論語:原文・白文・書き下し
原文・白文
孟氏使陽膚爲士師、問於曾子。曾子曰、「上失其道、民散久矣。如得其情、則哀矝*而勿喜。」
校訂
諸本
- 武内本:矝唐石経矜に作る、矜はおごる意、矝は憐れむ意、此本(=清家本)矝に作る義長ず、漢石経も亦矝に作る。
後漢熹平石経
…如得其情則哀矝而勿喜
- 「矝」字:〔弔令〕。
定州竹簡論語
(なし)
復元白文(論語時代での表記)
情 矝
※久→舊。論語の本章は「情」・「矝」の字が異体字含めて論語の時代に存在しない。「則」の用法に疑問がある。本章は戦国時代以降、おそらく後漢帝国の儒者による創作である。
書き下し
孟氏陽膚を使て士師爲らしむ。曾子於問ふ。曾子曰く、上其の道を失ひ、民散り久け矣。如し其の情を得ば、則ち哀み矝み而喜ぶ勿れ。
論語:現代日本語訳
逐語訳
孟孫氏が陽膚を判事に取り立てた。曽子に質問した。曽子が言った。「上が原則を失って、民が散り続けている。もし情報を得ても、必ず憐れんで喜ぶな。」
意訳
魯国門閥家老の一家、孟孫氏が、陽膚を判事に取り立てた。それに当たって曽子に問うた。
曽子「殿様の政治が無軌道になり、民がどんどん逃げ散っています。その中には、心ならずも罪を犯さざるを得ない者がいるでしょう。だから犯罪の情報をつかんでも、必ずかわいそうに、と憐れんであげるべきです。手柄のタネだ、と喜んぶような奴では、適任とは言えません。」
従来訳
孟氏が陽膚を司法官に任用した。陽膚は曾先生に司法官としての心得をたずねた。曾先生はいわれた。――
「政道がみだれ、民心が離散してすでに久しいものだ。だから人民の罪状をつかんでも、なるだけあわれみを、かけてやるがいい。罪状をつかんだのを手柄に思って喜ぶようなことがあってはならないのだ。」下村湖人『現代訳論語』
現代中国での解釈例
孟氏讓陽膚當法官,陽膚向曾子請教。曾子說:「現在的領導,不做好事,民心早已散盡了。如果瞭解了案情的真相,就要憐憫他們,而不要因案情大白而自喜。
孟氏が陽膚を司法官に任じた。陽膚が曽子に教えを乞うた。曽子が言った。「今の指導者は、良いことをせず、民の心はすでに離れてしまっている。もし事情の真相を明らかに知っても、必ず民を憐れみ、司法案件の事情がすっかり明るくなったことを自分で喜んだりするな。」
論語:語釈
孟氏
(金文)
論語の本章では、魯国門閥家老家=三桓の一家、孟孫氏のこと。曽子は孟孫氏とのつながりが深かったことが論語泰伯篇4「曽子疾あり」に見える。もともと孔子を春秋政界に押し出したのも孟氏だった。なお孟孫氏からは、のちに孟子が出る。
戦国時代末期までは、血統を前提にする「姓」に対し、「氏」は血統を同じくしない同族集団にも用いられた。「孟氏」という表現は、その区別が無くなった秦漢帝国以降のことば。辞書的には論語語釈「孟」・論語語釈「氏」を参照。
孟孫家は数代家職として大司空を世襲した。大司空とは建設大臣が法務大臣を兼ねたような職で、国家規模の工事には囚人が使役されたから、この組み合わせには理があった。その孟孫家の当主が判事を任命するのも、理にかなっている。
陽膚
(金文)
論語の本章では、曽子の弟子ではないかと思われる人物。具体的なことは古来わからない。古注に包咸の注として「陽膚曾子弟子也」とあるのみ。辞書的には論語語釈「陽」・論語語釈「膚」を参照。
士師
(金文)
論語の本章では”判事”。辞書的には論語語釈「士」・論語語釈「師」を参照。
判事の中でもいわば地裁や家裁の判事にあたり、民衆と最もよく接する立場の裁判官。「司法長官」と訳した本があるようだが、どこから生まれたでたらめかはっきりしない。例えば『小載礼記』曲礼篇に記述はあるが、語義についての情報はない。
