論語:原文・書き下し
原文(唐開成石経)
子疾病子路使門人爲臣病間曰久矣哉由之行詐也無臣而爲有臣吾誰欺欺天乎且予與其死於臣之手也無寧死於二三子之手乎且予縱不得大葬予死於道路乎
- 「葬」字:〔艹〕→〔十十〕
校訂
東洋文庫蔵清家本
子疾病/子路使門人爲臣/病間曰乆矣哉由之行詐也無臣而爲有臣吾誰欺欺天乎/且予與其死於臣之手也無寧死於二三子之手乎/且予縱不得大葬/予死於道路乎
- 「無臣」の「臣」字:〔巨丨〕。ほか「臣」ママ。
- 「葬」字:〔艹〕→〔十十〕
慶大蔵論語疏
子疾〔广丙〕1/子路使門人〔為〕2臣/病閒曰久〔厶夫〕3〔𢦏く丿〕4由之行〔言𠂉上〕5也/无6臣而為2為2〻7有/吾誰欺〻天〔爫丁〕8/𣅂9予与10其死扵11臣之手也无6〔宀心罒丿〕12死扵11二三子之手/𣅂9予〔纟彳䒑乙〕13不得大〔艹夕夂土〕14/予死15(死)16扵11道路〔爫丁〕8。」
- 「病」の異体字。「馮緄碑」(後漢)刻
- 「爲」の草書。「齊張龍伯造象記」(北斉)刻字近似。
- 「矣」の異体字。「夏承碑」(後漢)刻。
- 「哉」の異体字。「隋羊本墓誌」刻字近似。
- 「詐」の異体字。『敦煌俗字譜』所収。
- 「無」の異体字。初出「睡虎地秦簡」。
- 傍記。
- 「乎」の異体字。「魏鄭羲碑」(北魏)刻。
- 「且」の異体字。「隋張妻蘇恒墓志」刻。『敦煌俗字譜』所収。
- 「與」の異体字。『敦煌俗字譜』所収。
- 「於」の異体字。『新加九経字様』(唐)所収。
- 「寧」の異体字。「魏元寧墓誌」(北魏)刻。
- 「縱」の異体字。『敦煌俗字譜』所収字に近似。
- 「葬」の異体字。「車騎將軍馮緄碑」(後漢)刻。「魏元誘妻馮氏墓誌」刻字に近似。
- 「死」の崩し字。上「予」字の「丿」から一筆で「一」までを記す。
- 傍記。
後漢熹平石経
(なし)
定州竹簡論語
……疾病,子路使門人為臣。病間225……[為有臣。吾誰欺?欺天乎!且予與其死於臣]226
標点文
子疾病、子路使門人爲臣。病間曰、「久矣哉、由之行詐也。無臣而爲爲〻有臣。吾誰欺、欺天乎。且予與其死於臣之手也、無寧死於二三子之手乎。且予縱不得大葬、予死於道路乎。」
復元白文(論語時代での表記)
※病→疒・欺→諆・縱→從。論語の本章は、「門」「閒」「久」「行」「誰」「乎」「與」「寧」「縱」(從)の用法に疑問がある。
書き下し
子の疾病し。子路門人を使て臣爲らしむ。病間ありて曰く、久しかり矣る哉、由之詐を行ふ也。臣無くし而爲りを爲し臣有りと爲す。吾誰をか欺かむ、天を欺かむ乎。且つ予其れ臣之手於死せむ與り也、寧ろ二た三つ子之手於死せむこと无からむ乎。且つ予縱ひ大ひなる葬を得不とも、予道路於死せむ乎。
論語:現代日本語訳
逐語訳
先生が病気にかかって危篤となった。子路は門人に家臣の真似をさせた。病気が小康状態になって先生が言った。「長くなったな、子路の偽りを行うのも。家臣もないのにニセモノをこしらえ、家臣がいるとした。私が誰かをだますか。天をだますかよ。それに私は家臣に看取られて死ぬより、むしろ弟子の諸君に囲まれて死にたいぞ。さらに私はたとえ大げさな葬儀は出せなくとも、道ばたで死ぬことはないぞ。」
意訳
孔子先生がご危篤になったので、子路さんが慌てて弟子の僕らを家臣に仕立て上げた。
気が付いた先生が「これ子路や、またお前のハッタリか。ウチに家臣などおらんだろうが。世間はだませても天はだませないぞ。それに金次第の関係でしかない家臣より、私は弟子の諸君に看取られたい。大げさな葬式なんか要らないし、もう放浪もやめだから野垂れ死にはせぬよ。」
従来訳
先師のご病気が重くなった時、子路は、いざという場合のことを考慮して、門人たちが臣下の礼をとって葬儀をとり行うように手はずをきめていた。その後、病気がいくらか軽くなった時、先師はそのことを知られて、子路にいわれた。――
「由よ、お前のこしらえ事も、今にはじまったことではないが、困ったものだ。臣下のない者があるように見せかけて、いったいだれをだまそうとするのだ。天を欺こうとでもいうのか。それに第一、私は、臣下の手で葬ってもらうより、むしろ二三人の門人の手で葬ってもらいたいと思っているのだ。堂々たる葬儀をしてもらわなくても、まさか道ばたでのたれ死したことにもなるまいではないか。」下村湖人『現代訳論語』
現代中国での解釈例
