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論語詳解414衛霊公篇第十五(36)仁に当たり*

論語衛霊公篇(36)要約:それが仁なら、私にも遠慮することなく行いなさい、とニセ孔子先生。ニセの先生はその時の気分によって言うことが違います。では遠慮無しに、と言って仁を行うと、きつく叱ったりもするのでした。

論語:原文・白文・書き下し

原文・白文

子曰、「當仁、不讓於師。」

校訂

定州竹簡論語

[子曰:「當]仁,不讓於師。」454

復元白文(論語時代での表記)

子 金文曰 金文 當 当 黨 金文仁 甲骨文 不 金文於 金文師 金文

※仁→(甲骨文)。論語の本章は、讓の字が論語の時代に存在しない。”ゆずる”の語義では、襄の字に置換できない。本章は戦国時代以降の儒者による創作である。

書き下し

いはく、よきひとあたりては、ゆずらざれ。

論語:現代日本語訳

逐語訳

孔子 肖像
先生が言った。「まさに憐れみ深い行為なら、師匠にも譲歩するな。」

意訳

論語 孔子 人形
それが憐れみ深い行動だという確信があるなら、私がどう言おうと従わずに行え。

従来訳

下村湖人

先師がいわれた。――
「仁の道にかけては、先生にも譲る必要はない。」

下村湖人『現代訳論語』

現代中国での解釈例

孔子說:「面對仁道,在老師面前也不要謙讓。」

中国哲学書電子化計画

孔子が言った。「仁を実践するに当たっては、教師の目の前でも遠慮する必要は無い。」

論語:語釈

、「 。」


當(当)

当 金文
(金文)

論語の本章では、”まさに~については”。「当」の字は再読文字として「まさに~すべし」と読む場合があるように、まぎれもなくそれだ、ぴったりだ、の意。ここから、”もし~ならば”の意味が派生する。”まさにそれなら、そのときは”の意。

『学研漢和大字典』によると形声文字で、「田+(音符)尚(ショウ)」。尚は、窓から空気のたちのぼるさまで、上と同系。ここでは単なる音符にすぎない。當は、田畑の売買や替え地をする際、それに相当する他の地の面積をぴたりと引きあてて、取り引きをすること、という。詳細は論語語釈「当」を参照。

仁(ジン)

仁 甲骨文 孟子
(甲骨文)

論語の本章では、”常にあわれみの気持を持ち続けること”。初出は甲骨文。字形は「亻」”ひと”+「二」”敷物”で、原義は敷物に座った”貴人”。詳細は論語語釈「仁」を参照。

仮に孔子の生前なら、単に”貴族(らしさ)”の意だが、後世の捏造の場合、通説通りの意味に解してかまわない。つまり孔子より一世紀のちの孟子が提唱した「仁義」の意味。詳細は論語における「仁」を参照。

論語における教説の中心概念。孔子の生前は”貴族らしさ”を意味する。この概念は、孔子が社会の底辺からはい上がってくる過程で、過去の記録を読み、それぞれ別の人物の望ましい点を、切り貼りしてこしらえた理想像。思春期の人間が思い描く、理想の異性のようなもの。

しかしそれでは教説にはならず、弟子に教えようもないので、仁者のスペックを孔子は語った。それが礼。しかし文字に書き起こした条文集ではなく、孔子がそのたびごとに思いついたことを話していた。従って仁の真の定義は、孔子にしか分からないことになる。
孔子 せせら笑い

孔子没後は、一世紀を経て孟子が現れ、「仁」を「仁義」として戦国諸侯に売り出した。その大まかな意味は”常時無差別の愛”。売り出しごとのキャッチコピーだから、相手次第で意味が変わるので、大まかな意味しか分からない。現伝の儒教はこの解釈だが、孔子生前とはまるで違う。

讓(譲)

譲 金文大篆
(金文大篆)

論語の本章では、”ゆずる”。その否定「不譲」で”自分の意志や行動を貫く”。この文字は秦帝国期の金文大篆が初出で、論語の時代には恐らく「襄」(はらいのける・のぼる・たすける)と書かれたと考えられる。ただし、”ゆずる”の語義は「襄」になく、本章の場合置換不能。詳細は論語語釈「譲」を参照。

