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論語詳解217子罕篇第九(13)ここに美玉有らむ’

論語子罕篇(13)要約:孔子先生をきれいな宝石にたとえて、これを箱に収めてしまっておきましょうか、それともアキンドに売りましょうか、と弟子のアキンド子貢。先生は即座に、「売るぞ売るぞ!」教えるからには、売りたいのです。

論語:原文・書き下し

原文(唐開成石経)

子貢曰有美玉於斯韞匵而藏諸求善賈而沽諸子曰沽之哉沽之哉我待賈者也

校訂

諸本

  • 論語集釋:漢石經「沽諸」、「沽之哉」,「沽」俱作「賈」。漢石經論語曰:「求善賈而賈諸。」
  • 宋版『論語注疏』・正平本・文明本・早大蔵新注・四庫全書新注:「匵」。ネット上の版本に「櫝」と記すものがあるが、来源不明。

東洋文庫蔵清家本

子貢曰有美玉於斯韞匵而藏諸求善賈而沽諸/子曰沽之哉沽之哉我待賈者

慶大蔵論語疏

子貢曰有𫟈1玉〔扌仌〕2斯/韞遺而藏諸求善賈而沽諸/子曰沽沽之之㦲33/我待賈者4

  1. 「美」の異体字。「隋劉淵墓志」刻。『敦煌俗字譜』所収。
  2. 「於」の異体字。「魏章武王元彬墓誌」(北魏)刻。
  3. 「哉」の異体字。「唐高岑墓誌」刻。
  4. 新字体と同じ。原字。

後漢熹平石経

(なし)

定州竹簡論語

貢曰:「有美玉於斯,昷獨a而藏諸,求善賈而賈b227……


  1. 昷獨、今本作”韞匵”。昷為韞之省、獨、匵音同可通假。『釋文』云、”韞、鄭云、裏也。匵、本又作櫝”。
  2. 而賈、阮本作”而沽”、漢石経”沽”作”賈”。

標点文

子貢曰、「有美玉於斯、𥁕獨而藏諸。求善賈而賈諸。」子曰、「賈賈之之哉哉。我待賈者也。」

復元白文(論語時代での表記)

子 金文貢 甲骨文曰 金文 有 金文美 金文玉 金文於 金文斯 金文 𥁕 金文賈 金文而 金文臧 金文者 金文 求 金文善 金文賈 金文而 金文賈 金文者 金文 子 金文曰 金文 賈 金文賈 金文之 金文之 金文哉 金文哉 金文 哉 金文待 金文賈 金文者 金文也 金文

※貢→(甲骨文)・獨→賈・藏→臧。論語の本章は、「諸」「沽」「也」の用法に疑問がある。

書き下し

子貢しこういはく、きはうるはしきたまらむに、ひと𥁕をさもろもろをさめむか、あきうどもともろもろらむか。いはく、賈賈之之哉哉これをうらんかなこれをうらんかなわれあきうどものなり

論語:現代日本語訳

逐語訳

子貢 孔子
子貢が言った。「この場に美しい宝玉があります。一つずつ箱にしまっていろいろと隠しましょうか、それともいい商売人を探していろいろと売りましょうか。」先生が言った。「売ろうぞ売ろうぞ。私は商売人を待っている者だ。」

意訳

子貢 遊説 孔子
子貢「呉国での工作は終えました。先生を迎えたい、と。さ~て先生、♪この玉隠しましょか、売りましょか。」
孔子「売るぞ売るぞ! 私はアキンドを待っていたのだ。」

従来訳

下村湖人

子貢が先師にいった。――
「ここに美玉があります。箱におさめて大切にしまっておきましょうか。それとも、よい買手を求めてそれを売りましょうか。」
先師はこたえられた。――
「売ろうとも、売ろうとも。私はよい買手を待っているのだ。」

下村湖人『現代訳論語』

現代中国での解釈例

子貢說:「假如這有塊美玉,是用櫃子藏起來呢?還是賣給識貨的人呢?」孔子說:「賣出去!賣出去!我等著識貨的人。」

中国哲学書電子化計画

子貢が言った。「もしここにひとかたまりの美玉があったとして、箱に仕舞い込みましょうか?それとも価値の分かる人に売りましょうか?」孔子が言った。「売り飛ばせ!売り飛ばせ!私は価値の分かる人をずっと待っていたのだ。」

論語:語釈

子貢(シコウ)

BC520ごろ-BC446ごろ 。孔子の弟子。姓は端木、名は賜。衛国出身。論語では弁舌の才を子に評価された、孔門十哲の一人(孔門十哲の謎)。孔子より31歳年少。春秋時代末期から戦国時代にかけて、外交官、内政官、大商人として活躍した。

『史記』によれば子貢は魯や斉の宰相を歴任したともされる。さらに「貨殖列伝」にその名を連ねるほど商才に恵まれ、孔子門下で最も富んだ。子禽だけでなく、斉の景公や魯の大夫たちからも、孔子以上の才があると評されたが、子貢はそのたびに否定している。

