論語:原文・白文・書き下し
原文・白文
子之武城、聞弦歌之聲、夫子莞*爾而笑曰、「割雞焉用牛刀。」子游對曰、「昔者、偃也聞諸夫子、曰、君子學道則愛人、小人學道則易使也。」子曰、「二三子、偃之言是也、前言戲之耳。」
校訂
武内本
釋文云、莧爾一本莞爾に作る、莧は正字、莞は借字、微笑の貌。
定州竹簡論語
……[對曰:「昔者偃也聞]505……人學道則易使也。』」子曰:「二三子!偃之言是也。506……
復元白文(論語時代での表記)
莞
※弦→玄・聲→(甲骨文)・焉→安・愛→哀。論語の本章は莞の字が論語の時代に存在しない。「之」「則」「易」「使」の用法に疑いがある。本章は戦国時代以降の儒者による創作である。
書き下し
子武城に之き、弦歌之聲を聞く。夫子莞爾とし而笑ひて曰く、雞を割くに焉んぞ牛刀を用ゐむ。子游對へて曰く、者に昔偃也諸を夫子に聞けり、曰く、君子道を學ばば則ち人を愛す、小人道を學ばば則ち使ひ易き也と。子曰く、二三子、偃の言是しき也、前言は之に戲る耳と。
論語:現代日本語訳
逐語訳
先生が武城に行くと、琴を弾いて歌う声が聞こえてきた。先生はニッコリ笑って言った。「にわとりをさばくのにどうして牛刀を使うのかね?」子游が答えた。「実に昔わたくし偃は、こういうことを先生から聞きました。すなわち、君子が道理を学ぶと必ず人を愛する、凡人が道理を学ぶと使いやすくなる、と。」先生が言った。「きみたち、偃の言葉は正しい。今言った言葉はからかっただけだよ。」
意訳
子游が遠い武城の代官になった。先生は子游を訪ねて武城に行った。するとチンチャカと琴の音、わぁ~あ~と合わせて歌う合唱団の声が聞こえてきた。先生は笑って、出迎えた子游に言った。
孔子「トリ料理に牛をさばく大包丁を使うのかね。派手な出迎えは嬉しいが、やり過ぎではないかね。」
子游「申し訳ありません。ですが昔、先生からこう教わりましたのを確かに覚えております。君子が道理を学べば人を愛し、凡人が学べばおとなしく世間の役に立つ。まさにそれが道理だからだ、と。教育は洗脳になるほどに、やり過ぎぐらいで丁度いいのではありませんか?」
先生はお供の弟子たちを振り返って言った。
孔子「いや全くその通り。諸君、いまのは冗談だよ。」
従来訳
先師が武城に行かれた時、町の家々から弦歌の声がきこえていた。先師はにこにこしながらいわれた。――
「雞を料理するのに、牛刀を使う必要もないだろうにな。」
武城は門人子游がその代官をつとめ、礼楽を盛んにして人民を善導し、治績をあげていた小さな町であった。
で、子游は先師にそういわれると、けげんそうな顔をしていった。――
「以前私は、先生に、上に立つ者が道を学ぶとよく人を愛し、民衆が道を学ぶとよく治まる、とうけたまわりましたが……」
すると、先師は、お伴をしていたほかの門人たちをかえりみて、いわれた。――
「今、偃がいったことはほんとうだ。私のさっきいったのは、じょうだんだよ。」下村湖人『現代訳論語』
現代中国での解釈例
孔子去武城,聽到彈琴唱歌的聲音。孔子微微一笑說:「殺雞哪用得上宰牛的刀?」子游對他說:「以前我聽您說過:『君子學道就會愛護別人,小人學道就會服從指揮。』」孔子說:「同學們,子游說得對,剛才我是在開玩笑。」
孔子が武城に行くと、琴を弾いて歌う声が聞こえてきた。孔子は微笑んで言った。「トリをさばくのになぜ牛を切り分けるような刀を用いるのか?」子游が彼に対して言った。「以前私はあなたからこう聞きました。”君子が道徳を学ぶと、必ず他人を愛し護るようになる。小人が道徳を学ぶと、必ず目上の言うことに従えるようになる”と。」孔子が言った。「弟子の諸君。子游の話は正しい。今私がやったのは、ほんの冗談だ。」
