論語詳解224子罕篇第九(20)これに語りて*

論語子罕篇(20)要約:論語子罕篇にこれでもかと続く顔回神格化キャンペーンの始まり。孔子の熱いヲタばなしを顔回はハイハイと聞きましたとさ、という作り話。注釈では、イタい目をした他の弟子の、おとしめ話がおまけにつきます。

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論語:原文・書き下し →項目を読み飛ばす

原文

子曰、「語之而不惰者、其回也與。」

校訂

定州竹簡論語

……不隋a者,其回也與!」232

  1. 隋、今本作”惰”。『説文』作”憜”、隋為憜之省文。

復元白文

論語 子 金文論語 曰 金文 論語 語 金文之 金文而 金文論語 不 金文論語 者 金文 論語 其 金文論語 回 金文也 金文論語 与 金文

※論語の本章は惰が論語の時代に存在しない。也の字を断定で用いている本章は漢帝国の儒者による捏造である。

書き下し

いはく、これものうからざるものは、くわいなる

論語:現代日本語訳 →項目を読み飛ばす

逐語訳

論語 孔子 論語 顔回
先生が言った。「教えを語ってもまじめに聞き続けるのは、顔回だ。」

意訳

ニセ孔子 顔回大明神
顔回だけは、いつも私の話をうんざりしないで聞いてくれるな。

従来訳

論語 下村湖人

先師がいわれた。――
「何か一つ話してやると、つぎからつぎへと精進して行くのは囘だけかな。」

下村湖人『現代訳論語』

現代中国での解釈例

孔子說:「聽我說話毫不懈怠的人,衹有顏回吧!」

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孔子が言った。「私の説教を聞いて全くだらけなかった人は、ただ顔回がいただけだな。」

論語:語釈 →項目を読み飛ばす

、「 。」


論語 語 金文 論語 語
(金文)

論語の本章では”語り合う”。一方的にしゃべっているのではない。

『学研漢和大字典』によると会意兼形声文字で、吾(ゴ)は「口+(音符)五(交差する)」からなり、AとBが交差して話しあうこと。のち、吾が我(われ)とともに一人称をあらわす代名詞に転用されたので、語がその原義をあらわすこととなった。語は「言+(音符)吾(ゴ)」、という。

論語 惰 古文 論語 惰
(古文)

論語の本章では”うんざりする”。論語では本章のみに登場。

この文字の初出は後漢の『説文解字』で、論語の時代に存在しない。類語の堕も同様。

『学研漢和大字典』によると会意兼形声文字で、墮(ダ)(=堕。落ちる)の原字は、「左印二つ(不整合なこと)+阜(おか)」からなり、丘がくずれ落ちることを示す。惰は「心+(音符)墮の略体」で、緊張を抜いてだらりと落ちるような気持ちを示す。

垂(たれ落ちる)・朶(ダ)(だらりと下がる)と同系のことば。類義語の懶(ラン)は、力弱く人にたよる気持ち。怠は、張りのないこと。懈(カイ)は、心の緊張がとけてだらけること、という。

「惰性」の「惰」。”おこたる・おこたり”。ここから従来訳のように、「怠けないでさらに精進する」というSゑむ的解釈が生まれるが、本章の場合は文法語法的にも飛躍ではない。

『論語集注』(新注)を見てみよう。朱子は范氏(范祖禹)の言葉をそのままコピペして言わせている。

新注
范氏曰:「顏子聞夫子之言,而心解力行,造次顛沛未嘗違之。如萬物得時雨之潤,發榮滋長,何有於惰,此群弟子所不及也。」

論語 朱子 新注
「顔先生は至聖孔子のお言葉を、心を費やし努めて行い、寸時も非常時も全く違わなかった。これは万物が時の雨の恵みを受けてうるおい、成長するようなもので、怠惰などあるわけがない。これは他の有象無象の弟子どもには及びも付かないことだった。」

