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論語詳解225子罕篇第九(21)惜しいかな*

論語子罕篇(21)要約:後世の創作。ニセ孔子先生が顔淵を評論して、いつも勉強に励んで進歩したが、途中で休んだのを見たことが無い、と。前漢儒による顔淵称揚キャンペーンの一つで、実は顔淵ばなしだったかどうかも怪しいのです。

論語:原文・書き下し

原文(唐開成石経)

子謂顔淵曰惜乎吾見其進也未見其止也

  • 「淵」字:最後の一画〔丨〕を欠く。唐高祖李淵の避諱

校訂

東洋文庫蔵清家本

子謂顔淵曰惜乎吾見其進也未見其止也

  • 「淵」字:〔氵丿丰丰丨〕。

慶大蔵論語疏

子謂〔𠂉丷兀頁〕1〔丬关刂〕2曰𢛻3〔爫丁〕4吾見其進也未見其止也

  1. 「顏」の異体字。「三十人等造形像二千餘區記」(北魏?)刻。
  2. 「淵」の異体字。「唐夫人史氏墓誌銘」「周封抱墓誌銘」(北周?)刻。
  3. 「惜」の異体字。「故夫人杜氏墓誌銘」(唐)刻。
  4. 「乎」の異体字。「魏鄭羲碑」(北魏)刻。

後漢熹平石経

(なし)

定州竹簡論語

□□□□□□□吾見其進也,未見其止也。」233

標点文

子謂顔淵、曰、「惜乎。吾見其進也、未見其止也。」

※定州竹簡論語では文頭「子」と文中「吾」の間に何らかの七字が記されていることになっているが、唐石経以降の現伝論語では「謂顏淵曰惜乎」の六字でしかない。あと一字何か書かれていたのか、それとも全く違う文字列だったのか、もはや誰にも分からない。

復元白文(論語時代での表記)

子 金文謂 金文顔 金文淵 金文 曰 金文乎 金文 吾 金文見 金文其 金文進 金文也 金文 未 金文見 金文其 金文止 金文也 金文

※論語の本章は惜が論語の時代に存在しない。「乎」「進」「未」の用法に疑問がある。本章は漢帝国の儒者による創作である。

書き下し

顏淵がんえんひていはく、をしかなわれすすむをかないまむをざるかな

論語:現代日本語訳

逐語訳

孔子 肖像
先生が顔回について言った。「惜しいことだ。私は顔回が学習を進めるのを見たなあ、止まるのを見たことがないなあ。」

意訳

論語 孔子 人形
顔回は進歩し続けた。

従来訳

下村湖人

先師が顔淵のことをこういわれた。――
「惜しい人物だった。私は彼が進んでいるところは見たが、彼が止まっているところを見たことがなかったのだ。」

下村湖人『現代訳論語』

現代中国での解釈例

孔子評論顏回:「可惜啊!我衹見他前進,沒見他停止。」

中国哲学書電子化計画

孔子画顔回を評論した。「惜しいなあ。私は彼がただ前進するのを見ただけで、彼が止まったのを見たことが無い。」

論語:語釈

、「 。」


子(シ)

子 甲骨文 論語 孔子
「子」(甲骨文)

論語の本章では”(孔子)先生”。初出は甲骨文。論語ではほとんどの章で孔子を指す。まれに、孔子と同格の貴族を指す場合もある。また当時の貴族や知識人への敬称でもあり、孔子の弟子に「子○」との例が多数ある。なお逆順の「○子」という敬称は、上級貴族や孔子のような学派の開祖級に付けられる敬称。「南子」もその一例だが、”女子”を意味する言葉ではない。字形は赤ん坊の象形で、もとは殷王室の王子を意味した。詳細は論語語釈「子」を参照。

謂(イ)

謂 金文 謂 字解
(金文)

論語の本章では”…であると評価する”。本来、ただ”いう”のではなく、”~だと評価する”・”~だと認定する”。現行書体の初出は春秋後期の石鼓文。部品で同義の「胃」の初出は春秋早期の金文。金文では氏族名に、また音を借りて”言う”を意味した。戦国の竹簡になると、あきらかに”~は~であると言う”の用例が見られる。詳細は論語語釈「謂」を参照。

顏淵(ガンエン)

孔子の弟子、顏回子淵。あざ名で呼んでおり敬称。詳細は論語の人物:顔回子淵を参照。

顔 金文 顔 字解
「顏」(金文)