論語:語釈
子 之 武 城、聞 弦 歌 之聲、夫 子 莞 爾 而 笑、曰、「 割 雞 焉 用 牛 刀。」子 游 對 曰、「 昔 者、偃 也 聞 諸 夫 子 曰、『君 子 學 道 則 愛 人、小 人 學 道 則 易 使 也。』」子 曰、「二 三 子 偃 之 言 是 也、前 言 戲 之 耳。」
之(シ)
(甲骨文)
論語の本章では”行く”と”…の…”。初出は甲骨文。字形は”足を止めたところ”で、原義は”これ”。”これ”という指示代名詞に用いるのは、音を借りた仮借文字だが、甲骨文から用例がある。”…の”の語義は、春秋早期の金文に用例がある。詳細は論語語釈「之」を参照。
武城
(金文)
論語の本章では、魯国南部にあったまちの名前。
出典:http://shibakyumei.web.fc2.com/
聞
(金文)
論語の本章では”聞こえる”。詳細は論語語釈「聞」を参照。
本来孔子在世当時は、「聞」は隔たりを通して間接的に聞くこと、または聞くつもりが無くても聞こえてくることで、「孔子一行が武城に近づくと、姿は見えないけれど音楽が聞こえてきた」という、子游との対面までの時間の前後を示している。
なお「聴」は、直接的・能動的・意志的に聞く事。「拝聴」というのは、偉い人のお言葉や音楽を注意して聞く事で、意識を向ける手間を捧げることになる。対して君主に進言することを「奏聞」と言うが、君主の意識を強制せず、「お耳に入れる」にあたる謙譲語。
歌・声
(篆書)
論語の本章では”うた”と”楽器の音”。「歌」の現行字体は甲骨文・金文には見られないが、秦系戦国文字・古文には見られる。異体字が金文から出ている。「声」は古文にも見られないが、なぜか甲骨文が見つかっている。とは言え、人間社会に歌や楽器の無いことは想像しがたいから、どちらもことばそのものは太古の昔からあっただろう。
弦歌之聲(声)
「弦」(古文)
論語の本章では、琴を弾いて歌う声。孔子の教説では、為政者は民の教育を礼法と音楽の二本立てで行うべきとされた。「弦」の字は論語では本章のみに登場。秦系戦国文字から見られるが、甲骨文・金文共に未発掘でも、弓・楽器の”つる”に当たる言葉が無かったとは想像しがたい。
植物の”つる”については「蔓」という字があるが、こちらは戦国文字・古文にすら見られないが、それにあたることばが無かったとは想像できないのと事情は同じ。おそらく「弦」は、春秋戦国時代には「玄」=黒い、暗い、暗くて分からないほどか細い、と書かれたのだろう。
なぜなら上掲、年代不明の古文の字形が部品で近音の「玄」と酷似しているからで、論語時代の置換候補と判断する。詳細は論語語釈「弦」を参照。
「弦」は『学研漢和大字典』によると会意兼形声文字で、玄は、一線の上に細いいとの端がのぞいた姿で、いとの細いこと。弦は「弓+(音符)玄」で、弓の細いいと。のち楽器につけた細いいとは絃とも書いた、という。
夫子(フウシ)
(甲骨文)
論語の本章では”孔子先生”。従来「夫子」は「かの人」と訓読され、「夫」は指示詞とされてきた。しかし論語の時代、「夫」に指示詞の語義は無い。同音「父」は甲骨文より存在し、血統・姓氏上の”ちちおや”のみならず、父親と同年代の男性を意味した。従って論語における「夫子」がもし当時の言葉なら、”父の如き人”の意味での敬称。詳細は論語語釈「夫」を参照。「子」は貴族や知識人に対する敬称。論語語釈「子」を参照。
本章では地の文で三人称として用いるのは通例通りだが、子游が二人称として使っているのは極めて異例。むしろこの方が春秋時代の語義に近いと言える。
莞爾(カンジ)
「莞」(古文)