なんだか祝詞か賛美歌の歌詞を読んでいるような気分になる。当然だろう、でっち上げなのだから。詳細は論語語釈「惰」を参照。

論語:解説・付記

論語の本章もまた、顔回を神格化するための偽作なのだが、その成立は『定州論語』にあるからには、前漢宣帝期よりは下らないことになる。顔回の神格化が戦国時代の孟子や荀子の手に寄るものでないことは既に記したが、ではいつなのかと問い詰められると答えが出ない。

まだ詰めてない話で恐縮だが、偽善で国を建て偽善で滅んだ後漢帝国の時代、顔回の末裔を称する連中が、儒学界の一角に確固たる地位を占めていた。博士官を世襲したとあるから、現代日本で言えば、東大教授と両院協議会委員と最高裁判事を代々世襲したことになる。

もちろん日本学術会議会員はシード枠で生まれながらに確保した。そんな獰猛な生き物が要路に据えられていたら、顔回の神格化如き、たやすいものだったに違いない。論語の改竄や偽作挿入など朝飯前だ。ただしその存在が、後漢になってからというのがひっかかっている。

では儒者の御託だが、例によってろくな事を言っていないので読むのはおすすめしない。

古注『論語集解義疏』

子曰語之而不惰者其回也與註顔淵則解故語之不惰餘人不解故有惰語之時也疏子曰至也與 惰疲懈也餘人不能盡解故聞孔子語而有疲懈唯顔回體之故閒語即解所以云語之而不惰其回也與

本文「子曰語之而不惰者其回也與」。
注釈。顔淵は孔子がどんなにわけの分からないことをベラベラしゃべっても、そのソバから意味を解き明かして理解できる気●いだった。だから「しゃべってもうんざりした顔をしない」と孔子は言った。他の弟子どもにはそんな芸当は出来なかった。だから孔子が話しかけても素直にうんざりした顔をするときがあった。

付け足し。先生は感動の至りを言った。惰とはくたびれることである。顔回以外の有象無象は、孔子の話を聞いても、ことごとく理解できはしなかった。だから孔子は有象無象どものうんざりした顔にうんざりして、話すソバから分かってくれたのは、顔回だけだった、とヲタ友達のようなことをあられも無く言った。だから「語之而不惰其回也與」と言った。

新注『論語集注』

語,去聲。與,平聲。惰,懈怠也。范氏曰:「顏子聞夫子之言,而心解力行,造次顛沛未嘗違之。如萬物得時雨之潤,發榮滋長,何有於惰,此群弟子所不及也。」

語の字は尻下がりに読む。與の字は口を丸開けにしたままアホウがよだれを垂らすような調子で読む。惰とはだらけることである。

范祖禹「顔回先生は孔子先生の話を聞くと、男子中学生が巨乳をさわりたがるような気持で理解に努め、慌ただしいときも天変地異の時もそうしないことが無かった。それはちょうど、万物が待ちに待った雨にうるおい、男子中学生のナニガシが増大するように成長するのと同じであり、何のふにゃりとした所がそこにあろうか。これは他の(気の確かな)弟子どもには、とても出来ることではなかったのだ。」

不快に思った方々には申し訳ないが、丸丸のでっち上げはしないが、儒者どものふざけたゴマスリには、真面目に付き合ってはいられないのである。あーアホくさ。

警告

漢文業界の者は嘘つき中国人そっくりで、微塵も信用ならぬ(→理由)ので、数言申し上ぐ。


出典明記の引用は自由だが(ネット上では可動リンク必須)、盗用・剽窃は居合を嗜む有段者の訳者が、櫓櫂の及ぶ限り追い詰める。言い訳無用。訳者が「やった」と思ったら、全国どこでも押し込む。頭にきたら海外にも出かけ、バッサリやってすぐ帰る。訳者は暇であるし、惜しむものを持っていないし、面倒が苦にならぬゆえ、こうして古典を研究している。

刀の手入れは毎日している。そして未だ人を斬ったことが無い。

盗作・剽窃の通報歓迎。下手人を成敗した後、薄謝進呈。他人にやらせた者も同罪、まずそ奴から追い回してぶっ○○る。もし長生きしたいなら、悪いことはせぬものだ。それでもやるなら、覚悟致せ。

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