「顏」の新字体は「顔」だが、定州竹簡論語も唐石経も清家本も新字体と同じく「顔」と記している。ただし文字史からは「顏」を正字とするのに理がある。初出は西周中期の金文。字形は「文」”ひと”+「厂」”最前線”+「弓」+「目」で、最前線で弓の達者とされた者の姿。「漢語多功能字庫」によると、金文では氏族名に用い、戦国の竹簡では”表情”の意に用いた。詳細は論語語釈「顔」を参照。

顔 顏 異体字
慶大蔵論語疏では異体字「〔立儿頁〕」と記す。上掲「三十人等造形像二千餘區記」(北魏?)刻。

淵 甲骨文 淵 字解
「淵」(甲骨文)

「淵」の初出は甲骨文。「渕」は異体字。字形は深い水たまりのさま。甲骨文では地名に、また”底の深い沼”を意味し、金文では同義に(沈子它簋・西周早期)に用いた。詳細は論語語釈「淵」を参照。

淵 異体字
慶大蔵論語疏は異体字「〔丬关刂〕」と記す。「丬」は草書がきして「」形。上掲「唐夫人史氏墓誌銘」刻。「周封抱墓誌銘」(北周?)にも刻。

曰(エツ)

曰 甲骨文 曰 字解
(甲骨文)

論語で最も多用される、”言う”を意味する言葉。初出は甲骨文。原義は「𠙵」=「口」から声が出て来るさま。詳細は論語語釈「曰」を参照。

惜*(セキ)

惜 篆書 惜 字解
(篆書)

論語の本章では”惜しい”。初出は戦国時代の竹簡。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。字形は〔忄〕”こころ”+音符「昔」。「シャク」は呉音。”おしむ”の意で用いられた始めはいつか、実のところ分からない。詳細は論語語釈「惜」を参照。

惜 異体字
慶大蔵論語疏では異体字「𢛻」と記す。「日」が「月」になっている。上掲「故夫人杜氏墓誌銘」(唐)刻。

乎(コ)

乎 甲骨文 乎 字解
(甲骨文)

論語の本章では、「かな」と読んで詠嘆の意。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。字形は持ち手の柄を取り付けた呼び鐘を、上向きに持って振り鳴らし、家臣を呼ぶさまで、原義は”呼ぶ”こと。甲骨文では”命じる”・”呼ぶ”を意味し、金文も同様で、「呼」の原字となった。句末の助辞として用いられたのは、戦国時代以降になるという。詳細は論語語釈「乎」を参照。

乎 異体字
慶大蔵論語疏は異体字「〔爫丁〕」と記す。「魏鄭羲碑」(北魏)刻。

吾(ゴ)

吾 甲骨文 吾 字解
(甲骨文)

論語の本章では”わたし”。初出は甲骨文。字形は「五」+「口」で、原義は『学研漢和大字典』によると「語の原字」というがはっきりしない。一人称代名詞に使うのは音を借りた仮借だとされる。詳細は論語語釈「吾」を参照。

春秋時代までは中国語にも格変化があり、一人称では「吾」を主格と所有格に用い、「我」を所有格と目的格に用いた。しかし論語でその文法が崩れ、「我」と「吾」が区別されなくなっている章があるのは、後世の創作が多数含まれているため。

見(ケン)

見 甲骨文 見 字解
(甲骨文)

論語の本章では”見る”。初出は甲骨文。甲骨文の字形は、目を大きく見開いた人が座っている姿。原義は”見る”。甲骨文では原義のほか”奉る”に、金文では原義に加えて”君主に謁見する”(麥方尊・西周早期)、”…される”(沈子它簋・西周)の語義がある。詳細は論語語釈「見」を参照。

其(キ)

其 甲骨文 其 字解
(甲骨文)

論語の本章では”その”という指示詞。初出は甲骨文。甲骨文の字形は「𠀠」”かご”。それと指させる事物の意。金文から下に「二」”折敷”または「丌」”机”・”祭壇”を加えた。人称代名詞に用いた例は、殷代末期から、指示代名詞に用いた例は、戦国中期からになる。詳細は論語語釈「其」を参照。

進(シン)

進 甲骨文 進 字解
(甲骨文)

論語の本章では”進む”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。字形は「隹」”とり”+「止」”あし”で、一説に鳥類は後ろへ歩けないことから”すすむ”を意味するという。甲骨文では”献上する”の意に、金文では”奉仕する”の意に、戦国の金文では”推挙する”の意に用いた。戦国の竹簡では、”進歩”、”前進”の意に用いた。詳細は論語語釈「進」を参照。

