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論語詳解495子張篇第十九(24)叔孫武叔仲尼を*

論語子張篇(24)要約:門閥家老が孔子先生の悪口を言いました。子貢が弁を振るいます。悪口を言うのはおやめなさい。先生の偉さは太陽や月と同じほどだ。悪口を言えば、もの知らずにも程があると、世間の笑いものになりますぞ、と。

論語:原文・白文・書き下し

原文・白文

叔孫武叔毀仲尼。子貢曰、「無以爲也、仲尼不可毀也。他人之賢者、丘陵也、猶可踰也。仲尼*日月也、*無得而踰焉。人雖欲自絕*、其何傷於日月乎。多見其不知量也。」

校訂

諸本

  • 武内本:清家本により、仲尼の下に如の字を補う。無の前に人の字を補う。絕の下に也の字を補う。

後漢熹平石経

…尼不可毀󱩾󱩾人之賢者丘陵也󱩾󱩾󱩾踰也仲尼日月也…

  • 「不」字:〔一八个〕。
  • 「丘」字:〔八丨丨一〕。

定州竹簡論語

陵也,猶可踰也;中a尼,日b月也,[無得c踰焉。其d]592……

  1. 中、今本作”仲”。
  2. 皇本、高麗本、”日”上有”如”字。
  3. 今本”得”字下有”而”字。
  4. 其、今本無。

→叔孫武叔毀仲尼。子貢曰、「無以爲也、仲尼不可毀也。他人之賢者、丘陵也、猶可踰也。中尼日月也、無得踰焉。其人雖欲自絕、其何傷於日月乎。多見其不知量也。」

復元白文(論語時代での表記)

叔 金文孫 金文武 金文叔 金文仲 金文 子 金文江 金文曰 金文 無 金文㠯 以 金文為 金文也 金文 仲 金文不 金文可 金文也 金文 它 金文人 金文之 金文賢 金文者 金文 丘 金文陵 金文也 金文 猶 金文可 金文兪 金文也 金文 中 金文 日 金文月 金文也 金文 無 金文得 金文而 金文兪 金文安 焉 金文 其 金文人 金文雖 金文谷自 金文絶 金文 其 金文何 金文刅 金文於 金文日 金文月 金文乎 金文 多 金文見 金文其 金文不 金文智 金文量 金文也 金文

※貢→江・他→它・踰→兪・焉→安・欲→谷・傷→刅。論語の本章は赤字が論語の時代に存在しない。句末で「也」を用いている。「尼」の字は固有名詞であるため、あるいは「二」で置換できるが、「毀」は論語時代の置換候補が無い。本章は戦国中期以降の儒者による創作である。

書き下し

叔孫武叔しゆくそんぶしゆく仲尼ちうぢそしる。子貢しこういはく、すをもちふるかれ仲尼ちうぢそしからざればなりほかなるひとさかしきもの丘陵をかなりなり中尼ちうぢ日月じつげつなりゆるなりひとみづかたむともとむといへども、なん日月ひつきやぶらむかずらざるをあらはなり

論語:現代日本語訳

逐語訳

叔孫武叔が孔子を批判した。子貢が言った。「おやめなさいよ。孔子先生はおとしめることが出来ないからです。他の賢者は丘です。やはり越える事が出来るのです。孔子先生は太陽や月です。越えることが出来ません。人が自分で関係を断とうとしても、何の損害を太陽や月に与えられるでしょうか。まさしく程度を知らないことを表すのです。」

意訳

叔孫武叔が孔子を批判した。

子貢「おやめなさいませ。先生の悪口を言っても無駄です。そこらの賢者が丘だとすれば、先生は太陽や月です。手が届くものではなく、人がどう騒ごうが痛くもかゆくもありません。悪口を言えば、分からず屋にも程があると、却って物笑いの種になりますぞ。」

