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論語詳解215子罕篇第九(11)顔淵いきづくさま*

論語子罕篇(11)要約:後世の創作。論語でも指折りに愚劣な章。聞いて耳を覆いたくなるようなゴマスリの言葉が、これでもかと続きます。史実ではなく、前漢の儒者のでっち上げです。もう少しましなことを書けなかったのでしょうか。

論語:原文・書き下し

原文(唐開成石経)

顏淵喟然歎曰仰之彌高鑽之彌堅瞻之在前忽焉在後夫子循循然善誘人博我以文約我以禮欲罷不能旣竭吾才如有所立卓爾雖欲從之未由也巳

  • 「淵」字:最後の一画〔丨〕を欠く。唐高祖李淵の避諱
  • 「禮」字:〔示〕→〔礻〕。

校訂

諸本

  • 論語集釋:七經考文:古本「然」作「焉」。七修類稿:「忽然」是「忽焉」也,本朝頒書及史記、石經皆作「焉」字。

東洋文庫蔵清家本

顏淵喟然歎曰/仰之弥高鑽之弥堅/瞻之在前忽焉在後/夫子循循然善誘人/博我以文約我以禮欲罷不能旣竭吾才如有所立卓爾雖欲從之未由也已

  • 「淵」字:〔氵丿丰丰丨〕。
  • 「禮」字:〔示〕→〔礻〕。

慶大蔵論語疏

〔立儿頁〕1〔丬关刂〕2喟然歎曰/仰之〔一方尓〕3高鑚4之弥3〔堅丶〕5/〔目𠂊一夕匕吉〕6之在前〔匁心〕7〔ス一与〕8在〔彳𠂊又〕9/夫子〔彳丨𠂉有〕10(〻)11然善誘人/〔十専〕12我以文约13我以礼14〔山乚〕15/欲罷不〔〔䏍戋〕〕16/〔艮元〕17竭吾才/如有〔一冫丿亇〕18立〔丁早〕1920/〔口虫隹〕21欲〔氵䒑之〕22之未由也巳23

  1. 「顏」の異体字。「三十人等造形像二千餘區記」(北魏?)刻。
  2. 「淵」の異体字。「周封抱墓誌銘」(北周?)・「唐夫人史氏墓誌銘」刻。
  3. 「彌」の異体字。「唐裴氏子墓誌銘」刻。
  4. 「鑽」の異体字。「武榮碑」(後漢)刻。
  5. 「堅」の異体字。「興聖寺主尼法澄塔銘」(唐)刻。
  6. 「瞻」の異体字。「江陽王元繼次妃石婉墓誌」(北魏)刻。
  7. 「忽」の異体字。「唐集聖教序」刻。
  8. 「焉」の異体字。『宋元以来俗字譜』所収。「周景柱太原晉祠記」(清)刻。
  9. 「後」の異体字。「隋處士范高墓志」刻字に近似。
  10. 「循」の異体字。「唐洛州滎陽縣頭逸僧法師碑」刻字に近似。
  11. 傍記。
  12. 「博」の異体字。「韓碑陰」(後漢)刻字に近似。
  13. 「約」の崩し字。
  14. 「禮」の異体字。『干禄字書』(唐)所収。
  15. 「此」の異体字。初出前漢隷書。
  16. 「能」の異体字か。未詳。
  17. 「旣」の異体字。「齊董洪達造象」(北斉)刻、『敦煌俗字譜』所収。
  18. 「所」の異体字。「魏李謀墓誌」(北魏?)刻。
  19. 「卓」の異体字。「魏敬史君碑陰」(東魏)刻字に近似。
  20. 「爾」の異体字。「唐高延貴造彌像記」刻。
  21. 「雖」の異体字。「東魏李仲璇孔子廟碑」刻。
  22. 「從」の異体字。『宋元以来俗字譜』所収字に近似。
  23. 「已」の異体字。

後漢熹平石経

(なし)

定州竹簡論語

……[淵喟然嘆a曰]:「卬b之迷c高,□□迷c堅。瞻之在前,忽222……[然善牖d人,博]我以文,約我以禮,223……壐。雖欲從之,未由也[已]。」224

  1. 嘆、今本作「歎」。
  2. 卬、今本作「抑」。卬省亻旁。
  3. 迷、今本作「彌」。迷与彌音近仮借。
  4. 牖、今本作「誘」。二字可通。

標点文

顏淵喟焉嘆曰、「卬之迷高、鑽之迷堅、瞻之在前、忽焉在後。夫子循然善牖人、博我以文、約我以禮此。欲罷不能、旣竭吾才、如有所立卓爾、雖欲從之、未由也已。」

復元白文(論語時代での表記)

顔 金文淵 金文喟焉曰 金文 卬 金文之 金文彌 金文高 金文 之 金文彌 金文堅 玉石文之 金文在 金文前 金文 忽焉在 金文後 金文 夫 金文子 金文徳 甲骨文然 金文善 金文人 金文 博 金文我 金文㠯 以 金文文 金文 要 金文我 金文㠯 以 金文礼 金文此 金文 谷不 金文能 金文 既 金文吾 金文才 金文 如 金文有 金文所 金文立 金文卓 金文爾 金文 雖 金文谷従 金文之 金文 未 金文由 甲骨文也 金文已 金文

※迷→彌・堅→豎・循→(甲骨文)・約→要・欲→谷。

論語の本章は上記赤字が論語の時代に存在しない。「然」「循」「博」「文」「如」「爾」「末」(未)「由」「也」の用法に疑問がある。本章は漢代の儒者による創作である。

書き下し

顏淵がんえんいくづさまたたへていはく、これあふげば彌〻いよいよたかく、これればいよいよかたし、これればまへり、忽焉しらずしてしりへり。夫子ふうしねんごりてひとみちびく。われひろむるにふみもちゐ、われぶるにゐやもちふことかくたり。めむとのぞみてあたすでざえつくす。ところりて卓爾そびゆるがごとし、これしたがはんとのぞむといへども、いまよしなきなるのみ

論語:現代日本語訳

逐語訳

顔回

顔淵がため息をついて感動しながら言った。「これを仰げばますます高く、キリをもみ込んでもますます堅い。これを目を上げて見ると前におり、知らない間に後ろに居る。先生はなだめるように上手く人を導く。私の見識を広めるのに文章を用い、私の行動に原則をつけるのに礼儀作法を用いる。やめようと望んでも出来ない。すでに私の才能を尽くした。立つ場所があってそびえ立つようだ。従おうと望んでも未だに筋道が無くなり切ってしまっている。」

