論語:原文・書き下し
原文(唐開成石経)
大宰問於子貢曰夫子聖者與何其多能也子貢曰固天縱之將聖又多能也子聞之曰大宰知我乎吾少也賤故多能鄙事君子多乎哉不多也
※「聖」字の下半分は〔壬〕。「將」字のつくりは〔寽〕。
校訂
東洋文庫蔵清家本
太宰問於子貢曰夫子聖者與何其多能也/子貢曰固天縱之將聖又多能也/子聞之曰太宰知我者乎吾少也賤故多能鄙事君子多乎哉不多也
慶大蔵論語疏
太〔宀𨐌〕1問扵2子貢曰夫子聖者3与4〔亻巳丁〕5其多〔䏍长〕6也/子貢曰固天〔糸彳彡乙〕7之〔丬夕巳丁〕8聖又多〔䏍长〕6/子聞之曰大〔宀𨐌〕1知我者3/吾少也〔貝土戈〕9故多〔䏍长〕6〔口面阝〕10事/君子多〔爫丁〕11〔土夕乚丶〕12不多也
- 「宰」の異体字。「国三老袁良碑」(後漢)刻。
- 「於」の異体字。『新加九経字様』(唐)所収。
- 新字体と同じ。原字。
- 新字体と同じ。『敦煌俗字譜』所収。
- 「何」の異体字。未詳。
- 「能」の異体字。『仏教難字字典』所収。「泰山都尉孔宙碑」(後漢)刻。
- 「縱」の崩し字。『敦煌俗字譜』所収字近似。
- 「將」の崩し字。「張表碑」(後漢)刻字近似。
- 「賤」の異体字。「魏皇甫驎墓誌銘」(北魏)刻。
- 「鄙」の異体字。「樊毅修華嶽碑」(後漢)刻。
- 「乎」の異体字。「魏鄭羲碑」(北魏)刻。
- 「哉」の異体字。「魏石門銘」(北魏)刻。
後漢熹平石経
(なし)
定州竹簡論語
……於子贛a曰:「夫子聖者耶b?何其多能也?」子[],216……天縱之將聖,[有c多能也。「217……君子多218……
- 贛、今本作「貢」。
- 耶、今本作「與」。
- 有、今本作「又」。古二字通。
標点文
太宰問於子贛曰、「夫子聖者耶。何其多能也。」子曰、「固天縱之將聖、有多能也。」子聞之曰、「大宰知我者、吾少也賤、故多能鄙事。君子多乎哉、不多也。」
復元白文(論語時代での表記)
賤
※太→大・贛/→貢(甲骨文)・耶→與・固→股・縱→從・將→(甲骨文)。論語の本章は「賤」の字が論語の時代に存在しない。「問」「與」「何」「也」「固」「乎」「鄙」の用法に疑問がある。
書き下し
太宰子贛に問ふて曰く、夫子は聖者耶、何ぞ其れ能多き也。子曰く、固より天之に縱すに將に聖ならんとす、又能多き也と。子之を聞きて曰く、太宰の我を知れる者、吾の少き也賤しく、故に鄙き事に能多かるなり。君子多き乎哉、多から不る也。
論語:現代日本語訳
逐語訳
呉国の宰相・伯嚭(ハクヒ)が子貢に問うて言った。「孔子先生は万能の人だろうか。なぜこんなに多能なのか。」子貢が言った。「もともと天が、先生にほぼ万能に近い才能をお与えになったのです。さらに多能になったのです。」先生はこれを聞いて言った。「伯嚭どのが私について知っているのは、私が若い頃身分が低かったから、雑用に多能になったことだ。君子は多能であるか。多能ではない。」
意訳
呉へ使いに出した子貢が帰ってきた。
子貢「それでですねえ、伯嚭どのが仰るんですよ、”孔子先生は万能だな。何でもお出来になる”と。私は嬉しくなりましてねえ、申し上げたんです。”ええ、そりゃそうですよ。もともと天が優れた才能をお授けになった上に、先生自ら学ばれて、何でもお出来になるのです”。…あれ、どうしました先生?」
孔子「…これ子貢よ。伯嚭のやつはワシを褒めたんじゃないぞ。ワシが若い頃身分が低かったのを、成り上がり者め、と皮肉っているんだ。だからワシを、チマチマした雑用がうまいパシリだと言うんだな。のう子貢よ、君子というのは多能ならそれだけ立派なのか? そうじゃないだろ。」
従来訳
大宰が子貢にたずねていった。――
「孔先生のような人をこそ聖人というのでしょう。実に多能であられる。」
子貢がこたえた。――
「もとより天意にかなった大徳のお方で、まさに聖人の域に達しておられます。しかも、その上に多能でもあられます。」
この問答の話をきかれて、先師はいわれた。――
「大宰はよく私のことを知っておられる。私は若いころには微賎な身分だったので、つまらぬ仕事をいろいろと覚えこんだものだ。しかし、多能だから君子だと思われたのでは赤面する。いったい君子というものの本質が多能ということにあっていいものだろうか。決してそんなことはない。」下村湖人『現代訳論語』
現代中国での解釈例
太宰問子貢:「老師是聖人嗎?為什麽如此多才多藝?」子貢說:「老天本來就要他成為聖人,又要他多才多藝。」孔子聽說後,說:「太宰瞭解我嗎?我小時候生活艱難,所以會乾一些粗活。貴族會有這麽多技藝嗎?不會有的。」
太宰が子貢に問うた。「先生は聖人か。なぜこれほど多芸多才なのか。」子貢が言った。「お天道様がもともと彼を聖人にし、多芸多才にしたのです。」孔子が話を聞いた後で言った。「太宰は私を理解しているか?私は若い頃生活が困難だった。だからただちょっとした力仕事も出来るのだ。貴族はこんなに多芸なものか?そうじゃないだろう。」
論語:語釈
太(大) 宰 問 於 子 贛(貢) 曰、「夫 子 聖 者 與。何 其 多 能 也。」子 (貢) 曰、「固 天 縱 之 將 聖、又 多 能 也。」子 聞 之 曰、「太(大) 宰 知 我 者( 乎)、吾 少 也 賤、故 多 能 鄙 事。君 子 多 乎 哉。不 多 也。」
太宰(タイサイ)