孔子得了重病,子路讓同學當傭人。病情好轉後,孔子說:「子路騙我很久了!我沒有傭人卻冒出來了傭人。我欺騙誰?欺天嗎?與其讓傭人給我送終,不如讓學生給我送終!即使我的喪事辦得不隆重,我的屍體還會丟在路上嗎?」
孔子が重病になると、子路が弟子仲間を雇い人にした。病状が好転して、孔子が言った。「子路は随分長く私をだましてきた!私に雇い人はおらず、やらせの雇い人も要らない。私が誰をだますのか?天をだますのか?雇い人の手で私の葬儀を行わせるより、弟子諸君に葬儀を行って貰いたい!もし私の葬儀が立派でなくても、私の遺体が路上に捨てられたりするのかね?」
論語:語釈
子 疾 病、子 路 使 門 人 爲 臣。病 閒、曰、「久 矣 哉、由 之 行 詐 也。无(無) 臣 而 爲( 有 臣)。吾 誰 欺、〻(欺) 天 乎。且 予 與 其 死 於 臣 之 手 也、无(無) 寧 死 於 二 三 子 之 手 乎。且 予 縱 不 得 大 葬、予 死 於 道 路 乎。」
子(シ)
「子」(甲骨文)
論語の本章では”(孔子)先生”。初出は甲骨文。論語ではほとんどの章で孔子を指す。まれに、孔子と同格の貴族を指す場合もある。また当時の貴族や知識人への敬称でもあり、孔子の弟子に「子○」との例が多数ある。なお逆順の「○子」という敬称は、上級貴族や孔子のような学派の開祖級に付けられる敬称。「南子」もその一例だが、”女子”を意味する言葉ではない。字形は赤ん坊の象形で、もとは殷王室の王子を意味した。詳細は論語語釈「子」を参照。
疾(シツ)
(甲骨文)
論語の本章では”急性の病気にかかる”。疫病のたぐい。漢文では、”にくむ”の意味で用いられることも多い。初出は甲骨文。字形は「大」”人の正面形”+向かってくる「矢」で、原義は”急性の疾病”。現行の字体になるのは戦国時代から。別に「疒」の字が甲骨文からあり、”疾病”を意味していたが、音が近かったので混同されたという。甲骨文では”疾病”を意味し、金文では加えて人名と”急いで”の意に用いた。詳細は論語語釈「疾」を参照。
ペニシリンが無い時代、伝染病は恐ろしいもので、ささいなことから人は死に至った。また薬湯を用いて治療する、いわゆる漢方はまだ成立しておらず、鍼灸が医療の中心だった。
虚実、陰陽、表裏といった概念を用いて病気を系統立って分析し、適切な薬湯を与えられるようになったのは、論語時代より700年も過ぎた、三国時代の『傷寒論』からになる。
論語にも薬を用いる記述はあるが、「のどの痛みには南天の実」といった、まだ粗放な医学に過ぎなかったと思われ、漢方ほど有効に効いたとは思えない。それより鍼灸の方が効いただろう。孔子は季氏から贈られた薬の服用を断っている(論語郷党篇12)。
病(ヘイ)
(楚系戦国文字)
論語の本章では”病気で寝込む”。重態になること。「ビョウ」は呉音。初出は楚系戦国文字。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補は部品の「疒」で、甲骨文から”やまい”の意で存在する。「病」の字形は「疒」”屋内の病床”+「丙」”倒れ伏した人”。病人が寝ているさま。戦国の竹簡で、”気に病む”・”病む”・”疾病”を意味した。詳細は論語語釈「病」を参照。
慶大蔵論語疏は異体字「〔广丙〕」と記し、「馮緄碑」(後漢)刻。
訓読は論語述而篇32のように「子疾みて病し」でも、「やみていたづけり」でもよい。
子路(シロ)
記録に残る中での孔子の一番弟子。あざ名で呼んでおり敬称。詳細は論語人物図鑑「仲由子路」を参照。
「路」(金文)
「路」の初出は西周中期の金文。字形は「足」+「各」”夊と𠙵”=人のやって来るさま。全体で人が行き来するみち。原義は”みち”。「各」は音符と意符を兼ねている。金文では「露」”さらす”を意味した。詳細は論語語釈「路」を参照。
使(シ)
(甲骨文)
論語の本章では”~させる”。初出は甲骨文。甲骨文の字形は「事」と同じで、「口」+「筆」+「手」、口に出した事を書き記すこと、つまり事務。春秋時代までは「吏」と書かれ、”使者(に出す・出る)”の語義が加わった。のち他動詞に転じて、つかう、使役するの意に専用されるようになった。詳細は論語語釈「使」を参照。
門(ボン)
(甲骨文)
論語の本章では”学派”。ここでは孔子一門のこと。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。「モン」は呉音。字形はもんを描いた象形。甲骨文では原義で、金文では加えて”門を破る”(庚壺・春秋末期)の意に、戦国の竹簡では地名に用いた。詳細は論語語釈「門」を参照。