孔子没後、弟子たちを取りまとめ葬儀を担った。唐の時代に黎侯に封じられた。孔子一門の財政を担っていたと思われる。また孔子没後、礼法の倍の6年間墓のそばで喪に服した。斉における孔子一門のとりまとめ役になったと言われる。

詳細は論語の人物:端木賜子貢参照。

子 甲骨文 子 字解
「子」

「子」の初出は甲骨文。論語ではほとんどの章で孔子を指す。まれに、孔子と同格の貴族を指す場合もある。また当時の貴族や知識人への敬称でもあり、孔子の弟子に「子○」との例が多数ある。なお逆順の「○子」という敬称は、上級貴族や孔子のような学派の開祖級に付けられる敬称。「南子」もその一例だが、”女子”を意味する言葉ではない。字形は赤ん坊の象形で、もとは殷王室の王子を意味した。詳細は論語語釈「子」を参照。

貢 甲骨文 貢 字解
(甲骨文)

子貢の「貢」は、文字通り”みつぐ”ことであり、本姓名の端木と呼応したあざ名と思われる。所出は甲骨文。『史記』貨殖列伝では「子コウ」と記し、「贛」”賜う”の初出は楚系戦国文字だが、殷墟第三期の甲骨文に「章ケキ」とあり、「贛」の意だとされている。詳細は論語語釈「貢」を参照。

『論語集釋』によれば、漢石経では全て「子贛」と記すという。定州竹簡論語でも、多く「貢 外字」と記す。本章はその例外。

曰(エツ)

曰 甲骨文 曰 字解
(甲骨文)

論語で最も多用される、”言う”を意味する言葉。初出は甲骨文。原義は「𠙵」=「口」から声が出て来るさま。詳細は論語語釈「曰」を参照。

有(ユウ)

有 甲骨文 有 字解
「有」(甲骨文)

論語の本章では”存在する”。初出は甲骨文。ただし字形は「月」を欠く「㞢」または「又」。字形はいずれも”手”の象形。金文以降、「月」”にく”を手に取った形に描かれた。原義は”手にする”。原義は腕で”抱える”さま。甲骨文から”ある”・”手に入れる”の語義を、春秋末期までの金文に”存在する”・”所有する”の語義を確認できる。詳細は論語語釈「有」を参照。

美(ビ)

美 甲骨文 善 字解
(甲骨文)

論語の本章では”美しい”。初出は甲骨文。字形はヒツジのかぶり物をかぶった高貴な人。春秋時代までは、人名や国名、氏族名に用いられ、”よい”・”うつくしい”などの語義は戦国時代以降から。甲骨文・金文では、横向きに描いた「人」は人間一般のほか、時に奴隷を意味するのに対し、正面形「大」は美称に用いられる。詳細は論語語釈「美」を参照。

慶大蔵論語疏は異体字「𫟈」と記す。「隋劉淵墓志」刻。『敦煌俗字譜』所収。

玉*(ギョク)

玉 甲骨文 玉 字解

論語の本章では”宝石”。初出は甲骨文。字形は数珠つなぎにした玉の象形。甲骨文から”たま”の意で用いた。詳細は論語語釈「玉」を参照。

中国では宝物としてヒスイの類の緑石を重んじた。現行字形は「王」に一点加えたものだが、「王」の字形はまさかりの象形から来ているので、全く由来が違う。

於(ヨ)

烏 金文 於 字解
(金文)

論語の本章では”~に”。初出は西周早期の金文。ただし字体は「烏」。「ヨ」は”~において”の漢音(遣隋使・遣唐使が聞き帰った音)、呉音は「オ」。「オ」は”ああ”の漢音、呉音は「ウ」。現行字体の初出は春秋中期の金文。西周時代では”ああ”という感嘆詞、または”~において”の意に用いた。詳細は論語語釈「於」を参照。

於 異体字
慶大蔵論語疏は異体字「〔扌仌〕」と記す。「魏章武王元彬墓誌」(北魏)刻。

斯(シ)

斯 金文 斯 字解
(金文)

論語の本章では、”この場”。初出は西周末期の金文。字形は「其」”籠に盛った供え物を祭壇に載せたさま”+「斤」”おの”で、文化的に厳かにしつらえられた神聖空間のさま。意味内容の無い語調を整える助字ではなく、ある状態や程度にある場面を指す。例えば論語子罕篇5にいう「斯文」とは、ちまちました個別の文化的成果物ではなく、風俗習慣を含めた中華文明全体を言う。詳細は論語語釈「斯」を参照。

韞*(ウン)→𥁕*(オン)

唐石経・慶大本・清家本は「韞」と記し、現存最古の論語本である定州竹簡論語は「昷」と釈文する。定州本の注記の通り、「韞」の略体と解するのが妥当と考える。ただし字の来源から考えると「昷」形ではなく「𥁕」形の方に理がある。論語の伝承について詳細は「論語の成立過程まとめ」を参照。