意訳

論語 顔回 喟然
顔淵「はうっ!あおーげばー、とおーとし、我が師のかげー。堅いな堅いな、錐で突いても穴開かない。まーえにそびえ、知らない間に後ろにも。みっちり説教するのが上手だなあ。ボクは文章で視野を広げてもらい、お作法で行動に締まりを付けて貰った。たーのしーなー。やめられない止まらない。やってもやっても追いつかない。高いな高いな、どうやっても追いつけないな。」

従来訳

下村湖人

顔渕がため息をつきながら讃歎していった。――
「先生の徳は高山のようなものだ。仰げば仰ぐほど高い。先生の信念は金石のようなものだ。鑚れば鑚るほど堅い。捕捉しがたいのは先生の高遠な道だ。前にあるかと思うと、たちまち後ろにある。先生は順序を立てて、一歩一歩とわれわれを導き、われわれの知識をひろめるには各種の典籍、文物制度を以てせられ、われわれの行動を規制するには礼を以てせられる。私はそのご指導の精妙さに魅せられて、やめようとしてもやめることが出来ず、今日まで私の才能のかぎりをつくして努力して来た。そして今では、どうなり先生の道の本体をはっきり眼の前に見ることが出来るような気がする。しかし、いざそれに追いついて捉えようとすると、やはりどうにもならない。」

下村湖人『現代訳論語』

現代中国での解釈例

顏淵感嘆地說:「老師的學問越仰望越覺得高聳,越鑽研越覺得深厚;看著就在前面,忽然卻在後面。老師步步引導,用知識豐富我,用禮法約束我,想不學都不成。我竭盡全力,仍然象有座高山矗立眼前。我想攀上去,但覺得無路可走。」

中国哲学書電子化計画

顔淵が感動して言った。「先生の学問は仰ぎ見れば見るほど高くそびえ、学べば学ぶほど深い。前に見えたと思ったら、あっという間に後ろにもある。先生は私を一歩ずつ導くのに、豊富な知識を用い、礼法で私を躾けるが、学ばないでおこうと思っても全く出来ない。私は全力で学んだが、やはり高山が眼前にそびえるようだ。私は登ろうとしても、方法が無いと悟った。」

論語:語釈

顏淵(ガンエン)

孔子の弟子、顏回子淵。あざ名で呼んでおり敬称。詳細は論語の人物:顔回子淵を参照。

顔 金文 顔 字解
「顏」(金文)

「顏」の新字体は「顔」だが、定州竹簡論語も唐石経も清家本も新字体と同じく「顔」と記している。ただし文字史からは「顏」を正字とするのに理がある。初出は西周中期の金文。字形は「文」”ひと”+「厂」”最前線”+「弓」+「目」で、最前線で弓の達者とされた者の姿。「漢語多功能字庫」によると、金文では氏族名に用い、戦国の竹簡では”表情”の意に用いた。詳細は論語語釈「顔」を参照。

顔 顏 異体字
慶大蔵論語疏では異体字「〔立儿頁〕」と記す。上掲「三十人等造形像二千餘區記」(北魏?)刻。

淵 甲骨文 淵 字解
「淵」(甲骨文)

「淵」の初出は甲骨文。「渕」は異体字。字形は深い水たまりのさま。甲骨文では地名に、また”底の深い沼”を意味し、金文では同義に(沈子它簋・西周早期)に用いた。詳細は論語語釈「淵」を参照。

淵 異体字
慶大蔵論語疏は異体字「〔丬关刂〕」と記す。上掲「唐夫人史氏墓誌銘」刻。「周封抱墓誌銘」(北周?)にも刻。

喟*(キ)

喟 晋系戦国文字 喟 字解
(晋系戦国文字)

論語の本章では、”ためいき”。「喟然」で”ため息をつくように”。初出は晋系戦国文字。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。字形は「𠙵」”くち”+音符「胃」。上古音に同音は存在しない。戦国の竹簡では、「葨」「𦳢」「渭」が「喟」と釈文されている。異体字に「嘳」があるという。初出は「喟」と同じとされる。詳細は論語語釈「喟」を参照。

然(ゼン)→焉(エン)

論語の本章では”…であるように”。「然」が”~であるさま”である語義は春秋時代以前では確認できない。「焉」は論語の時代に存在しない。

然 金文 然 字解
(金文)

初出は春秋早期の金文。「ネン」は呉音。初出の字形は「黄」+「火」+「隹」で、黄色い炎でヤキトリを焼くさま。現伝の字形は「月」”にく”+「犬」+「灬」”ほのお”で、犬肉を焼くさま。原義は”焼く”。”~であるさま”の語義は戦国末期まで時代が下る。詳細は論語語釈「然」を参照。

焉 金文 焉 字解
(金文)

「焉」の初出は戦国早期の金文で、論語の時代に存在せず、論語時代の置換候補もない。漢学教授の諸説、「安」などに通じて疑問辞と解するが、いずれも春秋時代以前に存在しないか、疑問辞としての用例が確認できない。ただし春秋時代までの中国文語は、疑問辞無しで平叙文がそのまま疑問文になりうる。

字形は「鳥」+「也」”口から語気の漏れ出るさま”で、「鳥」は装飾で語義に関係が無く、「焉」は事実上「也」の異体字。「也」は春秋末期までに句中で主格の強調、句末で詠歎、疑問や反語に用いたが、断定の意が明瞭に確認できるのは、戦国時代末期の金文からで、論語の時代には存在しない。詳細は論語語釈「焉」を参照。

焉 異体字 焉 異体字
慶大蔵論語疏は上掲異体字「〔ス一与〕」と記す。『宋元以来俗字譜』所収。上掲「周景柱太原晉祠記」(清)刻。

後(コウ)

歎*(タン)→嘆*(タン)

歎 篆書 嘆 篆書
「歎」(篆書)/「嘆」(篆書)

論語の本章では”感動してたたえる”。定州竹簡論語では「嘆」と書くが事実上の異体字。初出は戦国の竹簡で、ただし字形は「難」または「戁」。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。「歎」の字形は「𦰩」”火あぶり”+「欠」”口を大きく開けた人”で、悲惨なさまに口を開けて歎くさま。「嘆」は「𦰩」+「𠙵」”くち”で、意味するところは同じ。戦国の竹簡で”なげく”の意に用いた。詳細は論語語釈「歎」を参照。

曰(エツ)

曰 甲骨文 曰 字解
(甲骨文)

論語で最も多用される、”言う”を意味する言葉。初出は甲骨文。原義は「𠙵」=「口」から声が出て来るさま。詳細は論語語釈「曰」を参照。

仰*(ギョウ)→卬(ギョウ)

卬 金文 卬 字解
(金文)