論語の本章では”にっこりと”。「莞」は論語では本章のみに登場。初出は楚系戦国文字。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。『学研漢和大字典』によると会意兼形声文字で、「艸+(音符)完(まるい)」。まるい管状をした草をあらわす。原義はかやつりぐさ科の多年草の名で、沼などの湿地に自生する。茎は円柱状をして、むしろを織るのに使う。まるすげ。また、いで織ったもの。転じて、まるい、まろやか、という。詳細は論語語釈「莞」を参照。
「爾」の初出は甲骨文。原義は大きな角形の判子で、「然」と同じく、そうだ、との肯定の意を表す。つまり「莞爾」は「莞然」と同義語で、まろやかに笑うさま、という。論語語釈「爾」を参照。
笑
(古文)
論語の本章では”笑う”。甲骨文~戦国文字には見られず、古文から見られるが、これもことばとして”わらう”が太古から無かったとは想像しがたい。
『学研漢和大字典』によると会意文字で、夭(ヨウ)は、細くしなやかな人。笑は「竹+夭(ほそい)」で、もと細い竹のこと。正字は「口+(音符)笑」の会意兼形声文字で、口を細くすぼめて、ほほとわらうこと。それを誤って咲(わらう→さく)と書き、また、略して笑を用いる、という。
しかし「笑」字の現在最も古い書体を集めても、また『大漢和辞典』にも「口+笑」は見あたらず、『学研漢和大字典』にいう正字があったかどうか、つじつまが合わない。
結論として論語時代の置換候補は关だが、关単体での論語時代以前からの出土例はない。詳細は論語語釈「笑」を参照。
割
(金文)
論語の本章では、肉を切って食べやすいように整えること。「割」は刃物で切り分ける事で、「割烹」というのは肉を切り分けて煮ること。初出は春秋早期の金文。詳細は論語語釈「割」を参照。
雞
(金文)
論語の本章では”にわとり”。初出は甲骨文。『学研漢和大字典』によると奚(ケイ)は「爪(手)+糸(ひも)」の会意文字で、系(ひもでつなぐ)の異体字。鷄は「鳥+(音符)奚」の会意兼形声文字で、ひもでつないで飼った鳥のこと。また、たんなる形声文字と解して、けいけいと鳴く声をまねた擬声語と考えることもできる、という。詳細は論語語釈「鶏」を参照。
論語の時代、にわとりは牛・馬・羊・犬とともに五畜に数えられ、重要な食用家禽だった。
焉(いずくんぞ)
(金文)
論語の本章では、”なぜ”という疑問辞に使われている。句読では疑問辞、句末では完了・断定の助辞となる。原義はエンという黄色い鳥。『字通』によるとその羽根で神に祈ったという。詳細は論語語釈「焉」を参照。
牛刀
(金文)
論語の本章では、牛をさばく大きな刀。「牛」も「刀」も象形文字。「牛」の詳細は論語語釈「牛」を参照。
「刀」は論語では本章のみに登場。初出は甲骨文。『学研漢和大字典』によると刃のそったかたなを描いた象形文字、という。詳細は論語語釈「刀」を参照。
牛は儀式や盟約の際に犠牲として用いられる重要な家畜で、儀式に用いるのには専用の鸞刀という刀を用いた。いずれにせよ大きな牛をさばくには、大きくて分厚い刀が必要で、小さなにわとりをさばくには適さない。
孔子は子游に、小さなまちでおおげさな音楽だ、とからかったわけ。
昔者(セキシャ/げにむかし)
(金文)
論語の本章では二文字で”実にむかし”。「者」は時間を表す言葉を強調する助辞で、伝統的には読み下さない。論語語釈「昔」・論語語釈「者」を参照。
同様の例に、「今者=いま」「近者=ちかごろ」「古者=いにしえ」「昨者=きのう」「頃者=このごろ」「比者=このごろ」「間者=このごろ・ちかごろ」「向者=さきに」「先者=さきに」「日者=さきに」「嚮者=さきに」などがある。