也(ヤ)

也 金文 也 字解
(金文)

論語の本章では「かな」と読んで詠嘆の意。初出は事実上春秋時代の金文。字形は口から強く語気を放つさまで、原義は”…こそは”。春秋末期までに句中で主格の強調、句末で詠歎、疑問や反語に用いたが、断定の意が明瞭に確認できるのは、戦国時代末期の金文からで、論語の時代には存在しない。詳細は論語語釈「也」を参照。

未(ビ)

未 甲骨文 未 字解
(甲骨文)

論語の本章では”まだ…ない”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。「ミ」は呉音。字形は枝の繁った樹木で、原義は”繁る”。ただしこの語義は漢文にほとんど見られず、もっぱら音を借りて否定辞として用いられ、「いまだ…ず」と読む再読文字。ただしその語義が現れるのは戦国時代まで時代が下る。詳細は論語語釈「未」を参照。

止*(シ)

止 甲骨文 止 字解
(甲骨文)

論語の本章では”止まる”。初出は甲骨文。字形は足の象形。甲骨文から原義のほか、”やむ”・”とどまる”と解しうる用例がある。また祭りの名の例も見られる。詳細は論語語釈「止」を参照。

論語:付記

中国歴代王朝年表

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検証

論語の本章は前漢中期の定州竹簡論語にあるのだが、上掲の通り文字数が違い、本当に顔淵ばなしだったのかどうかも実は分からない。また春秋戦国時代は無論、先秦両漢の誰一人引用しておらず、似たような文字列が、いわゆる儒教の国教化を進め、顔淵称揚キャンペーンを行ったと思しき董仲舒(論語為政篇9解説)の書き物に載る。

天積眾精以自剛,天序日月星辰以自光,聖人序爵祿以自明。…所謂不見其形者,非不見其進止之形也,言其所以進止不可得而見也。


天はもろもろの精気を積み上げておのずと強固になり、天は天体の運動に秩序を付けておのずと光り、名君は爵位や官等に秩序を付けておのずと教説を明らかにする。…その形が見えないというのは、それが進んだり止まったりするのを見ないという事ではなく、そうなる理由が見えないということだ。(『春秋繁露』立元神3)

かように董仲舒は顔淵のがの字も記していないのだが、先秦両漢の多の文献に似た文字列が全くないことから、本章もまた董仲舒による偽作が大いに疑われる。ただし上掲のように定州竹簡論語で七字解読不能字があるところへ、唐石経以降の現伝論語では「謂顔淵曰惜乎」の六字が当てられており、実は顔淵ばなしでもなんでもない所へ、後漢儒が出鱈目を書き込んだ可能性もある。

いずれにせよ「惜」字の論語時代に於ける不在から、本章の偽作は動かしがたい。また董仲舒による顔淵神格化の詳細は、論語先進篇3解説を参照。

解説

漢帝国に入ってからの顔回神格化キャンペーンを考えるに当たり、まず前漢の時代に著名となった顔氏の末裔と思しき人物を調べてみる。もし顔氏の姓を名乗る者が権力者に居れば、自分の箔付けのために顔回を神格化するのは、動機として十分考えられるからだ。

ところが、『史記』『漢書』をひっくり返しても、それらしき人物が見当たらない。

ただ一人、武帝時代の経済官僚で、顔異という人物が記されている。残念ながら『史記』『漢書』ともに伝記を立てておらず、他の篇の断片からその人物を再構成するしかない。その一つを記すが、中華帝国とは、およそろくなものではないことがわかる。

『史記』平準書

自造白金五銖錢後五歲,赦吏民之坐盜鑄金錢死者數十萬人。其不發覺相殺者,不可勝計。赦自出者百餘萬人。然不能半自出,天下大抵無慮皆鑄金錢矣。犯者眾,吏不能盡誅取,於是遣博士褚大、徐偃等分曹循行郡國,舉兼并之徒守相為(吏)[利]者。

而御史大夫張湯方隆貴用事,減宣、杜周等為中丞,義縱、尹齊、王溫舒等用慘急刻深為九卿,而直指夏蘭之屬始出矣。

而大農顏異誅。初,異為濟南亭長,以廉直稍遷至九卿。上與張湯既造白鹿皮幣,問異。異曰:「今王侯朝賀以蒼璧,直數千,而其皮薦反四十萬,本末不相稱。」天子不說。張湯又與異有卻,及有人告異以它議,事下張湯治異。異與客語,客語初令下有不便者,異不應,微反脣。湯奏當異九卿見令不便,不入言而腹誹,論死。自是之後,有腹誹之法(以此)[比],而公卿大夫多諂諛取容矣。


