論語:原文・白文・書き下し
原文・白文
曾子曰、「吾聞諸夫子。孟莊子之孝也、其他可能也、其不改父之臣與父之政、是難能*也。」
校訂
諸本
- 武内本:(清家本能の字なし。)唐石経難下能の字あり。
後漢熹平石経
子白…聞其不改…
- 「其」字:上半分中心に〔丨〕一画あり。
- 「改」字:〔改丶〕
定州竹簡論語
……父之臣與父之正也a,是[難]584……
- 也、今本無。
→曾子曰、「吾聞諸夫子。孟莊子之孝也、其他可能也、其不改父之臣與父之正也、是難能也。」
復元白文(論語時代での表記)
※他→它。論語の本章は、発言者の曽子が孔子の直弟子ではない。「也」「孝」の用法に疑問がある。本章は戦国時代以降、おそらく秦帝国の儒者による創作である。
書き下し
曾子曰く、吾諸を夫子に聞けり。孟莊子之孝也、其の他は能くす可き也、其れ父之臣與父之正を改めざる也、是れ能くし難き也。
論語:現代日本語訳
逐語訳
曽子が言った。「私はこのような話を先生から伝え聞いた。孟壮子の孝行は、その他は行うことが出来るものであるが、父の家臣と父の政治を変えなかったことは、これこそ行うことが難しいものである、と。」
意訳
曽子「又聞きだが、先生はこう仰ったそうだ。孟壮子の孝行は、たいていは誰にでも出来ることだが、父の家臣と政策を変えなかったこと、これだけは難しい、と。」
従来訳
曾先生がいわれた。――
「私は先生がこんなことをいわれたのを聞いたことがある。孟荘子の親孝行も、ほかのことはまねが出来るが、父の死後、その重臣とその政治方式とを改めなかった点は、容易にまねの出来ないことだ、と。」下村湖人『現代訳論語』
現代中国での解釈例
曾子說:「我聽老師說過:孟莊子的孝順,其他方面別人都可以做到,衹有他不更換父親下屬和父親的規矩,是難以做到的。」
曽子が言った。「私は先生が話されるのを聞いたことがある。”孟荘子の親孝行は、それ以外の方面なら誰にでもまねできるが、ただし父親の家臣と父親の掟を更新しなかったのは、まねをするのが難しい”と。」
論語:語釈
曾(曽)子
論語では、孔子に魯=”ウスノロ”と評された、若い弟子とされる人物。後世、『孝経』を書いたなど、孝道の開祖に祭り上げられた。史実と認められる孔子との対話が無く、直弟子とは言いがたい。おそらく孔子家の家事使用人だったと思われる。詳細は論語の人物・曽参子輿を参照。
吾(ゴ)
(甲骨文)
論語の本章では”わたし”。初出は甲骨文。字形は「五」+「口」で、原義は『学研漢和大字典』によると「語の原字」というがはっきりしない。一人称代名詞に使うのは音を借りた仮借だとされる。詳細は論語語釈「吾」を参照。
春秋時代までは中国語にも格変化があり、一人称では「吾」を主格と所有格に用い、「我」を所有格と目的格に用いた。しかし論語でその文法が崩れ、「我」と「吾」が区別されなくなっている章があるのは、後世の創作が多数含まれているため。
「吾」を用いる本章が、後漢儒による古さを演出する小細工だとすると、とんでもない悪党のしわざとも言える。論語解説「後漢というふざけた帝国」も参照。
聞
論語の本章では”伝え聞いた”。春秋時代の漢語では、直接的、意図的に聞く事を「聴」と言い、間接的・受動的に聞く事を「聞」と言う。聞きたくなくても聞こえてきた場合も「聞」という。詳細は論語語釈「聞」を参照。
本章は曽子が師の孔子から直に聞いたのではなく、又聞きで聞いたことになる。だがおそらくそうではなく、「聞」と「聴」の違いが分からない後漢儒が、自ら掘った墓穴。
諸
(金文)
