(検証・解説・余話の無い章は未改訂)
論語:原文・書き下し
原文
在陳絕糧*。從者病莫能興。子路慍見曰、「君子亦有窮乎。」子曰、「君子固窮。小人窮斯濫矣。」
校訂
武内本
粮、唐石経糧に作る。釋文、糧音粮、鄭本粻に作る。蓋し粮は糧の俗字、粻糧同義。
定州竹簡論語
在陳絕糧。從者]413……
復元白文(論語時代での表記)
濫
※病→疒・窮→究・固→股。論語の本章は濫の字が論語の時代に存在しない。本章は少なくとも、漢帝国の儒者による改変が加えられている。
書き下し
陳に在りて糧を絶てり。從う者病みて能く興つ莫し。子路慍み見えて曰く、君子も亦窮する有る乎。子曰く、君子は固より窮す。小人窮すらば斯に濫るる矣。
論語:現代日本語訳
逐語訳
陳で食糧が無くなった。孔子に従う者は苦しみ、立ち上がる事が出来る者はいなかった。子路が怒って言った。「君子も行き詰まることがあるのですか。」先生が言った。「君子はもともと行き詰まる。凡人は行き詰まると乱れる。」
意訳
孔子一行が陳で兵糧攻めに遭った。一行は飢えに苦しみ、立ち上がる力もない。
子路「君子君子と日頃先生は仰るが、君子もこんな目に遭うのですか!」
孔子「そうだよ。君子は世の中を変えようとする者だから、反発にあって苦しむのは当然だ。その覚悟がない凡人が追い詰められると、誰かさんのように怒って怒鳴り出すがね。」
従来訳
陳においでの時に、食糧攻めにあわれた。お伴の門人たちは、すっかり弱りきって、起きあがることも出来ないほどであった。子路が憤慨して先師にいった。――
「君子にも窮するということがありましょうか。」
すると、先師がいわれた。――
「君子もむろん窮することがある。しかし、窮しても取りみださない。小人は窮すると、すぐに取りみだすのだ。」下村湖人『現代訳論語』
現代中国での解釈例
孔子在陳國斷糧時,跟隨的學生都餓得走不動路。子路埋怨地說:「君子也有窮困潦倒的時候嗎?」孔子說:「君子雖窮,但窮不失志;小人一旦窮了,就自暴自棄、一蹶不振了。」
孔子が陳国で食糧を断たれたとき、従った弟子たちは皆飢えて道を歩けなくなった。子路が恨みを含んで言った。「君子でも困窮し落ちぶれる事は有りますか。」孔子が言った。「君子だろうと困窮する。ただし困窮しても志を失わない。小人はひとたび困窮すると、すぐに自暴自棄になり、ひとたび失敗すればそれでおしまいだ。」
論語:語釈
陳(チン)
(金文)
論語時代に中国南部にあった諸侯国の一つ。BC11C-BC478。想像上の古代の聖王、舜の末裔とされる者に周王朝が領地を与えた小国で、南方の大国・楚に取り囲まれて翻弄されていた。
『史記』によると、孔子は60歳の時陳に滞在し、4年ほど隣国で同じく小国の蔡との間を行き来した。相当活発に政治工作をしたらしく、陳・蔡両国の政界から総スカンを食らい、論語の本章のように兵糧攻めに遭った。『史記』ではその理由を、孔子が楚に招かれたので、それを恐れた両国の家老連が、結託して阻止したのだという。だがそうではあるまい。
糧
(金文)
論語の本章では”食料”。論語では本章のみに登場。初出は西周末期の金文。「ロウ」は呉音。『学研漢和大字典』によると会意兼形声文字。「米+(音符)量(はかる)」で、重さや分量をはかって用いる主食。▽良(きれいにした穀物)と同系とみてもよい、という。詳細は論語語釈「糧」を参照。
病
(金文大篆)
論語の本章では、”飢えて苦しむ”。初出は戦国文字で、論語の時代に存在しない。同音は存在しない。部品の疒(ダク・ソウ・シツ)に”やまい”の語釈を『大漢和辞典』が載せ、甲骨文から存在する。詳細は論語語釈「病」を参照。
「病」の語義は、気に病む事や、体に苦痛があったり意のままにならないこと全般を指し、老いや飢えなど、必ずしも病気を意味しない。
興
(金文)
論語の本章では”立ち上がる”。初出は甲骨文。『学研漢和大字典』によると会意文字で、舁は「左右の手+左右の手」で、四本の手でかつぐこと。興は「舁+同」で、四本の手を同じく動かして、いっせいにもちあげおこすことを示す、という。
「おきる・おこる」と読んでおくと、漢文ではたいてい間に合う。詳細は論語語釈「興」を参照。
慍(ウン)
(金文)
論語の本章では”怒る”。語義は鬱屈した”不愉快な感情”一般。へんはりっっしんべんで”心”を意味し、旁は「温」=”温泉”と共通する。心が熱くなること。藤堂説・白川説共に、最古の甲骨文を参照しないで字解を書いており、正しくない。詳細は論語語釈「慍」を参照。
窮(キュウ)
(金文大篆)
論語の本章では”追い詰められる”。「きわまる」と読み、いい事も悪い事も”行き着く”の意。漢字での「キュウ」という音には、”締める・押し迫る”の意がある。初出は楚系戦国文字。論語の時代に存在しない。同音多数。部品の「躬」に”行き詰まる”の語釈は『大漢和辞典』に無い。近音同訓「究」の初出は西周中期の金文。ただしという大変複雑な字形。詳細は論語語釈「窮」を参照。
固
(金文)