論語の本章では”仰ぎ見る”。初出は西周末期の金文。ただし字形は「卬」で、「印」「抑」と未分離。現行字体の初出は後漢の『説文解字』。字形は「爪」”て”+「卩」”跪いた人”。原義は”押さえる”。立場を変えて押さえられる人から見れば、”あおぐ”となる。のちにんべんが加わる。詳細は論語語釈「仰」を参照。

之(シ)

之 甲骨文 之 字解
(甲骨文)

論語の本章では”これ”。初出は甲骨文。字形は”足”+「一」”地面”で、あしを止めたところ。原義はつま先でつ突くような、”まさにこれ”。殷代末期から”ゆく”の語義を持った可能性があり、春秋末期までに”~の”の語義を獲得した。詳細は論語語釈「之」を参照。

彌*(ビ)→迷*(ベイ)

論語の本章では”一層”。

弥 金文 弥 字解
(金文)

「彌」の初出は西周中期の金文。字形は「弓」+「爾」”判子”。判で付いたように矢が落ちる遠い所の意。春秋末期までに、”長く”・”いよいよ”・”一層”の意に用いた。詳細は論語語釈「弥」を参照。

彌 弥 異体字
慶大蔵論語疏は異体字「〔一方尓〕」と記す。上掲「唐裴氏子墓誌銘」刻。「魏瓽法端造象記」(北魏?)・「隋李君造象」刻字にも近似。

迷 楚系戦国文字 迷 字解
(楚系戦国文字)

定州竹簡論語は「迷」と記す。初出は楚系戦国文字。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。字形は〔辶〕”みち”+音符「米」。同音に「米」、「眯」”くらむ・くらます”。など「メイ」は慣用音。呉音は「マイ」。詳細は論語語釈「迷」を参照。

漢儒が「彌」の意に「迷」を当てた理由は想像できる。上古音は「彌」mi̯ăr(平)に対し「迷」miər(平)で近音と言え、漢儒が知識をひけらかすためにやった、手ぬぐいも貰えない下手くそな空耳アワーの強要と断じうる。

儒者の捏造

高(コウ)

高 甲骨文 高 字解
「高」(甲骨文)

論語の本章では”高い”。初出は甲骨文。字形は「ケイ」”城壁”+”たかどの”+「𠙵」”くち”で、人の集まる都市国家のたかどののさま。原義は”大きい”。「漢語多功能字庫」によると、甲骨文では地名、また”遠い(祖先)”を意味し、金文では地名・人名に用いた。また戦国の金文では”崇高”の意に用いた。漢代の帛書では”高い”の意に用いた。詳細は論語語釈「高」を参照。

鑽*(サン)

鑽 隷書 鑽 字解
(前漢隷書)

論語の本章では”堅いものに穴を開ける”。初出は前漢の隷書。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。字形は「金」”金属の刃物”+音符「贊」(賛)。「鑚」は異体字。同音に「纂」”あつめる”・「纘」”継ぐ”・「酇」”しろざけ”。詳細は論語語釈「鑽」を参照。

鑚 鑽 異体字
慶大蔵論語疏では上掲異体字「鑚」と記す。「武榮碑」(後漢)刻。

堅*(ケン)

堅 玉石文 堅 字解
(玉石文)

論語の本章では”かたい”。初出は春秋中期の玉石文。ただし字形は「豎」。「豆」を欠く字形もある。現行字形の初出は戦国最末期の「睡虎地秦簡」。初出の字形は「臣」”伏せた目”+「又」”手”+「豆」”たかつき”。たかつきに恐らくは動物の血を満たして、ともに伏し拝んで指先をひたし、固く盟約するさま。初出「侯馬盟書」の該当部分はネット上に発見できなかった。”かたい”の意で戦国最末期「睡虎地秦簡」にある。詳細は論語語釈「堅」を参照。

堅 異体字
慶大蔵論語疏は異体字「堅丶」と記す。上掲「興聖寺主尼法澄塔銘」(唐)刻。

瞻*(セン)

瞻 楚系戦国文字 瞻 字解
(楚系戦国文字)

論語の本章では”仰ぎ見る”。初出は楚系戦国文字。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。ただしへんが「見」になっている。字形は「目」(見)+「公」+「𠙵」”くち”。王侯を見上げるさま。同音に「詹」(平)”多くもの言う”、「占」(平)”みる”。詳細は論語語釈「瞻」を参照。

瞻 異体字
慶大蔵論語疏は異体字「〔目𠂊一夕匕吉〕」と記す。上掲「江陽王元繼次妃石婉墓誌」(北魏)刻。

在(サイ)

才 在 甲骨文 在 字解
(甲骨文)

論語の本章では、”いる”。「ザイ」は呉音。初出は甲骨文。ただし字形は「才」。現行字形の初出は西周早期の金文。ただし「漢語多功能字庫」には、「英国所蔵甲骨文」として現行字体を載せるが、欠損があって字形が明瞭でない。同音に「才」。甲骨文の字形は「才」”棒杭”。金文以降に「士」”まさかり”が加わる。まさかりは武装権の象徴で、つまり権力。詳細は春秋時代の身分制度を参照。従って原義はまさかりと打ち込んだ棒杭で、強く所在を主張すること。詳細は論語語釈「在」を参照。

前*セン

前 甲骨文 前 字解
(甲骨文)

論語の本章では”空間的にまえ”。この語義は春秋時代では確認できないが、ただし初出の字形を見るに当初から存在したと思われる。初出は甲骨文。字形は履き物を履いた足の先端のさま。現行字体の「䒑」+「刂」は「止」”あし”の変形。「⺼」は履き物の変形。「ゼン」は呉音。甲骨文は欠損が激しく語義を読み取れない。西周早期から西周末期まで”時間的にまえ”の意で、春秋時代の用例は見当たらず、”空間的にまえ”の意が現れるのは戦国時代になる。詳細は論語語釈「前」を参照。

忽*(コツ)

忽 金文 忽 字解
(戦国金文)

論語の本章では”知れない”。初出は戦国末期の金文。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。字形は「勿」”ない”+「心」。知覚できないさま。戦国の金文で”知覚できない”の意に用いた。詳細は論語語釈「忽」を参照。

忽 異体字
慶大蔵論語疏は異体字「〔匁心〕」と記す。上掲「唐集聖教序」刻。

後 甲骨文 後 字解
(甲骨文)

論語の本章では空間的な”うしろ”。「ゴ」は慣用音、呉音は「グ」。初出は甲骨文。その字形は彳を欠く「ヨウ」”ひも”+「」”あし”。あしを縛られて歩み遅れるさま。原義は”おくれる”。甲骨文では原義に、春秋時代以前の金文では加えて”うしろ”を意味し、「後人」は”子孫”を意味した。また”終わる”を意味した。人名の用例もあるが年代不詳。詳細は論語語釈「後」を参照。