そもそも儒教経典の多くが、漢代以降の儒者による作文だからあてにならない。古注の包咸は「士師典獄官也」という。刑事判事兼刑務所長を意味する。新注は何も言っていない。特異な用例は『孟子』梁惠王下篇で、斉国の士族を取り締まるべき、地方貴族団の団長として記されている。
これは文字通り「士の師」で、論語本章でいう士師とは別の役職だろう。あるいは『墨子』尚同篇に見える「卿士・師長」=閣僚と士族の取締役、を略して言っているのかもしれない。なお『孟子』公孫丑下篇では本章同様、殺人犯を審理する判事として挙げられている。
また『列子』では、木こりとその鹿をかすめ取った男との紛争を審理する、民事裁判の判事として挙げられている。ついでに言えば旧約聖書のJudgeを、中国人は「士師」と翻訳した。それを受けて我が国でも、キリスト教のJudgeは「士師」と呼ぶことになっている。
問於曾(曽)子
論語の本章では、判事に任命されたので、陽膚が仕事の要点を曽子に尋ねた、と古来解する。その始まりは古注の付け足し。
陽膚將為獄官而還問師求其法術也
陽膚は刑務所幹部になる前に、引き返して師匠の曽子に刑務所を取り仕切る法の運用を問うたのだ。(『論語集解義疏』)
何の役にも立たない御託とはこのことで、どうしてそう言えるのか根拠が無い。原文では主語が入れ替わった記号が無いから、曽子に問うたのも孟氏になる。
また曽子は孔子の弟子ではなく、恐らく家事使用人に過ぎなかったが、孔子の没後儒家の宗家を孔子の孫である子思が継ぐと、曽子を最高顧問役に据えた。
学問の無い曽子を頼らねばならなかったのは、有力弟子が散ってしまったからだが、赤ん坊の頃おむつを替えて貰った縁もあっただろう。そういう最高顧問としての曽子に、孟孫家が相談を持ちかけることはありうるが、上記の検討通り、本章は作り事と考えた方が良い。
上(ショウ)
(甲骨文)
論語の本章では”為政者”。初出は甲骨文。「ジョウ」は呉音。原義は基線または手のひらの上に点を記した姿で、一種の記号。このような物理的方向で意味を表す漢字を、指事文字という。春秋時代までに、”はじめの”・”うえ”の他”天上”・”(川の)ほとり”の意があった。詳細は論語語釈「上」を参照。
上失其道
「道」(金文)
論語の本章では、”国公が原則を失った”。ただし曽子の在世当時、魯国の政府が暴政を行った記録はない。儒家が言いそうな非難としては、魯の国君に実権がなくなっていることだろうが、そうなると後ろに続く”民が離散する”原因ではないから論理が続かないように見える。
ここでの「上」は”魯の政府”。初出は甲骨文。横線の上に点を打った指事文字だが、”うえ”を意味することから”目上”・”政府”を意味しうる。詳細は論語語釈「上」を参照。
「失」は”なくす”。初出は殷代末期の金文。同じ「うしなう」でも、手中のものがするりと横へ抜け去ることを示す、と『学研漢和大字典』にいう。詳細は論語語釈「失」を参照。
「道」は”原則”。初出は西周早期の金文。孔子の生前、「道」に道徳的な意味は一切無かったが、本章でも事情は同じ。詳細は論語語釈「道」を参照。
民(ビン)
(甲骨文)
論語の本章では”たみ”。初出は甲骨文。「ミン」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)。字形は〔目〕+〔十〕”針”で、視力を奪うさま。甲骨文では”奴隷”を意味し、金文以降になって”たみ”の意となった。唐の太宗李世民のいみ名であることから、避諱して「人」などに書き換えられることがある。唐開成石経の論語では、「叚」字のへんで記すことで避諱している。詳細は論語語釈「民」を参照。