原始論語?…→定州竹簡論語→白虎通義→
             ┌(中国)─唐石経─論語注疏─論語集注─(古注滅ぶ)→
→漢石経─古注─経典釈文─┤ ↓↓↓↓↓↓↓さまざまな影響↓↓↓↓↓↓↓
       ・慶大本  └(日本)─清家本─正平本─文明本─足利本─根本本→
→(中国)─(古注逆輸入)─論語正義─────→(現在)
→(日本)─────────────懐徳堂本→(現在)

𥁕 金文 韞 𥁕 字解
(金文)

論語の本章では”収納する”。論語では本章のみに登場。初出は春秋早期の金文。現行字形に近い初出は後漢の隷書。初出の字形は「囚」+「皿」で、皮袋に閉じこめた罪人を、水に投げ込むさま。戦国の竹簡では、多くが「盟」「明」と釈文されている。戦国の竹簡で、「𥁕」を「韞」と釈文した例がある。詳細は論語語釈「韞」を参照。

溫 温 字解
「𥁕」を先学がこぞって「溫」(温)の原字とするが、初出は「溫」が先行して甲骨文で、すでに現行字形の構成から□を欠く「氵+人+皿」”水+人+風呂桶”になっていた。同じく甲骨文に「囚」”閉じこめる”があり、西周になって人を取り囲むのが□でなくふくろになり、人名に用いられた。春秋になっておそらく「溫」と混同され、「𥁕」と下に「皿」が付けられた。つまり漢字の発生史的にむしろ「溫」が「𥁕」の原字と見るべき。詳細は論語語釈「昷」を参照。

匵*(トク)→獨*(トク)

論語の本章では”ひとつだけ”。ネット上の版本に「櫝」と記すものがあるが、来源不明。慶大蔵論語疏は「遺」と記す。文字的には論語語釈「遺」を参照。「韞遺」で「おさめのこす」と読み、”仕舞い込む”と解してよいのだろうが、より古い定州竹簡論語がこの部分を残しているため従わない。

定州本の注記に「獨、匵音同可通假」”獨と匵は同音で仮借文字として通用した”とあり、上古音ではほぼ間違いなく同音同調であることから、定州本の「獨」を”はこ”・”箱に仕舞う”と解するべきところだが、「獨」は戦国時代までには”ひとり”の用例が現れるものの、”はこ”の例は見当たらない。いずれにせよ論語の時代に「獨」が何を意味したのかは不明なのだが、用例としてより古い”ひとり”と解するのが妥当と判断した。

匵 篆書 櫝 字解
(篆書)

初出は後漢の『説文解字』。字形は〔匚〕”はこ”+〔賣〕”宝物を仕舞う”。「櫝」は事実上の異体字。論語語釈「櫝」を参照。現伝の論語の本章に用いる版本があるほか、現伝の前漢『新語』術事篇に「韞匵」”かくす・仕舞う”として見える。論語時代の置換候補は部品の「賈」。初出は甲骨文。詳細は論語語釈「匵」を参照。

独 秦系戦国文字 不明 字解
(秦系戦国文字)

定州竹簡論語は「獨」と記す。新字体は「独」。初出は楚系戦国文字。春秋早期の金文に「トク」”新しい衣の衣擦れの音”を「獨」と釈文した例があるが、まるで字形が違うので初出とは見なしがたい。字形はけものへん+”目を見開いた人”+”虫”または”へび”だが、意味するところは不明。「ドク」は呉音。同音に蜀を部品とする漢字群、賣を部品とする漢字群多数。戦国の竹簡で”一人で”・”孤立して”の意に用いた。詳細は論語語釈「独」を参照。

而(ジ)

而 甲骨文 而 解字
(甲骨文)

論語の本章では”そして”。初出は甲骨文。原義は”あごひげ”とされるが用例が確認できない。甲骨文から”~と”を意味し、金文になると、二人称や”そして”の意に用いた。英語のandに当たるが、「A而B」は、AとBが分かちがたく一体となっている事を意味し、単なる時間の前後や類似を意味しない。詳細は論語語釈「而」を参照。

藏(ソウ)

蔵 金文 蔵 字解

論語の本章では”仕舞う”。新字体は「蔵」。初出は戦国末期の金文。ただし字形が大幅に異なり、現行字形の初出は後漢の説文解字。論語の時代に存在しない。類義語の「臧」の初出は甲骨文。字形は「艹」+「臧」で、「臧」に「葬」の音があり、草むらに隠すさま。原義は”仕舞い込む”。「ゾウ」は呉音。上古音の同音は無い。戦国の竹簡で”しまう”の意に用いた。詳細は論語語釈「蔵」を参照。

諸(ショ)

諸 秦系戦国文字 諸 字解
(秦系戦国文字)

論語の本章では”いろいろと”。この語義は春秋時代では確認できない。論語の時代では、まだ「者」と「諸」は分化していない。「者」の初出は西周末期の金文。現行字体の初出は秦系戦国文字。金文の字形は「者」だけで”さまざまな”の意がある。詳細は論語語釈「諸」を参照。