人(ジン)
(甲骨文)
論語の本章では”…の者”。「門人」で”孔子の弟子”。初出は甲骨文。原義は人の横姿。「ニン」は呉音。甲骨文・金文では、人一般を意味するほかに、”奴隷”を意味しうる。対して「大」「夫」などの人間の正面形には、下級の意味を含む用例は見られない。詳細は論語語釈「人」を参照。
爲(イ)
(甲骨文)
論語の本章では”仕立てる”・”いつわる”。新字体は「為」。字形は象を調教するさま。甲骨文の段階で、”ある”や人名を、金文の段階で”作る”・”する”・”…になる”を意味した。にんべんを欠いたままで”いつわる”の意に用いる例は早くからあったらしく、遅くとも戦国の金文「中山王方壺」に「為人臣而𢓉(反)臣其宔(主),不祥莫大焉。」とあり、冒頭の「為」は”作る”とも”偽る”とも解しうる。詳細は論語語釈「為」を参照。
慶大蔵論語疏は草書で記す。上掲「齊張龍伯造象記」(北斉)刻字近似。
臣(シン)
(甲骨文)
論語の本章では”家臣”。「ジン」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)。甲骨文の字形には、瞳の中の一画を欠くもの、向きが左右反対や下向きのものがある。字形は頭を下げた人のまなこで、原義は”奴隷”。甲骨文では原義のほか”家臣”の意に、金文では加えて氏族名や人名に用いた。詳細は論語語釈「臣」を参照。
子路使門人爲臣
論語の本章が仮に史実なら、衛国に仕えた子路がいることから、これは放浪をひとたび終えて、衛国で落ち着いた日々を過ごしていた時のことと思われる。
魯国なら家老として何人か使用人がいただろうし、客分ではあっても衛国では家老待遇だったから、もしもの時に家臣が居ないと、無論家老格である弔問客の手前、示しがつかないと子路は考えたわけ。
閒(カン)
(金文)
論語の本章では”すき間”→”小康状態”。この語義は春秋時代では確認できない。新字体は「間」。ただし唐石経も清家本も新字体と同じく「間」と記す。ただし文字史からは旧字「閒」を正字とするのに理がある。「ケン」は呉音。初出は西周末期の金文。字形は「門」+「月」で、門から月が見えるさま。原義はおそらく”かんぬき”。春秋までの金文では”間者”の意に、戦国の金文では「縣」(県)の意に用いた。詳細は論語語釈「間」を参照。
曰(エツ)
(甲骨文)
論語で最も多用される、”言う”を意味する言葉。初出は甲骨文。原義は「𠙵」=「口」から声が出て来るさま。詳細は論語語釈「曰」を参照。
久(キュウ)
(秦系戦国文字)
論語の本章では”期間が長い”。初出は西周早期の金文。ただし漢字の部品として存在し、語義は不明。明確な初出は秦系戦国文字。字形の由来は不明。「国学大師」は、原義を灸を据える姿とする。同音に九、灸、疚(やまい・やましい)、玖(黒い宝石)。論語時代の置換候補は近音の「舊」(旧)。詳細は論語語釈「久」を参照。
矣(イ)
(金文)
論語の本章では、「ぬ」と読んで”…てしまった”。完了の意。初出は殷代末期の金文。字形は「𠙵」”人の頭”+「大」”人の歩く姿”。背を向けて立ち去ってゆく人の姿。原義はおそらく”…し終えた”。ここから完了・断定を意味しうる。詳細は論語語釈「矣」を参照。
慶大蔵論語疏は異体字〔厶夫〕と記す。「夏承碑」(後漢)刻。
哉(サイ)
(金文)
論語の本章では”…だなあ”。詠歎を表す。初出は西周末期の金文。ただし字形は「𠙵」”くち”を欠く「𢦏」で、「戈」”カマ状のほこ”+「十」”傷”。”きずつく”・”そこなう”の語釈が『大漢和辞典』にある。現行字体の初出は春秋末期の金文。「𠙵」が加わったことから、おそらく音を借りた仮借として語気を示すのに用いられた。金文では詠歎に、また”給与”の意に用いられた。戦国の竹簡では、”始まる”の意に用いられた。詳細は論語語釈「哉」を参照。
由(ユウ)
(甲骨文)
論語の本章では、史料に記録が残る孔子の最初の弟子。本名(いみ名)は仲由、あざなは子路。通説で季路とも言うのは孔子より千年後の儒者の出任せで、信用するに足りない(論語先進篇11語釈)。詳細は論語の人物:仲由子路を参照。
