論語:原文・書き下し
原文(唐開成石経)
子曰語之而不惰者其回也與
校訂
東洋文庫蔵清家本
子曰語之而不惰者其回也與
慶大蔵論語疏
子曰語之而不〔忄耂工目〕1者2其囬3也
- 「惰」の異体字。原字。
- 新字体と同じ。原字。
- 「回」の異体字。「唐〓郡城父縣尉盧復墓誌銘」刻。『干禄字書』(唐)所収。
後漢熹平石経
(なし)
定州竹簡論語
……不隋a者,其回也與!」232
- 隋、今本作”惰”。『説文』作”憜”、隋為憜之省文。
標点文
子曰、「語之而不隋者、其回也與。」
復元白文(論語時代での表記)
隋
※論語の本章は「惰」(隋)の字が論語の時代に存在しない。「語」「之」「者」「也」「與」の用法に疑問がある。本章は漢帝国の儒者による創作である。
書き下し
子曰く、之語げ而惰から不る者は、其れ回也與。
論語:現代日本語訳
逐語訳
先生が言った。「まさに語ってもだらけないでいる者は、それは顔回だろうか。」
意訳
顔回だけは、いつも私の話をうんざりしないで聞いてくれるな。
従来訳
先師がいわれた。――
「何か一つ話してやると、つぎからつぎへと精進して行くのは囘だけかな。」下村湖人『現代訳論語』
現代中国での解釈例
孔子說:「聽我說話毫不懈怠的人,衹有顏回吧!」
孔子が言った。「私の説教を聞いて全くだらけなかった人は、ただ顔回がいただけだな。」
論語:語釈
子曰(シエツ)(し、いわく)
論語の本章では”孔子先生が言った”。「子」は貴族や知識人に対する敬称で、論語では多くの場合孔子を指す。「子」は赤ん坊の象形、「曰」は口から息が出て来るさま。「子」も「曰」も、共に初出は甲骨文。辞書的には論語語釈「子」・論語語釈「曰」を参照。
(甲骨文)
この二文字を、「し、のたまわく」と読み下す例がある。「言う」→「のたまう」の敬語化だが、漢語の「曰」に敬語の要素は無い。古来、論語業者が世間からお金をむしるためのハッタリで、現在の論語読者が従うべき理由はないだろう。
語(ギョ)
(金文)
論語の本章では”語る”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は春秋末期の金文。「ゴ」は呉音。字形は「言」+「吾」で、初出の字形では「吾」は「五」二つ。春秋末期以前の用例は1つしかなく、「娯」”楽しむ”と解せられている。詳細は論語語釈「語」を参照。
之(シ)
(甲骨文)
論語の本章では、この字以前に指すべき対象がないので代名詞ではなく、直前の語が動詞であることを示す記号で、意味内容を持っていない。強いて訳せば”まさに”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。字形は”足”+「一」”地面”で、あしを止めたところ。原義はつま先でつ突くような、”まさにこれ”。殷代末期から”ゆく”の語義を持った可能性があり、春秋末期までに”~の”の語義を獲得した。詳細は論語語釈「之」を参照。
而(ジ)
(甲骨文)
論語の本章では”同時に”。初出は甲骨文。原義は”あごひげ”とされるが用例が確認できない。甲骨文から”~と”を意味し、金文になると、二人称や”そして”の意に用いた。英語のandに当たるが、「A而B」は、AとBが分かちがたく一体となっている事を意味し、単なる時間の前後や類似を意味しない。詳細は論語語釈「而」を参照。
不(フウ)
(甲骨文)
漢文で最も多用される否定辞。初出は甲骨文。「フ」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)、「ブ」は慣用音。原義は花のがく。否定辞に用いるのは音を借りた派生義だが、甲骨文から否定辞”…ない”の意に用いた。詳細は論語語釈「不」を参照。
惰*(タ)→隋*(タ)
(篆書)
論語の本章では”だらける”。論語では本章のみに登場。初出は後漢の説文解字。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。字形は〔忄〕”こころ”+「左」+「月」。「左」+「月」に”崩壊する”の意があるらしく、こころがだらけるさま。「ダ」は呉音。詳細は論語語釈「惰」を参照。
慶大蔵論語疏では「〔忄耂工目〕」と記す。初出の字形に近い。