論語時代の諸国の中で、宋と呉は宰相をこう呼んだ。ここでは呉の大宰だった伯嚭のこと。『史記』などで評判の悪い人物で、ワイロを好み、呉国滅亡の一因を作ったとされる。
なお魯国での宰相格は、もともと官吏の長官を意味する「大司徒」。三桓筆頭の季孫家が世襲した。また叔孫家は大司馬(国防大臣)を、孟孫家は大司空(建設大臣)を世襲したとされる。
定州竹簡論語にこの部分を欠くが、慶大蔵論語疏では、冒頭では「太宰問於子貢」では「太」と記し、「大宰知我者乎」では「大」と記して不統一。京大蔵唐石経は「大宰」と統一して記す。
原始論語?…→定州竹簡論語→白虎通義→ ┌(中国)─唐石経─論語注疏─論語集注─(古注滅ぶ)→ →漢石経─古注─経典釈文─┤ ↓↓↓↓↓↓↓さまざまな影響↓↓↓↓↓↓↓ ・慶大本 └(日本)─清家本─正平本─文明本─足利本─根本本→ →(中国)─(古注逆輸入)─論語正義─────→(現在) →(日本)─────────────懐徳堂本→(現在)
(楚系戦国文字)
「太」の初出は楚系戦国文字。字形は「大」に一点加えたもので、『学研漢和大字典』『字通』は「泰」の略字と見なし、「漢語多功能字庫」は「大」の派生字と見なす。西周の金文から、「大」を「太」と釈文する例がある。論語時代の置換候補は「大」。詳細は論語語釈「太」を参照。
(甲骨文)
「宰」の初出は甲骨文。字形は「宀」”やね”+「䇂」”刃物”で、屋内で肉をさばき切るさま。原義は”家内を差配する(人)”。甲骨文では官職名や地名に用い、金文でも官職名に用いた。詳細は論語語釈「宰」を参照。
問(ブン)
(甲骨文)
論語の本章では”質問する”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。「モン」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)。字形は「門」+「口」。甲骨文での語義は不明。金文では人名に用いられ、”問う”の語義は戦国時代の竹簡以降になる。詳細は論語語釈「問」を参照。
於(ヨ)
(金文)
論語の本章では”~に”。初出は西周早期の金文。ただし字体は「烏」。「ヨ」は”~において”の漢音(遣隋使・遣唐使が聞き帰った音)、呉音は「オ」。「オ」は”ああ”の漢音、呉音は「ウ」。現行字体の初出は春秋中期の金文。西周時代では”ああ”という感嘆詞、または”~において”の意に用いた。詳細は論語語釈「於」を参照。
慶大蔵論語疏は、異体字「扵」と記す。『新加九経字様』(唐)所収。
子貢(シコウ)→子贛(シコウ)
BC520ごろ-BC446ごろ 。孔子の弟子。姓は端木、名は賜。衛国出身。論語では弁舌の才を孟子に評価された、孔門十哲の一人(孔門十哲の謎)。孔子より31歳年少。春秋時代末期から戦国時代にかけて、外交官、内政官、大商人として活躍した。
『史記』によれば子貢は魯や斉の宰相を歴任したともされる。さらに「貨殖列伝」にその名を連ねるほど商才に恵まれ、孔子門下で最も富んだ。子禽だけでなく、斉の景公や魯の大夫たちからも、孔子以上の才があると評されたが、子貢はそのたびに否定している。
孔子没後、弟子たちを取りまとめ葬儀を担った。唐の時代に黎侯に封じられた。孔子一門の財政を担っていたと思われる。また孔子没後、礼法の倍の6年間墓のそばで喪に服した。斉における孔子一門のとりまとめ役になったと言われる。
詳細は論語の人物:端木賜子貢参照。
「子」
「子」の初出は甲骨文。論語ではほとんどの章で孔子を指す。まれに、孔子と同格の貴族を指す場合もある。また当時の貴族や知識人への敬称でもあり、孔子の弟子に「子○」との例が多数ある。なお逆順の「○子」という敬称は、上級貴族や孔子のような学派の開祖級に付けられる敬称。「南子」もその一例だが、”女子”を意味する言葉ではない。字形は赤ん坊の象形で、もとは殷王室の王子を意味した。詳細は論語語釈「子」を参照。
(甲骨文)
子貢の「貢」は、文字通り”みつぐ”ことであり、本姓名の端木賜と呼応したあざ名と思われる。所出は甲骨文。『史記』貨殖列伝では「子贛」と記し、「贛」”賜う”の初出は楚系戦国文字だが、殷墟第三期の甲骨文に「章丮」とあり、「贛」の意だとされている。詳細は論語語釈「貢」を参照。
『論語集釋』によれば、漢石経では全て「子贛」と記すという。定州竹簡論語でも、多く「」と記す。本章もその一例。詳細は論語語釈「贛」を参照。
慶大蔵論語疏では「子貢」と記す。
曰(エツ)
(甲骨文)
論語で最も多用される、”言う”を意味する言葉。初出は甲骨文。原義は「𠙵」=「口」から声が出て来るさま。詳細は論語語釈「曰」を参照。
夫子(フウシ)
(甲骨文)
論語の本章では”孔子先生”。従来「夫子」は「かの人」と訓読され、「夫」は指示詞とされてきた。しかし論語の時代、「夫」に指示詞の語義は無い。同音「父」は甲骨文より存在し、血統・姓氏上の”ちちおや”のみならず、父親と同年代の男性を意味した。従って論語における「夫子」がもし当時の言葉なら、”父の如き人”の意味での敬称。詳細は論語語釈「夫」を参照。
聖者(セイジャ)
論語では、キリスト教の聖人のような人物ではなく、万能の人のこと。
(甲骨文)
