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論語詳解221子罕篇第九(17)逝く者は斯くの’

論語子罕篇(17)要約:あるいは孔子先生の最晩年。一人息子にも、弟子の顔淵にも、一本気だった子路にも先立たれて、さすがに先生も気落ちします。そんな折、とうとうと流れる川を眺めた言葉。ただし史実性に疑わしい点が。

論語:原文・書き下し

原文(唐開成石経)

子在川上曰逝者如斯夫不舍晝夜

校訂

東洋文庫蔵清家本

子在川上曰逝者如斯夫不舍晝夜

慶大蔵論語疏

子在川上曰逝者1如斯夫不舍書2〔亠亻夕乚〕3

  1. 新字体と同じ。原字。
  2. 「晝」の異体字。原字。
  3. 「夜」の異体字。『增廣字學舉隅』(清)所収。

後漢熹平石経

(なし)

定州竹簡論語

……[上,曰:「逝]者如此a夫!,不舍晝夜。」

  1. 此、今本作”斯”。

標点文

子在川上曰、「逝者如此夫。不舍晝夜。」

復元白文(論語時代での表記)

子 金文在 金文川 金文上 金文曰 金文 𠧟 金文者 金文如 金文此 金文夫 金文 不 金文舍 金文晝 昼 金文夜 金文

※逝→𠧟。論語の本章は、「如」「夫」「舍」の用法に疑問がある。

書き下し

かはほとりりていはく、ものかくごとひるよる

論語:現代日本語訳

逐語訳

孔子別像
先生が川のほとりに立って言った。「過ぎゆくものはこの通りか。昼夜休むことがない。」

意訳

とうとうたる川の流れを眺めてつぶやいた。全ては過ぎ去っていくな。昼も夜も休むことなく。

逝く者は斯くの如きかPhoto via https://pixabay.com/ja/

従来訳

下村湖人

先師が川のほとりに立っていわれた。――
「流転のすがたはこの通りだ。昼となく夜となく流れてやまない。

下村湖人『現代訳論語』

現代中国での解釈例

孔子在河邊說:「時光如流水!日夜不停留。」

中国哲学書電子化計画

孔子が川のほとりで言った。「時間は流れる水のようだ!日夜止まらない。」

論語:語釈

、「 ( 。」


子(シ)

子 甲骨文 論語 孔子
「子」(甲骨文)

論語の本章では”(孔子)先生”。初出は甲骨文。論語ではほとんどの章で孔子を指す。まれに、孔子と同格の貴族を指す場合もある。また当時の貴族や知識人への敬称でもあり、孔子の弟子に「子○」との例が多数ある。なお逆順の「○子」という敬称は、上級貴族や孔子のような学派の開祖級に付けられる敬称。「南子」もその一例だが、”女子”を意味する言葉ではない。字形は赤ん坊の象形で、もとは殷王室の王子を意味した。詳細は論語語釈「子」を参照。

在(サイ)

才 在 甲骨文 在 字解
(甲骨文)

論語の本章では、”いる”。「ザイ」は呉音。初出は甲骨文。ただし字形は「才」。現行字形の初出は西周早期の金文。ただし「漢語多功能字庫」には、「英国所蔵甲骨文」として現行字体を載せるが、欠損があって字形が明瞭でない。同音に「才」。甲骨文の字形は「才」”棒杭”。金文以降に「士」”まさかり”が加わる。まさかりは武装権の象徴で、つまり権力。詳細は春秋時代の身分制度を参照。従って原義はまさかりと打ち込んだ棒杭で、強く所在を主張すること。詳細は論語語釈「在」を参照。

川(セン)

川 甲骨文 川 字解
(甲骨文)

論語の本章では”川”。初出は甲骨文。字形は川の象形”。げんぎは”かわ”。甲骨文では原義、”洪水”、地名に用い、金文では原義に加えて耕地の単位の意に用いた。戦国の竹簡では、”従う”、”大地”、”穴を開ける”の意に用いた。詳細は論語語釈「川」を参照。

上(ショウ)

上 甲骨文 上 字解
(甲骨文)

論語の本章では”(川の)ほとり”。初出は甲骨文。「ジョウ」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)。原義は基線または手のひらの上に点を記した姿で、一種の記号。このような物理的方向で意味を表す漢字を、指事文字という。春秋時代までに、”うえ”の他”天上”・”(川の)ほとり”の意があった。詳細は論語語釈「上」を参照。

曰(エツ)

曰 甲骨文 曰 字解
(甲骨文)

