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論語詳解218子罕篇第九(14)子九夷に*

論語子罕篇(14)要約:後世の創作。ニセ孔子先生が、蛮族の地へ移り住もうと計画します。ある人が「あんな汚らわしい所によく住む気になりますね」というと、「ワシはご立派な君子サマゆえ大丈夫じゃ」と答えました。

論語:原文・書き下し

原文(唐開成石経)

子欲居九夷或曰陋如之何子曰君子居之何陋之有

校訂

東洋文庫蔵清家本

子欲居九夷或曰陋如之何子曰君子居之何陋之有

慶大蔵論語疏

子〔䒑口欠〕1居九〔一口冖丂〕2/或曰陋如之何/子曰君子居之何陋之有

  1. 「欲」の異体字。「成陽靈臺碑」(後漢)刻。
  2. 「夷」の異体字。「隋甯贙碑」刻。

後漢熹平石経

(なし)

定州竹簡論語

……欲居九夷。或曰:「陋,如之何?」子曰:「君子居之,[何陋]228……

標点文

子欲居九夷。或曰、「陋、如之何。」子曰、「君子居之、何陋之有。」

復元白文(論語時代での表記)

子 金文谷居 挙 舉 金文九 金文夷 金文 或 金文曰 金文 如 金文之 金文何 金文 子 金文曰 金文 君 金文子 金文居 挙 舉 金文之 金文 何 金文之 金文有 金文

※欲→谷。論語の本章は陋の字が論語の時代に存在しない。「或」「如」「何」の用法に疑問がある。本章は漢帝国の儒者による創作である。

書き下し

もろえびすらむともとむ。あるひといはく、いやし。これ如何いかんいはく、君子もののふこれらば、なんいやしきことからむ。

論語:現代日本語訳

逐語訳

孔子 ある人1
先生がさまざまな蛮族の住む土地に移住しようとした。ある人が言った。「けがらわしい。それをどうするのですか。」先生が言った。「君子がそこにいるなら、どんなけがらわしいことがあるだろう。」

意訳

論語 孔子 人形
孔子「蛮族の地へ引っ越そう。」
ある人「あんな汚らわしい所。よく平気で行く気になりましたね。」
孔子「ワシは古今まれなる立派な君子じゃから、どんな地に住もうと平気であるのであるぞよ。」

従来訳

下村湖人

先師が道の行われないのを歎じて九夷の地に居をうつしたいといわれたことがあった。ある人がそれをきいて先師にいった。――
「野蛮なところでございます。あんなところに、どうしてお住いが出来ましょう。」
すると先師はいわれた。――
「君子が行って住めば、いつまでも野蛮なこともあるまい。」

下村湖人『現代訳論語』

現代中国での解釈例

孔子想到一個邊遠地區去住。有人說:「這地方很落後,怎麽辦?」孔子說:「君子住在那,還有什麽落後?」

中国哲学書電子化計画

孔子はとある遠い辺境の地に移り住もうと思いついた。ある人が言った。「あの地方はとても未開です。そこをどうなさいます?」孔子が言った。「君子があそこに住むなら、どうして未開だろうか?」

論語:語釈

、「 。」 、「 。」


子(シ)

子 甲骨文 論語 孔子
「子」(甲骨文)

論語の本章では”(孔子)先生”。初出は甲骨文。論語ではほとんどの章で孔子を指す。まれに、孔子と同格の貴族を指す場合もある。また当時の貴族や知識人への敬称でもあり、孔子の弟子に「子○」との例が多数ある。なお逆順の「○子」という敬称は、上級貴族や孔子のような学派の開祖級に付けられる敬称。「南子」もその一例だが、”女子”を意味する言葉ではない。字形は赤ん坊の象形で、もとは殷王室の王子を意味した。詳細は論語語釈「子」を参照。

欲(ヨク)

欲 楚系戦国文字 欲 字解
(楚系戦国文字)

論語の本章では”求める”。初出は楚系戦国文字。新字体は「欲」。同音は存在しない。字形は「谷」+「欠」”口を膨らませた人”。部品で近音の「谷」に”求める”の語義がある。詳細は論語語釈「欲」を参照。

欲 異体字
慶大蔵論語疏は異体字「〔䒑口欠〕」と記す。「成陽靈臺碑」(後漢)刻。

居(キョ)

居 金文 居 字解
(金文)

論語の本章では”住まう”。初出は春秋時代の金文。字形は横向きに座った”人”+「古」で、金文以降の「古」は”ふるい”を意味する。全体で古くからその場に座ること。詳細は論語語釈「居」を参照。