「聖」の初出は甲骨文。字形は「口」+「斧」+「人」。斧は王権の象徴で、殷代の出土品にその例がある。口は臣下の奏上、従って甲骨文の字形が示すのは、臣下の奏上を王が聞いて決済すること。春秋末期までに、”高貴な”・”すぐれた”・”聞く”・”(心を)研ぎ澄ます”の意に用いた。詳細は論語語釈「聖」を参照。
(金文)
「者」は論語の本章では、「聖者」では”…であるもの”。慶大本「知我者」では”…は”。「者」の旧字体は〔耂〕と〔日〕の間に〔丶〕一画を伴う。新字体は「者」。ただし唐石経・清家本ともに新字体と同じく「者」と記す。現存最古の論語本である定州竹簡論語も「者」と釈文(これこれの字であると断定すること)している。初出は殷代末期の金文。金文の字形は「木」”植物”+「水」+「口」で、”この植物に水をやれ”と言うことだろうか。原義は不明。初出では称号に用いている。春秋時代までに「諸」と同様”さまざまな”、”…は”の意に用いた。漢文では人に限らず事物にも用いる。詳細は論語語釈「者」を参照。
慶大蔵論語疏は新字体と同じく「者」と記す。「耂」と「日」の間の「丶」を欠く。「国学大師」によると旧字の出典は後漢の「華山廟碑」、文字史から見れば旧字体の方がむしろ新参の字形。
與(ヨ)→耶(ヤ)
(金文)
論語の本章では句末の疑問辞”…か”。この語義は春秋時代では確認できない。新字体は「与」。初出は春秋中期の金文。金文の字形は「牙」”象牙”+「又」”手”四つで、二人の両手で象牙を受け渡す様。人が手に手を取ってともに行動するさま。従って原義は”ともに”・”~と”。詳細は論語語釈「与」を参照。
慶大蔵論語疏は新字体と同じく「与」と記す。『敦煌俗字譜』所収。
(前漢隷書)
定州竹簡論語は「耶」と記す。「耶」の字はもと、同音の「邪」と未分離だったが、いずれも論語の時代に存在しない。詳細は論語語釈「耶」を参照。
何(カ)
(甲骨文)
論語の本章では”なんと”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。字形は「人」+”天秤棒と荷物”または”農具のスキ”で、原義は”になう”。甲骨文から人名に用いられたが、”なに”のような疑問辞での用法は、戦国時代の竹簡まで時代が下る。詳細は論語語釈「何」を参照。
慶大蔵論語疏では「〔亻巳丁〕」と記す。「何」の「口」を「巳」に置き換えた字形。未詳だがおそらく「何」の異体字。
其(キ)
(甲骨文)
論語の本章では”その”という指示詞。初出は甲骨文。甲骨文の字形は「𠀠」”かご”。それと指させる事物の意。金文から下に「二」”折敷”または「丌」”机”・”祭壇”を加えた。人称代名詞に用いた例は、殷代末期から、指示代名詞に用いた例は、戦国中期からになる。詳細は論語語釈「其」を参照。
多(タ)
(甲骨文)
論語の本章では”多い”。初出は甲骨文。字形は「月」”にく”が二つで、たっぷりと肉があること。原義は”多い”。甲骨文では原義で、金文でも原義で、戦国の竹簡でも原義で用いられた。詳細は論語語釈「多」を参照。
能(ドウ)
(甲骨文)
論語の本章では”能力”。初出は甲骨文。「ノウ」は呉音。原義は鳥や羊を煮込んだ栄養満点のシチューを囲んだ親睦会で、金文の段階で”親睦”を意味し、また”可能”を意味した。詳細は論語語釈「能」を参照。
「能~」は「よく~す」と訓読するのが漢文業界の座敷わらしだが、”上手に~できる”の意と誤解するので賛成しない。読めない漢文を読めるとウソをついてきた、大昔に死んだおじゃる公家の出任せに付き合うのはもうやめよう。
慶大蔵論語疏では「〔䏍长〕」と記す。『仏教難字字典』所収。また「泰山都尉孔宙碑」(後漢)刻に近似。
也(ヤ)
(金文)
論語の本章では、太宰の「多能也」では「や」と読んで詠嘆の意。子貢の「多能也」では「なり」と読んで断定の意、慶大蔵論語疏はここでの「也」を欠く。この語義は春秋時代では確認できない。「吾少也」では”…はまさに”。
初出は事実上春秋時代の金文。字形は口から強く語気を放つさまで、原義は”…こそは”。春秋末期までに句中で主格の強調、句末で詠歎、疑問や反語に用いたが、断定の意が明瞭に確認できるのは、戦国時代末期の金文からで、論語の時代には存在しない。詳細は論語語釈「也」を参照。
固(コ)
(金文)
論語の本章では”もともと”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は春秋時代の金文。字形は「囗」+「十」+「曰」だが、由来と意味するところは不明。部品で同音の「古」が、「固」の原字とされるが、春秋末期までに”かたい”の用例がない。詳細は論語語釈「固」を参照。
慶大蔵論語疏では上掲「〔囗右〕」(「唐王美暢夫人長孫氏墓誌銘」刻)と記すことがあるが、本章では「固」と記している。
天(テン)
(甲骨文)
論語の本章では”天の神”。宇宙の主催者を意味する。初出は甲骨文。字形は人の正面形「大」の頭部を強調した姿で、原義は”脳天”。高いことから派生して”てん”を意味するようになった。甲骨文では”あたま”、地名・人名に用い、金文では”天の神”を意味し、また「天室」”天の祭祀場”の用例がある。詳細は論語語釈「天」を参照。
縱*(ショウ)
(秦系戦国文字)
