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論語詳解219子罕篇第九(15)われ衛より魯に*

論語子罕篇(15)要約:後世の創作。孔子先生が亡命中は、魯国の音楽は滅茶苦茶でしたが、先生が帰国すると正しくなり、賛歌もふさわしい場面で歌われるようになった、と。しかし何が「正しい」のか、誰も教えてくれません。

論語:原文・書き下し

原文(唐開成石経)

子曰吾自衞反魯然後樂正雅頌各得其所

校訂

東洋文庫蔵清家本

子曰吾自衞反於魯然後樂正雅頌各得其所

慶大蔵論語疏

子曰吾自衞反〔扌仌〕1魯然後樂正雅頌各得其2〔一尸斤〕3

  1. 「於」の異体字。「魏章武王元彬墓誌」(北魏)刻。
  2. 格下に補記。
  3. 「所」の異体字。「漢鄭同碑」(後漢?)刻。

後漢熹平石経

(なし)

定州竹簡論語

……曰:「吾自衛反於a魯,然□□正,《雅》《頌》各得[其所]。」229

  1. 於、阮本無、皇本、高麗本有。

標点文

子曰、「吾自衞反於魯、然後樂正、雅頌各得其所。」

復元白文(論語時代での表記)

子 金文曰 金文 吾 金文自 金文衛 金文反 金文於 金文魯 金文 然 金文後 金文楽 金文正 金文 頌 金文各 金文得 金文其 金文所 金文

※論語の本章は、「雅」の字が論語の時代に存在しない。「然」の用法に疑問がある。本章は戦国時代以降の儒者による創作である。

書き下し

いはく、われゑいかへりて、しかのちもののねただしく、雅頌ほきうたおのおのところたり。

論語:現代日本語訳

逐語訳

孔子 切手

先生が言った。「私が衛から魯に帰って、やっと音楽は正しくなり、雅・頌部門の曲も、ふさわしい時に演じられるようになった。」

意訳

孔子
亡命前にやり残したことと言えば、古曲の整理だった。放浪の旅で音楽の知見も増えたから、その精華を生かして、帰国後やっと、「雅」「頌」といった古曲の整理を行うことが出来た。

従来訳

下村湖人

先師がいわれた。――
「音楽が正しくなり、雅も頌もそれぞれその所を得て誤用されないようになったのは、私が衛から魯に帰って来たあとのことだ。」

下村湖人『現代訳論語』

現代中国での解釈例

孔子說:「我從衛國返回魯國,才把音樂整理好,《雅》、《頌》都安排妥當。」

中国哲学書電子化計画

孔子が言った。「私が衛国から魯国に帰ると、やっと音楽が正しく整理され、雅や頌の曲は全て妥当な場所に収まった。」

論語:語釈

子曰(シエツ)(し、いわく)

論語 君子 諸君 孔子

論語の本章では”孔子先生が言った”。「子」は貴族や知識人に対する敬称で、論語では多くの場合孔子を指す。「子」は赤ん坊の象形、「曰」は口から息が出て来るさま。「子」も「曰」も、共に初出は甲骨文。辞書的には論語語釈「子」論語語釈「曰」を参照。

子 甲骨文 曰 甲骨文
(甲骨文)

この二文字を、「し、のたまわく」と読み下す例がある。「言う」→「のたまう」の敬語化だが、漢語の「曰」に敬語の要素は無い。古来、論語業者が世間からお金をむしるためのハッタリで、現在の論語読者が従うべき理由はないだろう。

吾(ゴ)

吾 甲骨文 吾 字解
(甲骨文)

論語の本章では”わたし”。初出は甲骨文。字形は「五」+「口」で、原義は『学研漢和大字典』によると「語の原字」というがはっきりしない。一人称代名詞に使うのは音を借りた仮借だとされる。詳細は論語語釈「吾」を参照。

春秋時代までは中国語にも格変化があり、一人称では「吾」を主格と所有格に用い、「我」を所有格と目的格に用いた。しかし論語でその文法が崩れ、「我」と「吾」が区別されなくなっている章があるのは、後世の創作が多数含まれているため。

自(シ)

自 甲骨文 吾
(甲骨文)

