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論語詳解399衛霊公篇第十五(21)君子はこれを°

論語衛霊公篇(21)要約:全ては自分のせい。そう思うとさまざまな怒りが消えます。君子=当時の貴族が備えるべき教養の一つとして、孔子先生が弟子にお説教した一節。立場の弱い者だけに当たり散らす連中には、縁がありません。

論語:原文・書き下し

原文

子曰、「君子求諸己、小人求諸人。」

校訂

定州竹簡論語

曰:「君子求諸己,小人求諸人。」434

復元白文(論語時代での表記)

子 金文曰 金文 君 金文子 金文求 金文者 金文己 金文 小 金文人 金文求 金文者 金文人 金文

書き下し

いはく、君子もののふこれおのれもとむ、小人ただびとこれひともとむ。

論語:現代日本語訳

逐語訳

孔子 肖像
先生が言った。「君子は自分に求める。凡人は人に求める。」

意訳

君子はする。凡人はして貰う。

従来訳

下村湖人

先師がいわれた。――
「君子は何事も自己の責任に帰し、小人は他人の責任に帰する。」

下村湖人『現代訳論語』

現代中国での解釈例

孔子說:「君子求自己,小人求別人。」

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孔子が言った。「君子は自分に求める。小人は他人に求める。」

論語:語釈

、「 。」


君子

貴族 孟子
論語の本章では”貴族”。この言葉は孔子の生前と没後で意味が異なり、生前は貴族としての技能教養=「徳」を備えた貴族のことだった。それを”憐れみ深い教養人”という曖昧な言葉にすり替えたのは、孔子より一世紀後の孟子である。詳細は論語における君子を参照。

求 金文 冉求 冉有
(金文)

論語の本章では”求める”。初出は甲骨文。論語では、孔子の弟子・冉求子有の名としても現れる。

『学研漢和大字典』によると象形文字で、求の原字は、頭や手足のついた動物の毛皮を描いたもの。毛皮はからだに引き締めるようにしてまといつけるので、離れたり散ったりしないように、ぐいと引き締めること、という。詳細は論語語釈「求」を参照。

諸(ショ)

諸 金文 諸 秦系戦国文字
(金文)(秦系戦国文字)

論語の本章では”必ず”。それ以前に指示内容を持たない「之」など指示詞は、直前の動詞を強調する。「諸」は之於(シヲ)、”これを・これに”。論語の時代では、まだ「者」と「諸」は分化していない。現行字体の初出は秦系戦国文字。詳細は論語語釈「諸」を参照。また、論語語釈「之」も讃頌。

己 土器 己 曲尺

論語の本章は”自分”。初出は甲骨文。

『学研漢和大字典』によると象形文字で、己は、古代の土器のもようの一部で、屈曲して目だつ目じるしの形を描いたもの。はっと注意をよびおこす意を含む。人から呼ばれてはっと起立する者の意から、おのれを意味することになった、という。

一方『字通』では、己形の矩(定規)の形に似た器。角度を定める定規や糸の巻取りに用いるもので、のりの初文(=最古の字形)とする。当初は「」”止む”と区別されず、自己の意に用いるのは仮借で、本義ではない、という。詳細は論語語釈「己」を参照。

小人

君子 小人
論語の本章では”庶民”。

「君子」の語義が孔子の生前と没後で違うように、対語の「小人」も、孔子生前にはまだ”つまらない人間”という差別的語義は無かった。孔子は小人を区別はしたが、差別はしなかった。塾生の九分九厘が、小人の出身だったからである。

孔子の教説では、君子と小人の違いは、君子らしい技能教養の有る無しにかかっており、それゆえ小人の生まれだろうと、孔子塾で学び稽古することによって、誰もが君子たり得た。

人(ジン)

人 甲骨文 人 字解
(甲骨文)

論語の本章では”他人”。初出は甲骨文。原義は人の横姿。「ニン」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)。甲骨文・金文では、人一般を意味するほかに、”奴隷”を意味しうる。対して「大」「夫」などの人間の正面形には、下級の意味を含む用例は見られない。詳細は論語語釈「人」を参照。