なお「由」の原義は”ともし火の油”。詳細は論語語釈「由」を参照。だが子路の本名の「由」の場合は”経路”を意味し、ゆえにあざ名は呼応して子「路」という。ただし漢字の用法的には怪しく、「由」が”経路”を意味した用例は、戦国時代以降でないと確認できない。
之(シ)
(甲骨文)
論語の本章では”…の”。初出は甲骨文。字形は”足”+「一」”地面”で、あしを止めたところ。原義はつま先でつ突くような、”まさにこれ”。殷代末期から”ゆく”の語義を持った可能性があり、春秋末期までに”~の”の語義を獲得した。詳細は論語語釈「之」を参照。
行(コウ)
(甲骨文)
論語の本章では”行う”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。「ギョウ」は呉音。十字路を描いたもので、真ん中に「人」を加えると「道」の字になる。甲骨文や春秋時代の金文までは、”みち”・”ゆく”の語義で、”おこなう”の語義が見られるのは戦国末期から。詳細は論語語釈「行」を参照。
詐*(サ)
(金文)
論語の本章では”いつわる”。初出は西周中期の金文。ただし字形は「乍」で、「作」などと未分離。現行字形の初出は春秋末期の金文。初出の「乍」の字形はものを刻むさま。ここから”作る”の意となり、派生して”作り事”の意となった。春秋末期までに、”いつわる”・”つくる”の意に用いた。詳細は論語語釈「詐」を参照。
慶大蔵論語疏は異体字「〔言𠂉上〕」と記す。『敦煌俗字譜』所収。
也(ヤ)
(金文)
論語の本章では「や」と読んで詠嘆の意。初出は事実上春秋時代の金文。字形は口から強く語気を放つさまで、原義は”…こそは”。春秋末期までに句中で主格の強調、句末で詠歎、疑問や反語に用いたが、断定の意が明瞭に確認できるのは、戦国時代末期の金文からで、論語の時代には存在しない。詳細は論語語釈「也」を参照。
久矣哉、由之行詐也
子路がハッタリを好んだことは、論語為政篇17にも見える。
無(ブ)
(甲骨文)
論語の本章では”無い”。初出は甲骨文。「ム」は呉音。甲骨文の字形は、ほうきのような飾りを両手に持って舞う姿で、「舞」の原字。その飾を「某」と呼び、「某」の語義が”…でない”だったので、「無」は”ない”を意味するようになった。論語の時代までに、”雨乞い”・”ない”の語義が確認されている。戦国時代以降は、”ない”は多く”毋”と書かれた。詳細は論語語釈「無」を参照。
慶大蔵論語疏では異体字「无」と記す。詳細は論語語釈「无」を参照。定州竹簡論語は、本章ではこの部分を欠くが、通例として「毋」と記す。詳細は論語語釈「毋」を参照。
而(ジ)
(甲骨文)
論語の本章では”そして”。初出は甲骨文。原義は”あごひげ”とされるが用例が確認できない。甲骨文から”~と”を意味し、金文になると、二人称や”そして”の意に用いた。英語のandに当たるが、「A而B」は、AとBが分かちがたく一体となっている事を意味し、単なる時間の前後や類似を意味しない。詳細は論語語釈「而」を参照。
有(ユウ)
「有」(甲骨文)
論語の本章では”存在する”。初出は甲骨文。ただし字形は「月」を欠く「㞢」または「又」。字形はいずれも”手”の象形。金文以降、「月」”にく”を手に取った形に描かれた。原義は”手にする”。原義は腕で”抱える”さま。甲骨文から”ある”・”手に入れる”の語義を、春秋末期までの金文に”存在する”・”所有する”の語義を確認できる。詳細は論語語釈「有」を参照。
無臣而爲爲〻有臣
この句の異同は次の通り。
定州竹簡論語 | (欠損) | (欠損) | 為有臣 |
慶大蔵論語疏 | 無臣而 | 為為 | 〻有 |
京大蔵唐石経 | 無臣而 | 爲有臣 | |
宮内庁蔵清家本 | 無臣而 | 爲有臣 |
現存最古の論語の版本である定州竹簡論語は一部欠損し、次いで古い慶大本は「為為」=「為偽」”いつわりをする”が加わる代わりに「臣」を欠く。両者に従って校訂した。
原始論語?…→定州竹簡論語→白虎通義→ ┌(中国)─唐石経─論語注疏─論語集注─(古注滅ぶ)→ →漢石経─古注─経典釈文─┤ ↓↓↓↓↓↓↓さまざまな影響↓↓↓↓↓↓↓ ・慶大本 └(日本)─清家本─正平本─文明本─足利本─根本本→ →(中国)─(古注逆輸入)─論語正義─────→(現在) →(日本)─────────────懐徳堂本→(現在)
「子〻孫〻」史頌鼎・西周末期