論語で最も多用される、”言う”を意味する言葉。初出は甲骨文。原義は「𠙵」=「口」から声が出て来るさま。詳細は論語語釈「曰」を参照。

逝(セイ)

逝 篆書 逝 字解
(篆書)

論語の本章では”過ぎ去る”。初出は後漢の『説文解字』。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補は、日本語音で同音の「𠧟」(廼)。字形は「辵」(辶)”ゆく”+「折」”折れる”で、「折」の意味するところは不明。原義は”行く”。”世を去る”の意は派生義。詳細は論語語釈「逝」を参照。

者(シャ)

者 諸 金文 者 字解
(金文)

論語の本章では、”…であるもの”。旧字体は〔耂〕と〔日〕の間に〔丶〕一画を伴う。新字体は「者」。ただし唐石経・清家本ともに新字体と同じく「者」と記す。現存最古の論語本である定州竹簡論語も「者」と釈文(これこれの字であると断定すること)している。初出は殷代末期の金文。金文の字形は「木」”植物”+「水」+「口」で、”この植物に水をやれ”と言うことだろうか。原義は不明。初出では称号に用いている。春秋時代までに「諸」と同様”さまざまな”、”…は”の意に用いた。漢文では人に限らず事物にも用いる。詳細は論語語釈「者」を参照。

慶大蔵論語疏は新字体と同じく「者」と記す。「耂」と「日」の間の「丶」を欠く。「国学大師」によると旧字の出典は後漢の「華山廟碑」、文字史から見れば旧字体の方がむしろ新参の字形。

如(ジョ)

如 甲骨文 如 字解
「如」(甲骨文)

論語の本章では”…のようである”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。字形は「口」+「女」。甲骨文の字形には、上下や左右に部品の配置が異なるものもあって一定しない。原義は”ゆく”。詳細は論語語釈「如」を参照。

斯(シ)→此(シ)

斯 金文 斯 字解
(金文)

論語の本章では、”このような状況”。初出は西周末期の金文。字形は「其」”籠に盛った供え物を祭壇に載せたさま”+「斤」”おの”で、文化的に厳かにしつらえられた神聖空間のさま。意味内容の無い語調を整える助字ではなく、ある状態や程度にある場面を指す。例えば論語子罕篇5にいう「斯文」とは、ちまちました個別の文化的成果物ではなく、風俗習慣を含めた中華文明全体を言う。詳細は論語語釈「斯」を参照。

此 甲骨文 此 字解
(甲骨文)

定州竹簡論語では「此」と記す。直近の事物を指す指示詞。唐石経以降の現伝の論語では一字たりとも用いていない。初出は甲骨文。字形は「止」”あし”+「人」で、人が足を止めたところ。原義は”これ”。春秋末期までに、人名のほか”それ(をもちいて)”の意に用いた。詳細は論語語釈「此」を参照。

夫(フ)

夫 甲骨文 論語 夫 字解
(甲骨文)

論語の本章では「か」と読んで詠歎の意。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。論語では「夫子」として多出。「夫」に指示詞の用例が春秋時代以前に無いことから、”あの人”ではなく”父の如き人”の意で、多くは孔子を意味する。「フウ」は慣用音。字形はかんざしを挿した成人男性の姿で、原義は”成人男性”。「大夫」は領主を意味し、「夫人」は君主の夫人を意味する。固有名詞を除き”成人男性”以外の語義を獲得したのは西周末期の金文からで、「敷」”あまねく”・”連ねる”と読める文字列がある。以上以外の語義は、春秋時代以前には確認できない。詳細は論語語釈「夫」を参照。

不(フウ)

不 甲骨文 不 字解
(甲骨文)

漢文で最も多用される否定辞。初出は甲骨文。「フ」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)、「ブ」は慣用音。原義は花のがく。否定辞に用いるのは音を借りた派生義だが、甲骨文から否定辞”…ない”の意に用いた。詳細は論語語釈「不」を参照。

舍(シャ)

舎 甲骨文 舍 字解
(甲骨文)

論語の本章では”間を置く”。この語義は春秋時代では確認できない。「宿舎」のように”いえ”の意で用いられることが多いが、『字通』によると”捨てる”が原義だという。初出は甲骨文。新字体は「舎」。下が「𠮷」で「舌」ではない。字形は「𠆢」”屋根”+「干」”柱”+「𠙵」”くち=人間”で、人間が住まう家のさま。原義は”家屋”。春秋末期までの金文では”捨てる”、”与える”、”発布する”、”楽しむ”の意、また人名に用い、戦国の金文では一人称に用いた。戦国の竹簡では人名に用いた。