「これ」と単数指示詞に読むのが通説だが、「者」と分化する前から「諸侯」の「諸」の字に使われており、複数と解するのに理が通る。「斯文」がちまちました個別の文化的成果を意味せず、中華文明全体を意味したように(論語語釈「斯」)、孔子は自分が単能ではなく、多様な才を売り出そうと思っていたわけ。

「君子とは多芸なものかね」と言った論語子罕篇6と矛盾するようではあるが、6は一応文字史的に後世の創作が疑われるし、孔子も売り出したいときには、宣伝文句を盛りもしただろう。

求(キュウ)

求 甲骨文 求 字解
(甲骨文)

論語の本章では”もとめる”。初出は甲骨文。ただし字形は「」。字形と原義は足の多い虫の姿で、甲骨文では「とがめ」と読み”わざわい”の意であることが多い。”求める”の意になったのは音を借りた仮借。論語の時代までに、”求める”・”とがめる””選ぶ”・”祈り求める”の意が確認できる。詳細は論語語釈「求」を参照。

善(セン)

善 金文 善 字解
(金文)

論語の本章では”よい”。「善」はもとは道徳的な善ではなく、機能的な高品質を言う。「ゼン」は呉音。字形は「譱」で、「羊」+「言」二つ。周の一族は羊飼いだったとされ、羊はよいもののたとえに用いられた。「善」は「よい」「よい」と神々や人々が褒め讃えるさま。原義は”よい”。金文では原義で用いられたほか、「膳」に通じて”料理番”の意に用いられた。戦国の竹簡では原義のほか、”善事”・”よろこび好む”・”長じる”の意に用いられた。詳細は論語語釈「善」を参照。

沽*(コ)→賈(コ)

沽 金文 沽 字解
(金文)

論語の本章では”商人”・”売る”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は西周末期の金文。字形は「水」+”水たまりに立てた標識”。深さのある川や湖の意。上古音は声調は違うが「賈」”うりかいする”と同音。春秋末期までの用例は一件のみで、”みずうみ”の意に用いた。詳細は論語語釈「沽」を参照。

論語では”うる・かう”など商売系の意に用いられたが、いずれも後世の偽作で、初出は前漢初期の賈誼『新書』で、匈奴篇6に「大每一關,屠沽者、賣飯食者、美臛炙膹者,每物各一二百人,則胡人著於長城下矣。」とあり、戦国最末期から前漢初期になって現れた語義と分かる。

賈 甲骨文 賈 字解
(甲骨文)

定州竹簡論語、『論語集釋』に引く漢石経では「賈」と記す。初出は甲骨文。”売買”・”商人”の意では「コ」(上声)と読み、”値段”・国名・姓名の場合は「カ」(去声)と読む。字形は「貝」”貝貨”+「」”はこ”で、貝貨を箱に収納したさま。原義は”商売”。甲骨文での語義は不明、金文では”価格”、”取引”、”商売(人)”、国名に、また戦国早期の金文では人名に用いた。詳細は論語語釈「賈」を参照。

之(シ)

之 甲骨文 之 字解
(甲骨文)

論語の本章では”これ”。初出は甲骨文。字形は”足”+「一」”地面”で、あしを止めたところ。原義はつま先でつ突くような、”まさにこれ”。殷代末期から”ゆく”の語義を持った可能性があり、春秋末期までに”~の”の語義を獲得した。詳細は論語語釈「之」を参照。

哉(サイ)

𢦏 金文 哉 字解
(金文)

論語の本章では”…だなあ”。詠歎を表す。初出は西周末期の金文。ただし字形は「𠙵」”くち”を欠く「𢦏サイ」で、「戈」”カマ状のほこ”+「十」”傷”。”きずつく”・”そこなう”の語釈が『大漢和辞典』にある。現行字体の初出は春秋末期の金文。「𠙵」が加わったことから、おそらく音を借りた仮借として語気を示すのに用いられた。金文では詠歎に、また”給与”の意に用いられた。戦国の竹簡では、”始まる”の意に用いられた。詳細は論語語釈「哉」を参照。

哉 異体字
慶大蔵論語疏は異体字「㦲」と記す。「唐高岑墓誌」刻。

沽之哉沽之哉→賈賈之之哉哉

現存最古の論語の版本である定州竹簡論語では、この部分を欠く。従って現存最古の文字列は慶大蔵論語疏になり、言葉を重ねるときは一文字ずつ「沽沽之之哉哉」と書いてあったことになる。慶大本に次ぐ古注系論語である宮内庁蔵清家本は、唐石経と同じく「沽之哉沽之哉」と記している。

訳者は手元に漢石経を持たないが、『論語集釋』は𦰩石経では全て「沽」→「賈」となっているという。慶大本と漢石経を組み合わせると、この部分の文字列は「賈賈之之哉哉」が最も古いことになる。

論語の本章のこの畳語を、今仮に現伝の文字列をABCABC型、慶大本の文字列をAABBCC型と呼ぶ。現伝の『詩経』では、論語八佾篇20に引用された「関雎」のように、「悠哉悠哉」と前者の例は見られるが、後者の例は一語の畳語「関関」しか見られない。