慶大蔵論語疏は二番目の「為」字に重文号(繰り返し記号)として小さく「二」を傍記し、重文号は現行では「〻」と記す。よって「為為〻有」で”いつわりをしてあることにした”の意。wikipediaによると「二」を重文号に用いたのは殷代に始まり、周以降も受け継がれたという。訳者が確認した初出は西周早期「㢭白鬲」(集成697)で、「其萬年子〻孫〻永寶用」とある。
文字列で後に位置する「吾誰欺〻天乎」と比較すると、この句の場合は一番目「為」が”する”の意、二番目「為」が”にせもの”の意であるため、重文号を用いないが、三番名は一番目と同じく”する”の意だから重文号を用いたことになる。つまり二番目の「為」は、前後と異なり”にせもの”の意だと解さないと、理屈が立たないことになる。
吾(ゴ)
(甲骨文)
論語の本章では”わたし”。初出は甲骨文。字形は「五」+「口」で、原義は『学研漢和大字典』によると「語の原字」というがはっきりしない。一人称代名詞に使うのは音を借りた仮借だとされる。詳細は論語語釈「吾」を参照。
春秋時代までは中国語にも格変化があり、一人称では「吾」を主格と所有格に用い、「我」を所有格と目的格に用いた。しかし論語でその文法が崩れ、「我」と「吾」が区別されなくなっている章があるのは、後世の創作が多数含まれているため。
誰(スイ)
「誰」(金文)
論語の本章では”だれ”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は西周中期の金文。字形は字形は「䇂」”小刀”+「𠙵」”くち”+「隹」だが由来と意味は不詳。春秋までの金文では”あお馬”の意で用い、戦国の金文では「隹」の字形で”だれ”を意味した。詳細は論語語釈「誰」を参照。
欺(キ)
(前漢隷書)
論語の本章では”だます”こと。初出は前漢の隷書。論語の時代に存在しない。「ギ」は慣用音。呉音は「コ」。字形は「其」+「欠」”身をかがめた人”で、「其」は音符とされる。原義は”だます”。論語時代の置換候補は「諆」。詳細は論語語釈「欺」を参照。
天(テン)
(甲骨文)
論語の本章では”天の神”。宇宙の主催者を意味する。初出は甲骨文。字形は人の正面形「大」の頭部を強調した姿で、原義は”脳天”。高いことから派生して”てん”を意味するようになった。甲骨文では”あたま”、地名・人名に用い、金文では”天の神”を意味し、また「天室」”天の祭祀場”の用例がある。詳細は論語語釈「天」を参照。
乎(コ)
(甲骨文)
論語の本章では、「かな」「や」と読んで詠嘆の意。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。字形は持ち手の柄を取り付けた呼び鐘を、上向きに持って振り鳴らし、家臣を呼ぶさまで、原義は”呼ぶ”こと。甲骨文では”命じる”・”呼ぶ”を意味し、金文も同様で、「呼」の原字となった。句末の助辞として用いられたのは、戦国時代以降になるという。詳細は論語語釈「乎」を参照。
慶大蔵論語疏は異体字「〔爫丁〕」と記す。「魏鄭羲碑」(北魏)刻。
吾誰欺〻天乎
現存最古の論語本である定州竹簡論語、唐石経を祖本とする現伝論語では「吾誰欺欺天乎」「欺」の字をそのまま繰り返しているが、慶大蔵論語疏では二字目を重文号「〻」で記す。文字列中で先行する「為為〻」とは異なり傍記せず、格の中心に小さく「二」を記して重文号を表している。「欺欺」のどちらも”あざむく”の意であることから、意が同じならば「為為」の場合と違って重文号で記したのだろう。
且(シャ)
(甲骨文)
論語の本章では”その上”。初出は甲骨文。字形は文字を刻んだ位牌。甲骨文・金文では”祖先”、戦国の竹簡で「俎」”まな板”、戦国末期の石刻文になって”かつ”を意味したが、春秋の金文に”かつ”と解しうる用例がある。詳細は論語語釈「且」を参照。
慶大蔵論語疏は異体字「𣅂」と記す。「隋張妻蘇恒墓志」刻。『敦煌俗字譜』所収。
予(ヨ)
(金文)
論語の本章では”わたし”。初出は西周末期の金文で、「余・予をわれの意に用いるのは当て字であり、原意には関係がない」と『学研漢和大字典』はいうが、春秋末期までに一人称の用例がある。”あたえる”の語義では、現伝の論語で「與」となっているのを、定州竹簡論語で「予」と書いている。字形の由来は不明。金文では氏族名・官名・”わたし”の意に用い、戦国の竹簡では”与える”の意に用いた。詳細は論語語釈「予」を参照。
與(ヨ)
(金文)