後 異体字
慶大蔵論語疏は「〔彳𠂊又〕」と記す。上掲「隋處士范高墓志」刻字に近似。

夫子(フウシ)

論語の本章では”孔子先生”。”父の如き人”の意味での敬称。

夫 甲骨文 論語 夫 字解
(甲骨文)

「夫」の初出は甲骨文。論語では「夫子」として多出。「夫」に指示詞の用例が春秋時代以前に無いことから、”あの人”ではなく”父の如き人”の意で、多くは孔子を意味する。「フウ」は慣用音。字形はかんざしを挿した成人男性の姿で、原義は”成人男性”。「大夫」は領主を意味し、「夫人」は君主の夫人を意味する。固有名詞を除き”成人男性”以外の語義を獲得したのは西周末期の金文からで、「敷」”あまねく”・”連ねる”と読める文字列がある。以上以外の語義は、春秋時代以前には確認できない。詳細は論語語釈「夫」を参照。

子 甲骨文 子 字解
「子」

「子」の初出は甲骨文。論語ではほとんどの章で孔子を指す。まれに、孔子と同格の貴族を指す場合もある。また当時の貴族や知識人への敬称でもあり、孔子の弟子に「子○」との例が多数ある。なお逆順の「○子」という敬称は、上級貴族や孔子のような学派の開祖級に付けられる敬称。「南子」もその一例だが、”女子”を意味する言葉ではない。字形は赤ん坊の象形で、もとは殷王室の王子を意味した。詳細は論語語釈「子」を参照。

循*(シュン)

徳 甲骨文 循 字解
(甲骨文)

論語の本章では”なだめるように”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。初出の字形は「徳」と全く同じで、「行」”四つ角”+「目」+軌跡で、見回るさま。現行字形には「广」”屋根”が付く。”したがう”の意だが、字形からの解釈は困難。「ジュン」は呉音。甲骨文から”見回る”・”従う”の両義を持った。詳細は論語語釈「循」を参照。

循 異体字
慶大蔵論語疏は異体字「〔彳丨𠂉有〕」と記す。上掲「唐洛州滎陽縣頭逸僧法師碑」刻字に近似。

循循然→循〻然

定州竹簡論語は「循」部分を欠くので、現存最古の文字列は慶大蔵論語疏になる。そこでは「循然」と記し「〻」と重文号(繰り返し記号)を傍記する。これにより二つのことが分かる。

  1. 文意がやや変わる。唐石経を祖本とする現伝論語の文字列、「夫子循循然善誘人」の句読分けは、「天子穆穆」(論語八佾篇2)同様、四字句で区切るのがバランスがよく、「夫子は循循ねんごろ、然れば善く人をみちびく」と訓読できる。”先生の教え方は丁寧で、だからこそ上手に弟子を指導できる”と解せる。
    対して「夫子循然善誘人」は「夫子はねんごろりて、善く人を誘く」と訓読でき、”先生の教え方は丁寧だ。上手に弟子を指導する。”と前後の句の因果関係がやや薄い。
  2. 慶大本は中国で筆写されたとされる。傍記は読解のために記されたメモ書きであり、遊び字の多い原本は、そのままでは意味が分からない。おそらく傍記したのは日本人であり、傍記で訂正を書き込むからには、論拠となる別の論語の版本が、並行輸入されていたと思われる。それはおそらく唐石経の写しで、開成石経完工の翌年に最後の遣唐使が帝都長安を訪れているから、おそらく写しを取って帰っただろう。帰朝語に開けてみると「大唐帝国公認論語」では「循循然」と一文字多い。恐れ入って重文号を傍記したと考えるのが筋が通る。
原始論語?…→定州竹簡論語→白虎通義→
             ┌(中国)─唐石経─論語注疏─論語集注─(古注滅ぶ)→
→漢石経─古注─経典釈文─┤ ↓↓↓↓↓↓↓さまざまな影響↓↓↓↓↓↓↓
       ・慶大本  └(日本)─清家本─正平本─文明本─足利本─根本本→
→(中国)─(古注逆輸入)─論語正義─────→(現在)
→(日本)─────────────懐徳堂本→(現在)

〻
「子〻孫〻」史頌鼎・西周末期

「〻」はもと「二」を小さく記した。wikipediaによると「二」を重文号に用いたのは殷代に始まるという。訳者が確認した初出は西周早期「㢭白鬲」(集成697)で、「其萬年子〻孫〻永寶用」とある。

善(セン)

善 金文 善 字解
(金文)

論語の本章では”上手く”。「善」はもとは道徳的な善ではなく、機能的な高品質を言う。「ゼン」は呉音。字形は「譱」で、「羊」+「言」二つ。周の一族は羊飼いだったとされ、羊はよいもののたとえに用いられた。「善」は「よい」「よい」と神々や人々が褒め讃えるさま。原義は”よい”。金文では原義で用いられたほか、「膳」に通じて”料理番”の意に用いられた。戦国の竹簡では原義のほか、”善事”・”よろこび好む”・”長じる”の意に用いられた。詳細は論語語釈「善」を参照。

誘*(ユウ)→牖(ユウ)

誘 秦系戦国文字 誘 字解
(秦系戦国文字)

論語の本章では”導く”。論語では本章のみに登場。初出は秦系戦国文字。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。字形は「言」+「秀」”先に立つ”。言葉で先導して導くさま。同音は「牖」など。戦国最末期「睡虎地秦簡」の用例は「秀」と釈文されており、”芽吹く”の意。詳細は論語語釈「誘」を参照。

牖 秦系戦国文字 牖 字解
(秦系戦国文字)

定州竹簡論語では「牖」と記す。初出は秦系戦国文字。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。字形は「片」”ベッド”+「巨」+「用」で、おそらく原義は”寝室の窓”。詳細は論語語釈「牖」を参照。

漢儒が「誘」→「牖」と記した理由は、上記の「彌」→「迷」と同じく、上古音が同音で、かつ幼稚な承認欲求から。

人(ジン)

人 甲骨文 人 字解
(甲骨文)

論語の本章では”人”。初出は甲骨文。原義は人の横姿。「ニン」は呉音。甲骨文・金文では、人一般を意味するほかに、”奴隷”を意味しうる。対して「大」「夫」などの人間の正面形には、下級の意味を含む用例は見られない。詳細は論語語釈「人」を参照。

博(ハク)

博 甲骨文 博 字解
(甲骨文)

