論語:原文・白文・書き下し
原文・白文
子曰、「有敎無類。」
校訂
定州竹簡論語
[子曰:「有教無a。」]457
、今本作”類”。
→子曰、「有敎無。」
復元白文(論語時代での表記)
※論語の本章は(=類)の字が論語の時代に存在しない。「有」の用法に疑問がある。本章は戦国時代以降の儒者による創作である。
書き下し
子曰く、敎有り、無し。
論語:現代日本語訳
逐語訳
先生が言った。「教えがある。区別はない。」
意訳
お前の努力が足りないから、勉強がちっとも進まんのだろうが。生まれつきの頭の悪さのせいにするな。
従来訳
先師がいわれた。――
「人間を作るのは教育である。はじめから善悪の種類がきまっているのではない。」下村湖人『現代訳論語』
現代中国での解釈例
孔子說:「人人都有受教育的權利。」
孔子が言った。「人には誰でも教育を受ける権利がある。」
論語:語釈
有(ユウ)
(甲骨文)
論語の本章では、”存在する”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。ただし字形は「月」を欠く「㞢」または「又」。字形はいずれも”手”の象形。金文以降、「月」”にく”を手に取った形に描かれた。原義は”手にする”。原義は腕で”抱える”さま。甲骨文から”ある”・”手に入れる”の語義を、春秋末期までの金文に”存在する”・”所有する”の語義を確認できる。詳細は論語語釈「有」を参照。
敎(教)
(金文)
論語の本章では”教え・教育”。初出は甲骨文。『学研漢和大字典』によると会意兼形声文字で、知識の受け渡し、つまり交流を行うこと。詳細は論語語釈「教」を参照。
無
(金文)
論語の本章では”無い・存在しない”。初出は甲骨文。『学研漢和大字典』によると形声文字で、甲骨文字は、人が両手に飾りを持って舞うさまで、のちの舞(ブ)・(ム)の原字。無は「亡(ない)+(音符)舞の略体」。古典では无の字で無をあらわすことが多く、今の中国の簡体字でも无を用いる、という。詳細は論語語釈「無」を参照。
類/類→
(金文大篆)
論語の本章では、”(生まれつきの)人間の区別”。論語では本章のみに登場。初出は秦系戦国文字。論語の時代に存在しない。同音は存在しない。
『学研漢和大字典』によると会意文字で、「米(たくさんの植物の代表)+犬(種類の多い動物の代表)+頁(あたま)」。多くの物の頭かずをそろえて、区わけすることをあらわす、という。詳細は論語語釈「類」を参照。
定州竹簡論語の「」は『大漢和辞典』にも見られず、「類」の異体字として扱うしか無い。
論語:付記
論語の本章は、もし孔子の肉声なら「生まれつきの身分や財産、外見が何だって言うんだ。自分で善くなろうとする心を、私はひたすら手助けするだけだ!」という、まことに孔子らしい発言(孔子はなぜ偉大なのか)なのだが、どうやり繰りしても春秋時代に遡れそうにない。
本章は定州竹簡論語にあることから、前漢宣帝期にはあったことになるが、同じ様な考え方は戦国最末期の『呂氏春秋』にも見える。
先王之教,莫榮於孝,莫顯於忠。忠孝,人君人親之所甚欲也。顯榮,人子人臣之所甚願也。然而人君人親不得其所欲,人子人臣不得其所願,此生於不知理義。不知理義,生於不學。學者師達而有材,吾未知其不為聖人。聖人之所在,則天下理焉。在右則右重,在左則左重,是故古之聖王未有不尊師者也。尊師則不論其貴賤貧富矣。若此則名號顯矣,德行彰矣。故師之教也,不爭輕重尊卑貧富,而爭於道。其人苟可,其事無不可,所求盡得,所欲盡成,此生於得聖人。
聖人生於疾學。不疾學而能為魁士名人者,未之嘗有也。疾學在於尊師,師尊則言信矣,道論矣。故往教者不化,召師者不化,自卑者不聽,卑師者不聽。師操不化不聽之術而以彊教之,欲道之行、身之尊也,不亦遠乎?學者處不化不聽之勢,而以自行,欲名之顯、身之安也,是懷腐而欲香也,是入水而惡濡也。
いにしえの聖王の教えは、忠孝を励まさずにはいられない。忠孝は、世の君主や親が求めて止まない道徳であり、名声と出世は、世の子や臣下が求めて止まない利益である。だが君主も親も思い通りにはならず、子も臣下も願い通りにはならない。
なぜなら人はただ生まれただけでは、世の道理を知らないからだ。その無知はひとえに、勉強しないことにある。だがその道理を学ぼうにも、世の教師には上手もいれば下手もいる。そんな中で教師と言えば、やはり聖人が一番だと私は思うのだ。
聖人がこの世にいたならば、世の中はうまく治まるのだ。例えどこに居ようと、聖人は重んじられたのだ。だからいにしえの聖王だろうと、師匠と仰ぐ聖人を必ず奉っていた。そうやって師を尊ぶからには、その師がどんな生まれか、いくら財産を持っているかなどということは気にしなかった。