論語の本章では”…より”。この語義は春秋時代では確認できない。新字体は「与」。初出は春秋中期の金文。金文の字形は「牙」”象牙”+「又」”手”四つで、二人の両手で象牙を受け渡す様。人が手に手を取ってともに行動するさま。従って原義は”ともに”・”~と”。詳細は論語語釈「与」を参照。
慶大蔵論語疏では新字体と同じく「与」と記す。『敦煌俗字譜』所収。
其(キ)
(甲骨文)
論語の本章では”その”という指示詞。初出は甲骨文。甲骨文の字形は「𠀠」”かご”。それと指させる事物の意。金文から下に「二」”折敷”または「丌」”机”・”祭壇”を加えた。人称代名詞に用いた例は、殷代末期から、指示代名詞に用いた例は、戦国中期からになる。詳細は論語語釈「其」を参照。
死(シ)
(甲骨文)
論語の本章では”死ぬ”。字形は「𣦵」”祭壇上の祈祷文”+「人」で、人の死を弔うさま。原義は”死”。甲骨文では、原義に用いられ、金文では加えて、”消える”・”月齢の名”、”つかさどる”の意に用いられた。戦国の竹簡では、”死体”の用例がある。詳細は論語語釈「死」を参照。
慶大蔵論語疏、最終句では上の「予」字と一筆書きにし、「夕乙」のみ記したような、崩し字にしてある。入手者は誤字と判断したのだろう、「死」と傍記してある。
於(ヨ)
(金文)
論語の本章では”…によって”。初出は西周早期の金文。ただし字体は「烏」。「ヨ」は”~において”の漢音(遣隋使・遣唐使が聞き帰った音)、呉音は「オ」。「オ」は”ああ”の漢音、呉音は「ウ」。現行字体の初出は春秋中期の金文。西周時代では”ああ”という感嘆詞、または”~において”の意に用いた。詳細は論語語釈「於」を参照。
慶大蔵論語疏では異体字「扵」と記す。『新加九経字様』(唐)所収。
手(シュウ)
(金文)
論語の本章では”て”。初出は西周中期の金文。「シュ」「ス」は呉音。甲骨文では一般に「又」と記すが、金文になって「手」の字形が現れた。字形は五本指を持つ手の象形で、原義は”て”。金文では原義に、”くび”の意に用いた。詳細は論語語釈「手」を参照。
寧(ネイ)
(甲骨文)
論語の本章では、接続辞として”むしろ”。この語義は春秋時代では確認できない。『大漢和辞典』の第一義は”やすらか”。初出は甲骨文。字形は「宀」”屋根”+「皿」+「丂」”木柄”。器物や長柄道具を丁寧に倉庫に保管するさま。原義は”やすらか”。甲骨文では原義に、また地名に用いた。春秋までの金文では”見舞う”の意に用い、戦国の金文では原義に、”乞い願う”に用いられた。詳細は論語語釈「寧」を参照。
「無寧」で「むしろ(…なからんや)」と読み、”それよりも…の方がましだ”の意。「反語で、婉曲に断定する意を示す」と『学研漢和大字典』にいう。
慶大蔵論語疏は異体字「〔宀心罒丿〕」と記す。「魏元寧墓誌」(北魏)刻。
二三子(ジサンシ)
論語の本種では”弟子諸君”。弟子たちに対する孔子による呼称。「ニ」を「ニ」と読むのは呉音。「子」は貴族や知識人に対する敬称。辞書的には論語語釈「二」・論語語釈「三」を参照。
縱(ショウ)
(秦系戦国文字)
論語の本章では”たとえ…でも”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は秦系戦国文字。字形は「糸」+「従」で、織機の横糸が従うべき縦糸。原義は”縦糸”。「ジュウ」は慣用音。呉音は「シュ」。論語時代の置換候補は「從」(従)。詳細は論語語釈「縦」を参照。
慶大蔵論語疏は異体字「〔纟彳䒑乙〕」と記す。上掲『敦煌俗字譜』所収字に近似。
不(フウ)
(甲骨文)
漢文で最も多用される否定辞。初出は甲骨文。「フ」は呉音、「ブ」は慣用音。原義は花のがく。否定辞に用いるのは音を借りた派生義だが、甲骨文から否定辞”…ない”の意に用いた。詳細は論語語釈「不」を参照。
得(トク)
(甲骨文)
論語の本章では”手に入れる”→”…出来る”。初出は甲骨文。甲骨文に、すでに「彳」”みち”が加わった字形がある。字形は「貝」”タカラガイ”+「又」”手”で、原義は宝物を得ること。詳細は論語語釈「得」を参照。
大(タイ)
(甲骨文)
論語の本章では”大規模な”。初出は甲骨文。「ダイ」は呉音。字形は人の正面形で、原義は”成人”。春秋末期の金文から”大きい”の意が確認できる。詳細は論語語釈「大」を参照。
葬(ソウ)
(甲骨文)/(秦系戦国文字)