論語では全て”顧みない・置く・隠す”の語義で用いられる。漢文的には、ほかに”おく”の読みを記憶しておくと読みやすくなる。現行の「捨」の初出は後漢の説文解字で、それまでは「舎」が”すてる”の語義を兼任した。詳細は論語語釈「舎」を参照。

晝(チュウ)

昼 甲骨文 昼 字解
(甲骨文)

論語の本章では”昼間”。初出は甲骨文。新字体は「昼」。字形は”日時計”+「又」”手”で、日時計の南中の位置を調整するさま。原義は”真昼”。甲骨文では原義で、金文でも原義で(㝬𣪕・西周末期)用いた。戦国の竹簡でも原義で用いた。詳細は論語語釈「昼」を参照。

慶大蔵論語疏は異体字「書」と記す。”字を書く”の「書」と同じだが、「晝」(昼)は甲骨文の昔から太陽の南中を記すさまで表し、「書」がむしろ原字。”書く”意味での「書」の字は、甲骨文以来「𠙵」”くち”で言った事を書き記す様の形で、下半分は「日」ではなく「𠙵」が原字。

晝 昼 秦系戦国文字
(秦系戦国文字)

”書く”の字の下半分が「日」と記されるようになったのは戦国の金文から。それと区別するためだろうか、最下部に一画「一」を記すようになったのは、戦国最末期の「睡虎地秦簡」から。

「晝」(昼)の字は「畫」(画)と間違えやすい。

ひ る えがく

夜*(ヤ)

夜 金文 アルファー 夜行列車 車掌
(金文)

初出は甲骨文。字形は「亦」”また”の右側の点を「月」に変えた形。また一晩また一晩とやってくる夜のこと。春秋末期までに、”晩”・”夜”の意に用いた。詳細は論語語釈「夜」を参照。

夜 異体字
慶大蔵論語疏は異体字「〔亠亻夕乚〕」と記す。『增廣字學舉隅』(清)所収。

論語:付記

中国歴代王朝年表

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検証

論語の本章は前漢中期の定州竹簡論語に載る。「昼夜をおかず」という言い廻しは『孟子』に見えるが、孔子の発言としてではない。本章は春秋戦国の誰一人引用しておらず、事実上の初出はいわゆる儒教の国教化を進めた、前漢・董仲舒の『春秋繁露』。

董仲舒
希代の詐欺師の書き物に初出となるからには、文字史的に論語の時代に遡れても、史実性は極めて疑わしくなってくる。董仲舒のゴマすりだった司馬遷すら、『史記』に本章を再録していない。おそらく本章は董仲舒による偽作だが、物証がないので史実として扱う。

董仲舒については、論語公冶長篇24余話「人でなしの主君とろくでなしの家臣」を参照。

解説

論語・子罕篇は本章あたりから、物寂しくなっていく。

孔子が望みを掛けた呉国の没落、弟子の顔淵の逝去など。論語研究の多数派の意見では、論語の前半・郷党篇までは魯に残った小人派の編纂によるといい、どことなく「あれこれ工作して政治いじりをしたが、それは結局失敗だった」ことを暗示しているようにも思える。

ブッダ
さて本章は、孔子と同時代の賢者・ブッダの臨終の言葉、「全ての者は移ろいゆく。怠らず努めるがよい」を連想させる。ここで孔子が眺めているのは、魯国周辺の水か、あるいは渡ろうとして渡らなかった黄河か、あるいは楚国に向かった折眺めた揚子江か。

論語のこの篇の他の話から見て、散歩の途中に泗水を眺めたと考えたい。

孔子は父の顔を知らずに育ち、その墓所は母がかたくなに隠した。おそらく母の顔徴在は、父が誰かも知らなかったからだろう。その母も亡くなったとき(孔子16歳ごろ)、孔子は母を父と合葬したいと強く願った。見かねた近所のおばさんが場所を教え、孔子は葬って言った。

孔子既得合葬於防,曰:「吾聞之:古也墓而不墳;今丘也,東西南北人也,不可以弗識也。」於是封之,崇四尺。


「昔は墓穴は取っても、土盛りはしなかった。しかし今や私は、東西南北の人である。見て分かる墓を作らないわけにはいかない。」(『礼記』檀弓上)

白川静博士の『孔子伝』は、「東西南北の人」という項目を冒頭に置く。東西南北、いずれの人とも知れないさすらい人がすなわち自分孔丘である、という意味。論語や史記に、失脚後の放浪は記すが、人生前半のさすらいについては全くと言っていいほど記録がない。

