論語:原文・白文・書き下し
原文・白文
子夏曰、「仕而優則學、學而優則仕。」
校訂
後漢熹平石経
…仕而…
定州竹簡論語
……而優則[仕a,仕a]而優582……
- 仕、今本作”學”、前后兩句顛倒。
→子夏曰、「學而優則仕。仕而優則學。」
復元白文(論語時代での表記)
優 優
※仕→事。論語の本章は「優」の字が論語の時代に存在しない。「則」の用法に疑問がある。本章は戦国時代以降の儒者による創作である。
書き下し
子夏曰く、學びて優れたらば則ち仕へよ。仕へ而優れたらば則ち學べ。
論語:現代日本語訳
逐語訳
子夏が言った。「学んで優秀なら必ず仕官せよ。仕官して優秀なら必ず学べ。」
意訳
子夏「勉強して成績優秀になったら、就職しなさい。そうなるまでは、勉強に専念しなさい。仕事をして成績優秀になったら、勉強しなさい。そうなるまでは、仕事に専念しなさい。」
従来訳
子夏がいった。――
「仕えて餘力があったら学問にはげむがいい。学問をして餘力があったら、出でて仕えるがいい。」下村湖人『現代訳論語』
現代中国での解釈例
子夏說:「當官當得好時還應該註意學習,學習學得好時就應該去當官。」
子夏が言った。「官職について仕事がうまく行った時にはもう一度気を付けて学ぶべきで、学んで学習がうまく行った時にはすぐさま官職に就くべきだ。」
論語:語釈
子夏
論語では、孔子の若き弟子で文学の才を孔子に評価された孔門十哲の一人、卜商子夏を指す。
仕
(金文)
論語の本章では”就職する・仕える”。初出は戦国時代の金文で、論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補は、同音異調の「事」。詳細は論語語釈「仕」を参照。
論語の時代に就職先と言えば、王侯しかないので、事実上現在の役人になるしかない。封建制の世の中では、日本の諸大名が公権力そのものであったように、貴族もその私領内では公権力に他ならなかったからである。
権力に由らず財力だけで食客=私兵や参謀集団を抱えられるようになったのは、まさに孔子が世に出る頃からで、孔子が魯の宰相を辞めて真っ直ぐ向かった衛国の顔濁鄒親分は、山父に城塞を構える武装集団の親玉で、諸侯国に傭兵を供給するなどしていた。
孔子からからやや遅れた世代では、もと越の軍師だった范蠡がいる。子夏は范蠡と同時代人だが、本章がもし子夏の発言として事実であっても、とりたてて食客を意識したわけではないだろう。
優
(篆書)
論語の本章では”優れる”。初出は楚系戦国文字。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補は、部品で同音の「憂」だが、語義を共有するのは”しなやかに振る舞う”だけで、本章には適用できない。秦帝国成立までの漢籍で検索すると、「優」は”すぐれる・やさしい”などの修飾語で用いられると同程度には、”芸人”の意で用いられる例が確認できる。
『学研漢和大字典』によると、憂の原字は、人が静々としなやかなしぐさをするさまを描いた象形文字。憂は、それに心を添えた会意文字で、心が沈んだしなやかな姿を示す。優は「人+(音符)憂」会意兼形声文字で、しなやかにゆるゆるとふるまう俳優の姿、という。一方『字通』は、悲しみに暮れた人の姿とする。詳細は論語語釈「優」を参照。
伝統的には「ゆたかに」と読み下す。”余裕が有れば”の意だが、それを言いだしたのはデタラメばかり論語に書き込んだ後漢の馬融であり、信用できない(論語解説「後漢というふざけた帝国」)。要するに珍妙な解釈をこしらえて、それをタネに口利き料や授業料を稼ごうとしたのである。
ついでに新注も見ておく。
優,有餘力也。仕與學理同而事異,故當其事者,必先有以盡其事,而後可及其餘。然仕而學,則所以資其仕者益深;學而仕,則所以驗其學者益廣。
「優」とは余力があることである。仕事と学習は原理は同じだが事情は異なっている。仕事を始めたなら、先にその仕事をやり尽くさなければ、余力があるわけがない。仕事を始めてから学ぶなら、学びが仕事をより深める。学んでから仕事に就くなら、仕事の経験から学びをより広める。(『論語集注』)
だから何だ、と言うしかない。「故」とは”AだからB”の意だが、仕事と学習のことわりが同じで、その実際のあり方が違うと言う前座のAはその通りだが、「だから」B=仕事を極めないと余力が出来ない、になるわけではない。宋儒の脳みそは、やはりどこかおかしいと思う。
則(ソク)
(甲骨文)
論語の本章では、”…の場合は”。初出は甲骨文。字形は「鼎」”三本脚の青銅器”と「人」の組み合わせで、大きな青銅器の銘文に人が恐れ入るさま。原義は”法律”。論語の時代=金文の時代までに、”法”・”則る”・”刻む”の意と、「すなわち」と読む接続詞の用法が見える。詳細は論語語釈「則」を参照。
論語:付記
論語の本章について、従来訳の注はこう記している。すなわち「仕事に余裕が出来たから学ぶと言うより、学んで余裕が出来たら仕官するという方が、常識にかなうではないか」という。
この語は前段と後段との順序が逆になつているのではないか、という説がある。なるほど、それがわれわれの常識に合致する。
かように下村先生の幅広い教養が示したとおり、定州竹簡論語は逆になっていた。「という説」とは何かはわからないが、南北朝時代に編まれた字書『玉篇』にはそのような引用がある。下掲は欽定四庫全書本で、右頁末・上あたりに「論語曰學而優則仕仕而優則學」とある。
対して宮内庁本『論語注疏』では、すでに現伝の記述になっているから、南朝梁から南宋にかけてのいずれかの時点で、句の順序が入れ替わった可能性が高い。それでも「だから何だ」でしかなく、そもそも本章が後世の創作で、真に受けられる話ではない。
これは古代の儒者にとってもそうだったようで、少なくとも定州竹簡論語が書かれた前漢宣帝期には論語に記されていたというのに、誰も引用していない。無意味な御託を並べるのが趣味だった後漢儒なら、わーっとたかって何か書きそうだが、ただの一つも例が見つからない。
また下村先生の言うように、本当に上下の句が入れ替わっていた保証も無い。定州竹簡論語を横書きで図示すれば、下のようになっていたからだ。…は欠損を含む解読不能部分。
つまり「而」の前と「優」の後に何が書かれていたかは情報が無く、饅頭や中華そばの作り方だってあり得るわけだ。”優=うまく饅頭を蒸かせたら、仕=配膳し、配膳して優=うまいと言われたらまた作ろう”とか。漢語の意味としては、それで全然間違いではない。
これは論語や子夏をからかって言うのではない。有るものは有る、無いものは無いとするのがまともな判断だからだ。そしてもし論語の本章が史実なら、子夏は「優」ではなく「憂」と言ったはずだ。
学びて憂いあらばすなわち仕え、仕えて憂いあらばすなわち学べ。
勉強して世の不幸に気付いて気の毒に思ったなら、仕官して世のため人のため働きなさい。もし仕官中に手の付けようがない事態が起こったら、謙虚に解決法を学びなさい。
これなら史実の孔子塾にあり得る話だし、子夏の人柄にもふさわしい。
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