(秦系戦国文字)
定州竹簡論語では「隋」と記す。初出は戦国文字。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。字形は「阝」”はしご”・”おか”+「左」+「月」。丘がくずれるさま。”くずれる”の意での漢音は「タ」、呉音は「ダ」。事実上「惰」の異体字。地名国名での漢音は「スイ」、呉音は「ズイ」。遣隋使は清音の「スイ」と聞いたはずだが、なぜか日本では呉音の「ズイ」が定着した。”たれさがる”の意では漢音呉音共に「タ」。詳細は論語語釈「隋」を参照。
「惰」にせよ「隋」にせよ、従来訳のように、「怠けないでさらに精進する」というSM的解釈が生まれるが、本章の場合は文法語法的にも飛躍ではない。新注『論語集注』では、朱子は范祖禹の言葉をそのままコピペして言わせている。
新注『論語集注』
范氏曰:「顏子聞夫子之言,而心解力行,造次顛沛未嘗違之。如萬物得時雨之潤,發榮滋長,何有於惰,此群弟子所不及也。」
「顔先生は至聖孔子のお言葉を、心を費やし努めて行い、寸時も非常時も全く違わなかった。これは万物が時の雨の恵みを受けてうるおい、成長するようなもので、怠惰などあるわけがない。これは他の有象無象の弟子どもには及びも付かないことだった。」
なんだか祝詞か賛美歌の歌詞を読んでいるような気分になる。当然だろう、そもそもでっち上げなのだから。
者(シャ)
(金文)
論語の本章では”~である者”。この語義は春秋時代では確認できない。旧字体は〔耂〕と〔日〕の間に〔丶〕一画を伴う。新字体は「者」。ただし唐石経・清家本ともに新字体と同じく「者」と記す。現存最古の論語本である定州竹簡論語も「者」と釈文(これこれの字であると断定すること)している。初出は殷代末期の金文。金文の字形は「木」”植物”+「水」+「口」で、”この植物に水をやれ”と言うことだろうか。原義は不明。初出では称号に用いている。春秋時代までに「諸」と同様”さまざまな”、”…は”の意に用いた。漢文では人に限らず事物にも用いる。詳細は論語語釈「者」を参照。
慶大蔵論語疏は新字体と同じく「者」と記す。「耂」と「日」の間の「丶」を欠く。「国学大師」によると旧字の出典は後漢の「華山廟碑」、文字史から見れば旧字体の方がむしろ新参の字形。
其(キ)
(甲骨文)
論語の本章では”それ”という指示詞。初出は甲骨文。甲骨文の字形は「𠀠」”かご”。それと指させる事物の意。金文から下に「二」”折敷”または「丌」”机”・”祭壇”を加えた。人称代名詞に用いた例は、殷代末期から、指示代名詞に用いた例は、戦国中期からになる。詳細は論語語釈「其」を参照。
回(カイ)
「亘」(甲骨文)
論語の本章では、孔子の弟子、顔回子淵のこと。「回」はいみ名であり、本章では目上の孔子ゆえに呼び捨てにしている。詳細は論語の人物:顔回子淵を参照。「回」の初出は甲骨文。ただし「亘」と未分化。現行字体の初出は西周早期の金文。字形は渦巻きの象形で、原義は”まわる”。詳細は論語語釈「回」を参照。
慶大蔵論語疏では異体字「囬」と記す。上掲「唐〓郡城父縣尉盧復墓誌銘」刻。『干禄字書』(唐)所収。
也(ヤ)
(金文)
論語の本章では「なり」と読んで断定の意。この語義は春秋時代では確認できない。「也與」二字で「かな」と読んで詠嘆の意と解することも出来るが、春秋時代には原則として熟語が無いため、やはり偽作の証拠になってしまう。本章は「惰」(隋)の論語時代に於ける不在によって偽作が確定するので、断定に解して構わない。初出は事実上春秋時代の金文。字形は口から強く語気を放つさまで、原義は”…こそは”。春秋末期までに句中で主格の強調、句末で詠歎、疑問や反語に用いたが、断定の意が明瞭に確認できるのは、戦国時代末期の金文からで、論語の時代には存在しない。詳細は論語語釈「也」を参照。
與(ヨ)
(金文)
論語の本章では”…か”。この語義は春秋時代では確認できない。新字体は「与」。金文の字形は「牙」”象牙”+「又」”手”四つで、二人の両手で象牙を受け渡す様。人が手に手を取ってともに行動するさま。従って原義は”ともに”・”~と”。詳細は論語語釈「与」を参照。
慶大蔵論語疏では句末のこの字を欠くが、慶大本では通例新字体と同じ「与」と記す。