論語の本章では”これ”。『学研漢和大字典』による原義はひと所に大勢が集まったさまだが、音を借りて「これ」という近称の指示詞をあらわす。「之於」(シヲ)の略だと伝統的に言われる。詳細は論語語釈「諸」を参照。
この事情は「者」も同様で、論語里仁篇6「不仁をにくむ者それ仁を成すなり」は、「者」を人格と捉えている限り読解できない。
夫子(フウシ)
(甲骨文)
論語の本章では”先生”。従来「夫子」は「かの人」と訓読され、「夫」は指示詞とされてきた。しかし論語の時代、「夫」に指示詞の語義は無い。同音「父」は甲骨文より存在し、血統・姓氏上の”ちちおや”のみならず、父親と同年代の男性を意味した。従って論語における「夫子」がもし当時の言葉なら、”父の如き人”の意味での敬称。詳細は論語語釈「夫」を参照。
「子」は貴族や知識人に対する敬称。論語語釈「子」を参照。
孟莊子
(金文)
論語の本章では、孔子の生国・魯の大夫=家老で、姓は仲孫、名は速。孔子3歳の時に没したという。父親は魯の賢臣と言われた孟献子。辞書的には論語語釈「孟」・論語語釈「荘」を参照。
孝(コウ)
(甲骨文)
論語の本章では、”親孝行”。初出は甲骨文。原義は年長者に対する、年少者の敬意や奉仕。ただしいわゆる”親孝行”の意が確認できるのは、戦国時代以降になる。詳細は論語語釈「孝」を参照。
也(ヤ)
(金文)
論語の本章では、「孟莊子之孝也」「其不改父之臣與父之正也」では、「や」と読んで文頭の主語・副詞を強調する働きをする。「其他可能也」「是難能也」では、「なり」と読んで断定の働きをする。初出は事実上春秋時代の金文。字形は口から強く語気を放つさまで、原義は”…こそは”。春秋末期までに句中で主格の強調、句末で詠歎、疑問や反語に用いたが、断定の意が明瞭に確認できるのは、戦国時代末期の金文からで、論語の時代には存在しない。詳細は論語語釈「也」を参照。
他
論語の本章では”ほか”。初出は後漢の『説文解字』で、論語の時代に存在しない。同音の「它」に”ほか”の意があり、甲骨文から存在する。
『学研漢和大字典』によると、第一列は它の原字で、頭の大きい、はぶのようなへびを描いた象形文字。蛇(ダ)・(ジャ)の原字。昔、へびの害がひどかったころ、人の安否を尋ねて「無它=它(タ)無きや(へびの害はないか)」といった。変異の意から転じて、見慣れぬこと、ほかのことの意となった。第二列は也の原字で、さそりを描いた象形文字。它と也とは字体が似ているため古くから混用されて、佗を他と書くようになった。他は「人+(音符)也」会意兼形声文字、という。詳細は論語語釈「他」を参照。
能
論語の本章では、動詞として”できる”。本動詞であって助動詞ではない。「可能」は「あたうべし」と読んで、”できることが可能だ”の意。日本語としてくだくだしいので、”することが可能”・”…出来る”と意訳するのは可。ただしそれは、このような手続きを経てから行わねばならない。初出は西周早期の金文。原義はウミガメの象形。。詳細は論語語釈「能」を参照。
「能~」は「よく~す」と訓読するのが漢文業界の座敷わらしだが、”上手に~できる”の意と誤解するので賛成しない。読めない漢文を読めるとウソをついてきた、大昔に死んだおじゃる公家の出任せに付き合うのはもうやめよう。
学研『全訳用例古語辞典』「よく」条
《副詞》
- 十分に。念入りに。詳しく。
《竹取物語・御門の求婚》 「よく見てまゐるべき由(ヨシ)のたまはせつるになむ」
《訳》
念入りに見てまいるようにとの意向をおっしゃられたので。- 巧みに。上手に。うまく。