論語の本章では”~から”。初出は甲骨文。「ジ」は呉音。原義は人間の”鼻”。春秋時代までに、”鼻”・”みずから”・”~から”・”~により”の意があった。戦国の竹簡では、「自然」の「自」に用いられるようになった。詳細は論語語釈「自」を参照。

衞(エイ)

衛 甲骨文 衛 字解
(甲骨文)

論語の本章では、孔子の生国・魯の北にあった中規模諸侯国。

新字体は「衛」。初出は甲骨文。中国・台湾・香港では、新字体がコード上の正字として扱われている。甲骨文には、「韋」と未分化の例がある。現伝字体につながる甲骨文の字形は、「方」”首かせをはめられた人”+「行」”四つ角”+「夂」”足”で、四つ角で曝された奴隷と監視人のさま。奴隷はおそらく見せしめの異民族で、道路を封鎖して「入るな」と自領を守ること。のち「方」は「囗」”城壁”→”都市国家”に書き換えられる。甲骨文から”守る”の意に用い、春秋末期までに、国名・人名の例がある。詳細は論語語釈「衛」を参照。

反(ハン)

反 甲骨文 反 字解
「反」(甲骨文)

論語の本章では”帰国する”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。字形は「厂」”差し金”+「又」”手”で、工作を加えるさま。金文から音を借りて”かえす”の意に用いた。その他”背く”、”青銅の板”の意に用いた。詳細は論語語釈「反」を参照。

於(ヨ)

烏 金文 於 字解
(金文)

論語の本章では”~に”。初出は西周早期の金文。ただし字体は「烏」。「ヨ」は”~において”の漢音(遣隋使・遣唐使が聞き帰った音)、呉音は「オ」。「オ」は”ああ”の漢音、呉音は「ウ」。現行字体の初出は春秋中期の金文。西周時代では”ああ”という感嘆詞、または”~において”の意に用いた。詳細は論語語釈「於」を参照。

慶大蔵論語疏では異体字「扵」と記す。

魯(ロ)

魯 甲骨文 魯 字解
(甲骨文)

孔子の生まれた春秋諸侯国の一国。周初の摂政・周公旦を開祖とし、周公旦の子・伯禽が初代国公。現在の中国山東省南部(山東半島の付け根)にあった。北の端には聖山である泰山があり、西の端には大野沢という湖があった。東は大国・斉、南には邾・滕といった小国があった。首邑は曲阜(現曲阜)。wikipediaを参照。また辞書的には論語語釈「魯」を参照。

然(ゼン)

然 金文 然 字解
(金文)

論語の本章では”そうなる”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は春秋早期の金文。「ネン」は呉音。初出の字形は「黄」+「火」+「隹」で、黄色い炎でヤキトリを焼くさま。現伝の字形は「月」”にく”+「犬」+「灬」”ほのお”で、犬肉を焼くさま。原義は”焼く”。”~であるさま”の語義は戦国末期まで時代が下る。詳細は論語語釈「然」を参照。

後(コウ)

後 甲骨文 後 字解
(甲骨文)

論語の本章では時間的な”以後”。「ゴ」は慣用音、呉音は「グ」。初出は甲骨文。その字形は彳を欠く「ヨウ」”ひも”+「」”あし”。あしを縛られて歩み遅れるさま。原義は”おくれる”。甲骨文では原義に、春秋時代以前の金文では加えて”うしろ”を意味し、「後人」は”子孫”を意味した。また”終わる”を意味した。人名の用例もあるが年代不詳。詳細は論語語釈「後」を参照。

樂(ガク)

楽 甲骨文 楽 字解
(甲骨文)

論語の本章では”音楽”。初出は甲骨文。新字体は「楽」原義は手鈴の姿で、”音楽”の意の方が先行する。漢音(遣隋使・遣唐使が聞き帰った音)「ガク」で”奏でる”を、「ラク」で”たのしい”・”たのしむ”を意味する。春秋時代までに両者の語義を確認できる。詳細は論語語釈「楽」を参照。

正(セイ)

正 甲骨文 正 字解
(甲骨文)

論語の本章では”正しい”。初出は甲骨文。字形は「囗」”城塞都市”+そこへ向かう「足」で、原義は”遠征”。論語の時代までに、地名・祭礼名、”征伐”・”年始”のほか、”正す”、”長官”、”審査”の意に用い、また「政」の字が派生した。詳細は論語語釈「正」を参照。