論語の本章では”ゆるす”。初出は秦系戦国文字。字形は「糸」+「従」で、織機の横糸が従うべき縦糸。原義は”縦糸”。「ジュウ」は慣用音。呉音は「シュ」。論語時代の置換候補は「從」(従)。詳細は論語語釈「縦」を参照。
慶大蔵論語疏では「〔糸彳彡乙〕」と記す。上掲『敦煌俗字譜』所収字に近似。
之(シ)
(甲骨文)
論語の本章では”これ”。初出は甲骨文。字形は”足”+「一」”地面”で、あしを止めたところ。原義はつま先でつ突くような、”まさにこれ”。殷代末期から”ゆく”の語義を持った可能性があり、春秋末期までに”~の”の語義を獲得した。詳細は論語語釈「之」を参照。
將(ショウ)
(甲骨文)
論語の本章では”今すぐ~しようとする”。近い将来を言明する言葉。新字体は「将」。初出は甲骨文。字形は「爿」”寝床”+「廾」”両手”で、『字通』の言う、親王家の標識の省略形とみるべき。原義は”将軍”・”長官”。同音に「漿」”早酢”、「蔣」”真菰・励ます”、「獎」”すすめる・たすける”、「醬」”ししびしお”。春秋末期までに、”率いる”・”今にも~しようとする”の語義を確認できる。詳細は論語語釈「将」を参照。
慶大蔵論語疏は「〔丬夕巳丁〕」と記す。上掲「張表碑」刻の「丶」を「巳」に換えた字。
有(ユウ)
「有」(甲骨文)
論語の本章では”保有させる”。初出は甲骨文。ただし字形は「月」を欠く「㞢」または「又」。字形はいずれも”手”の象形。金文以降、「月」”にく”を手に取った形に描かれた。原義は”手にする”。原義は腕で”抱える”さま。甲骨文から”ある”・”手に入れる”の語義を、春秋末期までの金文に”存在する”・”所有する”の語義を確認できる。詳細は論語語釈「有」を参照。
又(ユウ)
(甲骨文)
論語の本章では”さらに”。初出は甲骨文。字形は右手の象形。甲骨文では祭祀名に用い、”みぎ”、”有る”を意味した。金文では”またさらに”・”補佐する”を意味した。詳細は論語語釈「又」を参照。
聞(ブン)
(甲骨文1・2)
論語の本章では”聞く”。初出は甲骨文。「モン」は呉音。甲骨文の字形は”耳の大きな人”または「斧」+「人」で、斧は刑具として王権の象徴で、殷代より装飾用の品が出土しており、玉座の後ろに据えるならいだったから、原義は”王が政務を聞いて決済する”。詳細は論語語釈「聞」を参照。
論語の時代、「聞」は間接的に聞くことで、直接聞く事は「聴」と言った。
知(チ)
(甲骨文)
論語の本章では”知る”。現行書体の初出は秦系戦国文字。孔子在世当時の金文では「知」・「智」は区別せず書かれた。甲骨文で「知」・「智」に比定されている字形には複数の種類があり、原義は明瞭でない。ただし春秋時代までには、すでに”知る”を意味した。”知者”・”管掌する”の用例は、戦国時時代から。詳細は論語語釈「知」を参照。
我(ガ)
(甲骨文)
論語の本章では”わたし”。初出は甲骨文。字形はノコギリ型のかねが付いた長柄武器。甲骨文では占い師の名、一人称複数に用いた。金文では一人称単数に用いられた。戦国の竹簡でも一人称単数に用いられ、また「義」”ただしい”の用例がある。詳細は論語語釈「我」を参照。
太宰知我者(おほまへつぎみのわれをしれるは)
慶大蔵論語疏では「太宰知我者」のあとの「乎」の字を欠く。従って該当の句は「太宰知我者」で終わりになる。すると文意は、現伝の通説と大きく変わることになる。
本文:大宰知我者乎。吾少也賤、故多能鄙事。
訓読:大宰我を知る者か。吾少きや賤し、故に鄙事に能多し。
訳文:大宰は私を理解している者なのだな。私は若い頃身分が低かった。だから雑事に有能になった。
本文:大宰知我者、吾少也賤、故多能鄙事。
訓読:大宰の我を知れるは、吾少きや賤しく、故に鄙事に能多かるなり。
訳文:大宰が私について知っているのは、私が若い頃身分が低かったから、雑事に有能になったことだ。
慶大本は一般に文字列が雑だから、ただの脱字の可能性はある。しかも直後に疏(注の付け足し)が続き、「孔子聞大宰之疑而云知我則許疑我非聖是也」”孔子は大宰の疑問を聞いて言ったのである。私を知るなら、つまり私が聖人でないのが正しいかどうか、少なくとも疑問を持つに違いない、と。”
言い方が回りくどいが、孔子は自分が聖人であることに自信満々だったと、疏を書いた南朝の儒者(無記名だから、たぶん皇侃)は言うのである。孔子の聖人たるを疑う奴は、孔子を知らん奴だと言うのである。『史記』以降、ワイロ取りで、忠臣・伍子胥を死に追いやり、祖国と自分を滅ぼした、と評判さんざんな伯嚭ですら、孔子を少しでも知れば、「ああっ!聖人さまっ!」になると言うのである。
漢帝国の帝政儒教以来、国教の地位にあった儒教に携わる儒者は、互いにどれだけ孔子にゴマをすれるかの競争になった。うまいこと言えた者が世間での評判をよくし、高い地位に就いてワイロその他の利権取り放題だったからである(論語解説「後漢というふざけた帝国」)。
後漢が滅び三国南北朝になると中国の識字階級は、規模のでかいヤクザと、メルヘンおたくの儒者と、あぶない𠂊フ、刂の開発に余念がない道士と、ブッダの教えを勝手に中国風味へでっち上げた坊主で占められた。従って孔子が聖人であるのは春秋の当時から世界の常識であるということになり、上掲疏のようなゴマすりに至った。