九(キュウ)

九 甲骨文 九 字解
(甲骨文)

論語の本章では数字の”9”。初出は甲骨文。字形は腕の象形で、のち音を借りて数字の「きゅう」を表した。原義は”ひじ”。甲骨文では原義で、また数詞に用い、金文や戦国の竹簡でも数詞に用いた。詳細は論語語釈「九」を参照。

夷(イ)

夷 甲骨文 夷 字解
(甲骨文)

論語の本章では、”中華文明になじまない東方の蛮族”。東夷ともいう。北方の蛮族は北狄、南方は南蛮、西方は西戎と呼ぶ。

「夷」の初出は甲骨文。字形は「矢」+ひもで、いぐるみをするさま。おそらく原義は”狩猟(民)”。甲骨文での語義は不明。金文では地名に用いた。詳細は論語語釈「夷」を参照。

夷 異体字
慶大蔵論語疏は異体字「〔一口冖丂〕」と記す。「隋甯贙碑」刻。

或(コク)

或 甲骨文 或 字解
(甲骨文)

論語の本章では”ある人”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。「ワク」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)。甲骨文の字形は「戈」”カマ状のほこ”+「𠙵」”くち”だが、甲骨文・金文を通じて、戈にサヤをかぶせた形の字が複数あり、恐らくはほこにサヤをかぶせたさま。原義は不明。甲骨文では地名・国名・人名・氏族名に用いられ、また”ふたたび”・”地域”の意に用いられた。金文・戦国の竹簡でも同様。詳細は論語語釈「或」を参照。

曰(エツ)

曰 甲骨文 曰 字解
(甲骨文)

論語で最も多用される、”言う”を意味する言葉。初出は甲骨文。原義は「𠙵」=「口」から声が出て来るさま。詳細は論語語釈「曰」を参照。

陋(ロウ)

陋 篆書 陋 字解
(篆書)

論語の本章では”汚らわしい”。初出は定州竹簡論語。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。中国と台湾では、コード上「陋」を正字として扱っている。阝=𨸏(フ)は丸太を刻んで階段にした形、丙は祭壇などの台座、匚は箱などに入れて隠すこと。従ってたかどのに据えられた台座を隠すことで、取るべきではないいみじきものを隠し盗むこと。原義は”いやしい”。詳細は論語語釈「陋」を参照。

如之何(これをいかん)

如何 字解 何如 字解

論語の本章では”これをどうしましょう”。この語義は春秋時代では確認できない。「如何」の間に目的語の「之」を挟んだ形。「何」に「如」”したがう”か、の意。対して「何如」は”どうでしょう”。

  • したがうなに」→従うべきは何か→”どうしましょう”・”どうして”。
  • なにしたがう」→何が従っているか→”どう(なっている)でしょう”

「いかん」と読み下す一連の句形については、漢文読解メモ「いかん」を参照。

同じく「いかん」と訓読する「如何」も「何如」も初出は戦国時代で、間に「如之何」など目的語を挟む形も戦国時代に見られる。ただし「何之如」は両漢の文献にも見られない。

春秋時代は一字一義が原則で、熟語は無いものとして取り扱わねばならないが、論語の本章の場合、「陋」字の存在により後世の創作が明らかなので、通説通り「これをいかん」と訓読し解釈してかまわない。

何 甲骨文 何 字解
「何」(甲骨文)

「何」は論語の本章では”なに”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。字形は「人」+”天秤棒と荷物”または”農具のスキ”で、原義は”になう”。甲骨文から人名に用いられたが、”なに”のような疑問辞での用法は、戦国時代の竹簡まで時代が下る。詳細は論語語釈「何」を参照。

如 甲骨文 如 字解
「如」(甲骨文)

「如」は論語の本章では”…のような(もの)”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。字形は「口」+「女」。甲骨文の字形には、上下や左右に部品の配置が異なるものもあって一定しない。原義は”ゆく”。詳細は論語語釈「如」を参照。

之(シ)

之 甲骨文 之 字解
(甲骨文)

論語の本章では”これ”。初出は甲骨文。字形は”足”+「一」”地面”で、あしを止めたところ。原義はつま先でつ突くような、”まさにこれ”。殷代末期から”ゆく”の語義を持った可能性があり、春秋末期までに”~の”の語義を獲得した。詳細は論語語釈「之」を参照。

君子(クンシ)