従来訳

下村湖人

叔孫武叔が仲尼をそしった。すると子貢がいった。
「そういうことは仰しゃらない方がよろしいかと存じます。仲尼先生は傷つけようとしても傷つけることの出来ない方です。ほかの賢者は丘陵のようなもので、ふみこえることも出来ましょうが、仲尼先生は日月のように高くかかっていられて、ふみこえることが出来ません。仲尼先生をそしって、絶縁なさいましても、日月のようなあの方にとっては何の損害もないことです。却ってそしる人自身が自分の力を知らないということを暴露するに過ぎないでしょう。」

下村湖人先生『現代訳論語』

現代中国での解釈例

叔孫武叔誹謗孔子。子貢說:「不要這樣吧,孔子是誹謗不了的,其他人的賢良,象丘陵一樣,還可以超越;孔子卻象日月,別人沒法超過。雖然有人要自絕於日月,但對日月又有什麽損傷?衹能表明他不自量而已。」

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叔孫武叔が孔子の悪口を言った。子貢が言った。「そのようなことはおやめなさいよ、孔子は悪口を言えてしまう人ではありませんし、そもそも他の人の賢さと善良は、丁度丘と同じです、やはり超えることが出来ます。孔子はあたかも太陽や月で、別人が超えようとしても方法が有りません。その上ある人が太陽や月と縁を切ろうとしても、太陽や月に何の不都合がありますか?ただ縁を切ろうとした者の、自分の度量を表せるだけです。」

論語:語釈

叔孫武叔

論語では、孔子在世当時の魯国門閥三家老家の一家・叔孫氏の当主。三家=三桓のうち、筆頭の季孫氏は孔子や弟子を雇うなど、一門との関係は浅くなく、孟孫氏は孔子を押し上げる後ろ盾になったことから関係が深い。しかし叔孫氏とは、これといったつながりの記録がない。

毀(キ)

毀 金文
(金文)

論語の本章では”悪口を言う”。初出は戦国中期の金文。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補も無い。漢文では一般に「こぼつ」と読み下し、”壊す”を意味する。『学研漢和大字典』による原義は、叩き壊すこと、また、穴を開けて壊すこと。詳細は論語語釈「毀」を参照。

仲尼

孔子別像

論語では、孔子のあざ名。「仲」は金文まで遡れるが、「尼」は年代不詳の古文からしか見られない。つまり孔子生前のあざ名であった可能性は低く、後世の創作である可能性が高い。

古文は一般に、春秋戦国時代に通用した金文と、文書行政が盛んになった秦漢帝国で用いられた篆書との間をつなぐ文字と言われるが、本当にその時代のものと確定できる文字とは限らない。

また社会の底辺に生まれた孔子が、『史記』の伝える伝説「母親が尼山に祈って生まれたので仲尼という」のように、はじめからあざ名を持つわけがなく、おそらくは通称として「仲二」=”次男坊”と呼ばれていただけだろう。後世になって「二」→「尼」と改め、伝説をくっつけてもっともらしくしたのである。詳細は論語語釈「尼」を参照。

子貢

子貢

論語では、孔子の弟子で、弁舌の才を孔子に評価された孔門十哲の一人、端木賜子貢のこと。「貢」の字は論語の時代に存在しないが、「江」が論語時代の置換候補となる。詳細は論語語釈「貢」を参照。

以(イ)

以 甲骨文 以 字解
(甲骨文)

論語の本章では”用いる”。初出は甲骨文。人が手に道具を持った象形。原義は”手に持つ”。論語の時代までに、名詞(人名)、動詞”用いる”、接続詞”そして”の語義があったが、前置詞”~で”に用いる例は確認できない。ただしほとんどの前置詞の例は、”用いる”と動詞に解せば春秋時代の不在を回避できる。詳細は論語語釈「以」を参照。

無以爲也

論語の本章では”おやめなさいよ”。伝統的な論語の解説では、「以て為す(こと)無かれ」と読むが、それでは何を「以て」なのか意味不明。

ここでの「以」は前置詞や接続詞ではなく、動詞の”用いる”。「無為」(為す無かれ)でも”するな”の意となるが、「以」を加えることで、「(そのような)行為をするな」の意となり、つまり”わざわざそんなことをするな”。