師 金文 孔子
(金文)

論語の本章では”師匠”すなわち孔子。

『学研漢和大字典』によると会意文字で、𠂤(タイ)は、隊や堆(タイ)と同系のことばをあらわし、集団を示す。師は「𠂤(積み重ね、集団)+帀(あまねし)」で、あまねく、人々を集めた大集団のこと。転じて、人々を集めて教える人、という。詳細は論語語釈「師」を参照。

論語:付記

中国歴代王朝年表

中国歴代王朝年表(横幅=800年) クリックで拡大

論語の本章は前章と同じく、孔子の説いた「仁」を「仁義」だと言い張りたい、孟子かその系統を引くおそらくは漢帝国の儒者が、勝手に孔子に語らせたでっち上げ。本章の「仁」がもし孔子の肉声なら、その意味は”貴族らしさ”であり、下記の通り教説に矛盾が出る。

本章を史実とした場合

孔子 キメ
それが仁=立派な貴族にふさわしいという確信があるなら、私がどう言おうと従わずに貫け。

このように”ワシの言うとおりにするな”と説教しておきながら、弟子の子路が衛国は邑のサイ(代官)だった時、自分の俸禄をはたいて労役に駆り出された民に給食を出したら、礼法破りだと言って止めさせた、という伝説が『韓非子』やそのコピペ『孔子家語』に収録されている。

子貢 子路 怒り
子路は治水工事の先頭に立って働いた。そして動員した民には弁当を支給した。ところがそれを聞いた孔子は、子貢を呼んで「弁当屋を叩き壊してこい」と命じた。面白がって子貢が叩き壊すと、子路が真っ赤になって孔子宅に飛び込んできた。「何をなさるのです!」(『孔子家語』致思第八)

孔子 説教 子路
ところが孔子は「民は殿様の領民で、お前ごときが可愛がってはならない」と子路を叱った。これはまるまるのでっちあげか、そうでなくとも孔子の言うことに理が通らない。『史記』によれば子路は蒲の大夫=領主であり、宰=代官ではないからだ。

子路為蒲大夫,辭孔子。孔子曰:「蒲多壯士,又難治。然吾語汝:恭以敬,可以執勇;寬以正,可以比眾;恭正以靜,可以報上。」

子路 喜び 孔子
子路が蒲邑の領主に任じられた。赴任にあたって孔子に別れを告げた。孔子が言った。

「蒲は血の気の多い連中がうようよしており、まことに治めにくい。だから統治のコツを教えてやろう。本気で敬うつもりで腰を低くしろ。そうすれば乱暴者どももおとなしくなる。正義に叶った寛容さを持て。そうすれば仲間だと思って貰える。目立たぬように礼儀正しくしろ。そうすれば殿様の受けも良い。」(『史記』仲尼弟子列伝28)

※同様の話が『孔子家語』致思8にあり、そこでは一旦着任してから孔子に会ったことになっている。孔門十哲の謎に訳文を掲載。

代官は殿様の代理人に過ぎないから、住民を私物化しては反乱の始まりだ。だが領主にとっての領民は私物に他ならず、殿様が領民をいたわるのと変わらない。おそらく戦国時代になってもう大夫と宰の違いが分からなくなり、儒者が勝手なラノベをこしらえたに過ぎない。

その発端は世間師孟子であり、ラノベの創作は少なくとも南北朝時代までは続いた。こうした儒者が現伝の論語に書き加えたデタラメによって、孔子は時と場合により言うことがまるで違う、信用と油断のならない人物のように読み取れる。孔子が得意とした法の扱いもその一例。

晋国が法を公開した時、孔子は口を極めてののしったが(『左伝』)、同じく法を公開した鄭の子産を、口を極めて褒めちぎった(論語公冶長篇15)。仁や礼についても同様で、同じ論語の中ですら章が違えば、孔子は全く別のことを言う。ニセの言葉をいくつも語らされたからだ。