論語の本章では、”地位教養身分人情のある立派な人”。本章は後世の偽作と思われるので、孔子生前の意味ではない語義で解釈してかまわない。

論語 貴族 孟子
「君子」は孔子の生前は単に”貴族”を意味するか、孔子が弟子に呼びかけるときの”諸君”の意でしかない。それが後世、”情け深い教養人”などと偽善的意味に変化したのは、儒家を乗っ取って世間から金をせびり取る商材にした、孔子没後一世紀の孟子から。詳細は論語における「君子」を参照。

君 甲骨文 君主
(甲骨文)

「君」の初出は甲骨文。甲骨文の字形は「コン」”通路”+「又」”手”+「口」で、人間の言うことを天界と取り持つ聖職者。春秋末期までに、官職名・称号・人名に用い、また”君臨する”の語義を獲得した。詳細は論語語釈「君」を参照。

有(ユウ)

有 甲骨文 有 字解
「有」(甲骨文)

論語の本章では”存在する”。初出は甲骨文。ただし字形は「月」を欠く「㞢」または「又」。字形はいずれも”手”の象形。金文以降、「月」”にく”を手に取った形に描かれた。原義は”手にする”。原義は腕で”抱える”さま。甲骨文から”ある”・”手に入れる”の語義を、春秋末期までの金文に”存在する”・”所有する”の語義を確認できる。詳細は論語語釈「有」を参照。

何陋之有(なんのいやしきかこれあらん)

漢文では疑問詞(ここでは「何」)は原則として句頭に来る。本来この部分は「何有陋」で良いのだが、「之」を使って倒置している。

「~之…」は、「~をこれ…す」とよみ、「~を…する」と訳す。倒置・強調の意を示す。(『学研漢和大字典』)

論語:付記

中国歴代王朝年表

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検証

論語の本章は前漢中期の定州竹簡論語に見えるが、全体の再出は後漢初期の王充『論衡』まで時代が下る。文字史的に論語の時代に遡れないのは「陋」の字だけだから、ほかの言い方が前漢になって変化した可能性はあるが、素直に前漢儒の偽作と考えるのが理に叶う。

後漢年表

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前漢の作と考えるのには時代背景もある。前漢武帝は常人未満の知能しかなく(論語雍也篇11余話「生涯現役幼児の天子」)、父祖が蓄えた国費を戦争に蕩尽し、その戦争で800年のちの唐詩にまで「辺境の流血海水を成すも、武皇辺を開く、意未だやまず」(杜甫「兵車行」)と恨み歌われるほど罪無き人民の命を磨りつぶした。

その代償として現在のオルドス(黄河が冂形になっている部分)やタリム盆地を勢力範囲に収めたのだが、帝国の一部となるからには役人を派遣せねばならなかった。いやがる連中に「孔子様もこう仰ってる」と言いくるめるために作られたと考えても不思議は無い。

解説

論語の本章は上掲の検証にかかわらず、いかにも史実の孔子が言いそうなことで、偽作とは思いたくないが、「陋」の字はどうやっても、論語の時代に遡りそうにない。あるいは別の字で孔子は言ったのだろうか。もし史実とするなら、次のように訳したいところ。

孔子「さーて、呉国へ行くかな。」
弟子「えー! イヤですよあんな汚らしいところ。先生だってそうでしょう?」
孔子「諸君と一緒なら、平気さ!」

本章でははっきり書いていないが、「九夷」とは呉国のことで、原始論語の成立初期は、呉の敵国でそれを滅ぼした越国の最盛期だったから。もとは九夷ではなく、はっきり呉と言った可能性がある。

君子 諸君 孔子
あるいは孔子が戦略を変えて、自分が一国の宰相となるより、むしろ後ろから呉国を操るようになったのは、こうした弟子の反発からかも知れない。孔子は論語八佾篇5に言ったように、徹底的に周辺民族を蛮族と見て見下すよう弟子に説教していたから、身から出た錆ではある。

そして呉国にも、孔子本人を迎えられない事情があった。孔子としては、呉国には北上して中原諸国を圧倒し、故国の魯に圧力を加えて、自分の帰国が実現しやすいような環境を作って貰いたかった。呉王の夫差や宰相の伯は北進策に乗り気だったが、軍師の伍子ショが反対した。
伍子胥

この意見のすれ違いから、伍子胥は呉王夫差に嫌われて自殺を迫られ、死亡した(BC484)。この年は孔子が魯に帰国した年で、タガの外れた呉国は大軍を北上させて呉王自ら斉を攻撃するにいたる。そしてBC482、晋と対峙した呉は留守を越に襲われ、一挙に没落していった。