《宇治拾遺物語・一三・九》 「木登りよくする法師」
《訳》
木登りを上手にする法師。- 少しの間違いもなく。そっくり。
《万葉集・一二八》 「わが聞きし耳によく似る葦(アシ)のうれの足ひくわが背」
《訳》
私が聞いたうわさにそっくり似ている葦の葉先のように足の弱々しいわが夫よ。
む甚だしく。たいそう。
《今昔物語集・二七・四一》 「よく病みたる者の気色(ケシキ)にて」
《訳》
甚だしく病んでいるようすで。- よくぞ。よくも。よくもまあ。▽並々でない事を成しとげたとき、また、成しとげられなかったときに、その行為の評価に用いる。
《竹取物語・竜の頸の玉》 「よく捕らへずなりにけり」
《訳》
よくもつかまえなかったものだ。- たびたび。ともすれば。
《浮世床・滑稽》 「てめえ、よくすてきと言ふぜ」
《訳》
おまえ、たびたびすてきと言うぜ。
臣
論語の本章では”家臣”。初出は甲骨文。『学研漢和大字典』によると、下に伏せてうつむいた目を描いた象形文字で、身をかたくこわばらせて平伏するどれい、という。詳細は論語語釈「臣」を参照。
政→正
論語の本章では”家政の方針”。
『学研漢和大字典』によると、正とは、止(あし)が目標線の━印に向けてまっすぐ進むさまを示す会意文字。征(セイ)(まっすぐ進む)の原字。政は「攴(動詞の記号)+(音符)正」の会意兼形声文字でで、もと、まっすぐに整えること。のち、社会を整えるすべての仕事のこと。正・整(セイ)と同系のことば、という。詳細は論語語釈「政」を参照。
『定州竹簡論語』で「正」と書くが、すでにあった「政」の字を避けた理由は、おそらく秦帝国時代に、始皇帝のいみ名「政」を避けた名残。加えて”政治は正しくあるべきだ”という儒者の偽善も加わっているだろう。詳細は論語語釈「正」を参照。
論語:付記
論語の本章について、藤堂本では論語学而篇11「三年父の道を改めざらば、孝といいつべし」との関連を指摘する。とはいえ、父の家臣と政策を取り替えなかったことが、なんでそんなに難しい孝行なのかはよく分からない。というわけで、歴代の儒者があれこれ書いている。
(馬融曰く、)父の喪中、父の家臣と政策は、たとえ良くないと分かったものでも、変える事に耐えられなかったのだ。
(何晏曰く、)当時の人は喪の三年の間に、誰もが父生前の家臣と政策を変えたものだ。ところが(孟)荘子は父の喪中、父の家臣と政策は良くないとわかったものでも、変えるのに耐えられなかった。このような事情から、真似するのは難しいと言ったのだ。(『論語集解義疏』)
(朱子曰く、)孟荘子は父の家臣を使い続け、政策を守る事が出来た。だから彼の孝行は讃えるべきものではあるが、誰もがそうできるわけではないから、難しいと言ったのだ。(『論語集注』)
いずれも例によって史料的裏付けもなく、個人的感想、または論語に名を借りた自己宣伝に過ぎない。何晏の言う、三年で取り替える例があったのか、寡聞にして知らない。孟献子・孟荘子父子について『春秋左氏伝』を参照しても、三年改めず云々の記事は見あたらない。
従ってなぜ孔子が「難しい」と言ったか、そもそも孔子が本当にそう言ったのか、本章は文字的には全て金文にさかのぼれるものの、真相の全ては古代の闇の中である。だが儒者の意見でも、次のようなのを見ると、本章はそもそもでっち上げと思いたくなる。
潘氏集箋:春秋襄公十九年八月丙辰,仲孫蔑卒。二十三年八月己卯,仲孫速卒。蔑卽莊子之父獻子也,其卒之相去不過四年。學而篇稱「三年無改於父之道,可謂孝矣。」莊子襲賢父世卿之位,歷四年之久,左氏傳於盟向伐邾外無所叙述,是其用人行政悉仍父舊,未嘗改易,可知三年無改爲孝,莊子不止三年,尤所難能,是以夫子獨指而稱之。