このゴマすり解釈を受けて、唐石経では論語の本章のこの句に、「乎」をつけて疏との辻褄を合わせた。だが繰り返すが慶大本は脱字である可能性はあるが、定州竹簡論語にはこの部分を欠き、現存最古の経(本文)文字列となる。物証に従い、「乎」無しに校訂して解釈した。
その傍証は疏にもある。皇侃は自信が無かったのだろう、書き記した直後にゴマすり以外の他人の説も併記した。
繆協云我信多能故曰知我江熙曰大宰嫌多能非聖故云知我謙之意也
(三国魏の)繆協「孔子は、自分が実際に多能だから、自分は理解されたと言ったのである。」
(晋の)江熙「大宰は多能だが聖人でははない者を嫌った。だから自分を理解したと孔子は言った。もちろん謙遜である。」(『論語集解義疏』本章)
それぞれ勝手なことを言っているだけなのだが、雑事に多能なことが皮肉の対象になり得るという見解も、南北朝の当時にあったことになる。
この見解の弱点は、初版が慶大本に先行する『白虎通義』が「太宰知我乎」と「乎」を記していることだが、版本として訳者が参照できる最も古い本は、明版『古今逸史』本だから、隋代以前の『白虎通義』にどう書いてあったかは分からない。
吾(ゴ)
(甲骨文)
論語の本章では”わたし”。初出は甲骨文。字形は「五」+「口」で、原義は『学研漢和大字典』によると「語の原字」というがはっきりしない。一人称代名詞に使うのは音を借りた仮借だとされる。詳細は論語語釈「吾」を参照。
春秋時代までは中国語にも格変化があり、一人称では「吾」を主格と所有格に用い、「我」を所有格と目的格に用いた。しかし論語でその文法が崩れ、「我」と「吾」が区別されなくなっている章があるのは、後世の創作が多数含まれているため。
少(ショウ)
(甲骨文)
論語の本章では”若い”。初出は甲骨文。カールグレン上古音はɕi̯oɡ(上/去)。字形は「∴」で”小さい”を表す「小」に一点足したもので、細かく小さいさま。原義は”小さい”。金文になってから、”少ない”、”若い”の意を獲得した。詳細は論語語釈「少」を参照。
賤(セン)
(楚系戦国文字)
論語の本章では”身分が低い”。この文字の初出は戦国時代の金文で、論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。同音に戔を部品とする漢字群。字形は「貝」”貨幣”+「戔」で、原義は”価格が安い”。「戔」を”安い・低い”の意に用いたのは戦国時代から。詳細は論語語釈「賤」を参照。
慶大蔵論語疏は異体字「〔貝土戈〕」と記す。「魏皇甫驎墓誌銘」(北魏)刻。
吾少也賤(われわかきときやいやしかりし)
孔子は両親が正式の結婚ではなかったこともあり、また父親が早くに亡くなったこともあり、母子家庭で育った。父親は一説には「陬邑(スウユウ)の大夫」=陬邑の代官と言うが、当時代官を指す場合は「宰」を使うのが普通であり、後世の神格化と思われる。
いずれにせよ孔子は決して貴族の生まれではなく、むしろ底辺の出身だった。
故(コ)
(金文)
論語の本章では、”だから…”。『大漢和辞典』の第一義は”もと・むかし”。攵(のぶん)は”行為”を意味する。初出は西周早期の金文。ただし字形が僅かに違い、「古」+「攴」”手に道具を持つさま”。「古」は「𠙵」”くち”+「中」”盾”で、”口約束を守る事”。それに「攴」を加えて、”守るべき口約束を記録する”。従って”理由”・”それゆえ”が原義で、”ふるい”の語義は戦国時代まで時代が下る。西周の金文では、「古」を「故」と釈文するものがある。詳細は論語語釈「故」を参照。
鄙(ヒ)
(甲骨文)
論語の本章では”卑しい”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。ただし字形は「啚」。「囗」”囲い”+「大」”屋根”+「冬」”穀物”で、原義は”穀物倉”。甲骨文では”穀物倉”・”貯蔵した穀物”・”住民”の意に用い、春秋末期までの金文では加えて”田舎”の意に用いた。詳細は論語語釈「鄙」を参照。
慶大蔵論語疏は異体字「〔口面阝〕」と記す。「樊毅修華嶽碑」(後漢)刻。
事(シ)
(甲骨文)
論語の本章では”仕事”。初出は甲骨文。甲骨文の形は「口」+「筆」+「又」”手”で、口に出した言葉を、小刀で刻んで書き記すこと。つまり”事務”。「ジ」は呉音。詳細は論語語釈「事」を参照。
君子(クンシ)
論語の本章では、”地位教養身分人情のある立派な人”。
「君子」は孔子の生前は単に”貴族”を意味するか、孔子が弟子に呼びかけるときの”諸君”の意でしかない。それが後世、”情け深い教養人”などと偽善的意味に変化したのは、儒家を乗っ取って世間から金をせびり取る商材にした、孔子没後一世紀の孟子から。詳細は論語における「君子」を参照。
(甲骨文)
「君」の初出は甲骨文。甲骨文の字形は「丨」”通路”+「又」”手”+「口」で、人間の言うことを天界と取り持つ聖職者。春秋末期までに、官職名・称号・人名に用い、また”君臨する”の語義を獲得した。詳細は論語語釈「君」を参照。
乎(コ)
(甲骨文)