論語の本章では”幅広げる”。この語義は春秋時代では確認できない。『大漢和辞典』の第一義は”あまねくゆきわたる”。初出は甲骨文。ただし「搏」”うつ”と釈文されている。字形は「干」”さすまた”+「𤰔」”たて”+「又」”手”で、武具と防具を持って戦うこと。原義は”戦う”(「博多」って?)。”ひろい”と読みうる初出は戦国中期の竹簡で、論語の時代の語義ではない。詳細は論語語釈「博」を参照。

博 異体字
慶大蔵論語疏は異体字「〔十専〕」と記す。上掲「韓碑陰」(後漢)刻字に近似。

我(ガ)

我 甲骨文 我 字解
(甲骨文)

論語の本章では”わたし”。初出は甲骨文。字形はノコギリ型のかねが付いた長柄武器。甲骨文では占い師の名、一人称複数に用いた。金文では一人称単数に用いられた。戦国の竹簡でも一人称単数に用いられ、また「義」”ただしい”の用例がある。詳細は論語語釈「我」を参照。

以(イ)

以 甲骨文 以 字解
(甲骨文)

論語の本章では”用いる”。初出は甲骨文。人が手に道具を持った象形。原義は”手に持つ”。論語の時代までに、名詞(人名)、動詞”用いる”、接続詞”そして”の語義があったが、前置詞”~で”に用いる例は確認できない。ただしほとんどの前置詞の例は、”用いる”と動詞に解せば春秋時代の不在を回避できる。詳細は論語語釈「以」を参照。

文(ブン)

文 甲骨文 文 字解
(甲骨文)

論語の本章では武に対する文で、”文化的なもの”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。「モン」は呉音。原義は”入れ墨”で、甲骨文や金文では地名・人名の他、”美しい”の例があるが、”文章”の用例は戦国時代の竹簡から。詳細は論語語釈「文」を参照。

約(ヤク)

約 楚系戦国文字 約 字解
(楚系戦国文字)

論語の本章では”まとめる”。同音は「要」”引き締まった腰”とそれを部品とする漢字群、「夭」”わかじに”とそれを部品とする漢字群、「葯」”よろいぐさ・くすり”。字形は「糸」+「勺」とされるが、それは始皇帝によって秦系戦国文字を基本に文字の統一が行われて以降で、楚系戦国文字の段階では「糸」+「與」の略体「与」で、糸に手を加えて引き絞るさま。原義は”絞る”。同音の「要」には西周末期の「散氏盤」に”まとめる”と読めなくもない用例がある。詳細は論語語釈「約」を参照。

慶大蔵論語疏は崩し字「约」と記す。現行簡体字と同じ。

禮(レイ)

礼 甲骨文 礼 字解
(甲骨文)

論語の本章では”(儒家の)礼儀作法”。新字体は「礼」。しめすへんのある現行字体の初出は秦系戦国文字。無い「豊」の字の初出は甲骨文。両者は同音。現行字形は「示」+「豊」で、「示」は先祖の霊を示す位牌。「豊」はたかつきに豊かに供え物を盛ったさま。具体的には「豆」”たかつき”+「牛」+「丰」”穀物”二つで、つまり牛丼大盛りである。詳細は論語語釈「礼」を参照。

慶大蔵論語疏は新字体と同じく「礼」と記す。この字体は後漢の隷書から確認出来る。『干禄字書』(唐)所収。

孔子の生前、「礼」は文字化され固定化された制度や教科書ではなく、貴族の一般常識「よきつね」を指した。その中に礼儀作法「ゐや」は含まれているが、意味する範囲はもっと広い。詳細は論語における「礼」を参照。

此(シ)

此 甲骨文 此 隷書
(甲骨文)/(前漢隷書)

慶大蔵論語疏は「禮」のあとに、上掲「此」の異体字「〔山乚〕」と記す。この字体の初出は前漢の隷書。「此」は唐石経を祖本とする現伝の論語では一字たりとも用いていない。論語の本章では「かくたり」と訓読して”このようである”の意。

また慶大本は「此」のうしろに疏(注の付け足し)を記し、「以説善誘之事也」と記す。慶大本に次いで古い疏を記した文明本を底本とする懐徳堂本は、経(本文)に「此」を記さず、疏に「此説善誘之事也」と記す。現伝論語の祖本である唐石経も記さず、古注とは別系統の疏を記す宮内庁蔵宋版論語注疏も記さない。

定州竹簡論語はこの部分を欠き、慶大本に次いで古い古注本である宮内庁蔵清家本は「此」を記さない。従って物証として最も先行する慶大本に従い、校訂した。

慶大本 博我以文約我以禮此 以説善誘之事也
京大蔵唐石経 博我以文約我以禮
宮内庁蔵宋版論語注疏 博我以文約我以禮
宮内庁蔵清家本 博我以文約我以禮
懐徳堂本 博我以文約我以禮 此説善誘之事也

字の初出は甲骨文。字形は「止」”あし”+「人」で、人が足を止めたところ。原義は”これ”。春秋末期までに、人名のほか”それ(をもちいて)”の意に用いた。詳細は論語語釈「此」を参照。

欲(ヨク)

欲 楚系戦国文字 欲 字解
(楚系戦国文字)

論語の本章では”求める”。初出は楚系戦国文字。新字体は「欲」。同音は存在しない。字形は「谷」+「欠」”口を膨らませた人”。部品で近音の「谷」に”求める”の語義がある。詳細は論語語釈「欲」を参照。

罷*(ハイ)

罷 秦系戦国文字 罷 字解
(秦系戦国文字)

論語の本章では”やめる”。初出は秦系戦国文字。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。字形は「网」”失う”+「能」。能を失うの意。”つかれる”の意での漢音は「ヒ」。”やめる”では「ハイ」。従って「罷免」を「ヒメン」と読むのは間違いということになる。戦国最末期の「睡虎地秦簡」で”やめる”の意に用いた。上古音での同音同調に「疲」があるが、初出は楚系戦国文字。詳細は論語語釈「罷」を参照。

不(フウ)

不 甲骨文 不 字解
(甲骨文)

漢文で最も多用される否定辞。初出は甲骨文。「フ」は呉音、「ブ」は慣用音。原義は花のがく。否定辞に用いるのは音を借りた派生義だが、甲骨文から否定辞”…ない”の意に用いた。詳細は論語語釈「不」を参照。

能(ドウ)

能 甲骨文 能 字解
(甲骨文)

論語の本章では”能力”。初出は甲骨文。「ノウ」は呉音。原義は鳥や羊を煮込んだ栄養満点のシチューを囲んだ親睦会で、金文の段階で”親睦”を意味し、また”可能”を意味した。詳細は論語語釈「能」を参照。