民散久矣
「散」「久」(金文)
論語の本章では、”民が本籍から逃げ散り続けている”。
「散」は論語では本章のみに登場。初出は甲骨文。ただし字形は「㪔」。現伝字形の初出は後漢の漢石経。『学研緩和大字典』によると、古い字体は、竹の葉をばらばらにするさまを描いたもの。のち「麻の実、または皮をはぐさま+攴(動詞の記号)」の会意文字でで、植物の皮や実をばらばらにそぎとるさま、という。詳細は論語語釈「散」を参照。
「久」は論語の本章では”~が続く”。原義は人を後ろからつっかい棒で支える姿で、”ひさしい・ながい”という伝統的な語釈は、「旧」と音が通じて後世に生まれた語義。最古の古典である論語に適用していいかは慎重に検討すべき。詳細は論語語釈「久」を参照。
論語の時代にも戸籍らしきものはあり、多くは農民である平民は、田畑なしでは生活できないので、定住して移らないのがもともとだった。しかし不作や戦乱などで、田畑を捨てて放浪せざるを得ない者が論語の時代には増え、これを「盗」と呼んだ。
生きるため心ならずも?盗みを働くのであり、常に泥棒や乱暴を働いていたわけではない。こうした「盗」が有力者の保護下に入り、私兵化・農奴化するのは古今東西変わらない。魯国筆頭家老の季氏がそれらを多数抱えていたことが、論語顔淵編18より知れる。
如
(古文)
論語の本章では仮定の意味で用いられて”もし”。漢文では多く「ごとし」と読んで”~のようだ”と訳す。初出は甲骨文。『学研漢和大字典』によると、「口+〔音符〕女」の会意兼形声文字で、もと、しなやかにいう、柔和に従うの意。ただし、一般には、若とともに、近くもなく遠くもない物をさす指示詞に当てる、という。詳細は論語語釈「如」を参照。
情
(古文)
論語の本章では”(犯罪の)情報”。甲骨文・金文には見られず、古文から見られるが、論語の時代=春秋末期の字体かどうかは明瞭でない。論語時代の置換候補も無い。原義は現代日本語と同様”感情”。詳細は論語語釈「情」を参照。
則(ソク)
(甲骨文)
論語の本章では、”…の場合は”。初出は甲骨文。字形は「鼎」”三本脚の青銅器”と「人」の組み合わせで、大きな青銅器の銘文に人が恐れ入るさま。原義は”法律”。論語の時代=金文の時代までに、”法”・”則る”・”刻む”の意と、「すなわち」と読む接続詞の用法が見える。詳細は論語語釈「則」を参照。
哀矜→哀矝
「矜」(篆書)
論語の本章では二字で”憐れむ”。「哀」も「矝」も”あわれむ”を意味し、論語の時代は原則として一文字一語であるのに対し、異例な熟語。文字も孔子在世当時には遡れないが、本章は後世の挿入であることが確実なので、矛盾が無い。
「矝」の字は二系統ある。古い論語の版本では矝(つくりが令)と書き、新しい版本では、矜 (つくりが今)と書く。「矝」は『康煕字典』以降は「矜」に統合されて区別されず、「矜」の書体は秦漢帝国以降の文字=篆書までにしかさかのぼれない。
矝 矜
「矝」は『説文解字』に「矝、矛柄也。从矛今聲。」(矝はほこの柄である。ほこに由来があり、今と音が同じ)とあり、原義は矛の柄を意味する。清の段玉裁が著した『説文解字』段注本では、論語も漢石経までは「矝」と書いていたが、今は「矜」と混同されたという。
上掲原文に注記したように、日本の古い論語本=清家本では「矝」(つくりが令)となっているのに対し、中国伝論語の底本となった唐石経では「矜」(つくりが今)になっている。『学研緩和大字典』では「矜」を「憐」にあてたもので、元の音は「レイ・レン」だったという。