譙燕「漢語の四字畳語の構造・機能等について」(同志社大学・1999)が「『詩経』ではAABB型畳語が多用される」というのは、春秋時代までの漢語が原則として一語一字だったことの反映である上に、下掲同様詩文であり、さらに三語の畳語AABBCC型ではないから本章の参考にはならない。

年年歳歳 花相似たり/歳歳年年 人同じからず(初唐・劉廷芝「代悲白頭翁」)

論語での畳語に論語雍也篇25「觚哉觚哉」があるが、定州竹簡論語はこの章全体を欠いており、畳語をどう表現したか不明。また論語郷党篇に見られる「恂恂如」「侃侃如」「誾誾如」も形式が違うから参考にならない。

以上を踏まえると、慶大本の文字列は「詩文っぽい遊びかも」とは言えるし、慶大本はギャル文字のような文字遊びが見られるからこの部分も遊びと断定してもよさそうだが、今は可能性を提示するに止める。

また慶大蔵論語疏の疏(注の付け足し)には「重云沽之哉」とあり、無記名だからおそらく皇侃による書き込みで、南北朝時代には畳語になっていたことを示すが、後漢末までの注には畳語であったことが記されていない。かろうじて後漢末に生涯がかかり、主に三国魏に仕えた王弼は、疏の別の箇所に「重言沽之哉」と記している。

後漢年表

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我(ガ)

我 甲骨文 我 字解
(甲骨文)

論語の本章では”わたし”。初出は甲骨文。字形はノコギリ型のかねが付いた長柄武器。甲骨文では占い師の名、一人称複数に用いた。金文では一人称単数に用いられた。戦国の竹簡でも一人称単数に用いられ、また「義」”ただしい”の用例がある。詳細は論語語釈「我」を参照。

待*(タイ)

待 金文 待 字解
(金文)

論語の本章では”待つ”。初出は西周早期の金文。字形は「彳」”みち”+「止」”あし”+「又」”手”。行こうとする者を引き止める様。春秋末期までの用例は二件しか見つかっておらず、語義が明らかでない。詳細は論語語釈「待」を参照。

者(シャ)

者 諸 金文 者 字解
(金文)

論語の本章では”~である者”。この語義は春秋時代では確認できない。旧字体は〔耂〕と〔日〕の間に〔丶〕一画を伴う。新字体は「者」。ただし唐石経・清家本ともに新字体と同じく「者」と記す。現存最古の論語本である定州竹簡論語も「者」と釈文(これこれの字であると断定すること)している。初出は殷代末期の金文。金文の字形は「木」”植物”+「水」+「口」で、”この植物に水をやれ”と言うことだろうか。原義は不明。初出では称号に用いている。春秋時代までに「諸」と同様”さまざまな”、”…は”の意に用いた。漢文では人に限らず事物にも用いる。詳細は論語語釈「者」を参照。

慶大蔵論語疏は新字体と同じく「者」と記す。「耂」と「日」の間の「丶」を欠く。「国学大師」によると旧字の出典は後漢の「華山廟碑」、文字史から見れば旧字体の方がむしろ新参の字形。

也(ヤ)

也 金文 也 字解
(金文)

論語の本章では「なり」と読んで断定の意。この語義は春秋時代では確認できない。「や」と読んで詠嘆にも解しうる。初出は事実上春秋時代の金文。字形は口から強く語気を放つさまで、原義は”…こそは”。春秋末期までに句中で主格の強調、句末で詠歎、疑問や反語に用いたが、断定の意が明瞭に確認できるのは、戦国時代末期の金文からで、論語の時代には存在しない。詳細は論語語釈「也」を参照。

論語:付記

中国歴代王朝年表

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検証

論語の本章は前漢中期の定州竹簡論語に見えるが、春秋戦国の誰一人引用していない。先秦両漢と時代を広げてみても、後半が後漢初期の『白虎通義』に見えるのみで、前半の子貢の台詞を論語からの引用と断って引用したのは後漢末期の蔡邕『蔡中郎集』が初めてとなる。

于是因好友朋,僉以為仲尼既歾,文不在茲,韞櫝美玉,喪莫賈之,求而無繼,慺而永思。


(玄文先生への墓碑銘。)ここに故人との旧交を思い、皆揃ってその徳をたたえる。孔子先生はすでにみまかったというのに、故人はその文化を受け継いで、箱に仕舞った美玉の如く保ったが、いまはもう商人が居ようとその美玉を買うに買えず、どんなに願ってもその学識を受け継ぐ者は居ない。その事を改めてかみしめ、長く故人の徳を思うのであります。(『蔡中郎集』玄文先生李子材銘)

対して定州竹簡論語は前半のみ残っているのだが、前漢後半から後漢までの儒者にとって、子貢の台詞は引用する価値が無いと思われたらしい。ただし「美玉を箱に隠す」という言い廻しそのものは、前漢初期の陸賈『新語』に見える。