論語:付記
検証
論語の本章は前漢中期の定州竹簡論語に含まれているのだが、驚くべき事に春秋戦国を含めた先秦両漢の誰一人引用も再録もしていない。あまりに激しいゴマすりのため、さすがの儒者もうんざりしたのだろうか。顔淵称揚キャンペーンを始めたのは、いわゆる儒教の国教化を進めた董仲舒だから(論語為政篇9解説)、おそらくは本章もまた董仲舒による偽作だろう。董仲舒による顔淵神格化の詳細は、論語先進篇3解説を参照。
解説
藤堂明保博士は『漢文入門』の中で、漢文の特徴として簡潔性を挙げている。とにかく短く書く、分かりきったことは書かない。だが論語を読む限りこの論理は貫徹しておらず、儒者はもったいを付けたいときには遠慮無くベタベタと余計な字をくっつけた。
本章もその例で、「語之而不惰者、其回也與」は本来。「語不惰回與」の五文字で書きおおせてしまえる。董仲舒のもったい付けが伺えるというものだ。
論語の本章、新古の注は次の通り。
古注『論語集解義疏』
子曰語之而不惰者其回也與註顔淵則解故語之不惰餘人不解故有惰語之時也疏子曰至也與 惰疲懈也餘人不能盡解故聞孔子語而有疲懈唯顔回體之故閒語即解所以云語之而不惰其回也與
本文「子曰語之而不惰者其回也與」。
注釈。顔淵は孔子がどんなにわけの分からないことをベラベラしゃべっても、そのソバから意味を解き明かして理解できる気●いだった。だから「しゃべってもうんざりした顔をしない」と孔子は言った。他の弟子どもにはそんな芸当は出来なかった。だから孔子が話しかけても素直にうんざりした顔をするときがあった。
付け足し。先生は感動の至りを言った。惰とはくたびれることである。顔回以外の有象無象は、孔子の話を聞いても、ことごとく理解できはしなかった。だから孔子は有象無象どものうんざりした顔にうんざりして、話すソバから分かってくれたのは、顔回だけだった、とヲタ友達のようなことをあられも無く言った。だから「語之而不惰其回也與」と言った。
新注『論語集注』
語,去聲。與,平聲。惰,懈怠也。范氏曰:「顏子聞夫子之言,而心解力行,造次顛沛未嘗違之。如萬物得時雨之潤,發榮滋長,何有於惰,此群弟子所不及也。」
語の字は尻下がりに読む。與の字は平らな調子で読む。惰とはだらけることである。
范祖禹「顔回先生は孔子先生の話を聞くと、男子中学生が巨乳をさわりたがるような気持で理解に努め、慌ただしいときも天変地異の時もそうしないことが無かった。それはちょうど、万物が待ちに待った雨にうるおい、男子中学生のナニガシが増大するように成長するのと同じであり、何のふにゃりとした所がそこにあろうか。これは他の(気の確かな)弟子どもには、とても出来ることではなかったのだ。」
余話
消えて無くならない
以上の通り、論語の本章の偽作は疑いようが無いが、同様の事を孔子が顔淵について語った可能性はある。「惰」dʰwɑ(上)”だらける”字の論語時代における不在は動かず、用法の怪しさも解消はしないが、「怠」dʰəɡ(上)”だらける”の字は西周末期の金文から見られるからだ。
「台」の字は上下に〔㠯〕”農具のスキ”+「𠙵」”くち”で、「㠯」は音を借りて早くから「以」”~で”の意に転用された。ゆえに「台」は春秋以前の金文で”~で”の意に多用されたのだが、より厳密な語義を求めるなら、物体ではなく言葉を用いて、の意と言えよう。
現行字体の「怠」はそれに「心」が付いた形で、この字形からは原義をはかりがたいのだが、西周の金文では「台」+「司」の「𠙵」(口)が無いものの字形で示された。「口」のない「司」は手のひらをかざす象形で、「又」や「屮」に似た意を示す。
ただし「又」や「屮」が、実際に道具を手に取って作業を行うのを示すのに対し、「司」-「𠙵」は”そのふりをする”の意であるらしい。詳細は論語語釈「怠」を参照。
つまり西周金文の「怠」は、口を用いて、それを手でもてあそぶさまであり、口先ばかりで実行が伴わないことを言う。この字は春秋時代には見られず、それ以前の西周金文の事例が一例知られるのみだが、青銅器の結句によく見られる、”怠けてはならんぞよ”のお説教だった。
西周末期「白康𣪕」(集成4161・4162)
用𡖊夜無怠。
朝晩この青銅器を用いて思い出し、怠けてはならんぞよ。