偃(エン)
(金文大篆)
論語の本章では、孔子の弟子、子游の本名。語義は”伏せる”こと。文字的には論語語釈「偃」を参照。
諸
(金文)
論語の本章では、”これを~に”。「之於」(シヲ)が「諸」の音を借りて一文字になったことば。詳細は論語語釈「諸」を参照。
道(トウ)
「道」(甲骨文・金文)
論語の本章では”正しいやり方”。動詞で用いる場合は”みち”から発展して”導く=治める・従う”の意が戦国時代からある。”言う”の意味もあるが俗語。初出は甲骨文。字形に「首」が含まれるようになったのは金文からで、甲骨文の字形は十字路に立った人の姿。「ドウ」は呉音。詳細は論語語釈「道」を参照。
「道」は原義から転じてある目的へ至る”方法”を意味し、さらにそれがもっともなことであることから”道理”へと派生した。論語での「道」の意味は、「先王の道」のように、模範とすべき”方法”に止まる。
しかし本章では”理の当然”と解さないと文意が分からない。君子が人を治め、凡人は人に治められるのが理の当然とされるからこそ、子游の発言が成り立つのだから。従って本章は孔子在世時代の話ではなく、儒教が権威化された後世の創作と思われる。
則(ソク)
(甲骨文)
論語の本章では、”~の場合は”。初出は甲骨文。字形は「鼎」”三本脚の青銅器”と「人」の組み合わせで、大きな青銅器の銘文に人が恐れ入るさま。原義は”法律”。論語の時代=金文の時代までに、”法”・”則る”・”刻む”の意と、「すなわち」と読む接続詞の用法が見える。詳細は論語語釈「則」を参照。
愛(アイ)
「愛」(金文)/「哀」(金文)
論語の本章では”愛する”。初出は戦国末期の金文。一説には戦国初期と言うが、それでも論語の時代に存在しない。同音字は、全て愛を部品としており、戦国時代までしか遡れない。
「愛」は爪”つめ”+冖”帽子”+心”こころ”+夂”遅れる”に分解できるが、いずれの部品も”おしむ・あいする”を意味しない。孔子と入れ替わるように春秋時代末期を生きた墨子は、「兼愛非行」を説いたとされるが、「愛」の字はものすごく新奇で珍妙な言葉だったはず。
ただし同訓近音に「哀」があり、西周初期の金文から存在し、回り道ながら、上古音で音通する。論語の時代までに、「哀」には”かなしい”・”愛する”の意があった。詳細は論語語釈「愛」を参照。
使(シ)
(甲骨文)
論語の本章では”労役に動員する”。初出は甲骨文。甲骨文の字形は「事」と同じで、「口」+「筆」+「手」、口に出した事を書き記すこと、つまり事務。春秋時代までは「吏」と書かれ、”使者(に出す・出る)”の語義が加わった。のち他動詞に転じて、つかう、使役するの意に専用されるようになった。詳細は論語語釈「使」を参照。
易(エキ/イ)
(甲骨文1・2)
論語の本章では、”…しやすい”。初出は甲骨文。甲骨文の字形は、「匜」”水差し”に両手を添え、「皿」=別の容器に注ぐ形で、略体は「盤」”皿”を傾けて液体を注ぐ形。「益」と語源を同じくし、原義は”移し替える”・”増やす”。古代中国では「対飲」と言って、臣下に褒美を取らせるときには、酒を注いで飲ませることがあり、「易」は”賜う”の意となった。戦国時代の竹簡以降に字形が乱れ、トカゲの形に描かれるようになり、現在に至っている。論語の時代までに確認できるのは”賜う”の意だけで、”替える”・”…しやすい”の語義は戦国時代から。漢音は”変える”の場合「エキ」、”…しやすい”の場合「イ」。詳細は論語語釈「易」を参照。
二三子
論語の本章では”君たち”。複数の目下を親しんで、「子」=きみ、と丁寧に呼びかける言葉。論語では八佾篇で初出。
