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論語詳解388衛霊公篇第十五(10)子貢仁を為す°

論語衛霊公篇(10)要約:弟子の子貢が、孔子先生に仁の実践法を尋ねます。職人は仕事の前に道具の手入れをするもの、仁も同じで、よい道具が要ると先生。さて道具とは、子貢を言うのでしょうか、それとも人々を言うのでしょうか。

    (検証・解説・余話の無い章は未改訂)

論語:原文・書き下し

原文

子貢問爲仁。子曰、「工欲善其事、必先利其器。居是邦也、事其大夫之賢者、友其士之仁者*。」

校訂

武内本

清家本により文末に也の字を補う。

定州竹簡論語

貢 外字問為仁。子曰:「工[欲善其事,必a利其器。居是國]423……事其大夫之賢者,友其[士之仁者b]。」424

  1. 今本”必”下有”先”字。
  2. 皇本、高麗本、”者”下有”也”字。

貢 外字:貢の異体字。/邦→國:高祖劉邦の避諱


→子貢問爲仁。子曰、「工欲善其事、必利其器。居是邦也、事其大夫之賢者、友其士之仁者。」

復元白文(論語時代での表記)

子 金文江 金文問 金文為 金文仁 甲骨文 子 金文曰 金文 工 金文谷善 金文其 金文事 金文 必 金文利 金文其 金文器 金文 居 金文是 金文邦 金文也 金文 事 金文其 金文大 金文夫 金文之 金文賢 金文者 金文 友 金文其 金文士 金文之 金文仁 甲骨文者 金文

※貢→江・仁→甲骨文・欲→谷。

書き下し

子貢しこうよきひとすをふ。いはく、たくみことくせむとほつさば、かならうつはぐ。くに大夫たいふ賢者けんしやつかへ、もののふ仁者じんしやともとせよ。

論語:現代日本語訳

逐語訳

子貢 孔子
子貢が貴族らしさの実践法を尋ねた。先生が言った。「職人はいい仕事をしようと思う時は、必ず道具の手入れをするものだ。この国にいるなら、家老の中での賢者に仕え、士族の中で貴族らしい者を友とせよ。」

意訳

子貢 遊説 孔子
子貢「私にも、貴族らしい振る舞いは身に付きますかね。」

孔子「職人が道具の手入れをするのと同じだ。この国なら賢明な家老に仕え、いかにも貴族らしい士族と付き合うことだな。」

従来訳

下村湖人

子貢が仁を行う道についてたずねた。先師がこたえられた。――
「大工はよい仕事をやろうと思うと、必ず先ず自分の道具を鋭利にする。同様に、仁を行うには、先ず自分の身を磨かなければならない。それには、どこの国に住まおうと、その国の賢大夫を選んでこれに仕え、その国の仁徳ある士を選んでこれを友とするがよい。」

下村湖人『現代訳論語』

現代中国での解釈例

子貢問怎樣實現仁,孔子說:「工人要做好工,必先磨好工具。生活在那裏,就要追隨那裏的品德高尚的領導,結交那裏的仁義之士。」

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子貢がどのようにして仁を実現するか問うた。孔子が言った。「職人はよい仕事をしようと願う際、まず道具をよく研ぐ。普段の生活をこのようにする、つまり品性がそのように高尚な指導者に付き従い、そのように仁義に優れたサムライと付き合うことだ。」

論語:語釈

子貢

子 金文 貢 金文
「子」(金文)・「貢」(金文大篆)

外交に秀でた孔子の弟子。詳細は論語の人物:端木賜子貢を参照。

爲(イ)

為 甲骨文 為 字解
(甲骨文)

論語の本章では”実践する”。新字体は「為」。字形は象を調教するさま。甲骨文の段階で、”ある”や人名を、金文の段階で”作る”・”する”・”~になる”を意味した。詳細は論語語釈「為」を参照。

仁(ジン)

仁 甲骨文 貴族
(甲骨文)

論語の本章では、”貴族(らしさ)”。初出は甲骨文。字形は「亻」”ひと”+「二」”敷物”で、原義は敷物に座った”貴人”。詳細は論語語釈「仁」を参照。

通説的な解釈、”なさけ・あわれみ”などの道徳的意味は、孔子没後一世紀後に現れた孟子による、「仁義」の語義であり、孔子や高弟の口から出た「仁」の語義ではない。字形や音から推定できる春秋時代の語義は、敷物に端座した”よき人”であり、”貴族”を意味する。詳細は論語における「仁」を参照。

工 金文
(金文)

論語の本章では、”職人”。詳細は論語語釈「工」を参照。

欲 楚系戦国文字 谷
「欲」(楚系戦国文字)・「谷」(金文)

論語の本章では”しようとする”。初出は戦国文字。論語の時代に存在しない。ただし『字通』に、「金文では谷を欲としてもちいる」とある。『学研漢和大字典』によると、谷は「ハ型に流れ出る形+口(あな)」の会意文字で、穴があいた意を含む。欲は「欠(からだをかがめたさま)+(音符)谷」の会意兼形声文字で、心中に空虚な穴があり、腹がへってからだがかがむことを示す。空虚な不満があり、それをうめたい気持ちのこと、という。詳細は論語語釈「欲」を参照。

利(リ)

利 甲骨文 利 字解
(甲骨文)

論語の本章では”研ぐ”。初出は甲骨文。字形は「禾」”イネ科の植物”+「刀」”刃物”。大ガマで穀物を刈り取る様。原義は”収穫(する)”。甲骨文では”目出度いこと”、地名人名に用い、春秋末期までの金文では、加えて”よい”・”研ぐ・するどい”の意に用いた。詳細は論語語釈「利」を参照。

其器

其 金文 器 金文
(金文)