「矜」が”おごる・誇る”の意味の場合は「キョウ」と読む、ともいう。訳者の見解では、もと「矝」とあったのが、「矜」に書き間違えられ、のちには区別がなくなっただけと思う。辞書的には論語語釈「矜」・論語語釈「矝」を参照。
「哀」について詳細は論語語釈「哀」を参照。
勿(ブツ/なかれ)
(金文)
論語の本章では”~するな”。禁止を意味する。初出は甲骨文。『学研漢和大字典』によると、さまざまな色の吹き流しの旗を描いた象形文字で、色が乱れてよくわからない意を示す。転じて、広く「ない」という否定詞となり、「そういう事がないように」という禁止のことばとなった、という。詳細は論語語釈「勿」を参照。
喜
(金文)
論語の本章では”喜ぶ”。初出は甲骨文。『学研緩和大字典』によると会意文字で、壴(シュ・チュ・トウ)は、台のついた器に、うずたかく食物を盛って、飾りをつけたさま。また、鼓の左がわと同じと考え、飾りつきの太鼓をたてたさまとも解される。喜は「壴+口」。ごちそうを供え、または音楽を奏してよろこぶことを示す、という。詳細は論語語釈「喜」を参照。
論語:付記
論語の本章は、定州竹簡論語に無いが、その前後を横書きにして図示すれば下の通り。…は欠損部分を含む解読不能部分。つまり必ずしも…部分の竹簡があるわけではない。
……………父之臣與父之正也是難……………簡584号
…………………………………□□之惡皆歸焉簡585号
前章にはなお「能也」の二文字があり、次章の□□が「天下」と仮定すると、その前に「子貢曰紂之不善也不如是之甚也是以君子惡居下流」の22字が必要になる。つまり簡584号と585号の間に少なくとも1枚欠損した簡があったことになる。
…………父之臣與父之正也是難能也…………簡584号
子貢曰紂之不善也不如是之甚也是以君子惡居欠損した簡
下流天下之惡皆歸焉……………………………簡585号
定州竹簡論語では、明らかに章が改まる際は、簡も余白を残して改めたと凡例に言う。そして簡一枚は19-21字だったという。簡584号の後に何枚欠損した簡があったかはもはや分からないので、論語の本章が前漢宣帝期にあった物証は無い。無かった物証は探しようが無い。
だから無かった、と推定するのが妥当的な結論となる。
対して現伝の論語の本章は、熟語があること、すべては金文にさかのぼれないことから、孔子在世前後の史実と断定できないが、いかにも曽子が言いそうなことではある。憐れんで見逃すのが役人である以上、気に入らなければ見逃さず、一層厳罰に処す、もありうる。
要するに、自分だけが正しい、という独善と偽善が背景にある。
儒家が法家と相性が悪いのは、このような儒者の高慢ちきから来る、身勝手な法の運用に根底がある。論語を最終的に編纂した漢代の儒者にとっても事情は同じで、身勝手な皇帝に対抗するには、それが偽作であろうとも、孔子の権威を背負った身勝手を用いるしかなかったのだ。
儒教がいわゆる国教化された前漢代の皇帝は、腹を立てると平気で人を殴刂殺すような人物が多く(『史記』呉王濞伝)、気分次第で役人=その多くが儒者を、片や褒賞するかと思えば、片や収監したり処刑したりした。孔子のカナブツ化もその時代的背景と無縁ではありえない。
上掲「士師」の語釈に記した、儒教経典の頼りなさもこの事情による。孔子を権威化せねば命も危ない儒者にとって、史実や事実はどうでもいいからだ。しかし命もかからない現代の世間師が、孔子を持ち上げて変な訳を広めるのは、ひとえにカネが欲しいからに他ならない。
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