上掲の『礼記』も漢代の儒者が書いたもので、孔子の口から出た言葉とは思えない。しかしそれを想像できるような伝承が、当時はまだ残っていた可能性がある。恐らく孔子は母の属する呪術者集団の移動に伴って、各地を旅したことだろう。もちろん、川も渡ったし船旅もした。

論語の本章は、最晩年にさしかかった孔子が、そうした過去を思い出しての言葉と思いたい。

論語の本章、新古の注は次の通り。

古注『論語集解義疏』

子在川上曰逝者如斯夫不舍晝夜註鄭𤣥曰逝往也言凡往者如川之流也疏子在至晝夜 逝徃去之辭也孔子在川水之上見川流迅邁未嘗停止故歎人年往去亦復如此向我非今我故云逝者如斯夫者也斯此也夫語助也日月不居有如流水故云不舍晝夜也江熙云言人非南山立徳立功俛仰時過臨流興懐能不慨然聖人以百姓心為心也孫綽云川流不舍年逝不停時已晏矣而道猶不興所以憂歎也


本文「子在川上曰逝者如斯夫不舍晝夜」。
注釈。鄭玄「逝は行き去ることだ。その心は、全て行き去るものは川の流れのようだ、ということだ。

付け足し。先生は昼夜の至りを言った。逝は過ぎ去るという言葉だ。孔子は川のほとりで川の流れが速く進み未だかつて止まらなかったのを見た。そこで人の年齢が過ぎゆくこともまた同じと歎いた。これからの自分は今の自分と違う。だから「逝者如斯夫」と言った。斯は”これ”である。夫は語調を示す。日月が過ぎゆくのは流れる水のようだ。だから「不舍晝夜」と言った。

江熙「本章の心は、人は終南山(=秦嶺山脈)のように不滅ではないから、技芸を磨き功績を立て、浮き沈みの中で時を過ごしたなら、川の流れを見て思いが高まり、物思いをせずに居られるだろうか。聖人も一般人と同じ心を共有していたのだ。」

孫綽「川の流れは止まず、年の過ぎるのは止まらず、時はすでに末世だというのに、孔子の道はまだ流行らず。だから憂い歎いたのだ。」

慶大蔵論語疏では、上掲古注、鄭玄の注を「苞氏曰」と記し包咸の筆によるとする。慶大本に次ぐ古注古本である宮内庁蔵清家本、紙本の完本で世界最古の宮内庁蔵宋版論語注疏、京大蔵正平本も「苞氏曰」と記す。しかし根本本(鵜飼本)からは「鄭玄曰」とし、それを引き継いで四庫全書本、懐徳堂本も「鄭玄曰」とする。

原始論語?…→定州竹簡論語→白虎通義→
             ┌(中国)─唐石経─論語注疏─論語集注─(古注滅ぶ)→
→漢石経─古注─経典釈文─┤ ↓↓↓↓↓↓↓さまざまな影響↓↓↓↓↓↓↓
       ・慶大本  └(日本)─清家本─正平本─文明本─足利本─根本本→
→(中国)─(古注逆輸入)─論語正義─────→(現在)
→(日本)─────────────懐徳堂本→(現在)

根本本は栃木の足利学校に所蔵されていた足利本を、江戸儒の根本武夷が編み直して世に広めた古注で、それまで経(本文)のうしろに散在していた注と疏(注の付け足し)を、経-注-疏の体裁に統一した。おそらく論語注疏の形式に倣ったと思われる。

本章の「鄭玄曰」は明らかに転記の間違いで、根本はこのほかにも少なからず書き換えをした。当時清朝だった中国では、すでに古注が滅んでいたので逆輸入したのだが、四庫全書本を校訂した清儒の鮑廷博は根本本の書き換えに不満を感じ、別途編み直して知不足齋叢書本を出した。

以下は想像するしかないが、鮑廷博が論語注疏を参照しなかったはずがなく、「鄭玄」と「苞氏」の違いに気付いていただろう。だが改めなかったのは清儒なりの合理と誠実というもので、論語注疏より古い古注であるからには、「鄭玄」が正しいと信じたのだろう。

論語に関する日中関係史は、ほぼ中国が一方的に日本に影響を与え続けた1,500年史だった。だが古注の逆輸入に伴い、若干の日本からの影響が、中国の儒学界に及んだことが分かる。