雅(ガ)

雅 秦系戦国文字 雅 字解
(秦系戦国文字)

論語の本章では”みやびな”→『詩経』「雅」篇の賛歌。初出は小学堂では戦国最末期の「睡虎地秦簡」だが、戦国中末期の「郭店楚簡」、戦国時代だが年代不定の「上海博物館蔵戦国楚竹簡」にも用例がある。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。字形は「互」または「牙」+「隹」”とり”。「ゴォ」または「ンゴ」と鳴く鳥、つまり”カラス”。同音に牙とそれを部品とする漢字群。戦国の竹簡では『詩経』の篇名に、また”もともと”の意に用いた。詳細は論語語釈「雅」を参照。

頌*(ショウ)

頌 金文 頌 字解
(金文)

論語の本章では『詩経』「頌」篇の賛歌。論語では本章のみに登場。初出は西周中期の金文。字形は「公」”大きく口を開ける”+「頁」”おどる”。歌い踊って讃えるさま。春秋末期までに人名のほか、”歌い踊る”・”祈る”の意に用いた。詳細は論語語釈「頌」を参照。

各(カク)

各 甲骨文 各 字解
(甲骨文)

論語の本章では”それぞれ”。初出は甲骨文。字論語の本章では”それぞれ”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。字形は「スイ」”あし”+「𠙵」”くち”で、人がやってくるさま。原義は”来る”。甲骨文・金文では原義に用いた。”~に行く”・”おのおの”の意も西周の金文で確認できる。詳細は論語語釈「各」を参照。

現伝論語は「各〻」と重文号を記すが、中国伝承の唐石経、宮内庁蔵論語注疏には見えない。新注の古本は訳者の知り限り元禄年間の早大本が古いが、そこにも見えない。日本伝承の古注系、東洋文庫蔵・宮内庁・京大蔵清家本、京大蔵正平本、文明本にも見えず、根本本から見えるから、これは江戸儒の根本武夷によって書き足されたと想像できる。

原始論語?…→定州竹簡論語→白虎通義→
             ┌(中国)─唐石経─論語注疏─論語集注─(古注滅ぶ)→
→漢石経─古注─経典釈文─┤ ↓↓↓↓↓↓↓さまざまな影響↓↓↓↓↓↓↓
       ・慶大本  └(日本)─清家本─正平本─文明本─足利本─根本本→
→(中国)─(古注逆輸入)─論語正義─────→(現在)
→(日本)─────────────懐徳堂本→(現在)

理由は分からないが、漢語では「各」一字だけで”それぞれ”を意味しうるが、日本語では「おのおの」でないと”それぞれ”の意にならないので、重文としたのだろう。中国崇拝の強い日本の儒者としては、珍しい書き足しと言える。

得(トク)

得 甲骨文 得 字解
(甲骨文)

論語の本章では”手に入れる”→”ふさわしい扱いを受ける”。初出は甲骨文。甲骨文に、すでに「彳」”みち”が加わった字形がある。字形は「貝」”タカラガイ”+「又」”手”で、原義は宝物を得ること。詳細は論語語釈「得」を参照。

其(キ)

其 甲骨文 其 字解
(甲骨文)

論語の本章では”その”という指示詞。初出は甲骨文。甲骨文の字形は「𠀠」”かご”。それと指させる事物の意。金文から下に「二」”折敷”または「丌」”机”・”祭壇”を加えた。人称代名詞に用いた例は、殷代末期から、指示代名詞に用いた例は、戦国中期からになる。詳細は論語語釈「其」を参照。

慶大蔵論語疏ではもと欠き、「得」がちょうど格の最後なので、その下に「其」と補記している。

所(ソ)

所 金文 所 字解
(金文)

論語の本章では”ふさわしい場所”。初出は春秋末期の金文。「ショ」は呉音。字形は「戸」+「斤」”おの”。「斤」は家父長権の象徴で、原義は”一家(の居所)”。論語の時代までの金文では”ところ”の意がある。詳細は論語語釈「所」を参照。

