論語:原文・白文・書き下し
原文・白文
子曰、「事君、敬其事而後其食*。」
※論語雍也篇22と類似。
校訂
武内本
唐石経、此章、事君敬其事而後食其祿に作る、食とは俸禄の意なり。
定州竹簡論語
子曰:「事君,敬[其事]□□其食。」456
復元白文(論語時代での表記)
書き下し
子曰く、君に事ふるには、其の事を敬しみて其の食を後にす。
論語:現代日本語訳
逐語訳
先生が言った。「君主に仕えるには、仕事をまじめに行い、俸禄は後回しにする。」
意訳
仕官したらまじめに働け。俸禄の安いことを気にしてはならない。
従来訳
先師がいわれた。――
「君に仕えるには、恭敬の念をもって職務に精励し、食祿は第二とすべきである。」下村湖人『現代訳論語』
現代中国での解釈例
孔子說:「對待上級要先辦好事,然後再談拿報酬。」
孔子が言った。「上層部に対してはまず仕事をよろしく片付けてから、その後で報酬について話を切り出せ。」
論語:語釈
事(シ)
(甲骨文)
論語の本章では、”仕える・奉仕する”と、”仕事”の両方の意味で用いられている。初出は甲骨文。甲骨文の形は「口」+「筆」+「又」”手”で、原義は口に出した言葉を、小刀で刻んで書き記すこと。つまり”事務”。「ジ」は呉音。詳細は論語語釈「事」を参照。
君(クン)
(甲骨文)
論語の本章では”君主”。初出は甲骨文。甲骨文の字形は「丨」”通路”+「又」”手”+「口」で、人間の言うことを天界と取り持つ聖職者。春秋末期までに、官職名・称号・人名に用い、また”君臨する”の語義を獲得した。詳細は論語語釈「君」を参照。
敬(ケイ)
(甲骨文)
論語の本章では”まじめに働く”。初出は甲骨文。ただし「攵」を欠いた形。頭にかぶり物をかぶった人が、ひざまずいてかしこまっている姿。現行字体の初出は西周中期の金文。原義は”つつしむ”。論語の時代までに、”警戒する”・”敬う”の語義があった。詳細は論語語釈「敬」を参照。
其(キ)
(甲骨文)
論語の本章では指示代名詞で、”君主に仕えること”。初出は甲骨文。甲骨文の字形は「𠀠」”かご”。かごに盛った、それと指させる事物の意。金文から下に「二」”折敷”または「丌」”机”・”祭壇”を加えた。人称代名詞に用いた例は、殷代末期から、指示代名詞に用いた例は、戦国中期からになる。詳細は論語語釈「其」を参照。
而(ジ)
(甲骨文)
論語の本章では”そして”。初出は甲骨文。原義は”あごひげ”とされるが用例が確認できない。甲骨文から”~と”を意味し、金文になると、二人称や”そして”の意に用いた。単に時間の前後やいきさつの関係があるだけでは無く、前後が分かちがたく結びついていることを示す。詳細は論語語釈「而」を参照。
後
(金文)
論語の本章では”あと回しにする”。初出は甲骨文。『学研漢和大字典』によると会意文字で、「幺(わずか)+夂(あしをひきずる)+彳(いく)」で、足をひいてわずかしか進めず、あとにおくれるさまをあらわす。のち、后(コウ)・(ゴ)(うしろ、しりの穴)と通じて用いられる、という。詳細は論語語釈「後」を参照。
食
(金文)
論語の本章では”給料・俸禄”。初出は甲骨文。『学研漢和大字典』によると会意文字。「亼(あつめて、ふたをする)+穀物を盛ったさま」をあわせたもの。容器に入れて手を加え、柔らかくしてたべることを意味する、という。詳細は論語語釈「食」を参照。
論語:付記
論語の本章は、孔子が仕官していく弟子に対して、仕事の心得を諭したもの。単に一般的な道徳として、まじめに働くことと、給与の安さを気にしないことを語ったわけではない。孔子一門は新興勢力で、貴族を中心とした既存の支配層に割り込んでいったことが背景にある。