だからそうした師の名は天下に轟き、だからこそその教えは真に受けられ、効果があったのである。それだけに師もまた教える相手の身分や財産などは気にかけず、ただまじめに自分の教説に従うかどうかを気にかけた。教説に従いさえするなら、どんな者にも教えを伝授した。だから忠孝という世の需要も、聖人の教えがあってこそ達成されるのだ。
聖人の特徴と言えば、とにかく物覚えが早いことで、物覚えの悪い者で、天下の名士になった者は一人もいいない。弟子もまた物覚えが良くて師匠を敬う場合は、師匠を尊んでその言葉や技の体系を信じた。
だが押しかけて教えに来るような師匠は誰も教えられず、偉そうに師匠を呼びつける弟子も教えを理解しない。自分に自信が無い者の言葉は相手にされず、師匠を馬鹿にする者は聞く気が無いからだ。
ダメ教師がいくら教授法の研究に励み、バカ弟子に無理やり教えようとしても、尊敬され話を聞いて貰えるようになるのは、とうてい無理な相談だ。
同様にバカ弟子がまるで教わる気持を持たず、勝手なデタラメをやりまくっているのに、名声を得、安楽な生活がしたいと願っても、それは肥溜めにかぐわしさを求め、自分でじゃぶじゃぶと水につかりながら「濡れたじゃないか!」と怒るようなものだ。(『呂氏春秋』勧学1)
これは世の教師稼業にある人、みな思うことでは無かろうか。「馬を水場に連れてくることは出来ても、飲ませることは出来ない」と言われるように、教わる気のない者に何をどんなに施したところで、何の教育効果もありはしないからだ。
上掲引用文が説くのは、人としてよりよい生き方を求める点で現在にも通用することだろうが、欲の皮が張った者はあまた居ても、そのためにはどうする、を考える者はめったに居ない。求めるならそれにふさわしい努力をしなさい、そう教える人がいなかったのだろうか。
それとも教えられても受け付けなかったのだろうか。これはどっちもどっちと言えそうで、例えば世の愚か者が愚かなことをしてくるのに対し、一々怒っても仕方の無いことだ。始めから聞く気が無いのだから。愚か者への最良かつ唯一の法は、ひとえに関わらないことである。
引用文が記す「往教者不化」はちょっと見ただけでは何を言っているか分からないが、要はそういうことだ。「往きて教うる者は化えず」と訓み、こちらから出掛けていって説教しても、聞く気のない相手には何を話したところで無駄である、と言っているのだ。
史実の孔子はこの点明確で、「過去を綺麗さっぱり洗い落として教説に従う」ことを入門の条件とした(論語述而篇7)。「束脩」を月謝の類だと言い出したのは後世の儒者で(→論語における束脩)、上級貴族として高禄を食んでいた孔子は、金欲しさで教えたわけではない。
なお引用文に言う聖人は有能者のことで、人格者や神に近い者ではない。おしまいに、論語の本章と陽貨篇2が元となったと思われる伝説を一つ。その時代背景については、論語解説「後漢というふざけた帝国」を参照。
梁上の君子
時歲荒民儉,有盜夜入其室,止於梁上。寔陰見,乃起自整拂,呼命子孫,正色訓之曰:「夫人不可不自勉。不善之人未必本惡,習以性成,遂至於此。梁上君子者是矣!」盜大驚,自投於地,稽顙歸罪。寔徐譬之曰:「視君狀貌,不似惡人,宜深剋己反善。然此當由貧困。」令遺絹二匹。自是一縣無復盜竊。
(後漢も世の末になって、霊帝の治下で政治は滅茶苦茶になった。役人だった陳寔は勤めを辞めて隠居した。)
ある年、饑饉がひどくて民は食うにも困った。陳寔の屋敷にもある夜、泥棒が寝室に入って梁の上で寝息を窺っていた。陳寔はそれに気付き、寝床から出て衣髪を整え、家族一同を部屋に呼び寄せた。皆が集まると姿勢を正して言った。
「人はそもそも、自分で自分を助けるものだ。だから世の悪人は、運悪くそれが上手く行かなかったに過ぎない。ついつい悪事に手を染めて、それが染みついてしまって、どうにもならなくなっただけだ。いま梁の上で聞いている先生も、事は同じだよ。」
家族が一斉に見上げると、なるほど「先生」がそこに居た。泥棒は慌てふためき、ドスンと床に落ちてしまった。気を取り直して陳寔を拝み、言った。「立派な殿様とも知らねえで、俺ぁ済まねえことをしちまっただ。どうか罰してけんろ。」
陳寔「うむ、立派な心がけじゃ。やはり元々の悪党ではあるまい。貧しさがそなたをこうしただけじゃ。」使用人を呼んで上等な絹二束を渡し(貨幣の信用ががた落ちしていたため)、許してやった。この噂が轟いて、地元の県ではしばらく泥棒がいなくなったという。(『後漢書』陳寔伝44)
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