座敷わらし おじゃる公家
「能~」は「よく~す」と訓読するのが漢文業界の座敷わらしだが、”上手に~できる”の意と誤解するので賛成しない。読めない漢文を読めるとウソをついてきた、大昔に死んだおじゃる公家の出任せに付き合うのはもうやめよう。

慶大蔵論語疏では「〔䏍戋〕」と記す。未詳。

既(キ)

既 甲骨文 既 字解
(甲骨文)

論語の本章では”すでに”。初出は甲骨文。字形は「ホウ」”たかつきに盛っためし”+「」”口を開けた人”で、腹いっぱい食べ終えたさま。「旣」は異体字だが、文字史上はこちらを正字とするのに理がある。原義は”…し終えた”・”すでに”。甲骨文では原義に、”やめる”の意に、祭祀名に用いた。金文では原義に、”…し尽くす”、誤って「即」の意に用いた。詳細は論語語釈「既」を参照。

旣 既 異体字
慶大蔵論語疏は異体字「〔日厶元〕」と記す。「齊董洪達造象」(北斉)刻、『敦煌俗字譜』所収。

竭(ケツ)

竭 篆書 竭 字解
(篆書)

論語の本章では”尽くす”。『大漢和辞典』の第一義は”背負い上げる”。初出は後漢の『説文解字』。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。字形は「立」+「曷」”乾く”・”尽きる”で、人が力を尽くして立ち働くさま。詳細は論語語釈「竭」を参照。

吾(ゴ)

吾 甲骨文 吾 字解
(甲骨文)

論語の本章では”わたし”。初出は甲骨文。字形は「五」+「口」で、原義は『学研漢和大字典』によると「語の原字」というがはっきりしない。一人称代名詞に使うのは音を借りた仮借だとされる。詳細は論語語釈「吾」を参照。

春秋時代までは中国語にも格変化があり、一人称では「吾」を主格と所有格に用い、「我」を所有格と目的格に用いた。しかし論語でその文法が崩れ、「我」と「吾」が区別されなくなっている章があるのは、後世の創作が多数含まれているため。

才(サイ)

才 甲骨文 在 字解
(甲骨文)

論語の本章では”才能”。初出は甲骨文。字形は地面に打ち付けた棒杭による標識の象形。原義は”存在(する)”。金文では「在」”存在”の意に用いる例が多い。春秋末期までの金文で、”才能”・”財産”・”価値”・”年”、また「哉」と釈文され詠嘆の意に用いた。戦国の金文では加えて”~で”の意に用いた。詳細は論語語釈「才」を参照。

如(ジョ)

如 甲骨文 如 字解
「如」(甲骨文)

「如」は論語の本章では”…のようである”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。字形は「口」+「女」。甲骨文の字形には、上下や左右に部品の配置が異なるものもあって一定しない。原義は”ゆく”。詳細は論語語釈「如」を参照。

有(ユウ)

有 甲骨文 有 字解
「有」(甲骨文)

論語の本章では”存在する”。初出は甲骨文。ただし字形は「月」を欠く「㞢」または「又」。字形はいずれも”手”の象形。金文以降、「月」”にく”を手に取った形に描かれた。原義は”手にする”。原義は腕で”抱える”さま。甲骨文から”ある”・”手に入れる”の語義を、春秋末期までの金文に”存在する”・”所有する”の語義を確認できる。詳細は論語語釈「有」を参照。

所(ソ)

所 金文 所 字解
(金文)

論語の本章では”…するところ”。初出は春秋末期の金文。「ショ」は呉音。字形は「戸」+「斤」”おの”。「斤」は家父長権の象徴で、原義は”一家(の居所)”。論語の時代までの金文では”ところ”の意がある。詳細は論語語釈「所」を参照。

所 異体字
慶大蔵論語疏は異体字「〔一冫丿亇〕」と記す。「魏李謀墓誌」(北魏?)刻。

立(リュウ)

立 甲骨文 立 字解
(甲骨文)

論語の本章では”立つ”。初出は甲骨文。「リツ」は慣用音。字形は「大」”人の正面形”+「一」”地面”で、地面に人が立ったさま。原義は”たつ”。甲骨文の段階で”立てる”・”場に臨む”の語義があり、また地名人名に用いた。金文では”立場”・”地位”の語義があった。詳細は論語語釈「立」を参照。

卓*(タク)

卓 甲骨文

論語の本章では”そびえるさま”。論語では本章のみに登場。初出は甲骨文。字形は「人」+「子」”貴人”。貴人に頭立つさま。春秋末期までに、人名のほか”立つ”の意に用いた。詳細は論語語釈「卓」を参照。

卓 異体字
慶大蔵論語疏は異体字「丁早」と記す。上掲「魏敬史君碑陰」(東魏)刻字に近似するが、疏では「卓」と記しているから、単に崩し字かも知れない。

爾(ジ)

爾 甲骨文 爾 字解
(甲骨文)

論語の本章では”~であるさま”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。字形は剣山状の封泥の型の象形で、原義は”判(を押す)”。のち音を借りて二人称を表すようになって以降は、「土」「玉」を付して派生字の「壐」「璽」が現れた。甲骨文では人名・国名に用い、金文では二人称を意味した。詳細は論語語釈「爾」を参照。

慶大蔵論語疏では異体字「尓」と記す。「唐高延貴造彌像記」刻。

雖(スイ)

論語 雖 金文 雖 字解
(金文)

論語の本章では”たとえ…でも”。初出は春秋中期の金文。字形は「虫」”爬虫類”+「隹」”とり”で、原義は不明。春秋時代までの金文では、「唯」「惟」と同様に使われ、「これ」と読んで語調を強調する働きをする。また「いえども」と読んで”たとえ…でも”の意を表す。詳細は論語語釈「雖」を参照。

雖 異体字
慶大蔵論語疏では異体字「〔口虫隹〕」と記す。「東魏李仲璇孔子廟碑」刻。

從(ショウ)

従 甲骨文 従 字解
(甲骨文)

論語の本章では、”従う”。初出は甲骨文。新字体は「従」。「ジュウ」は呉音。字形は「彳」”みち”+「从」”大勢の人”で、人が通るべき筋道。原義は筋道に従うこと。甲骨文での解釈は不詳だが、金文では”従ってゆく”、「縦」と記して”好きなようにさせる”の用例があるが、”聞き従う”は戦国時代の「中山王鼎」まで時代が下る。詳細は論語語釈「従」を参照。

從 従 異体字
慶大蔵論語疏は異体字「〔氵䒑之〕」と記す。上掲『宋元以来俗字譜』所収字に近似。

末*(バツ)→未(ビ)

