわけが分からぬ話が煙幕になって、一層わけが分からない。

也(ヤ)

也 金文 也 字解
(金文)

論語の本章では、「人未有自致者也」では「なり」と読んで断定を意味し、「必也親喪乎」では「や」とよみ、文頭の主語・副詞を強調する意を示す。初出は事実上春秋時代の金文。字形は口から強く語気を放つさまで、原義は”…こそは”。春秋末期までに句中で主格の強調、句末で詠歎、疑問や反語に用いたが、断定の意が明瞭に確認できるのは、戦国時代末期の金文からで、論語の時代には存在しない。詳細は論語語釈「也」を参照。

漢石経の「也者」は、「~なるものは」とよみ、「~というものは」と訳す。上の語句を丁寧に示す、と『学研漢和大字典』に言う。

親(シン)

親 金文 親 解字
(金文)

論語の本章では、”おや”。初出は西周末期の金文。「辛」”針・小刀”+「見」。おそらく筆刀を使って、目を見開いた人が自分で文字を刻む姿。金文では”みずから”の意で、”おや”の語義は、論語の時代では確認できない。詳細は論語語釈「親」を参照。

乎(コ)

乎 甲骨文 乎 字解
(甲骨文)

論語の本章では、”…か”と訳し、疑問の意を示す。文末・句末におかれる。初出は甲骨文。甲骨文の字形は持ち手を取り付けた呼び鐘の象形で、原義は”呼ぶ”こと。甲骨文では”命じる”・”呼ぶ”を意味し、金文も同様で、「呼」の原字となった。句末の助辞として用いられたのは、戦国時代以降になる。ただし「烏乎」で”ああ”の意は、西周早期の金文に見え、句末でも詠嘆の意ならば論語の時代に存在した可能性がある。詳細は論語語釈「乎」を参照。

論語:付記

中国歴代王朝年表

中国歴代王朝年表(横幅=800年) クリックで拡大

論語子張篇は、前章から次章まで曽子の発言を続けて3つ載せるが、定州竹簡論語では、前々章「我が友張や」から、次章「孟荘子の孝」の間は抜け落ちている。つまり前章と本章は定州竹簡論語に無い。横書きにして図示すれば以下の通り。…は欠損を含む解読不能部分。

………………游曰吾友張也為難能也然而未仁簡583号

……………父之臣與父之正也是難……………簡584号

前々章は「未仁」で終わっており、次章は「父之臣」の前に「曾子曰吾聞諸夫子孟莊子之孝也其他可能也其不改」の22文字があり、定州竹簡論語でのふだ1枚には19-21字が記されていたというから、次章は簡584号には記す余裕が無い。

つまり簡583-584号の間に失われた簡があることになるが、簡584号の、「父之臣」以前の解読不能部分が何文字分あるかは不明のため、前章と本章が前漢宣帝期に「あった証拠」は無い。「無かった証拠」は探しようが無い。だから無かったと判断するのが適切だろう。

京大蔵唐石経『論語』

京大蔵唐石経『論語』

上掲『論語集釋』によると、後漢末期の漢石経にはあったというから、本章の創作年代は後漢ということになる。そして「子」が「夫子」に、「也者」が「者也」に書き換えられて現伝に至る。唐石経、宮内庁書陵部蔵南宋本『論語注疏』では現伝と同じ。

後漢儒が本章を偽作する動機はある。後漢は中国史上最初の偽善大会を全国的に開催した帝国で、親孝行の宣揚はその一環として派手に行われた。孝行者なら官僚に登用する制度もあり、それが年に百人にまで及んだ。だが役立たずばかりで時の章帝が愚痴をこぼしている。

章帝
ワシは無能にかかわらず、皇帝という重職を背負い、日夜「これでいいのか」とビクビクしておる。ちょっとでもつ突けば破裂する腫れ物を気遣うように、毎日生きておるのだ。それにもかかわらず今の世は、災害が頻発し、政界もまた荒れ果てている。これも朕がだらしないからで、修行が足りんからだと白状する。

とりわけ心配なのは、役人の採用で、賢く有能で善良な者を採るはずが、全然そうでない者ばかりが採用される。役人どもは仕事に励まず、ワイロを取るなど庶民をいじめ、官職は目的を果たさず、刑事裁判もデタラメだ。朕はほとほと悩んでおるのだ!

…だから今後役人の採用は、仕事の実績がある者に限る。こんにち、各地の長官はいかがわしい者ばかり推薦するし、孝行者や寡欲者を装って役人になる者は、年に百人に及ぶが、別にこれと言って才能も無く、仕事をさせてみるとデタラメばかりで、どう評したものか言葉に悩むほどだ。(『後漢書』章帝紀14)

このため、我が子を生き埋めにして親孝行を見せ物にする馬鹿者まで現れた、とされる(『二十四孝』郭巨)。『二十四孝』は元帝国時代の編纂とされるが、後漢滅亡後の晋帝国時代に息を吹き返した道家の葛洪が、『抱朴子』に郭巨の偽善を伝えており、おそらく史実と思われる。

夫天高而聽卑,物無不鑒,行善不怠,必得吉報。…郭巨煞子為親,而獲鐵券之重賜。

葛洪
天は高みから人間界を見下ろし、かまどの神などの特務をうろつかせて、どんな些細なことでも調べている。だから善事に励んでいれば、必ずよい報いがあるあはずだ。

…郭巨は親のためだと言って我が子を絞め殺し、それで孝行者としてもてはやされ、「死罪に当たる罪を犯しても許す」と記した書き付けをお上から貰った。(『抱朴子』微旨5)

葛洪は儒家に批判的でありながら、郭巨のしわざを「善事」と捉えているからには、儒家の悪口のために創作したでっち上げではないだろう。後漢とはそういう時代であり、弟子でもない曽子を語り手にして、儒家が偽善の孝行を言い回る動機は、十分にあったのだ。

二十四孝童子鑑 郭巨


歌川国芳「二十四孝童子鑑 郭巨」大英博物館蔵

こんなクズ親どもが勝手にくたばったとて、子に何の「致す」ことがあろうか?

『論語』子張篇:現代語訳・書き下し・原文
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