(天下から金属を召し上げ、あまりに額面より軽い金属で)白金と五銖銭を鋳造してから五年後(武帝元鼎元年=BC116)、銭貨を私鋳した死刑囚のうち、庶民や小役人十万人が特赦された。発覚しないまま闇に消えた私鋳は、数え切れない。自首した者百余万人も特赦された。だが自首した者は半分にも満たないだろう。天下こぞって、せっせとニセ金造りに没頭したのだ。私鋳の罪を犯す者があまりに多かったので、おまわりも取り締まり切れなかった。そこで博士官の猪大と徐偃らが特捜隊を率いて天下を巡り、金回りの良すぎる者や地方高官でニセ金と思しき利益を得ている者を検挙した。

その当時は御史大夫(=最高監察官。事実上の宰相)張湯が権勢を振るって政治を切り盛りしており、減宣と杜周らがその次官となり、義縱、尹斉、王温舒らが残酷な刑罰をちらつかせて閣僚になっていた。特務隊長の夏蘭のような者どもが出てきたのもこの頃である。

そんなおり、大農(=財務大臣)の顔異が処刑された。もともと顔異は、済南(山東省)の亭長(駐在所のおまわりと宿場の世話役を兼ねる)だったが、まじめな勤務が認められて少しずつ出世して閣僚にまでなった。そんな折、(金に困った)武帝が張湯とつるんで鹿の革で作った超高額革幣を造ろうとして、顔異に意見を聞いた。その答え。

「とんでもありません。例えば今、陛下に挨拶申し上げる王侯は、蒼い宝石を献上しますが、その値は銅数千文でしかありません。その包装でしかない鹿の革が、四十万銭もするとあっては、まったくの滅茶苦茶でございます。」

武帝は機嫌を悪くした。悪いことに宰相の張湯は顔異と仲が悪く、それに目を付けたチクリ者が、顔異に罪有りと密告した。しかも監察長官を兼ねる張湯が審理に当たることになった。その調書。

「顔異が客と話をした。客が”こたびのお触れは無茶苦茶ですね”と言った所、顔異は知らんふりをしたが、かすかに唇をひるがえした。」

張湯は顔異の罪を奏上した。「顔異は閣僚でありながら、お上のおふれに不満を抱いた。口には出さなかったが腹の中で批判した。死刑に処すべきであります。」

こののち、「腹誹の法」(腹で思っただけで罪になる)が常態化し、政府高官はこぞってへつらい者ばかりになり、表情を取り繕うようになった。

そもそも「天子」の言葉が中国語に現れるのは西周早期で、殷の君主は自分から”天の子”などと図々しいことは言わなかった。詳細は論語述而篇34余話「周王朝の図々しさ」を参照。

この『史記』の記述を真に受けるなら、顔異は住所から顔氏一族の末裔である可能性はあるが、至って真面目なお役人で、顔回神格化キャンペーンとは無縁のように見える。引き続き、史料を読んでいくしかなさそうだ。

論語の本章、新古の注は次の通り。

古注『論語集解義疏』

子謂顔淵曰惜乎吾見其進也未見其止也註馬融曰孔子謂顔淵進益未止痛惜之甚也疏子謂至止也 顔淵死後孔子有此歎也云見進未見止惜其神識猶不長也然顔淵分已滿至於屢空而此云未見其止者勸引之言也故殷仲堪云夫賢之所假一語而盡豈有彌進勖實乎葢其䡄物之行日見於跡夫子從而咨嗟以盛德之業也

本文「子謂顔淵曰惜乎吾見其進也未見其止也」。
注釈。馬融「孔子は、顔淵がひたすら進歩し続け、早世したことが痛恨の極みだったのである。」

付け足し。先生は止まることの窮極を言った。顔淵の死後、孔子はこのような嘆きを言った。「見進未見止」とは、その精神がまだ成長しきっていない事を惜しんで言ったのだ。ところが顔淵は自分の持ち前に満足しきってたびたび貧乏しても気にしなかった。そこへこの「未見其止」と言ったのは、まだまだ進めると思っていたのだ。だから殷仲堪が言った。「そもそも賢者にとっては、一なる原理を悟れば十分で、本当に更なる進むべき境地があったのだろうか。人の模範となるような人物の行跡は、毎日目に出来るもので、だから孔子先生は、顔淵の盛んな徳の有様をうめくように歎いたのだ。」