以下、儒者の感想文を示す。

古注『論語集解義疏』

子欲居九夷註馬融曰九夷東方之夷有九種也或曰陋如之何子曰君子居之何陋之有註馬融曰君子所居者皆化也疏子欲至之有 雲子欲居九夷者孔子聖道不行於中國故託欲東徃居於九夷也亦如欲乗桴浮海也云或曰陋如之何者或人不達孔子意謂之實居故云陋如之何言夷狄鄙陋不可居也云子曰云云者孔子荅云君子所居即化豈以鄙陋為疑乎不復逺申己意也孫綽云九夷所以為陋者以無禮義也君子所居者化則陋有泰也 註馬融曰至種也 四方東有九夷一𤣥菟二樂浪三高麗四滿飾五鳬更六索家七東屠八倭人九天鄙南有八蠻一天竺二咳首三僬僥四跂踵五穿胸六儋耳七狗軹八旁脊西有六戎一僥夷二依貊三織皮四耆羗五鼻息六天剛北有五狄一月支二濊貊三匈奴四單于五白屋也 註馬融曰至化也 聖人所在則化九夷變中夏也

本文「 子欲居九夷」。
注釈。馬融「九夷とは、東方の蛮族である。九種類いた。」

本文「或曰陋如之何子曰君子居之何陋之有」。
注釈。馬融「君子の住む所は、そのお説教のせいでみんなが洗脳されて、おとなしくなるのである。」

付け足し。先生は窮極の住まいを望んだ。「子欲居九夷」とは、孔子のありがたい道が中国では全然流行らないので、蛮族が九種類もウホウホとわだかまっている地へ行ってしまうぞ、と負け惜しみを言ったのである。行く気は全然無かったのである。「筏で海に出ちまおう」(論語公冶長篇6)と言ったのと同じである。

「或曰陋如之何」とは、ある人が孔子の負け惜しみを真に受けて、本当に引っ越すと思ったのである。だから「陋如之何」と言ったのである。蛮族どもは未開で汚らしく、とても住めない、と言ったのである。

「子曰うんぬん」は、孔子がそれに答えて、君子が住んだ瞬間に、その辺の連中は頭がやられて大人しくなるから、どうして未開で汚らしいんじゃないかと怖がる必要があるか、と言ったのである。本当は行く気が全然無いのを遠回しに言ったことを、繰り返して言わなかったのである。

孫綽「九夷が汚らしい理由は、礼儀が無いからである。君子が住むと周りの連中は洗脳されて大人しくなるから、汚らしくても大丈夫なのである。」

注釈。馬融「蛮族はこれで全部である。」

四方のうち東には九種類の夷(えびす)が住む。一、玄菟。二、楽浪。三、高麗。四、満飾。五、更(※鳬はカモ)。六、索家。七、東屠。八、倭人。九、天鄙。南には八種類の蛮(えびす)が住む。一、天竺。二、咳首。三、僬僥。四、跂踵。五、穿胸。六、儋耳。七、狗軹。八、旁脊。西には六種類の戎(えびす)が住む。一、僥夷。二、依貊。三、織皮。四、耆羗。五、鼻息。六、天剛。北には五種類の狄(えびす)が住む。一、月支。二、濊貊。三、匈奴。四、単于。五、白屋である。

注釈。馬融「人を洗脳して大人しくさせる窮極である。聖人が住むと、どんな野蛮人が住む蛮地でも、みんな中華になってしまうのである。」

「中華になってしまうのである。」商社の人に聞くと、まことに、世界のどんな山奥にも中国人は居て、たいがい中華料理屋をやっているらしく、現地のどんな食材も中華料理になってしまうとのことである。

新注『論語集注』

子欲居九夷。東方之夷有九種。欲居之者,亦乘桴浮海之意。或曰:「陋,如之何!」子曰:「君子居之,何陋之有?」君子所居則化,何陋之有?


本文「子欲居九夷。東方之夷有九種。」
そこに住もうとした、とは、欲居之者,いかだに乗って海に出てしまおう、の意である(論語公冶長篇6)。

本文。「或曰:陋,如之何! 子曰:君子居之,何陋之有?」
そこにどんな蛮族が住んでウホウホと蛮行にふけっていても、君子が棲み着くとすぐさまおりこうさんに仕立ててしまえるから、汚らわしいなどということがあり得ようか?

余話

パオン!