論語の本章では”その道具”。「器」は”道具”。孔子は子貢を「お前は道具としては立派だ」(論語公冶長篇3)と評価した。仁を実践する道具になるにしても、まずよく手入れをせよ、と言ったわけ。

居是邦

居 金文 是 金文 邦 金文
(金文)

”この国では”。このように断ることから、論語の本章は孔子一門が国外滞在中のことと思われるが、どこの諸侯国かはわからない。従来訳のように「これ邦におるや」と読んで、”どこの国でも”と解することは可能だが、それなら「いずれの邦に居るや」などのように言うはずで、うがちすぎた読みに思う。

論語語釈「居」論語語釈「邦」も参照。

也(ヤ)

也 金文 也 字解
(金文)

論語の本章では、「や」と読んで下の句とつなげる働きに用いている。初出は事実上春秋時代の金文。字形は口から強く語気を放つさまで、原義は”…こそは”。春秋末期までに句中で主格の強調、句末で詠歎、疑問や反語に用いたが、断定の意が明瞭に確認できるのは、戦国時代末期の金文からで、論語の時代には存在しない。詳細は論語語釈「也」を参照。

事(シ)

事 甲骨文
(甲骨文)

論語の本章では”仕事”・”仕える”。初出は甲骨文。甲骨文の形は「口」+「筆」+「又」”手”で、原義は口に出した言葉を、小刀で刻んで書き記すこと。つまり”事務”。「ジ」は呉音。詳細は論語語釈「事」を参照。

大夫・士

「大夫」は論語時代の貴族のうち、春秋諸侯国の家老階級。「士」は貴族の最下層。詳細は春秋時代の身分秩序を参照。

友(ユウ)

友 甲骨文 友 字解
「友」(甲骨文)

論語の本章では”友として付き合う”。初出は甲骨文。甲骨文の字形は複数人が腕を突き出したさまで、原義はおそらく”共同する”。論語の時代までに、”友人”・”友好”の用例がある。詳細は論語語釈「友」を参照。

英語に動名詞があるように漢文も、とある品詞が別の品詞に化ける。その程度は英語や日本語をはるかに超え、固有名詞でさえ動詞化する。松下文法ではこういう化けた品詞を、変態品詞という。

論語:付記

中国歴代王朝年表

中国歴代王朝年表(横幅=800年) クリックで拡大

論語の本章は、手入れする道具を自分=子貢と捉えるか、賢者や仁者=他人と捉えるかで文意が異なる。訳者は日本人なので、従来訳同様、子貢を手入れすると解釈したが、中国人の発想は日本人の想像を超えた超利己主義にあって、中国の儒者は他人と捉えたがるようだ。

古注『論語集解義疏

古注 何晏 孔安国 古注
注。孔安国曰く、職人はよく道具を手入れして仕事をし、人は賢い友人を助けとすることを言ったのである。

付け足し。子貢は質問して仁者を記したのである。子貢仁を為すを問うとは、仁者になる方法を質問したのである。子曰くうんぬんは、即答して仁者になる方法を答えようとしたことを言うのである。だからまず、たとえを出して説明したのである。

工とは腕利きの職人である。器とは斧やまさかりのたぐいである。その心は、腕利きの職人が伝説の技術者・輸般のような腕を持っているとしても、道具がポンコツでは、腕の振るいようがないことを言ったのである。いい仕事をしようと思うなら、必ず先に道具の手入れをするようなものである。

是に居るうんぬんとは、たとえを合わせて答えたのである。是れとは、このようなものだ、ということである。その心は、頭がよく性格もよい人間が、この国に住むとしても、賢者に仕え仁者と付き合わなければ、行いが完全とはならないことを言い、それは道具がポンコツなのと同じだと言うのである。

行いを完全にしたければ、必ずこの国の賢者に仕え、また仁者と友達になるべきなのである。どちらも付き合うには違いないのだが、家老は偉いから仕えると言い、士族はそれほどでもないから友達にすると言ったのである。賢者の家老、仁者の友人なら、互いに仁な話をするのである。

要するに、仁を実践するには相手を選ぶので、賢者の家老や仁者の士族と付き合え、と解している。この点は新注も同じ。

新注『論語集注
朱子 新注
賢者は事実を言い、仁者は徳を語る。孔子様はかつて仰った。子貢は自分より劣りの者を喜ぶ、と。だから本章の言葉で説教したのである。自分を厳しく戒め、奮励努力して人徳を完成させるよう促したのである。

程子曰く、「子貢は仁の実践を問うた。仁を問うたのではない。だから孔子様は、仁の実践に役立つ材料を答えただけなのだ。」

要するに、論語憲問篇31「子貢人をたくらぶ」を引き合いに出し、子貢は自分より劣りの者がいることで安心する悪い癖があるから、賢者・仁者という道具で子貢をたたき直そうと孔子が望んだ、と言っている。確かに子貢にはそういう所はあったようだが、家老・士族を道具として捉えているのは同じ。

* * *

以上、非趣味者の方にはどうでもいい事を書き連ねたが、世間の人々をこれ全て自分の素材と見る儒者の性根はこれでよく分かった。孔子が庶民を経済動物と捉えたように、儒者もまた世の人全てを家畜か何かのように捉えている。人間誰でも一皮むけば、そんなものに違いない。

孔子 笑い
だがこうもあけすけに見られると、うんざりはする。孔子の発想も同じかも知れない。だが訳者は誤訳の可能性を十分承知で、上掲のように訳した。理由は、論語の時代は帝政時代に比べてなんぼか人間がマシなこと、そして孔子が好かれた理由はその利他にあったと思うから。

なお孔子没後中国の一世を風靡した利己主義については、『列子』楊朱篇:現代語訳を参照。

『論語』衛霊公篇:現代語訳・書き下し・原文
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