これは洋の東西を問わぬ人類の普遍現象で、西洋のあちこちにゼウスの末裔を称する連中がいたり、日本中に空海の杖突き井戸があるのと同じ。しかも権力が全てに優先する中国では、論理的思考は育ちようが無かった。権力者が1+1=12と言えば、それが通って仕舞うのである。

つまり𠮷外の言うことを真に受けなければ、中国のインテリは出世できないし、本当の事を言うと生き首や、司馬遷のようにナニをちょん切られる。これは現代日本の銀行員が、人と自分のカネの分別を付けていると、出世できず早々にリストラを喰らうのとよく似ている。

だから中国人はインテリだろうと、抽象的思考や客観性の確保が出来ない。しても役立たなかったし、現世利益の飽くなき追求が、そうした機能を眠らせてしまったのだろう。これは論語の時代から現在まで変わらないから、哀れなほどに、中国人の数理的理解の中央値は低い。

ところが中国の恐ろしいところは、最高値は他の文明圏と変わらないことだ。何せ人口が多いからだ。中国人はゼロは発見できなかったが、位取り表記は文字の出現と同時に発明した。地動説は発見できなかったが、論語の時代にすでに1年が365+1/4日だと分かっていた。

このすごさを理解するには、例えば分度器を自作してみるとよい。

中国数学史 分度器
古代中国には全天を365+1/4度に分けて観測できる、数学と観測機器とその製作技術が揃っていた。唐の時代、インドの高等数字と天文学(九執曆)が中国に入ってきたが、高慢ちき極まる宋儒が編んだ『新唐書』では、徹底的にこき下ろして済ませた(銭宝琮『中国数学史』)。

九執曆者,出于西域。開元六年,詔太史監瞿曇悉達譯之。…其算皆以字書,不用籌策。其術繁碎,或幸而中,不可以為法。名數詭異,初莫之辨也。陳玄景等持以惑當時,謂一行寫其術未盡,妄矣。

欧陽脩
(編者・欧陽修)

九執曆は、西域から伝来した。玄宗の開元六年(718)、インド系の瞿曇悉達が記録庁長官に任じられ、勅命によってこの暦が翻訳された。

…しかしその計算は全て筆算で、全く算盤を使わない。だから覚えにくいことこの上なく、たまたま日食やうるう年を当てることは出来るだろうが、とても暦としては使いものにならない。暦に用いるさまざまな定数も珍妙極まりなく、幼児のタワゴトそっくりだ。

暦官の陳玄景らはそれを理由に、世間を惑わす世迷い言だと断じた。いわく、「原文にたった一行の記述でも、何が書いてあるかさっぱり分からない。つまりこれはインチキだ。」(『新唐書』暦志2)

現代日本では中等数学が出来ない者は国立大学にれないことになっており、訳者のように文系をこじらせた者は自分の無能に恥じ入るしかないが、中国の文系おたくはインドの天文書ばかりか、数学書『開元占経』でもインド数字の部分は伏せ字にした。『中国数学史』は言う。

中国数学史
汚らわしいとでも思ったのだろうか

『新唐書』が編まれた宋儒の時代、儒者の高慢ちきは後漢とは違った最高潮だった時代でもある。後漢は偽善とごますりの時代だが、宋代は中国なりの合理主義が芽生えた時代でもある。しかしその合理主義はあっという間に黒魔術化して、迷信同然になった。
朱子 新注

やはり中国人に客観性は受け付けがたいのだろう。数理に気付いた人がいても、膨大な数理わからん人の手で主観主義に引き戻されてしまう。主観主義とは、正しさの基準を自分の好悪だけに置き、自分以外の何かにゆだねないことだ。だから法治は今に至るまで根付かない。

マックス・ウェーバー 孔子 とぼけ
論語に話を戻せば、孔子の語りが時と場合によって全然違うのは、以上の様な儒者の身勝手が積み重なった結果で、現伝の論語を無邪気にも全部孔子の言葉と信じて読んだマックス・ウェーバーが、「インディアンの酋長のおしゃべり」と評したのも無理からぬ事だ。

『論語』衛霊公篇:現代語訳・書き下し・原文
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