新注『論語集注』

夫,音扶。舍,上聲。天地之化,往者過,來者續,無一息之停,乃道體之本然也。然其可指而易見者,莫如川流。故於此發以示人,欲學者時時省察,而無毫髮之間斷也。程子曰:「此道體也。天運而不已,日往則月來,寒往則暑來,水流而不息,物生而不窮,皆與道為體,運乎晝夜,未嘗已也。是以君子法之,自強不息。及其至也,純亦不已焉。」又曰:「自漢以來,儒者皆不識此義。此見聖人之心,純亦不已也。純亦不已,乃天德也。有天德,便可語王道,其要只在謹獨。」愚按:自此至篇終,皆勉人進學不已之辭。


夫の音は扶と同じである。舎は尻上がりに読む。天地の変化は、行く者は通り過ぎ、来る者は続き、たった一息の止まる瞬間も無い。これが原理と実体の本来の姿である。だがたやすく指さして見ることが出来るものは、川の流れ以上に無い。そこでこれを言挙げすることで人に示したのだから、儒学を学ぼうとする者は時に触れてよく考え、髪の毛ほどの瞬間にも忘れてはならない。

程頤「これは原理と実体を言い表した話である。天の運行は止まらない。日が通り過ぎて月が来る。寒さが過ぎ去って暑さが来るし、川の水は流れて止まらない。万物が生まれる働きも行き詰まらない。これらは総て、原理に従って実体を表している。昼夜休み無く、今まで止まったことが無い。だから君子はこれを原理として受け入れ、自らを強めて休まない。その窮極に至れば、原理と一体化して終わりが無い。」

さらに程頤「漢より以降、儒者はみなこのことわりに気付かなかった。この章からは聖人の心が見て取れる。原理と一体化すれば終わりが無く、一体化に終わりが無くなったのが、すなわち天の徳に他ならない。天の徳を備えていることが、王道を語る条件で、あと要ると言えば、独りで慎み深くあることである。」

愚か者である私・朱熹はこう思う。本章の窮極の言葉から本篇の終わりまで、全て人に勉学を勧め努めることを説いたものだ。

新注を編んだ朱子とその引き立て役は、ご覧の通り言葉をもてあそんで、空想の上に妄想を重ねた、自分らだけにしか分からないオカルト趣味に走った。現代日本で言えば、雑誌『ムー』なんか毎月熱心に読んでいる中二病患者で、とてものことまともな精神とは受け取れない。

詳細は論語雍也篇3余話「宋儒のオカルトと高慢ちき」を参照。

余話

バカなことをしたものだ

上記語釈の通り、「逝」の字形による由来はよく分からないのだが、想像することは出来る。「逝」の字が現れた後漢の時代は、すでに古代帝国の時代に入っていたから、ローマ同様に国営街道の概念はあったが、人が手ぶらで村々を往来できたわけではない。

部品の「折」は、手へんと「斤」”おの”の組み合わせで、金太郎よろしく古代の中国人は、まさかりはともかく斧程度は持っていないと、〔辶〕”道”を往来できなかった。〔辶〕は曲がりくねってはるか遠くに続く道で、ちょっと買い物に、と言った程度の道のりでは済まない。

現代日本で斧を担いで道を行けば、銃刀法違反などで捕まってしまうが、野営の場面では「正当な理由」があると認められるから許される。行きたい場所に道が無い場合は藪漕ぎする必要があるし、騎行で林道を山越えすると、倒木が転がっているのはよくあることだ。

訳者若年時はおそれを知らなかったから、斧で倒木を始末して押し通ったりしていたが、ある時ものすごい山奥の林道で、鉄の馬もろとも崖から谷に落っこちて性根を入れ替えた。たまたまクレーン車が通るという奇跡があったから帰ってこれたが、こんな幸運二度と無いからだ。

これも時の移ろいというもので、交通違反の取り締まり技術は年々向上しているにもかかわらず、訳者はここ数回金色免許を更新し続けている。もちろん馬にはり続けているにもかかわらずだ。検挙されるとものすごく凹んだものだが、それもとうに過ぎ去った。

今後無いとは言い切れない。だが全てのことは自分を通り過ぎていく何事かで、痛みは時と共に消える。忘れる、という人類の偉大な機能が癒やしてくれるわけ。それでも消えない痛みはありはするが、それこそが自分にとって本当に大切なものだったとあとから気づく。

つまり人間には何が大切かもわからない。だから自由に自分の頭と体を鍛える楽しみがある。

『論語』子罕篇:現代語訳・書き下し・原文
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