論語の本章では”葬儀”。初出は甲骨文。甲骨文の字形は「囗」”墓室”+「爿」”寝台”で、現行の字体とは大きく異なるが、古文字学者がなぜ「葬」と断じているかは明らかでない。西周・春秋に用例が無く、一旦滅んだ漢語である可能性がある。その場合、論語時代の置換候補は漢音で同音、上古音で近音の「喪」。現行の字体の初出は秦系戦国文字。「死」+「又」”手”が二つで、丁寧に死者を弔うさま。原義は”ほうむる”。甲骨文では、原義に用いられ、戦国の金文や竹簡でも同様。詳細は論語語釈「葬」を参照。
慶大蔵論語疏では異体字「〔艹夕夂土〕」と記す。上左「車騎將軍馮緄碑」(後漢)刻。上右「魏元誘妻馮氏墓誌」刻字に近似。
道(トウ)
「道」(甲骨文・金文)
論語の本章では”みち”。動詞で用いる場合は”みち”から発展して”導く=治める・従う”の意が戦国時代からある。”言う”の意味もあるが俗語。初出は甲骨文。字形に「首」が含まれるようになったのは金文からで、甲骨文の字形は十字路に立った人の姿。「ドウ」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)。詳細は論語語釈「道」を参照。
予死於道路乎
論語の本章では、”私は道路で死ぬだろうか”。
放浪中であれば、各地で包囲されたように「道路で死ぬ」こともあり得ただろうが、そうはならないと言っていることから、やはり衛国滞在中のことと思われる。おろらく論語の一つ前の章である泰伯篇と、この子罕篇の描くけしきは、すでに放浪を終え衛または魯で過ごしながら、呉との政治工作に忙しい日々を送っていた時の話だろう。
論語:付記
検証
論語の本章は、前漢中期の定州竹簡論語にあるが、再出は後漢初期の王充『論衡』になる。又一部が同時期の『漢書』に見える。
子疾病,子路遣門人為臣。病間,曰:『久矣哉由之行詐也!無臣而為有臣。吾誰欺?欺天乎?』孔子罪子路者也。己非人君,子路使門人為臣,非天之心,而妄為之,是欺天也。
先生が病んで重くなり、子路が門人を家臣に仕立てた。小康状態になって(孔子が)言った。「由の偽りも長くなったもんだ。家臣なんかおらんだろうが。私が誰かを欺したりするか? 天をだましたりするか?」孔子は子路を罰した人だ。自分は君主でないのに、子路が門人を家臣に仕立てたのは、天の意志ではない。無理やり仕立てたのは、天を欺く行為だ。(『論衡』感類9)
贊曰:薛宣、朱博皆起佐史,歷位以登宰相。宣所在而治,為世吏師,及居大位,以苛察失名,器誠有極也。博馳騁進取,不思道德,已亡可言,又見孝成之世委任大臣,假借用權。世主已更,好惡異前,復附丁、傅,稱順孔鄉。事發見詰,遂陷誣罔,辭窮情得,仰藥飲鴆。孔子曰:「久矣哉,由之行詐也!」博亦然哉!
わたし編者の班固は論評する。薛宣や朱博は小役人から出世して、宰相にまで上り詰めた。薛宣はその地位にあって、世の役人の模範となった。高官の地位にあったが、下役をいじめたので評判が悪くなったのは、人間の器に小さな所があったのだ。
朱博はひたすら出世ばかり考えて、道徳を踏みにじったのは、もう何とも言いようがない。がめついおかげで成帝の世で閣僚に入り、皇帝の権威を笠に着てやりたい放題だった。皇帝が代替わりすると、もちろん人の好みは成帝とは違うから、また小役人に逆戻りした。
朱博は郷里の孔郷で腰の低い若者として評判を取り、役人になったが、そのウソがバレて問い詰められ、役人連中は弱り目に乗ってさんざん悪口を言ったので、言い訳のしようもなくなって、毒酒を飲んで自殺した。
孔子曰く、「長くなったもんだ、由の偽りも。」朱博はまさにその通りの男だった。(『漢書』薛宣朱博伝36)
つまり春秋戦国時代の誰一人、論語の本章を引用も再録もしておらず、漢字の用法にも疑わしい点がある。ただし孔子の史実と矛盾が無く、全ての漢字が論語時代に遡りうるので、とりあえず本章を史実として扱う。
解説
論語述而篇34にも、孔子が危篤にあって子路が慌てた話があるが、その時と本章が同じ情景を描いているのか、今のところ訳者には何とも言えない。なお藤堂博士によると、この時の孔子の怒りは激しかったらしい。
孔子が怒っていることが、たたみかけた語気からして看取されよう。…孔子は…召使いとか臣下とかいう古い身分制度を、頭から否定して、人と人との対等の人間関係を目指した。…古い制度の頭が残っている子路が、忠義ぶって孔子の最も嫌いな臣という身分の者をこしらえて、師の最後を飾ろうとした。それがよほどカンにさわったのである。それは良心への詐りであり、孔子の一生の信念をけがすものでさえあったのだ。(『漢文入門』論語のこころ)