所 異体字
慶大蔵論語疏は異体字「〔一尸斤〕」と記す。「漢鄭同碑」(後漢?)刻。

論語:付記

中国歴代王朝年表

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検証

論語の本章は前漢中期の定州竹簡論語に見え、それよりやや時代が先行する『史記』孔子世家にまるごと見える。事実上この『史記』が初出で、編者の司馬遷はいわゆる儒教の国教化を進めた董仲舒を師匠と仰いだらしいから、師匠のでっち上げを補強するために『史記』に記したと考えるのが筋が通る。詳細は論語雍也篇14余話「司馬遷も中国人」を参照。

解説

門閥三家老家の分不相応を孔子が怒った作り話のうち、音楽に関しての話が論語八佾篇2にあるが、そこでは周王室の盛時を歌った雍の歌が問題とされた。その歌も本章と同じく、『詩経』の周頌篇に収められている。孔子は礼法違反を許さないという事に儒者がしたのである。

本章もその文脈で理解すべき話で、音楽に詳しい孔子の帰国によって、それまで何かとわけの分からぬまま演奏されていた古曲が、整理され本来有るべき姿を取り戻した、と主張する。音楽をも礼教の枠にはめたがる帝国の儒者が、八佾篇などの補強のために作った疑いがある。

呉の武力沙汰の中で帰国した孔子は、論語八佾篇23(偽作)で魯の楽師長に音楽のウンチクを語ったように、得意として好きな音楽方面の政策に関わったことにされた。本章で「正しくなった」というのは、孔子自らが口うるさく音楽関係者に指図して回ったけしきを描いている。

史実では哀公十三年(BC482、孔子70歳)に呉が留守を越に襲われて大敗すると、孔子は政権から外され、同年亡くなった息子の鯉の葬儀の費用にも事欠いた(論語先進篇7)。孔子が呉を裏から操っていた証拠と訳者は見ているが、門閥の三桓もほっとしたのではなかろうか。

以下に新古の注を示す。

古注『論語集解義疏』

子曰吾自衛反於魯然後樂正雅頌各得其所註鄭𤣥曰反魯魯哀公十一年冬也是時道衰樂廢孔子來還乃正之也故曰雅頌各得其所也疏子曰至其所 孔子去魯後而魯禮樂崩壞孔子以魯哀公十一年從衛還魯而删詩書定禮樂故樂音得正樂音得正所以雅頌之詩各得其本所也雅頌是詩義之美者美者既正則餘者正亦可知也


本文「子曰吾自衛反於魯然後樂正雅頌各得其所」。
注釈。鄭玄「魯に帰ったのは魯の哀公十一年(BC484)の冬である、この時正道は流行らず、音楽はデタラメになっていたが、孔子が帰ると、秒でまともになった。だから”雅頌各得其所”と言ったのである。」

付け足し。先生はあるべき場所の窮極を言った。孔子が魯から逃げ出したあと魯の礼法や音楽は崩壊した。孔子は魯の哀公十一年に衛から魯に帰って、『詩経』『書経』の重複を削り礼法と音楽の基準を定めた。だから楽譜が正しくなった。正しくなったから雅や頌もそれぞれ本来の場所へ収まった。雅頌とは詩の一種であり美しいものである。美しいものが既に正しくなったのだから、それ以外は言わなくても分かるだろう。

新注『論語集注』

子曰:「吾自衛反魯,然後樂正,雅頌各得其所。」魯哀公十一年冬,孔子自衛反魯。是時周禮在魯,然詩樂亦頗殘闕失次。孔子周流四方,參互考訂,以知其說。晚知道終不行,故歸而正之。


本文「子曰:吾自衛反魯,然後樂正,雅頌各得其所。」魯哀公十一年の冬、孔子は衛から魯に帰国した。この時周の礼法は魯に残ってはいたが、歌詞や楽曲は失伝した部分が多く、残簡も順番が分からなくなっていた。孔子は諸国を放浪し、それぞれの言い伝えをすりあわせて、その結果歌詞や楽曲の意味するところを知った。知ったのは帰国直前の晩年のことであり、だから帰国後は歌詞と楽曲を正したのだ。