「以為」は、漢文では一般に「思えらく」と読み下し、”思うことには・考えてみると”の意となるが、その場合の「以」は接続詞で、直前の叙述内容を”~だと(判断)する”の意。論語の本章では、直前の叙述内容として適当な文字列が無いから、当てはまらない。

またここでの「也」は詠嘆の意で用いられており、”よ”に当たる。句末で「也」を用いるのは、戦国時代以降の語法で、論語の時代には存在しない。論語語釈「以」論語語釈「為」論語語釈「也」を参照。

「為すをもちうる無かれや」との読み下しは、日本古語「や」を間投助詞と判じた場合の読み。文末助詞「や」だとすると、終止形・已然形にしか付かないので「無けんや」と読むことがある。命令形の代わりに意志の助動詞「む」を挟み、その終止形に「や」を付ける。

漢文を読むにあたってはどうでもいいことだし、国文法について訳者は教科書程度の知識しか無いが、できるだけ正確な読み下しを行う努力はすべきと思う。漢文業界にデタラメがはびこっているからだが、ただし国文法にこだわって漢文を曲解するなら本末転倒だ。

ここでの「也」は詠歎の「や」で、国文の文末の終助詞「や」には疑問・反語の語法しか辞書に無く、間投助詞「や」には詠歎の語義があるから、「無かれや」と読む方に理がある。

なお「~けん」の読み下しは、平安朝では漢文専用に用いられたと見え、『百人一首』にも歌が残る小野おののたかむらの才を示すエピソード、「無悪善」の読み下しにも見られる。これは「さがなくてよからん」と読んでもいいし、「さがなくてよけん」と読んでもいい。

『小倉百人一首』11番 参議篁
わたのはら やそしまかけて こぎいづと ひとにはつげよ あまのつりふね
(『小倉百人一首』11番 参議篁。「いでぬと」→「いづと」に改めた)

余談ながらこの挿話は、才能はあるものの何かと楯突くことが多かった小野篁に、朝廷人の誰一人読めなかった投書をよませたもの。嵯峨さがなくてけん、つまり嵯峨天皇はいなくていいだろうの意だが、読み下せたことで却って投書の当人ではないかと疑われたという。

そうでないと抗弁する篁に対し、嵯峨天皇が「子子子子子子子子子子子子」を読めたら疑いを説いてやろうという。篁はみごと、「ねこのここねこ、ししのここじし」と読み下し、天皇を感服させたと『宇治拾遺物語』にある。

丘陵

丘 金文 陵 金文
(金文)

論語の本章では”丘”。

「陵」は論語では本章のみに登場。初出は西周早期の金文。『学研漢和大字典』によると会意兼形声文字で、夌(リョウ)は「坴(土盛り)の略体+夂(あし)」の会意文字で、足の筋肉にすじめを入れるほど力んで丘に登ること。陵は「阜(おか)+(音符)坴」で、山の背のすじめ、つまり稜線(リョウセン)のこと、という。詳細は論語語釈「陵」を参照。

猶(ユウ)

猶 金文 猶

論語の本章では、”それでもなお”。詳細は論語語釈「猶」を参照。

踰 篆書
(篆書)

論語の本章では”越える”。初出は後漢の『説文解字』。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補は同音の「」。『大漢和辞典』に”こえる”の語釈がある。『学研漢和大字典』によると、兪は、中身を抜き取った丸木舟のこと。ただし普通は(越える)-(越えて進む)と同系の言葉として用い、相手を越えてその先に出る意。また先へ先へと越えて程度をの進む意をあらわす、という。一方『字通』では、把手とってのある手術刀で膿漿のうしょうを盤(舟)に移す形、という。詳細は論語語釈「踰」を参照。

欲 楚系戦国文字 谷
「欲」(楚系戦国文字)・「谷」(金文)