故良馬非獨騏驥,利劍非唯干將,美女非獨西施,忠臣非獨呂望。今有馬而無王良之御,有劍而無砥礪之功,有女而無芳澤之飾,有士而不遭文王,道術蓄積而不舒,美玉韞匵而深藏。


だから良馬は麒麟だけとは限らず、名剣は干将だけとは限らず、美女は西施だけとは限らず、忠臣は太公望だけとは限らない。今は良馬が居ても名御者がおらず暴れ馬のままで、名剣があっても砥石が無いから錆びるに任せ、美女がいても化粧品に事欠くからざんばら髪で、剛の者が居ても名君に出会えないから腐ってしまい、学術研究が積み重なってもぜんぜん世の為にならず、美玉は箱にしまわれて誰にも知られない。(『新語』術事5)

というわけで論語の本章の史実性はずいぶん怪しいのだが、文字史的には論語の時代に全て遡れ、かつ孔子の史実とも矛盾しないから、史実と扱って構わない。

解説

「売るぞ売るぞ」は、孔子の口から出たとしてもおかしくはない。

孔子 キメ
売り出し先の一つである呉が孔子を登用した記録はない。ただし子貢が行き来しており、論語泰伯篇と子罕篇の話は、呉との関係を強く思わせる。孔子がその生涯で自分を売り出そうとした一覧は、下の通り。ただし2は売り出したわけではなく、孔子の方から断っている。

  1. BC516(孔子36歳)斉の景公に採用されかけ失敗。
  2. BC504(孔子48歳)魯で陽虎に招かれるが断る。
  3. BC502(孔子50歳)魯で公山弗擾フツジョウの招きに応じようとするが、実現せず
  4. BC597(孔子55歳)衛の霊公に一旦仕えるが、しくじる。
  5. BC490(孔子62歳)晋の佛肸フツキツの招きに応じようとするが、果たせず。
  6. BC489(孔子63歳)楚・昭王に招かれるが、楚の宰相・子西の反対でしくじる。

そして6でしくじったあと、急に勃興してきたのが南方の呉国。

呉王夫差
これ以降、孔子は仕官活動を一切していない。とうとう自分の政治構想実現を諦めたのだろうか? そうではないと訳者は見る。すでに歴史も古い、利害関係も複雑な国に直接仕えるのではなく、新興の呉を裏から操ろうとしたのだ。呉王夫差を補佐する人物を見れば分かる。

軍師の伍子ショは、故国の楚を追われて亡命してきた者であり、宰相の伯も同様。将軍の孫武(いわゆる初代孫子)は斉の出身で、客員閣僚ばかりが揃っている。地生えの家老がわんさかいる中原諸侯国や、有力大名の連合体である楚と異なり、孔子にも分け入る隙があったのだ。

なお日本でだけ有名な歴史物語『十八史略』では、伍子胥の最期に論語の本章にある「櫝」の字を使う。ただ『大漢和辞典』は『説文解字』を引いて”木の名”とあるだけで、何の木なのか分からない。書き手も”棺桶の材木”という程度のつもりでしかあるまい。

必ず吾が墓にトクえよ。櫝は(呉王の棺の)材となすべきなり。吾が目をえぐりて東門に懸けよ。以て越兵の呉を滅ぼすを観ん。(『十八史略』春秋戦国・呉)

有名な下りだから、現代語訳は無用でしょう。この話は『史記』では「梓」になっている。

必樹吾墓上以梓,令可以為器;而抉吾眼縣吳東門之上,以觀越寇之入滅吳也。(『史記』伍子胥伝)

「梓」は訓読みの通り”あずさ”だが、古代中国では天子の棺桶の材料にした、と帝国の儒者が言い張っている。本当かどうかは分からない。少なくとも戦国時代を生きた孟子は、「梓匠」を”木工職人”の意で使っており、つまり大工も箪笥屋も含まれる。わざわざ早桶屋だと断ってはいない。儒者の言い分はどんなに古くても前漢時代に偽作された『小載礼記』にしか見られない。

以下、論語の本章の新古の注。

古注『論語集解義疏』

子貢曰有美玉於斯韞匵而藏諸求善賈而沽諸註馬融曰韞藏也匵匱也藏諸匵中也沽賣也得善賈寜賣之耶子曰沽之哉沽之哉我待賈者也註苞氏曰沽之哉不衒賣之辭也我居而待賈者也疏子貢曰至者也 云子貢曰有美玉於斯者子貢欲觀孔子聖徳藏用何如故託事以諮衰否也美玉譬孔子聖道也言孔子有聖道可重如世閒有美玉而在此也云韞匵云云者諸之也韞囊之也匵謂匣櫃也善賈貴賈也沽賣也言孔子聖道如美玉在此為當韞匣而藏之為當得貴賈而賣之否乎假有人請求聖道為當與之否耶云子曰沽之哉者荅云我不衒賣之者也故重云沽之哉明不衒賣之深也王弼曰重言沽之哉賣之不疑也故孔子乃聘諸侯以急行其道也云我待賈者也者又言我雖不衒賣然我亦待貴賈耳有求者則與之也