その中で勢力を伸ばすには、何より無能でないことが必要だった。有能とは仕事に関わるひらめきなど、生まれ持った才も含んでいるが、誰もがそうした才能に恵まれているわけではないから、まじめに働き、好意とは行かないまでも、少なくとも反感を持たれない必要があった。
孔子も若い頃は、門閥の使用人として、下級官吏として、まじめに働く姿を見せた。『史記』孔子世家には、帳簿が正確で、管理した家畜を肥え太らせたことが記されている。だからこそ孟孫家の当主の目に止まり、洛邑留学や仕官の後押しをして貰えたのだろう。
孔子、貧且賤、及長、嘗為季氏史、料量平。嘗為司職吏、而畜蕃息。由是為司空。
(若き日の)孔子は貧しく身分も無かったが、成長すると季孫家の下っ端書記に就職し、配属された倉庫で正確な帳簿を付けた。そこで(恐らくは魯国政府の)書記頭に任じられたが、任された牧場の家畜を肥え太らせた。それが評判となり、(建設相兼法相を世襲した孟孫家の部下として)土木監督官兼刑務所長に任じられた。(『史記』孔子世家)
孔子は巫女の私生児という社会の底辺に生まれながら、巫女の子ゆえに春秋時代では貴重な技能である読み書きが出来たので、下っ端とは言え役人になれた。書記は現代の共産圏では閣僚を意味するが、論語の時代は下っ端役人でしかなく、政治の主役は領主貴族が担っていた。
字の読めない上級貴族もいたのに対して、書記は職人の一種と捉えられていた。ただし論語の時代の職人は商人と共に都市の市民であり、戦時に従軍の義務がある代わりに一定の参政権を持っていた。孔子は貴族の端くれに列したのである(→春秋時代の身分秩序)。
引用文中で「司空」とあるのは、論語の時代にそう言ったか疑問はあるものの、史実とすれば空=うつろなところ(→語釈)に罪人を閉じこめることを司る職で、春秋時代の囚人は諸侯国にとって常備の労役集団でもあったから、治水や築城などの土木工事も管掌した。
その長官を大司空と言い、魯国門閥家老家の一つ、孟孫家が数代世襲していた。孔子はかつて孟孫家先代の目に止まり、跡継ぎの孟懿子とその弟である南宮敬叔の家庭教師を務めたことから、部下として働くにも気心の知れた関係だった。そこで洛陽留学の推薦を受けた。
魯南宮敬叔、言魯君曰、「請與孔子適周。」魯君與之一乘車兩馬一豎子、俱適周問禮。蓋見老子云。
南宮敬叔が殿様に言った。「孔子先生とともに、周(の都洛邑)へ行かせて下さい。」殿様の昭公は車一両、引き馬二頭に、お付きの少年一人を付けて貸し与えた。敬叔と孔子は共に上京し、貴族としての作法を学んだ。老子に入門したと言われている。(『史記』孔子世家)
この留学経験が無かったら、孔子は偉大な教師としての人生を歩めなかった。
論語の本章では、孔子は当時を振り返って説教したわけで、弟子たちが諸国の朝廷に広がっていくことは、孔子の教説を広めることと一致する。これは仕官したがらない弟子を喜んだこと(論語公冶長篇5)と矛盾するようだが、孔子は弟子を二種類に分けて見ていたのだろう。
つまり仁の実践に励もうとする、言わば孔子の教説のあとを継ぐ者たちと、諸国に仕官する、教説を広げる者たちだ。役人生活をよく知る孔子は、弟子の向き不向きをよく見分けていた節があり、例えば優れた弟子でありながら正確に角のある子張には、仕官を勧めていない。
だから論語里仁篇12の「利を放ちて行わば」は、”能ある鷹は爪を隠せ”と解釈出来るわけで、論語の本章でも”有能であれ”とは言わず、好意を得やすい”まじめであれ”と教えたわけ。既存の支配層に無能を自覚させてしまうと、彼らが本気で孔子一門の排除に動きかねないからだ。
すまじきものは、宮仕え。これは論語の時代も同様だった。
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