論語の本章では、”元から”。原義は”固い”。初出は戦国時代末期の金文で、論語の時代に遡れない。同音「古」は甲骨文より存在する。
語源は、『学研漢和大字典』では周囲を囲まれて動きのとれないこと、『字通』では、祈禱に外囲を加えること、という。詳細は論語語釈「固」を参照。
濫(ラン)
(篆書)
論語の本章では、”乱れる”。論語では本章のみに登場。
初出は後漢の説文解字。論語の時代に存在しない。同音に藍、覽(覧)、攬”取る”。近音同訓「乱」lwɑn(去)の初出は西周末期の金文。ただし発生から見てまるで違う字であり、音素の共通率は40%で音通を断言しがたく、置換候補とはし難い。
濫 | g | l | ɑ | m | |
乱 | l | w | ɑ | n |
ただし漢帝国の儒者が本章の元となる伝記に改変を加える際、「乱」に音が近いようで遠い「濫」に書き換えて古さの演出をしたことは考えられる。空耳アワーで人を笑かすのでなく、だまくらかした。濫=”けしからん”連中である。
字形は「氵」+「監」で、洪水が広がるのをなすすべもなくじっと見る様。字の成立は、「氾」”うずくまって洪水を見つめる”「淫」”目を見開いて洪水を見る”に近い。詳細は論語語釈「濫」を参照。
論語:付記
論語の本章は、さまざまな文献に引用されていることから、兵粮攻めの事件そのものはあったと見てよい。ただし儒者が筋肉ダルマとして描きたがる子路を引き出し、怒り狂って孔子に食ってかかる「バカ」として描いたのは、おそらく史実ではないだろう。
本章より引き続く、孔子の一連の弟子との対話は、最後には「顔淵偉い」の筋書きになっており、『公羊顔氏記』なる伝記をでっち上げて顔淵神格化キャンペーンを行った、前漢武帝期の董仲舒によるお芝居と思われる。董仲舒についてより詳しくは、論語公冶長篇24余話を参照。
論語の本章の模様を、『史記』孔子世家は以下のように言う。
孔子が蔡に移って三年後、呉が陳を討った。楚は陳を救援し、城父で陣営を張った。孔子が陳と蔡の間にいると聞き、楚は人をつかわし孔子を招いた。孔子はすぐに行って楚王に拝礼しようとした。
ところが陳と蔡の家老連は、互いに悪だくんで言った。「孔子は賢者であり、言挙げする内容は全て、諸侯のなやみに当てはまる。今は長いこと陳と蔡の間に留まっている。我ら家老がしていることは、ことごとく孔子の主張と反している。なのに今、大国の楚が孔子を招いている。孔子が楚で用いられれば、陳、蔡の権力を握る我ら家老は危なくなるだろう。」
そこで結託して動員令を出し、孔子を原野で包囲した。孔子一行は進み行くことが出来ず、食料が尽きた。従者は飢えに苦しみ、起き上がれなくなった。しかし孔子は書物を講義し詩を口ずさみ、琴を弾いて歌い元気だった。
素直に『史記』を受け取るなら、孔子楚に採用される→楚が陳と蔡に干渉し、家老の権力剥奪を強要する→家老困る→じゃあ殺しちゃえ、という論理になるが、楚は大変に歴史の古い国で、家老たちが領地を持って半独立した連合国家で、孔子が採用されるとは考えにくい。
なぜなら孔子の要求は、「政権をごっそり寄こせ」だったからだ。中規模の衛国でも受け入れられなかった孔子が、大国の楚の政権内に割り込めるはずがない。そんなことは陳と蔡の家老連も当然分かっていたはずで、楚に行くから阻止した、というには動機が不十分だろう。
訳者の感想では、孔子が呉とつるんで陳と蔡を潰しにかかったから、復讐されたのだ。
上掲『史記』にもあるように、陳と蔡は楚と呉の争乱の地で、陳は楚につき、蔡は呉国についた。地理的位置から言って妥当な選択だが、蔡は楚に攻められて政権崩壊を起こし、ほとんど滅びて呉に取り込まれている。(『春秋左氏伝』)。
哀公元年(BC494・孔子58歳)、春、楚王が蔡を包囲し、柏挙の戦いの報復をした。蔡の都城から一里の場所に、楚の宰相・子西の計画により、厚さ一丈、高さ二丈の城壁を築き、昼夜問わず九日間で完成させた。蔡の住民は男女別々に捕らえられ、楚は長江と汝水の間に国境を確定して引き上げた。一方蔡は呉に、国を移すための土地を求めた。
春、蔡の昭侯が呉に行こうとすると、家老連がまた国を移されるのを恐れて、追い掛けて矢を射かけた。昭侯は民家に隠れたまま死んだ。
陳もまた哀公元年に呉に一旦占領され、その後六年にも攻められて、楚が救援の軍を出した。そして軍を率いた楚の昭王は、城父の地に止まったが、そこで謎の死を遂げている。『史記』によれば孔子一行が包囲されたのはこの年で、蔡には包囲するような余裕は無さそうだ。
すると一行は陳の軍勢に襲われた事になるが、呉に攻められている最中もしくはその前に、孔子を襲ったということは、孔子が呉を手引きしたからだと考えるのが妥当だろう。脱出出来たのは楚の救援があったからだとされるが、その楚王が変死したのもうさんくさい話である。
そして論語本章の話もまた、『笑府』で笑いものになっている。『笑府』現代語訳を参照。
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