新古共に口から出任せであるのはいつも通りだが、朱子の書き付けは先行する『論語注疏』を要約したもので、ただし「諸国の言い伝えをすりあわせて」というのは朱子の創作。

余話

儒者の喜ぶ絵空事

『史記』の伝える夏と殷の滅び方が全く同じように、儒者は人界で普通にある出来事を創作するのにはおそろしく想像力が足りなかった。だが面倒くさい礼儀作法を偽作するのには、よくもここまでと思えるほど微に入り細に入りでっち上げることが出来た。

なぜか? 面倒の数が多いほど、ウンチクを語って講釈料を取ることが出来たからで、まことに中国人らしい金稼ぎへの執念というべきだ。一例として『孔子家語』にある孔子の礼法と音楽のウンチクを記す。「頌」の参考になるだろうか。

邾隱公既即位,將冠,使大夫因孟懿子問禮於孔子。子曰:「其禮如世子之冠。冠於阼者,以著代也。醮於客位,加其有成,三加彌尊,導喻其志。冠而字之,敬其名也。雖天子之元子,猶士也。其禮無變,天下無生而貴者故也。行冠事必於祖廟,以祼享之禮以將之,以金石之樂節也;所以自卑而尊先祖,示不敢擅。」懿子曰:「天子未冠即位,長亦冠也。」孔子曰:「古者,王世子雖幼,其即位則尊為人君。人君治成人之事者,何冠之有?」懿子曰:「然則諸侯之冠異天子與?」孔子曰:「君薨而世子主喪,是亦冠也已。人君無所殊也。」懿子曰:「今邾君之冠非禮也?」孔子曰:「諸侯之有冠禮也,夏之末造也,有自來矣。今無譏焉。天子冠者,武王崩,成王年十有三而嗣立。周公居冢宰,攝政以治天下。明年夏六月,既葬,冠成王而朝于祖,以見諸侯,示有君也。周公命祝雍作頌,曰:『祝王達而未幼。』祝雍辭曰:『使王近於民,遠於年,嗇於時,惠於財,親賢而任能。』其頌曰:『令月吉日,王始加元服。去王幼志,心袞職,欽若昊天,六合是式,率爾祖考,永永無極。』此周公之制也。」懿子曰:「諸侯之冠,其所以為賓主何也?」孔子曰:「公冠則以卿為賓,無介,公自為主,迎賓揖,升自阼,立于席北。其醴也,則如士,饗之以三獻之禮。既醴,降自阼。諸侯非公而自為主者,其所以異,皆降自西階,玄端與皮弁異。朝服素畢,公冠四加,玄冕祭。其酬幣于賓,則束帛乘馬。王太子庶子之冠擬焉,皆天子自為主。其禮與士無變,饗食賓也,皆同。」懿子曰:「始冠必加緇布之冠,何也?」孔子曰:「示不亡古。太古冠布,齋則緇之。其緌也,吾未之聞。今則冠而幣之,可也。」懿子曰:「三王之冠,其異何也?」孔子曰:「周弁,殷冔,夏收,一也。三王共皮弁素績,委貌、周道也;章甫、殷道也;毋追、夏后氏之道。」(第三十三「冠頌」)


チュ(魯の隣の小国)の隠公(前506-前487、前473-前471)が即位して、公冠をかぶろうとしたときにやり方がわからず、そこで家老に命じて魯の門閥家老である孟子の紹介で孔子に加冠方を尋ねた。

先生が言った。「世継ぎの加冠と同じでよろしい。ただし宮殿の階段で冠をかぶるが、これは代替わりを世に示すためである。公座に就く前に、烏帽子親となる客と共に盃を飲み干すのは、代替わりを終えたことの確認である。三度冠を取り替えて大きなものにかぶり直すのは、位を継いだ決意を固めさせるためである。加冠を終えてあざ名を改めるのは、公位を尊ぶためである。例え天子の子が天下って公位に即くのであっても、最下層の士族が家を継ぐ作法と同じにする。まったく同じ式次第なのだ。この世界には、生まれながらに貴い者などいないからだ。この加冠の儀は、必ず祖先祭殿で行わねばならない。祼享カンキョウの礼(香酒を地に注いで神霊を迎える礼)を行い、金属と石の楽器を奏でて所作に節目をつける。これは祖先にへり下って、わがままを行わない事を誓うためである。」