関守「君たち、亡命に落ち込んではいけないよ。」(論語八佾篇23)
孔子「むしろ君たちに看取られて世を去りたい。」(論語子罕篇12)
孔子「私がやった事ではない。君たちが勝手にやったことだ。」(論語先進篇10)
孔子「君たち、私が隠し事をしていると言うのかね。」(論語述而篇23)
是(ゼ)
(金文)
論語の本章では”正しい”。『学研漢和大字典』によると原義は真っ直ぐなさじと足との組み合わせで、真っ直ぐに進む事を言う。詳細は論語語釈「是」を参照。
戲(ギ)
(金文)
論語の本章では”からかう”。論語では本章のみに登場。初出は西周早期の金文。
『学研漢和大字典』によると「戈(ほこ)+(音符)虛(コ)」の形声文字で、「説文解字」は、ある種の武器で、我(ぎざぎざの刃のあるほこ)と似たものと解する。その原義は忘れられ、もっぱら「はあはあ」と声をたてて、おどけ笑う意に用いる、という。詳細は論語語釈「戯」を参照。
耳(ジ)
(金文)
論語の本章では、「のみ」と読み下し、”~だけ”という限定の言葉。初出は甲骨文。『学研漢和大字典』によると、みみを描いた象形文字で、柔らかいの意を含む。而已(それでおわり、それだけ)をつづめて、…耳と書くようになった、という。詳細は論語語釈「耳」を参照。
論語:付記
論語の本章は、論語の名言「鶏を割くにいずくんぞ牛刀を用いん」の出典であり、温かい師弟関係を窺わせるいい話ではあるが、同じ場面を描いた論語雍也篇14には、子游のおそらくヤラセの音楽の話は書かれていない。
また、「道」が”理の当然”として使われており、そのような語義は論語の当時にはほぼあり得ない。武内義雄『論語之研究』によると、清代の儒者・崔述も文体が怪しいと評したという。
しかし後世の儒者が話をでっち上げるにも、元ネタがなければ難しいことで、おそらく子游がヤラセの演出で孔子を出迎えた事はあったのだろう。のちに葬儀屋の親分として知られた子游は、孔子流の大げさな演出を好んで行っただろうからだ。その演出には音楽がふさわしい。
なぜなら住民を躾けて礼法を学ばせたところで、酔っ払いがたった一人でも昼間から道をうろついていたら、それで演出は台無しになるのに対し、音楽は素養のある者数人を仕込めば可能だからだ。住民全てをお行儀よくさせるより、はるかに手間も時間もかからない。
子游の学派はのちに冠婚葬祭業の大手となったようで、戦国時代の荀子は批判して言った。
どこかで葬式があると聞くと大喜びで駆けつけ、恥知らずにもその場で飲み食いし、では何の役に立つかと言えば、「君子は力仕事なんてしない」とうそぶいて、お上品なことしかやらない。これが子游の系統を引く、腐れ儒者どもだ。(『荀子』非非十二子篇)
弟子や孫弟子の行為にまで責任は取れないだろうが、開祖の性格はその派閥に反映されるものだ。子游が孔子に対してヤラセをするような人物であるとの想像は、許されていいだろう。おそらく孔子は気付いただろうが、35年の歳下、孫のような子游が可愛かったのかも知れない。
なおなぜ孔子が音楽を不釣り合いと言ったかは、おおかたの論語本では「この小さな田舎町には不釣り合いだ」からと解する。そう言い出したのは前漢の儒者で孔子の末裔、孔安国で、その後の儒者はかさにかかって「先王の道に反する」などと言いたい放題言った者もいる。
しかし『春秋左氏伝』などを読む限り、武城は都城の曲阜を離れたまちではあっても、魯国と南方を結ぶ交通の要衝で、けっして小さな田舎町とは言えない。訳者の見解は、孔子が子游のヤラセに気付いて、「大げさではないかね」とたしなめ気味に言ったと解釈する。
それにも開き直った子游を孔子が許したのは、やはり可愛かったのではなかろうか。
コメント