論語の本章では”もとめる”。初出は戦国文字。論語の時代に存在しない。ただし『字通』に、「金文では谷を欲としてもちいる」とある。『学研漢和大字典』によると、谷は「ハ型に流れ出る形+口(あな)」の会意文字で、穴があいた意を含む。欲は「欠(からだをかがめたさま)+(音符)谷」の会意兼形声文字で、心中に空虚な穴があり、腹がへってからだがかがむことを示す。空虚な不満があり、それをうめたい気持ちのこと、という。詳細は論語語釈「欲」を参照。

絶 金文
(金文)

論語の本章では”関係を断つ”。初出は甲骨文。新字体は「絶」。「すつ」と読む論語本もあるが、意味をよく取る読みと思う。

『学研漢和大字典』によると「糸+刀+卩(セツ)(節の右下)」の会意文字で、刀で糸や人を短い節に切ることを示す。ふっつりと横に切ること。右側の部分は、もと色ではなくて刀印を含む。卩は、また、人の姿と解してもよい、という。詳細は論語語釈「絶」を参照。

傷 秦系戦国文字 傷 楚系戦国文字
(秦系戦国文字・楚系戦国文字)

論語の本章では”おとしめる”。初出は戦国文字。論語の時代に存在しない。楚系戦国文字では現行書体のへんとつくりが入れ替わっている。日本語で同音同義に刅があり、創傷の創の古形とされる。初出は西周早期の金文。論語時代の置換候補となる。詳細は論語語釈「傷」を参照。

多見其不知量也

論語の本章では”まさにその量の多さを知らない事を暴露する”。「多見」が”まさに表す”、「其」が”日月を超えようとする人の”、「不知量」が”量=日月の高さを知らないことを”、「也」が”のである”。

従来訳の”自分の力を知らない”の解釈は誤りとは言えないだろうが、前段が”日月にとっては痛くもかゆくも無い”であり、”日月の高さを知らない”と解する方が自然ではなかろうか。

武内本では「多」を「たまたま」と読んでおり、”たまたま~知らないだけだ”と解するのだろうが、この語義は『大漢和辞典』にもない。「多」を「ただ・まさに」と読むことは『学研漢和大字典』にも見えるが、その訳は”まさしく”であり”たまたま”ではない。

『学研漢和大字典』「多」条
3.{副詞}ただ。まさに。ほかでもなく。▽祇(シ)・但(タン)に当て、ただの意の副詞に用いる。「多見其不知量也=まさに其の量を知らざるを見るなり」〔論語・子張〕

詳細は論語語釈「多」を参照。

「見」の原義は”目立つ”ことであり、それが”表れる”ことでもある。「見」の主語が子貢だとすると、「見」を”見る”と解して、”知らない事を見る”と訳しても誤りではないが、文意が不明瞭になる。詳細は論語語釈「見」を参照。

ここでの「其」は代名詞として、「自ら絶たんとする人の」を言い換えている。詳細は論語語釈「其」を参照。

論語:付記

中国歴代王朝年表

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孔子 宇宙船
論語の本章の、時期について。

従来訳の注に、「子貢が孔子のことを「仲尼」と呼んだのは、相手が大夫で、孔子より高位の人であつたからである。」とある。相手=叔孫武叔はBC505に当主となっており、それは孔子が中都の宰となり、魯国政界にデビューする4年前のことだった。

その年は魯国門閥家老=三桓の筆頭である季孫氏の当主が、季桓子に代わったのと同年で、後年、季桓子は孔子が帰国する直前に世を去った。別して三桓のもう一家である孟孫氏の当主・孟子は、没年からおそらく孔子と同世代と思われるが、BC535に当主になっている。

そして子貢が魯国政界で活躍し始めるのは、孔子の帰国前後のことであり、故に本章はそれ以降の状況を描いたと見てよい。その語り手の子貢は孔子と23の年齢差がある。論語の登場人物は、生没年の記録が必ずしも無いが、おそらく子貢は叔孫武叔と同世代だったのでは。

叔孫武叔の「武」はおくり名だから、論語の本章は少なくとも、叔孫武叔没後に書かれたことになる。加えて文字に新しいものが含まれていることから、おそらく秦漢帝国になってからの成立だろう。なお『列子』には、叔孫と孔子との別の伝説を伝えている。