論語の本章では”…ではないか”。詠嘆の意。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。論語の本章では形容詞・副詞についてそのさまを意味する接尾辞。この用例は春秋時代では確認できない。字形は持ち手の柄を取り付けた呼び鐘を、上向きに持って振り鳴らし、家臣を呼ぶさまで、原義は”呼ぶ”こと。甲骨文では”命じる”・”呼ぶ”を意味し、金文も同様で、「呼」の原字となった。句末の助辞として用いられたのは、戦国時代以降になるという。詳細は論語語釈「乎」を参照。
慶大蔵論語疏は異体字「〔爫丁〕」と記す。「魏鄭羲碑」(北魏)刻。
哉(サイ)
(金文)
論語の本章では”…だなあ”。詠歎を表す。初出は西周末期の金文。ただし字形は「𠙵」”くち”を欠く「𢦏」で、「戈」”カマ状のほこ”+「十」”傷”。”きずつく”・”そこなう”の語釈が『大漢和辞典』にある。現行字体の初出は春秋末期の金文。「𠙵」が加わったことから、おそらく音を借りた仮借として語気を示すのに用いられた。金文では詠歎に、また”給与”の意に用いられた。戦国の竹簡では、”始まる”の意に用いられた。詳細は論語語釈「哉」を参照。
慶大蔵論語疏は異体字「〔土夕乚丶〕」と記す。「魏石門銘」(北魏)刻。
不(フウ)
(甲骨文)
漢文で最も多用される否定辞。初出は甲骨文。「フ」は呉音、「ブ」は慣用音。原義は花のがく。否定辞に用いるのは音を借りた派生義だが、甲骨文から否定辞”…ない”の意に用いた。詳細は論語語釈「不」を参照。
論語:付記
検証
論語の本章は前漢中期の定州竹簡論語に載る。「吾少也賤」は孔子の発言としてではないが前漢末期の劉向『説苑』政理25に見える。また全体の抄録が後漢初期『白虎通義』聖人2に見える。
本章は春秋戦国の誰一人引用も再録もしておらず、論語時代の「賤」の字の不在は動かしようがない。ゆえに本章は戦国時代以降の創作と断じてよい。
解説
以上の検証に拘わらず、仮に慶大本の「乎」を欠く文字列が正しく、「賤」字の不在が解決するなら、論語の本章は史実の孔子が説いた「君子」の道に、まことにふさわしいことになる。それは暗記で済むお手軽な道ではなく(論語子路篇5「詩三百を誦うるも」)、従軍義務のあった君子にとって(論語における「君子」)、体得するものだった。
オイ子貢や。伯嚭のやつはワシを誉めたんじゃないぞ、ワシが若い頃身分が低かったから、雑事に有能になったと皮肉っているんだ。君子はちまちました雑事に、いちいち多能であってしかるべきか? そうではないだろ?
孔子は六芸を教えたように、君子は戦士・為政者・役人として有能でなければならないと考えていたが、そのかなめは「仁」にあった。通説の言う”なさけ・あわれみ”は孔子の言った「仁」ではなく孟子の言った「仁義」の定義で、孔子が説いたのは”貴族らしさ”だった(論語における「仁」)。
そして君子が身につけるべき文化的教養とは、周の文王以来の「斯文」だった(論語子罕篇5)。「斯」とは厳粛に区切られた神聖空間、範囲、環境の意で、「斯文」とはちまちました個別の文化的成果物ではなく、風俗習慣を含めた中華文明全体を言う(論語語釈「斯」)。その「斯文」を言い換えたのが「礼」であり、単なる礼儀作法に止まらず、君子の従うべき教養・常識全般を指した(論語における「礼」)。
従ってちまちました雑事に多能であっても、それは君子にふさわしくなるのには役立たない。いくらものごとを暗記していても、戦場でのとっさの機動ができなければ死んでしまうし、政論では負け、外交ではしくじることになる。つまり孔子の説く「仁」も「君子」も「礼」も、要件を箇条書きにして貼り出せるものではなく、時間を掛けて修養し自得するものに他ならなかった。
武道経験者にはご案内だろうが、離れて避けるか、寄って打つかの判断が誤りなく出来るようなら、それはもう達人の域に達したと言ってよい。だがそれは体得するしかなく、生まれつきの天才は別として、普段の稽古を長年重ねないと出来ることではない。
切り結ぶ 太刀の下こそ 地獄なれ たんだ踏み込め あとは極楽
宮本武蔵の言とも、柳生厳長の言とも言われるこの道歌は、初伝を体得する頃までの弟子に分からせるための方便で、常時「たんだ踏み込」んでいたら、そのうち斬り死にすることになる。だから戦乱の春秋時代を戦士として生きねばならない君子の道は、言葉では言い表せないのだった。
だが孔子は流浪の巫女の私生児として生まれ、学才を見出されて孟孫家の家庭教師になるまでは、巫女の手伝いをして暮らしたはず。すなわち手段を問わず神がかり、ベラベラと口を回すお札売り、効く保証の無い祝詞上げ、その手の如何わしい事は何でもやっただろう。
だからといって開学後の孔子が、くどくど人の道を説いたことにはならない。生まれにより、「鄙事」にも十分通じていただけである。ただし当時の庶民のほとんどがそうである、農民の仕事はしなかった。だから可愛がっていた若い弟子の樊遅に、以下のように言っている。
既存の論語本では吉川本で、論語の本章の対話を、哀公十二年(BC483)に子貢が呉への使いに往来した後のこととし、孔子69歳、子貢38歳の時とする。その経緯について詳細は『左伝』の現代語訳を参照。武内義雄『論語之研究』では、本章について以下のように言う。
列子仲尼篇、韓非(子)説林篇にこの章に似た文がある。またこの章に「将聖」という字があるが将聖は大聖の意で、大と解せられる将の字は燕(現在の北京周辺)の北鄙、および斉楚の方言であるから、この章もまたそれらの地方に伝わった伝説で、那辺まで信用できるか疑わしい。