孟懿子「天子が幼少で加冠しないまま即位した場合、成長してから加冠するのか?」
孔子「昔は、王の世継ぎが幼くても、即位すれば人の主として尊ばれた。人の主であり名君なら、改めて加冠しなくてもよいだろう。」

孟懿子「では、諸侯の加冠は天子と違うのか?」
孔子「先君がみまかって世継ぎが喪主を務める。これで加冠したと同じ事になる。人君=天子と異なる所は無い。」

孟懿子「では今、邾公が改めて加冠するのは、礼に背いていないか?」
孔子「諸侯が加冠の義を行うのは、夏王朝の末に始まった。それ以来、礼に背くと文句をつけた者は居ない。天子の加冠は、周の武王が崩御したときに始まる。成王が十三歳で即位することになったので、周公が宰相として摂政となった。翌年の夏六月、葬儀が終わり、成王に加冠して祖先廟に報告させ、諸侯に誰が周王か示したことが初となった。周公は祝雍に”お前に王殿下を祝う歌の作詞を任せるが、すでに王として十分だという建て前で書け。幼いことを匂わせるな”と因果を含め、頌=賛歌を作らせた。祝雍は答えて、”王殿下は民と親しみ、へつらい者を遠ざけ、時を惜しんで政治にいそしみ、財貨を恵み、賢者を近づけてその能力を発揮させると書きましょう”。出来上がった歌詞にはこうあった。”ナントカ年ナントカ月の吉日、王は元服の義を行った。これをもって王は幼稚な心を捨て、天子の装いを身につけ、心より天命に従い、世界の模範となった。殿下が祖先に従う限り、永遠に繁栄するだろう”。これが周公の定めた加冠の礼だ。」

孟懿子「では諸侯が加冠するとき、周公の代わりに、だれに取り仕切って貰ったらいいのか。」
孔子「国公が加冠する時は、上級家老に取り仕切りを任せる。介添え役は要らない。国公自らが主人役となり、取り仕切りの上級家老を賓客として、お辞儀して出迎え、階段を上がり、宴席の北側に立つ。そしてどぶろくを飲み干す礼を行うが、その所作は士分と同じ。客役の家老に膳を出してもてなすが、その際三献の礼を行う。どぶろくの礼を終えたら、階段を降りる。諸侯が国公として振る舞わず、自ら主人役となってもてなすことを示すため、国公のように南階段から出入りせず、西階段を通る。ただし冠は、黒布の冠と皮の頭巾を組み合わせてかぶる。ここは士分の加冠が朝服に白いひざかけだけで済ますのと異なる。そして冠を四度取り替えてかぶり直し、最後に天辺に板とすだれの付いた黒い冠をかぶり、祭壇に供物を捧げる。客への引き出物は、必ず絹の反物と、乗車の引き馬。この式次第は、王の世継ぎやその他の王子と同じ。天子だろうと、必ず主人役を務める。この点は最下級の士分と違わない。賓客を迎えてもてなすのも同じだ。」

孟懿子「生まれて初めての加冠に、冠に黒布をかぶせるのはなぜか。」
孔子「古式に従っていることを示すためだ。太古の昔は白布で冠を作ったが、物忌みの時には黒くした。ただしヒモまで黒くしたかどうかは分からない。今は冠の上から黒布をかぶせたのでかまわない。」

孟懿子「夏、殷、周王の冠は、どう違うのか。」
孔子「周は弁(頭巾)といい、殷はといい、夏は收と言ったが、形は同じだ。三代共に、皮の頭巾に白布の垂れが付いた。ただし委貌(ひも)が付いたのは周に始まり、章甫(前立て。幽霊の三角巾を四角にしたもの)が付いたのは殷に始まり、毋追(頭髪と髷を両方とも覆う頭巾。昔の一万円札で聖徳太子がかぶっていたやつ)は、夏に始まる。」

そもそも「天子」の言葉が中国語に現れるのは西周早期で、殷の君主は自分から”天の子”などと図々しいことは言わなかった。詳細は論語述而篇34余話「周王朝の図々しさ」を参照。

なお孟懿子は、魯国門閥家老の一家の当主でありながら、子路と共に孔子の最も初期の弟子であり、同世代の友人で、孔子を政界に押し上げた人物である。論語では為政篇5で初出

『論語』子罕篇:現代語訳・書き下し・原文
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