余話
シジミを飲めば
趣味は一線を超えるとハッタリに化ける。
訳者は本サイトでたびたびロシア語を書き記すが、たびたび言い訳するように、字が読め辞書を引くのがやっとの理解度に過ぎない。それがハッタリに見えてしまったなら恐縮するしかないが、記す理由は趣味以外の何ものでもなく、訳者を拝ませようなどとは考えていない。
なぜなら若年のみぎりより、西洋語を振り回す西洋かぶれを見てきたからで、ああいう馬鹿者にはなりたくないから読者の了解を願うしかない。だから了解が得られたものと仮定して、ハッタリ者がなぜ生まれるかを考えてみるに、おそらく幼少期に悲惨な目に遭ったと思われる。
脳も器官の一つだから体の一部で、戯画に出るクルクル眼鏡のひょろひょろ秀才は、実はそんなに多くない。訳者の同級生には、そのままスポリと東大や京大の医学部に入るようなのが何人もいたが、たいていはスポーツも得意で、性格はおおらかで、ハッタリをかまさなかった。
親の出来もよいことが多く、体も丈夫だから幼少期に悲惨な目に遭っていない。遭っていないのは幸いというほかないが、遭ってしまったとしても未来は救いうる。まず思うべきは、遭ったのは不可抗力で自分のせいではないこと、遭わせた者に何一つ期待しないことだ。
つまり、復讐も思わねば謝罪も望まない。人をむごい目に遭わせるような奴は、そもそも後悔や反省とは無縁に人間が生まれついているのだから、そのような期待は無駄だからだ。これを悟れないうちは、まだ駄々をこねる幼児同然で、この理屈はK国人の愚劣を説明できもする。
日本人がいくら頭を下げようと金をやろうと、約束はする側から裏切り、ありもしない「悪事」をでっち上げるのに酔い、謝罪と賠償要求を繰り返す。こんな連中とは付き合えないと思われて当たり前で、そもそもそういう狂犬的役割を担がされていることにも気付かない。
※国はモンゴロイドのくせに欧米人に刃向かった日本人には、厳重な首輪をつけた上、鎖の先に狂犬をつないで二度と刃向かえなくした。中国も同様の役割を期待されたから、インネンを付けては金をせしめてきたのだが、K国人と違い担がされに気付いているように見える。
日本におけるK国の回し者は、愚劣を指摘されるたび「半島国家の経営は難しい」と言い訳してきた。連中の売国が積み重なって、とうとう 丿-が「瓜の蔓はK国荷駄」と白状するに至ったのだが、三浦党やビザンツやブルガール、オスマンの強大をどう説明するのだろうか。
口先で人を脅して食う連中の、いかがわしさはこういう中途半端にある。あるいはデンマークがかつて、スカンジナビアとアイスランドとグリーンランドとブリテン島にまたがる大帝国だったことを思ってもよい。丁独関係史には詳しくないが、K国の如き愚劣をドイツに仕掛けただろうか。
せいぜい映画「1864」を作って、やんわりと記憶を表現した程度しか知らない。
話を過去の清算に戻せば、忌まわしい者どもとあらゆる関係を綺麗さっぱりと断ち切り、二度とつながりを求めない。その労力をひたすらに、自分の頭と体の強大化に費やす。強大化すればするほどに、忌まわしい者どもの記憶は決して消えはしないかも知れないが、薄れはする。
この労力を、自分がサディストになり、悲惨を他人になすりつけるのに使う者どもがいる。上記の西洋かぶれのやからもその一種で、大して知りもしない西洋語を、得意になって振り回すと共に、西洋の事物で日本に相当するものを、理由無くおとしめて得意になりもする。
訳者はかつて目の前で、フランス専門の東大主任教授が「我が家は朝食に和食など食わん。一個××円(確か千円以上だった)のコッペパンを焼かせておる」と自慢し、取り巻き教授どもが「すごいすごい」と迎合する景色を見せつけられて、いたたまれなくなった事がある。
だから訳者はヴォルガの舟歌を愛すると同時に、我が国には八代さんの舟唄があることに心強くもなる。左翼がマルクスを、右翼が 丿-を拝ませその実自分を拝ませているように、K国人が愚劣をやめないように、他人への悲惨の押しつけはいつまでたっても救済にならない。
自分は、自分で救済するしかない。孔子が子路を叱ったゆえんである。
参考記事
論語雍也篇17余話「半可な英語をペラペラと」
コメント