馬融の注釈は、現存最古の古注である慶大蔵論語疏では「馬融」になっている。次いで古い宮内庁蔵清家本では「苞氏」となっているが、残念ながら世界最古の注疏本である、宮内庁蔵宋版論語注疏ではこの部分に虫食いが入っており、「曰」以降しか残っていない。

ただし中国伝承の注疏本では、「包」とあると中華書局本にいう。つまり「包曰」、前後の漢帝国の交代期を生きた包咸の注だと言っている。制約のため画像をここでは掲示しないが、宮内庁本の虫食いは、確かに格の一字分であるように見える。

ゆえに日本の清家本で「馬融」→「苞氏」に改められたのは、宋版論語注疏に従った結果と分かる。ただし江戸儒の根本武夷が参照した足利本は「馬融」となっていたらしく、清代の中国人が逆輸入した根本本(鵜飼本)でも「馬融」になっている。自信の強い中国人が、ここでは夷狄の本に従ったわけ。

論語にまつわる日中関係史は、ほぼ中国から一方的に日本が影響を受けたのだが、その僅かな例外を本章に見て取ることが出来る。

原始論語?…→定州竹簡論語→白虎通義→
             ┌(中国)─唐石経─論語注疏─論語集注─(古注滅ぶ)→
→漢石経─古注─経典釈文─┤ ↓↓↓↓↓↓↓さまざまな影響↓↓↓↓↓↓↓
       ・慶大本  └(日本)─清家本─正平本─文明本─足利本─根本本→
→(中国)─(古注逆輸入)─論語正義─────→(現在)
→(日本)─────────────懐徳堂本→(現在)

新注『論語集注』

子謂顏淵,曰:「惜乎!吾見其進也,未見其止也。」進止二字,說見上章。顏子既死而孔子惜之,言其方進而未已也。


本文「子謂顏淵,曰:惜乎!吾見其進也,未見其止也。」進と止の二字は、前の章でも記している。顔淵先生がすでに亡くなった後、孔子先生が惜しんで言った、すなわちひたすら進歩して一度も止まることが無かった、と。

余話

ニンニク売り

頼みもしないのに、「お前のドコソコが惜しい」と説教する者がいる。中華帝国と同程度には下らないと言うべきで、説教の動機は相手を見下すことにあり、つまり自分に自信が無いからだ。自信の無い者に学ぶ事など何も無いから、「結構」と追い払うのが一番いい。

だが人間は身過ぎ世過ぎで、「結構」と言えない相手を持たざるを得ない。つまり失うと「惜しい」相手だから、仕方が無く説教を聞くわけだ。惜しいとは依存していることの表れで、人は群れて生きているからには、全き依存無しでは生きられない。この点は覚悟するしか無い。

こういう覚悟を仏教用語で「ニンニク」と言うらしい。インドの言葉でkṣāntiというのの漢訳だというが、インドの言葉は知らないから漢語について言えば、”屈辱を耐え忍ぶ”ことになる。人は宇宙で一番偉いのは自分だと正当に思っているが、修業した坊主も同じらしい。

思いから解脱できていたなら、そもそも”屈辱”の概念が無いはずだからだ。凡人にとってもこれは恐ろしいことで、自分の忍辱は常に思うが、他人の忍辱はめったに思わない。その結果「惜しい」とか説教する愚行に走るのだが、当然相手に忍辱を溜める事になる。

大人しくハイハイと聞いてくれるからと言って、他人の憎悪を忘れたら、聞いてくれた期間が長ければ長いほど、溜まった可燃性ガスの爆発はすさまじい。テロリストがたいがい不幸な生い立ちをしているのは、このことわりを示している。世間でよってたかって育成したのだ。

だから訳者の如き凡俗に出来るのは、いかに世間がいじめてこようと、このからくりを知って上から目線で超えること、下から目線で誰かに忍辱を溜めないことしかない。宇宙がこうなっているのはどうしようもないが、どう解釈するかは自分の勝手に出来るからだ。

それでやっと、本当に「惜しい」ものを大事に出来るのではないか。そう思っている。

『論語』子罕篇:現代語訳・書き下し・原文
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