本文「子貢曰有美玉於斯韞匵而藏諸求善賈而沽諸」。
注釈。馬融「韞とは仕舞うことである。匵とは匱(はこ)である。これを箱の中に仕舞うのである。沽とは売ることである。よい商人を得て積極的に売ろうと言うのである。」

本文「子曰沽之哉沽之哉我待賈者也」。
注釈。苞氏「うらんかな、とは、見せびらかさず売るという言葉である。私はずっと商人を待っていたと言うのである。」

付け足し。子貢は極致を言った。「子貢曰有美玉於斯」とは、子貢が孔子の神聖な仁徳を孔子が用いるか仕舞い込むかを聞きたいと願ったのである。だからたとえ話で仕舞い込むかどうかを聞いたのである。「美玉」とは孔子の神聖な道をたとえたのである。その心は、孔子には世間が有り難がるべき神聖な道があり、もし世の中に美しい玉があれば、それに似ているという事である。「韞匵うんぬん」とあり、諸とは”これ”の意である。韞とは仕舞うことである。匵とは箱の類である。善賈とはめったに居ない商人である。沽とは売ることである。その心は、孔子の神聖な道は例えるなら美しい玉がここにあるようなものだが、箱に仕舞い込むべきか、めったに居ないような商人に売るべきか。もし神聖な道を求める人がいたら、与えるべきではないか、ということである。「子曰沽之哉」とは、孔子が子貢に答えて、私は見せびらかさず売ると言ったのである。だから重ねて「沽之哉」と言い、見せびらかさず売りたいと深く思ったのを表したのである。

王弼「言葉を重ねて”うるぞうるぞ”と言ったからには、疑いなく売る気だったのである。だから諸侯からお呼びが掛かると、孔子は大急ぎで道を行ったのである。」

「我待賈者也」とは、見せびらかさずに売るという意思をまた言ったのである。そして自分もまためったに居ない商人を待っていたというのである。求める者が居ればすぐさま与えると言ったのである。

新注『論語集注』

子貢曰:「有美玉於斯,韞併而藏諸?求善賈而沽諸?」子曰:「沽之哉!沽之哉!我待賈者也。」韞,紆粉反。併,徒木反。賈,音嫁。韞,藏也。併,匱也。沽,賣也。子貢以孔子有道不仕,故設此二端以問也。孔子言固當賣之,但當待賈,而不當求之耳。范氏曰:「君子未嘗不欲仕也,又惡不由其道。士之待禮,猶玉之待賈也。若伊尹之耕於野,伯夷、太公之居於海濱,世無成湯文王,則終焉而已,必不枉道以從人,衒玉而求售也。」


本文。「子貢曰:有美玉於斯,韞併而藏諸?求善賈而沽諸?子曰:沽之哉!沽之哉!我待賈者也。」
韞は紆-粉の反切で読む。併は徒-木の反切で読む。賈の音は嫁である。韞は仕舞うことである。あるいは、箱のことである。沽は売ることである。子貢は孔子が道を心得ているのに諸侯に仕えないから、美玉と箱の二つの例えで問うたのである。孔子が答えて、もちろん売る気満々だが、ただし買い手を選びたいから、売り出しはしないと言っただけだ。

范祖禹「君子たるもの仕官したがらないわけがないが、道に背くのを嫌いもする。士族が君主の招聘を待っているのは、玉が商人を待つようなものだ。殷の湯王を支えた伊尹が、もし野良で畑仕事をしていなければ、また伯夷や太公望が海辺に住んでいなければ、この世に湯王も周の文王もいなかったわけで、それで世の中仕舞いだった。だからよこしまな連中に仕えたくないから、買いに来る商人を待つ玉を気取ったのだ。」

宋儒が高慢ちきな割には頭が悪いことは論語雍也篇3余話「宋儒のオカルトと高慢ちき」に書いたとおりだが、論語の本章に上掲の通り書き付けた范祖禹もその例外ではなく、言っているそばから話が破綻しているのに気付いていない。

伯夷が孤竹国という渤海黄海に面した地方の出という伝説は良いとして、太公望が海辺に住まねば文王無し、とはどういうことだろう。伝説では釣りする太公望を武王が誘って謀臣としたのだが、舞台はもちろん諸侯国としての周で、今の陝西省に位置し、海辺まで500kmはある。

太公望は革命後に海浜の山東半島に領地を与えられて斉国の開祖となったが、そうなったからといって、とうの昔に死んでいる文王のあれこれを証明するわけでも補強するわけでもない。事は伯夷も同様で、海辺から大陸横断を果たしたとして、やはり文王はもう死んでいる。

武王の革命に助力した、という異聞があるのは承知しているが、元ネタは儒家が毛嫌いする『荘子』で、通説は武王にイヤガラセをして官職とタダ飯にありつこうとし、太公望に放り出されたろくでなしだった(論語公冶長篇22)。やったことは街宣右翼やプロ市民と変わらない。