またこの章の終わり(本サイトでは次の章)に「牢曰、子云、我不試故芸」とあるが、これは兪樾(清代の考証学者)も言った通り上の「吾少也賤、故多能鄙事」の異文をつけ加えたもので、これを見てもこの篇が種々の材料をあつめて成っていることがわかる。(p.96)
「将聖」の解釈については立場を異にするから、説の前半には賛成しがたいが、後半はまことにその通りと思う。『列子』の記述は以下の通り。
商太宰見孔子曰:「丘聖者歟?」孔子曰:「聖則丘何敢,然則丘博學多識者也。」商太宰曰:「三王聖者歟?」孔子曰:「三王善任智勇者,聖則丘不知。」曰:「五帝聖者歟?」孔子曰:「五帝善任仁義者,聖則丘弗知。」曰:「三皇聖者歟?」孔子曰:「三皇善任因時者,聖則丘弗知。」商太宰大駭,曰:「然則孰者為聖?」孔子動容有閒,曰:「西方之人,有聖者焉,不治而不亂,不言而自信,不化而自行,蕩蕩乎民无能名焉。丘疑其為聖。弗知真為聖歟?真不聖歟?」商太宰嘿然心計曰:「孔丘欺我哉!」
宋の太宰が孔子に会って言った。「孔子どのは聖人ですかな?」
孔子「聖人などとんでもない。ただのもの知りでござる。」
太宰「いにしえの三王(夏の禹王・殷の湯王・周の文王)は聖人ですかな?」
孔子「三王は賢臣を見つけ出して政治を任せましたが、聖人かどうかは。」
太宰「いにしえの五帝(誰かは諸説有り)は聖人ですかな?」
孔子「五帝も賢臣を見つけ出して政治を任せましたが、聖人かどうかは。」
太宰「いにしえの三皇(誰かは諸説有り)は聖人ですかな?」
孔子「三皇も賢臣を見つけ出して政治を任せましたが、聖人かどうかは。」
太宰は驚いて「では誰が聖人なのです?」
孔子は動揺して暫く黙ったのち「西方に聖人がいるようですな。放ったらかしにしても世が治まり、黙っていても信用され、指示もしないのに政治が回る。まことに大らかで、民も何と呼べばいいのかわからない。多分その人でしょうな。ただし本物か偽物かはわかりませぬ。」
太宰は黙ったまま、「こやつ、ワシをだましよったな!」と心で舌打ちした。(『列子』仲尼3)
『韓非子』の方は、おそらくこの文。
子圉見孔子於商太宰,孔子出,子圉入,請問客,太宰曰:「吾已見孔子,則視子猶蚤蝨之細者也。吾今見之於君。」子圉恐孔子貴於君也,因謂太宰曰:「君已見孔子,亦將視子猶蚤蝨也。」太宰因弗復見也。
子圉が孔子を宋の太宰に紹介した。孔子が会見を終えて出てきた。
子圉「どうですかな、あの孔子という男は。」
太宰「う~むすばらしい、孔子に会った後では、そなたがノミかシラミのように見える。ぜひ殿に推挙しよう。」
子圉は、孔子が宋君に重用されはしまいかと恐れ、太宰に言った。
「なるほど。恐らく殿もそう思われ、太宰どのがノミかシラミに見える事でしょうな。」
太宰は孔子を推挙するのをやめた。(『韓非子』説林上3)
なお古注では論語の本章を、独立した一章として扱っている。
古注『論語集解義疏』
大宰問于子貢曰夫子聖者與何其多能也註孔安國曰大宰大夫官名也或呉或宋未可分也疑孔子多能於小藝也子貢曰固天縱之將聖又多能也註孔安國曰言天固縱之大聖之德又使多能也子聞之曰大宰知我者乎吾少也賤故多能鄙事君子多乎哉不多也註苞氏曰我少小貧賤常自執事故多能為鄙人之事君子固不當多能也
本文。「大宰問于子貢曰夫子聖者與何其多能也。」
注釈。孔安国「大宰とは家老階級の官職名である。呉国か宋国かはわからない。孔子がちまちました仕事に堪能なのをいぶかったのである。
本文。「子貢曰固天縱之將聖又多能也。」
注釈。孔安国「天もとよりこれをゆるすとは、大いなる聖人の能力は多機能であるようにさせた、の意である。
本文。「子聞之曰大宰知我者乎吾少也賤故多能鄙事君子多乎哉不多也。」
注釈。包咸「私は若い頃身分が低くて貧しかったので、何でも自分でやるほか無かったから、卑しい者がする仕事に長けるようになった、と言っている。君子はもともと、多機能ではありえない。
新注は次章と一体化させている。本章部分のみ記す。
新注『論語集注』
大宰問於子貢曰:「夫子聖者與?何其多能也?」大,音泰。與,平聲。孔氏曰:「大宰,官名。或吳或宋,未可知也。」與者,疑辭。大宰蓋以多能為聖也。子貢曰:「固天縱之將聖,又多能也。」縱,猶肆也,言不為限量也。將,殆也,謙若不敢知之辭。聖無不通,多能乃其餘事,故言又以兼之。子聞之,曰:「大宰知我乎!吾少也賤,故多能鄙事。君子多乎哉?不多也。」言由少賤故多能,而所能者鄙事爾,非以聖而無不通也。且多能非所以率人,故又言君子不必多能以曉之。
本文「大宰問於子貢曰:夫子聖者與?何其多能也?」
大は泰の音で読む。與は平らな調子で読む。孔安国は、「大宰とは官職名で呉か宋か分からない」と言っている。與とは、疑問を示す言葉である。大宰はたぶん、多能だから聖者だと言ったのだろう。
本文。「子貢曰:固天縱之將聖,又多能也。」
縱は、好き勝手、のような意味である。限りが無いことを示す。将とは、ほとんど、の意である。謙遜して知らない振りをした言葉である。聖人には出来ない事が無い。多能なのは当然だが下らないことでもある。だから相手の言葉に合わせて同じ様なことを言ったのである。