さて当たり前の事をチクチクと、”だらける”が論語の時代にも存在した概念であることを確認したが、次に漢語の「語」の語義を確認しよう。上記の通り論語の時代、この語は”たのしむ”ことで”かたる”事では無かった。だが語義の一部は後世にも保存された。
「五」(甲骨文)/「互」(甲骨文)
どういうことか。現行の「語」は「言」+「吾」だが、初出の字形はつくりが上下に「五」+「五」になっている。「五」の類義語に「互」があり、ともに字形は上下に線を引いて、間にX字形を描く。「五」は算木を交叉させたさまだろうが、二本が”交わ”っている。
つまり「互」と同様に、「五」の概念は行為者が単独では成立しない。両者が互いにやりとりすることを表しているので、「語」もその文脈上にある。つまり一方的に説教するのは、「語」ではあり得ないということだ。春秋の漢語ではウンチクを「語る」ことは出来ない。
同様に春秋の「語」もまた、「孫孫用之、後民是語」(「楚余義鐘」集成183・184)とあり、”子孫よ末永くこの鐘を鳴らし、共に生きる民を楽しませよ”と言った。珍走団の如く、勝手にガンガン鳴らして自分だけ楽しむのでなく、民と共に音色を楽しめと戒めているのだ。
仮に論語を人生の教訓として読むのなら、「語」の意味するところを軽んじるべきでない。辛抱した後の出盛ったしょうべんに、快感が伴うのを訳者は認めるが、言葉のしょうべんを垂らされた側が、いつまでも辛抱してくれるわけがない。語る相手を敬い畏れなければならない。
訳者は武道の師範先生方から、武道とは相手との対話であると教わった。無言でそれを示される先生もおわしたし、身振り手振りで「やり・とり」と言葉で説明なさった先生もおわした。ゆえに日本武道の真髄が、事前に危険を避けること、そもそも敵を作らないことであり得る。
どのような人間とも行きずりの関係で、都度だまして食い物にする、という生存戦略はあり得るだろう。だが気が付けば周りは敵だらけで、こぞって「さっさと死んでしまえ」と思われている場合がある。この敵意に気が付かないのはもっと危険で、何をされるか分からない。
遠藤周作がフランス留学中、下宿屋のおかみさんが夫の病気に禁忌な食材を、せっせと毎日の料理に入れるのを見て、恐怖したと読んだ記憶がある。自分を最も害するのはゆきずりの他人ではなく、もっとも近しい人々でもあるわけだ。そして人の行為は消えて無くならない。
被害者は終世被害を覚えているからだ。敬い畏れるに十分な理由ではなかろうか。
夜空に明かりを向けるとき、この明かりはどうなるのだろうと考える事がある。光子は質量を持たないと聞くが、空間/時間=速度という物理量は持っている。物理量は消滅しないと中学で教わった。訳者にはか細い光しか作れないが、永遠にこの光は進んでいくのだろうか。
藤堂先生の字書に拠れば、漢語で空間を宇といい、時間を宙という。ならば白楽天「長恨歌」にいう「宇を御すること多年」とは唐帝国の国土を統べることになる。ところが宇宙の語義は「互」るとの説もある。人間が時間を支配するなど空間以上の思い上がりと恐ろしくなる。
中華文明は長らく人類の最先端だったが、宇宙=劇場を熟語にしても、役者や観客や空気たる質量とは組ませなかった。私立文系バカの訳者は中学理科しか知らないが、物理量は3つどころでなく1つに限られるかもと、今日も世界中の理学者が数式を解き望遠鏡を覗くと聞く。
少年時代の訳者が自作の粗放な道具で塩水を電解して、初めて消毒液を得た時の感動は、「長恨歌」に出会ったときより大きかった。数理向きに生まれつかなかったからその道には進めなかったが、自分が数理を分からない事実を、時をかけ受け入れられたのは幸いだった。
おそらく人類存続中は、訳者の光は意識ある者の目に感知されることがないだろうが、それでもかすかな光はどこまでも進んでいくだろう。宇宙の広さは無限と聞くから、地球や太陽や銀河系が崩壊した後にでも、何かの物理作用を引き起こすに違いない。人の行為も同様だ。
バタフライ効果と言うように。古典を哲学と捉えるには、数理の知識がまことに便利だ。
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