末 金文 末 字解
(金文)

論語の本章では”無い”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は春秋末期の金文。字形は「木」の先に一画引いて”すえ”を表したもので、原義は”末端”。「マツ/マチ」は呉音。甲骨文に干支の「未」の誤読ではないかと思われる例が2例ある。春秋末期までに、人名のほか”末の子”・”末席”の意に用いた。論語を含む漢文では、近音「無」の意に用いる事があるが、初出は不詳。詳細は論語語釈「末」を参照。

未 甲骨文 未 字解
(甲骨文)

「未」”まだ…ない”の誤字だったとしても、この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。「ミ」は呉音。字形は枝の繁った樹木で、原義は”繁る”。ただしこの語義は漢文にほとんど見られず、もっぱら音を借りて否定辞として用いられ、「いまだ…ず」と読む再読文字。ただしその語義が現れるのは戦国時代まで時代が下る。詳細は論語語釈「未」を参照。

由(ユウ)

由 甲骨文 由 字解
(甲骨文)

論語の本章では”頼るべき道”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。「油」と同音であり、ともし火そのものの象形。ただし甲骨文に”やまい”の解釈例がある。春秋時代までは、地名・人名に用いられた。孔子の弟子、仲由子路はその例。また”~から”・”理由”の意が確認できる。”すじみち”の意は、戦国時代の竹簡からという。詳細は論語語釈「由」を参照。

也已(ヤイ)

逐語訳すれば「であるに、なりきった」。もったいを付けた表現。断定を示したいなら「也」「已」のどちらか一字だけで済む。辞書的には、論語語釈「也」論語語釈「已」を参照。

慶大蔵論語疏では「已」を「巳」と記す。両字は西周の金文の時代から混用された。詳細は論語語釈「巳」を参照。

座敷わらし おじゃる公家
漢文業界では「也已」の二字で「のみ」と訓読する座敷わらしだが、確かに「也已」は”であるになりきった”の意だから「のみ」という限定に読めなくはないが、それは正確な漢文の翻訳ではない。意味の分からない字を「置き字」といって無視するのと同じ、平安朝の漢文を読めないおじゃる公家以降、日本の漢文業者が世間を誤魔化し思考停止し続けた結果で、現代人が真似すべき風習ではない。

論語:付記

中国歴代王朝年表

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検証

論語の本章は、論語の中でも指折りに愚劣な章で、『定州竹簡論語』にあるからには、文字の古さから言って、漢儒である董仲舒あたりの創作だろう。戦国中期の孟子は自著で顔淵を顔回と呼び捨てにし、戦国末期の荀子は顔淵神格化に加担したと思しき記述が無いからだ。董仲舒についてより詳しくは、論語公冶長篇24余話「人でなしの主君とろくでなしの家臣」を参照。また董仲舒による顔淵神格化の詳細は、論語先進篇3解説を参照。

董仲舒 論語 司馬遷
本章はほぼ同文が前漢中期『史記』孔子世家にあるが、それ以前の春秋戦国の誰一人引用も再録もしていない。編者の司馬遷は董仲舒の弟子のようなことをしていたから、師匠の偽作を正当化するのに、大いに手を貸したと思われる。論語雍也篇14余話「司馬遷も中国人」を参照。

解説

論語の本章は、いかなる高邁な箴言も、下の句を「ヘソの下」に言い換えると笑い話になる真理の好例で、「顔淵として」と読み換えると笑える。いかに間抜けなことが書いてあるか、まともな脳みその人なら分かるし、分からない者は誰かをたぶらかそうと企んでいる恐れがある。

論語の本章について、武内義雄『論語之研究』では以下のように言う。

武内義雄 論語之研究
この章は雍也篇および顔淵篇の「博我以文、約我以礼」という句がもととなって構成され、さらに荘子田子方篇の藍本となっているように見える。従ってこの章は雍也篇などの文より後のものであろう。

後のものどころではない。全部でっち上げだったのだ。

論語の本章、新古の注は次の通り。

古注『論語集解義疏』

顔淵喟然歎曰註喟然歎聲也仰之彌髙鑽之彌堅註言不可窮盡也瞻之在前忽焉在後註言忽怳不可為形象也夫子循循然善誘人註循循次序貎也誘進也言夫子正以此道勸進人有次序也博我以文約我以禮欲罷不能既竭吾才如有所立卓爾雖欲從之末由也已註孔安國曰言夫子既以文章開博我又以禮節節約我使我欲罷而不能已竭我才矣其有所立則又卓然不可及言已雖蒙夫子之善誘猶不能及夫子之所立也


本文「顔淵喟然歎曰註喟然歎聲也仰之彌髙鑽之彌堅。」
注釈。究め尽くすことが出来ないと書いてある。

本文。「瞻之在前忽焉在後。」
注釈。例えようが無く形に出来ないと書いてある。

本文。「夫子循循然善誘人。」
注釈。循循とは順序立てるさまをいう。誘とは進めることである。孔子先生が教説の道通りに人を正し、進歩させるに当たっては順序立てて行ったと書いてある。

本文。「博我以文約我以禮欲罷不能既竭吾才如有所立卓爾雖欲從之末由也已。」
注釈。孔安国「孔子先生はまず文章で私の視野を広げ、次に礼儀作法で行動の締まりをつけさせたが、その指導を途中で断ろうとしても出来ず、私の才能を尽くしても、先生のそびえ立つ境地には及ばないと書いてある。先生に正しく指導して貰ったが、それでも先生の立つ境地には及ばないと書いてある。」

新注『論語集注』

顏淵喟然歎曰:「仰之彌高,鑽之彌堅;瞻之在前,忽焉在後。喟,苦位反。鑽,祖官反。喟,歎聲。仰彌高,不可及。鑽彌堅,不可入。在前在後,恍惚不可為象。此顏淵深知夫子之道,無窮盡、無方體,而歎之也。夫子循循然善誘人,博我以文,約我以禮。循循,有次序貌。誘,引進也。博文約禮,教之序也。言夫子道雖高妙,而教人有序也。侯氏曰:「博我以文,致知格物也。約我以禮,克己復禮也。」程子曰:「此顏子稱聖人最切當處,聖人教人,惟此二事而已。」欲罷不能,既竭吾才,如有所立卓爾。雖欲從之,末由也已。」卓,立貌。末,無也。此顏子自言其學之所至也。蓋悅之深而力之盡,所見益親,而又無所用其力也。吳氏曰:「所謂卓爾,亦在乎日用行事之間,非所謂窈冥昏默者。」程子曰:「到此地位,功夫尤難,直是峻絕,又大段著力不得。」楊氏曰:「自可欲之謂善,充而至於大,力行之積也。大而化之,則非力行所及矣,此顏子所以未達一閒也。」程子曰:「此顏子所以為深知孔子而善學之者也。」胡氏曰:「無上事而喟然歎,此顏子學既有得,故述其先難之故、後得之由,而歸功於聖人也。高堅前後,語道體也。仰鑽瞻忽,未領其要也。惟夫子循循善誘,先博我以文,使我知古今,達事變;然後約我以禮,使我尊所間,行所知。如行者之赴家,食者之求飽,是以欲罷而不能,盡心盡力,不少休廢。然後見夫子所立之卓然,雖欲從之,末由也已。是蓋不怠所從,必欲至乎卓立之地也。抑斯歎也,其在請事斯語之後,三月不違之時乎?」