陳大夫聘魯,私見叔孫氏。叔孫氏曰:「吾國有聖人。」曰:「非孔丘邪?」曰:「是也。」「何以知其聖乎?」叔孫氏曰:「吾常聞之顏回,曰:『孔丘能廢心而用形。』」陳大夫曰:「吾國亦有聖人,子弗知乎?」曰:「聖人孰謂?」曰:「老聃之弟子,有亢倉子者,得聃之道,能以耳視而目聽。」魯侯聞之大驚,使上卿厚禮而致之。亢倉子應聘而至。魯侯卑辭請問之。亢倉子曰:「傳之者妄。我能視聽不用耳目,不能易耳目之用。」魯侯曰:「此增異矣。其道奈何?寡人終願聞之。」亢倉子曰:「我體合於心,心合於氣,氣合於神,神合於无。其有介然之有,唯然之音,雖遠在八荒之外,近在眉睫之內,來干我者,我必知之。乃不知是我七孔四支之所覺,心腹六藏之所知,其自知而已矣。」魯侯大悅。他日以告仲尼,仲尼笑而不荅。

列子
陳国の家老が魯に招かれた。接待に出た叔孫氏が、「我が国には聖人がござる」と言った。

陳「そりゃあの孔子の事でござるか?」
叔「いかにも。」

陳「何だって聖人だというのでござる?」
叔「弟子の顔回が言うには、孔子は人を洗脳して、おりこうさんに躾けてしまえる、らしいですな。」

陳「それなら我が国にもおります。」
叔「どなたでござるか。」

陳「老子の弟子で亢倉子と申す。老子の学問を修めきり、耳は鋭く目が利きます。」

やりとりを聞いていた魯公は腰を抜かして、上席家老の待遇で招こうとした。呼ばれて亢倉子がやって来た。魯公は下手に出て「なにとぞお教え下され」と言った。

亢「人のうわさにだまされておしまいになりましたな。私は確かに早耳でよくものが見えますが、耳や目を使っているのではありませんし、その術は目や耳の代わりになるわけでもありません。」

魯「どういうことじゃ? どのような術を心得ておいでじゃな? 是非ともご教授下さらぬか。」

亢「肉体を心と一致させ、心を宇宙の精気と一致させ、精気を宇宙の動かし手に一致させ、動かし手を虚無に一致させます。すると見えるべきものは見え、聞こえるべきは聞こえます。

どんなに辺境の出来事でも、眉と睫毛のごとき近くのことでも、私に関わる事ならば、必ず私には分かります。ですがこうして分かるのは、この身に開いた穴や手足の作用ではなく、内蔵の器官の働きでもありません。知れるべきが、自ずから知れるのです。」

魯公は聞いて大喜びし、「偉い先生を雇ったものだ」と孔子に自慢した。聞いて孔子は苦笑いするしかなかった。(『列子』仲尼2)

「能廢心而用形」を”人を洗脳して、おりこうさんに躾けてしまえる”ととりあえず訳したが、別解もあるだろう。ともあれ『列子』の書かれた戦国時代までは、「聖」とは文字通り「耳」と「口」が「王の如き能力者」をいい、聖者とかの語義が無かったことが分かる。

『列子』は道家に分類されるが、戦国時代の作であるからには、明らかにオカルトやハッタリの要素が濃くなっている。「天地と一体化する」のたぐいがそれで、実際に一体化するには人は死ぬしかないか、そもそも別体化出来ないかいずれかだが、煙を巻いて誤魔化している。

孔子の生きた春秋時代も、孔子の母が生計を立てられたように、オカルトや迷信ははびこっていた。だがそこからの脱却が孔子の教説で、物事を偽りなく認識できることが論語に言う「知」に他ならない。庶民が徴兵されて殺し合いをさせられた、戦国時代とはそこが違う。

大勢をだます必要が無かったから、有るものを有る、無いものを無いと孔子は言えた。

『論語』子張篇:現代語訳・書き下し・原文
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