明儒・潘維城『論語古註集箋』から引用する。
『春秋左氏伝』襄公十九年八月丙辰の日、仲孫蔑が死去した。二十三年八月己卯の日、仲孫速が死去した。蔑とはつまり荘子の父、孟献子であり、二人が世を去る時の間は四年を過ぎない。
論語学而篇11で「三年父の道を改めなければ、孝行と言ってよい」と讃えられているが、孟荘子が賢明なる父のあとを継いで家老職に就いたのは、四年間である。その間『春秋左氏伝』では、向の地での盟約と、邾国を討伐した話以外記されていない。
つまり孟荘子は父の家臣も方針も改めなかったのだが、これこそが三年改めないのが孝行に値する行為だと知らせる。孟荘子は三年に止まらなかった。そこが難しいところで、ただ孔子様だけが讃えたのである。
引用終わり。(『論語集釋』)
潘維城は真っ直ぐ言いたいことを書いていない。中国ではその時代の支配イデオロギーに不都合なことを書くと、我が身と家族の命が危ないので、もの凄く遠回しな書き方をする。それは現代中国でも大流行りだが、前近代も事情は同じで、孔子の批判は不可能だった。
だから上の文も、ものすごくひねくれた儒者の論理を解きほぐして読まねばならない。
要するに、「たったの四年間しか家政を取らなかったじゃないか。それで父の家臣や方針を変えなかった事のどこがそんなに孝行になるのだ。孔子様のような聖人には超能力で何かが分かったのだろうが、俺は凡人だからよく知らん」と言っている。
仮に論語の本章が、定州竹簡論語に欠けた部分も現伝の通りだったとして、戦国から前漢にかけての間で、「父親の政策と家臣を変えるな」という強い社会的要請があったものと思われる。そのもっとも巨大な力は、始皇帝による秦帝国の統一だろう。
すると論語の本章で、なぜすでにあった「政」の字を、「正」と記しているかに説明がつく。始皇帝のいみ名が、「政」だからだ。秦帝国では儒者が弾圧されたと言うがそれは半ばウソで、儒家も帝国の博士官として採用されていた。「焚書」はあったが「坑儒」は濡れ衣だ。
『史記』も、始皇帝をだまして金を取って逃げた者、ろくでもない𠂊刂を作った者=諸生を罰したとあり、儒家が標的にされたわけではない。こういうウソを始皇帝は極端に嫌ったから、儒家お得意の論語でっち上げは盛んではなかったろうが、やらなかったわけでもない。
本章はその一例。道士が怪しげな薬や海上の仙郷伝説を持ち出して始皇帝に取り入ったように、儒者は開祖の孔子が始皇帝の政治を認めるような発言をしていたとして、本章のような創作を行い取り入ろうとした。孔子がじかに言ったのでは無く、曽子の又聞きというのがミソ。
本当にそうか、と取り調べを受ければ、一発でウソを白状させられるから、孔子の弟子ではなく家事使用人に過ぎず、所伝のほとんど無かった曽子を道具にして、又聞きという言い逃れの出来る手段を用いたわけ。日本の椿井文書の手口に似ている(論語はどのように作られたか)。
証拠が無いから何も言えない、ではなく、証拠が無いゆえの言いたい放題で、現代でもいわゆる南京虐殺事件の被害者が、年を追うごとにどんどん増えているのと同様。中国人を理解するには、福禄寿のためなら何でもする昆虫の如き合理性のある生き物と知らねばならない。
儒者も秦帝国時代を、したたかに生きたのだ。
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