本文。「顏淵喟然歎曰:仰之彌高,鑽之彌堅;瞻之在前,忽焉在後。」
喟は苦-位の反切で読む。鑽は祖-官の反切で読む。喟とは感動の声である。仰彌高とは及ぶことが出来ないの意である。鑽彌堅とは入ることが出来ないの意である。在前在後とは、ぼんやりとして形に出来ないの意である。顔淵は孔子先生の道を深く学んだが、その道は極めることが出来ず、形が無く捉えどころが無いので、感動して言ったのである。

本文。「夫子循循然善誘人,博我以文,約我以禮。」
循循とは、順序立てるさまである。誘とは手を引いて進ませることである。博文約禮とは、教育の順序である、孔子先生の道は高尚だから、人を教えるには順序があったというのである。

侯仲良「博我以文とは、智恵を深めて原理を理解することである。約我以禮とは、我欲に打ち勝って礼儀作法に立ち戻ることである。」

程頤「この話は顔淵先生が聖人の教説の奥義を讃えたものである。聖人が人を教えるには、博我以文と約我以禮、ただ二つが原則であった。」

本文。「欲罷不能,既竭吾才,如有所立卓爾。雖欲從之,末由也已。」
卓とは立っているさまである。末とは無いことである。この話は顔淵先生が自分の学び得た境地を告白したのである。たぶん喜んで学問を進め努力を重ねて教説を極めようとしたのだろう。それにつれてますます教説に親しんだから、力まなくともよくなったのだ。

吳棫「卓爾とは、ふだんからそびえ立っていたことをいい、無知を誤魔化すために黙っていたさまではない。」

程頤「この境地に至るには、最大限の努力が必要で、それ以前とは格段の違いがあるから、一層の努力をしても届かないのである。」

楊時「自然と求めることが出来る何かを善という。力がみなぎって途方もなく大きい。努力の積み重ねがあったからである。途方もなく大きくて人を教育する何かは、とりもなおさず努力だけで至れる境地ではない。ここが顔淵先生が、孔子先生に今一歩及ばなかった所である。」

程頤「ここが、顔淵先生が孔子先生の道を深く学んでいたことを証すものである。」

胡寅「上がることが出来ない境地を感動してたたえた。これは顔淵先生がすでにある程度の学びを終えたからで、だからこの先の難しさをまず言い、その境地に至った後で、聖人のおかげだと言ったのである。高堅前後とは、教説の実体を示した言葉である。仰鑽瞻忽とは、まだその要点を理解していないさまである。本章は言う。孔子先生が循循として上手に手引きするにあたっては、まず私の視野を文で広げ、私に古今の出来事を覚えさせ、その上で変化の妙を理解させた。その後で礼儀作法で行動にしまりをつけさせ、師弟の間にある断絶を貴ばせ、そしてその間を理解させた。その進ませ方は家に帰るようなやり方で、食事を摂る者が腹一杯を求めても、このような教え方だから途中で止めたくても止められず、心をつくし力を尽くし、片時も休むことが無かった。そのあとで孔子先生の立ち位置を仰ぎ見るとそびえ立っており、従おうとしても、全く筋道が見当たらない、と。これはたぶん怠けず従えば、必ずそびえ立つ境地に立ちたいと願うことを言ったのだろう。こうして讃えたについては、境地に立ちたいと願ったあとのはずで、三月違わず(論語雍也篇7・偽作)、の時ではないか?」

すでに記したが、このようにわあわあとゴマすり文を書き付けた楊時も胡寅も、ただでさえ悪辣な宋儒の中でも極めつけの悪党で、程頤は極めつけの高慢ちきだった。論語雍也篇3余話「宋儒のオカルトと高慢ちき」を参照。

余話

鬱になって帰って来た

儒教のオカルトに対して中国史上めずらしく冷静だった明の時代には、顔淵のうさんくささを遠慮無くこき下ろした。

孔子絕粮于陳。命顏回往回々國借粮。以其名與國□相同。兾有情熟。比往通訖。大怒曰。汝孔子要攘夷秋。恠俺回々。連你也罵着。說回之為人也擇賊乎。粮斷不與。顏子怏々而歸。子貢請往。自稱平昔奉承。常曰賜也何敢望回々。羣回大喜。以曰粮一擔。先今携去。許以陸續送用。子貢歸。述諸孔子。孔子攢眉曰。粮便騙了以擔。只是文理不通。


孔子先生が陳国で包囲されて食糧を絶たれたので、顔回に命じて回々国へ食糧の借り出しを願いに行かせた。顔回だから回々人は親しみを覚えるに違いなく、願い出れば喜んで貸してくれると踏んだのである。

ところが回々人は顔回が来ると、たいそう怒って言った。「お前らの師匠は我ら回々人などを蛮族だとバカにして、ぼこぼこにやっつけろと言っているではないか。それにお前も師匠から、”その人となりやツェイ”*とか言われているではないか。断じて食糧はやらん。」

顔淵先生は鬱になって帰ってきた。そこへ子貢が進み出て、私が行きましょうと申し出た。いわく、「普段から、賜や何ぞ回々を望まん**と言っていますから、回々の連中も大喜びするに違いありません。」

こうして回々に子貢が行くと、果たして回々人は喜んで言った。「とりあえず持てるだけ食糧を持って帰りなさい。必要ならあとからどんどん運んであげます。」こうして子貢は食糧と共に帰ってきたが、詳細を報告すると、孔子は顔をしかめて言った。

「ひとまず食糧はだまし取れたが、かこつけるにも程がある。」(『笑府』巻二・喫糧)

*『中庸』8「その人となりや中庸をチャイ(えら)べるか」
**論語公冶長篇8「賜や何ぞ敢えて回を望まん」

『論語』子罕篇:現代語訳・書き下し・原文
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