「夷」と言えば中国から見て東方の蛮族の意に決まってしまっているが、甲骨文を用いた殷王朝の「夷」は、ただの弓を持った人であり、都市国家名であり、弓で攻めることでもあった。その殷を周が滅ぼしたとき、殷の一族を殷の地、現在の殷墟の大名として取り立てた。

殷 金文 論語 商 金文

殷とは殷王朝の他称で、「人の生きギモを取る野蛮な奴ら」の意。自称は「商」で、”大いなる都市国家”を意味した。負けてしまったから「殷」の名を押し付けられたことになるが、周の武王と太公望以下要人が故地の岐山(現・西安)に帰ってしまうと、機を捉えて反乱を起こした。

これを三監の乱という。これにはお目付役に残った周の一族も加わったという。周では武王が若くしてぽっくり亡くなり、若い成王の摂政を周公旦が務めていたが、一族まで反乱に加わったとあって、周は滅亡の瀬戸際に立たされた。この反乱に「夷」が一枚かんでいる。

wikipedia「三監の乱」条日本語版は英語版の翻訳で、筆者は原文の漢文を参照していないように見える。ままあることで不思議は無いが、長らく殷王朝と同盟関係にあったさまざまな「夷」が、反乱軍側に立って周に反抗したとある。ただし『史記』にはそう書いていない。

鎮圧後に、「東夷」を平定したとあるだけだ。

召公為保,周公為師,東伐淮夷,殘奄,遷其君薄泵。


召公を後見人とし、周公を天子の師に任じ、東方の淮夷と残奄を討伐し、その酋長を薄泵の地に拉致した。(『史記』周本紀)

英文は読めないから英語版を読んでいないし、筆者が何を根拠にしたか不明。周初の記録として『史記』より古い文献は、出土品のほかに、戦国時代に編まれた断片的な記録だけだ。そのうちの一つ、『呂氏春秋』古楽14には、ぜんぜん別の事情だったと受け取れる記述がある。

成王立,殷民反,王命周公踐伐之。商人服象,為虐于東夷,周公遂以師逐之,至于江南,乃為三象,以嘉其德。


成王が即位すると、殷の民が反乱を起こし、王は周公に命じて遠征して反乱を鎮圧させた。商の人が象を従え、東夷で乱暴を働いたので、周公はその機に乗じて軍隊を引き連れて商の人を追い払い、長江の南岸まで追い詰めた。ここで「三象」を設置したのは、その力を讃えたからだ。

このくだりはいろいろに解釈出来る。「殷民」が殷滅亡時の都だった殷墟に住まう殷の末裔なのは動かないが、周初の「商」はたびたび殷の都が置かれた古都だったが、反乱当時殷の末裔が大名だった記録は無い。反乱後に改めて殷の末裔が集められ、「宋」が立てられたのみ。

だからこの時背いた「商人」が、殷の末裔であるとは言い切れない。waikipedia「戦象」条はこの部分を引用して、殷王朝軍で象が使われたとするが、おそれくそれは正しいだろう。だが「為虐于東夷」の解は上掲のほか、”東夷によってさんざん打ち負かされた”でもありうる。

于 金文 為 甲骨文

「于」は”…の場面で”の意で、訓読するなら「に」。「を」であることはまずない。ゆえに「于東夷」は”東夷に”であり、「為」は”象を調教するさま”がもとになった象形文字だが、”する”の意でも”なる”の意でもある。「虐」はトラなど猛獣の頭を「屮」”手”で殴りつけるさま。

つまり東征するアレクサンドロス大王よろしく、東夷が象の弱点を見抜いてボコボコにし、「商人」の象軍が壊滅したとも解せるわけだ。三監の乱で背いた「商人」とは誰なのか。東夷は反乱に加担したのか刃向かったのか。今となっては、想「象」を楽しむネタでしかない。

また「三象」とはインドにお経を取りに行った坊さんではなく、「サンショウ」と音読みする座敷わらしになっており、そういう名の楽曲だったと解するのが通説。ゆえに『呂氏春秋』も古楽篇に載せたわけだが、周代の伝説は後世のでっち上げが多くて信用できないのが多い。

呂氏春秋 古楽

四部叢刊初編『呂氏春秋』古楽・末尾部分

しかも「楽曲名だ」と言い出したのは、信用ならない後漢時代の高誘。権力は絶対に腐敗するから、漢以降の儒者は通時代的に愚劣だったが、任官に学力試験が無い上に、開祖の光武帝が偽善者だった後漢の儒者は、輪を掛けて知的程度が劣り、ほとんど出任せしか言っていない。

詳細は論語解説「後漢というふざけた帝国」を参照。

『論語』子罕篇:現代語訳・書き下し・原文
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