伯夷叔斉

かように儒者の言い分も丁寧に読まないと、言い出した者の頭の悪さに気が付かない。中途半端に読むからありがたそうに見えてしまう。范祖禹は宋儒には珍しくまじめ人間だったらしいが、だからといって書き物が正しいことにはならない。誠実な与太郎かも知れないのだ。

もちろん范祖禹を有り難そうに引用した朱子も、頭が悪いか不真面目かのいずれかだ。誠実な与太郎は、ばかのイワンやフォレスト・ガンプのように神々しくはあり得ても、人を喰うしか能の無い不真面目なやからは、一匹残らず世から死に絶えても、訳者はぜんぜん困らない。

余話

あって当然承認欲求

上記の通り論語の本章にも、漢儒の幼稚な自己承認欲求があからさまなのだが、人が自我を持つ限り、自己承認欲求が消えて無くなることはあり得ない。ゆえに欲求そのものが愚劣ではない。目的のための手段が見え透いていて幼稚だからこそ人からバカにされる。

論語の本章はその意味で、不勉強で思考がいい加減な儒者の欲求にはそぐわない。なぜなら見え透いた欲求が愚劣に見えるのは儒者も承知しており、世間に崇めさせるべき本尊孔子が、欲求丸出しの発言をしたなど、霊感商法で飯を食っている儒者には都合が悪いはずだからだ。

だから怪しい点がありながら、訳者は本章の史実たるを疑っていない。思うに前漢中期にいわゆる儒教の国教化にあたって、論語を膨らます必要に迫られた漢儒が、不都合と承知で伝説を本章として編入したかと思われる。ゆえに論語としての成立は、ずいぶん新しいだろう。

前世紀末以来のネット社会の到来に伴って、承認欲求を原因とする愚行や詐欺に多くの「識者」が言及し、あたかも自分は無関係であるかのように説教してきた。だったらネットになんか出てこないのが理の当然で、ゆえに人からこの欲求は消えないと訳者は言う。

訳者もまた自己承認欲求の擒であるには違いなく、手間暇掛けてこんなサイトを作っているのは、それ相応に自説を多くの人の目に掛けたいからだ。儒者や漢学教授など従来の論語業者が、出鱈目に済ませてきた境地にまで踏み込んで、調べに調べ尽くすのもそれゆえだ。

論語が漢文の基本であることは、日中共に時代を通じて変わらない。つまり論語すら正確に読めないようでは、どんな漢文も誤読するおそれがある。それを防ぐには通史を書ける程度には中国史に通じていなければならないし、甲骨文から現代北京語までの知識が欠かせない。

訳者はこのサイトで世俗的利益が上げられるとは思っていない。そんなことを期待しても、毎日の精算額に打ちひしがれるしかないからだ。その代わり、精一杯できる限りの手を尽くしたという事実を噛みしめることは出来る。このサイトでうそデタラメを書いた覚えはない。

いかなる「権威」にも、盲従したり黙って受け売りした覚えも無い。もちろん多ページにわたるこのサイトに、一切その臭いが無いとまでは言い切れないが、自分で見直すたびに、そうした要素を消して回っている。今日もまた本ページを改訂したのもその一例。

自分で自分を認めてやる。それも自己承認欲求を満たす手段の一つだ。そしてお他人様は知らないが、訳者は自分で自分を認められないと、他人を認める事が出来ない。それはひとえに自分で積み上げた成果と、後ろめたさの無さにかかっている。テケトーな事を書く余裕は無い。

思うに地位や利権にしがみついている者が、それを奪われる危険を嗅いだだけでキャンキャンと高い周波数で吠えるのは、自分で勝ち取った地位だという自信が無いからだ。人間は存外、自分を欺すのは難しい。欺しおおせたようにはたから見えても、環境が悪化すると表に出る。

「貧は士の常、死は人のはて。常に居て終を得る、何の憂うべきあらんや」と『孔子家語』に言う。誰にも勧められる言葉ではないが、誰をも慰め得る言葉ではある。「お前士なのか」と逆ねじは喰らいそうだが、文学修士で武道の有段者でもあるから言い訳は立つと決め込んだ。

こんにち、多くの人がただ生きるだけで苦しんでいるだろう。科学技術にも限界があるからこそ、こんな世の中になってしまったのだが、ほんの半世紀ほど前まで、人類の多数が飢餓に苦しんでいたことを思うとどうだろう。

いま目の当たりにさせられている環境は、実は先祖の多くが同程度以上に苦しんできたことを訳者は思う。幼少の頃、兄弟姉妹にすでに世を去っていた人がいる同級生は、多数派ではなかったが珍しくなかった。親や祖父母の世代は、戦場や爆撃や結核の恐怖の中を生きた。

この半世紀ほどが、奇跡のようなよい環境だったと言えるだろう。ささいな平衡が崩れたら、一挙に連鎖崩壊して理の当然なのだ。孔子が生きた春秋後半も、気候寒冷化が進む望みのない世だった。その中で生まれながらの超人にして精一杯生きた孔子の教説は短く書ける。

頭と体を鍛えよ。それはこんにちでも通用すると訳者は思っている。

『論語』子罕篇:現代語訳・書き下し・原文
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