論語:付記

中国歴代王朝年表

中国歴代王朝年表(横幅=800年) クリックで拡大

論語の本章について、武内本は「此章は『大学』に君子有諸己而後求諸人とあると同義、先づ己を責めて人を責めざる意なり」という。古注の後漢儒者は、論語の本章を繰り返しているだけで、何ら聞くに値することを言っていない。

註君子責己小人責人也

古注 何晏
注釈。君子は自分を責め、小人は人を責めるのである。(『論語集解義疏』)

次に新注の宋儒は、いつも通りSM趣味に没頭している。

謝氏曰:「君子無不反求諸己,小人反是。此君子小人所以分也。」楊氏曰:「君子雖不病人之不己知,然亦疾沒世而名不稱也。雖疾沒世而名不稱,然所以求者,亦反諸己而已。小人求諸人,故違道干譽,無所不至。三者文不相蒙,而義實相足,亦記言者之意。」

謝良佐 楊時
謝良佐「君子は必ず自分を責めるが、小人はその反対だ。これが君子と小人の分かれ目だ。」

楊時「君子は人の理解を求めないが、名も無く世を去るのは嫌がる。ただし嫌がるにしても、そうならない原因を自分だけに求める。だが小人は人のせいにする。だから名誉欲しさにどんな悪事でも仕出かす。このありさまを論語では三つの別の言い方で説いており、文章は似ていないが、言っている事は実は同じで、三つあい待って一つの真理を記したのだ。」(『論語集注』)

朱子はこのように楊時の言葉を引用しておきながら、別の本で疑うようなことを書いている。

或疑楊氏之説不太巧乎曰雖巧而有益於学者

ある人1
ある人「楊時の言っていることは、回りくどくてわけが分からない。」
朱子「確かにその通りだが、まあ勉強する人には役立つだろう。」(『四書或問』)

宇宙 銀河
さて論語の本章は、我が身に起こる全てのことを自分の責任だと思う者が、そう思わない者より先に進み、優位に立つ、という千古不易の事実を言う。身に降りかかる理不尽も、どこかで引き返すことが出来なかったか、我から仕向けたとは言えないかと考えることはできる。

そしてなぜこの世に生まれたか、そして必ず死ぬのかという、絶対に自分の責任でないことを、それは変えようのないことだ、と受け入れる事も出来る。宇宙に存在するありとあらゆる形あるものは、必ず滅ぶという限定された自由しか持ち得ない。

ただし人間には自意識があるから、許された範囲内で自由に行動する事が出来る。理不尽の理不尽さを嘆いている時間があったら、自由をどのように拡大するかを考えた方が建設的だし、幸福だ、ということ。それは人間の生き方の、一つの最適解には違いない。

ただし解は一つではない。ひたすら図々しく、ゆすりタカリを事とし、人には文句ばかり言い、他人を不幸にすることでメシうまを決め込むことも可能。それは恥知らずには違いないが、恥などどうでもいいと思える機能が脳に備わっているなら、それも一つの最適解。
クレーマー 万引き

両者は別の生き物なのだ。そもそも人間は同じハードを持って、各人違うソフトがインストールされているのか。門外漢の訳者如きにはわからないが、臨床に携わる精神科医で、ハードが違うと断言する人もいる。ただ言えるのは、説得は徒労に終わることが多いという事実のみ。

加えて財産地位権力は、誰もが欲しがるには違いない。その競争に限るなら、図々しい人間は勝者になれない。他人を食い物にしなければ生きていけない、従属生物だからだ。宿主が滅ぶと自分も滅ぶ、害虫・バイキンと違うところはない。そして必ず忌み嫌われる。

論語に話を戻せば、孔子は「君子は自分でする」と言った。従属生物では君子になれない。そして孔子の言う君子とは、既存の貴族層に割り込んで、孔子の教説を実現する者たちだった。「する」べきことは多数あり、「してもらう」存在では割り込んでいけない。

孔子は論語の本章で教訓を垂れたと言うよりも、そのようになれと弟子に期待したのだ。事は孔子の、教育革命を達成したいという欲求に始まっているから、どこまで行っても本章の言葉は孔子にとっての自分事だ。弟子が受け入れるかどうかは、孔子に強制できることではない。

『論語』衛霊公篇:現代語訳・書き下し・原文
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