本文。「子聞之,曰:大宰知我乎!吾少也賤,故多能鄙事。君子多乎哉?不多也。」
若い頃は身分が低かったから多能になった、だが身に付いたのはちまちました事ばかりだった、聖人だから何でも出来るようになったわけではない、と言っている。さらに多能では人を率いることが出来ない、だから君子は多能では無いと言い、このことわりを説明した。
余話
中華風味の三権分立
中華帝国と「宰相」とは相性が悪い。政治の本質が利益分配だからだ。
政治にはさまざまな側面があるが、必ず伴うのは社会の資源を構成員にどう分けるかとの問題で、これを伴わない政治は無い。政治に暴力装置が必須なのは、資源を取り上げられたり、もらい損なったりすれば誰もが暴れ出すからで、黙らすためまず内に対する威嚇装置が要る。
だから政府の構成要素は真っ先に徴税機構と、次位ではあるが必須な軍事警察機構で、この二つと支配対象があれば、政府という店はとりあえず出来る。行政立法司法と異なる中華的三権分立が、政務と軍務をまず分け、その二つへの監察を加えて三つにしたのはこのためだ。
監察が加わったのは皇帝の個人的都合による。文官も武官も皇帝にとっては臣下と言うより自分を脅かす勢力の一員で、いかなる官職にも袖を引っ張る職を置かないと安心できなかったからだ。※国がポンニチに結わえ付けた鎖の端に、K国という狂犬をつないだのと事情は同じ。
後世、孫文が五権分立を称えたのは西洋かぶれが基本にあるが、伝統的中華三権から軍権を外したのは、時の北洋軍閥が嫌いだったからで、考試の独立は科挙官僚への怨念から、いずれも孫文の個人的事情に基づいている。それも未だにうまくいっているようには見えない。
以上を踏まえて宰相の「宰」の原義を調べれば、古代では貴重な肉を一家の中で切り分ける者を指し(論語語釈「宰」)、かかる利益分配を行う補佐役「相」だから宰相という(論語語釈「相」)。だがこれは行政の長の通称であり、正式な官名とした中華王朝を知らない。
自分で自分を天の子と言い出したメルヘン国家、周の官制は文字史上から漢儒のでっち上げは明らかだから、最高官として三公、すなわち太師(天子の教師)・太傅(天子の補佐役)・太保(天子の後見人)を置いたというのは出鱈目に過ぎないし、中華的三権分立にもそぐわない。
「太(大)保」はおそらく周公旦か召公奭の意で西周早期の金文「旅鼎」(集成2728)に見えるが、「太(大)師」は最高官としての記述が西周の出土品に無く、「太(大)傅」は言葉そのものが出土品に無い。従って三公が明確に確認できるのは秦帝国からになる。
すなわち丞相(行政長官)・太尉(軍務長官)・御史大夫(監察長官)で、「丞」の初出は甲骨文だが、字形は穴に落ちた人を救い上げるさまだった。秦代では語義が助ける者→補佐役に転じたが、大きく変わったわけではない。すなわち政務の補佐役で、主「宰」者ではなかった。
皇帝が死んでも利益分配の主宰権を離さなかったからである。その理由は自らの安全にある。歴代中華皇帝の望みはほぼ例外なく、第一に自らの安全、第二に王朝の存続で、帝国≒民百姓の安寧は優先課題ではなかった。当然の代償として皇帝の身は、常に臣下に脅かされた。
「宰」は「(肉や魚を)捌く」とも訓読しうるが、皇帝は臣下にさばかれるなどまっぴらご免で、ゆえに意地でも行政の長を宰相とは呼ばなかった。前漢は秦にならって丞相と呼び、後漢は儒教的偽善から司徒と呼び、隋唐帝国以降は宰相らしきものを同時に複数置いた。
だから日本の平安朝が、摂政関白を中国風に大宰、太政大臣を三公のいずれかに言い換えたのはいいとして、行政の長である左右大臣を僕射(次官)とし、臨時議員に過ぎない参議を宰相としたのは、官位のねじれに見えて、実は当時の中華皇帝の個人的都合を反映している。
日本の教科書で「律令国家」とされる隋唐帝国も、出鼻から令外官だらけだったからだ。
僕射の「僕」を「しもべ」と訓読する場合があるように、もとは君主の警護役のうち、弓術を得意とする者の意だった。これもまた秦代になって次官を意味するようになったのだが、秦漢帝国のうちはあくまで次官で、それが隋唐帝国になって事実上の宰相に成り上がった。
隋唐帝国も三公は置いたが勲章の一種で、代わりに中央政府の中書省(法務)・尚書省(人事と行政)・門下省(審議)の三省に長官を二人ずつおき、この計六人が宰相で、しかも尚書省の長官は欠員扱い、その次官である僕射が行政を扱うことから、やがて政府の筆頭と見なされた。
尚書長官たる尚書令が欠員とされたのは、事実上の唐帝国創業者で、後漢の光武帝と並び偽善で当時と後世をだましおおせたやり手の太宗李世民が、皇太子時代に尚書令だったからだとされるが半ばウソ。李世民には行政の主宰を臣下に委ねる気が、さらさらなかったからだ。
ここで論語の本章に話を戻すと、辞書的に「大宰(太宰)」は春秋時代の宋と呉の行政長官で、もとは周と対等の楚が令尹と呼んだほかは、他の諸侯国はほぼ司徒(役人の管理官)と呼んだことになっている。例外の宋は前王朝殷の末裔で、呉は孔子の頃まで中華文明圏でなかった。
だが政治の本質は変わりがないから、本当に宋と呉が宰相を大宰と呼んだかには疑問がある。あえて理屈を付ければ、宋は天子を自称しなかった殷王朝の現実主義を引き継ぎ、世襲君主制である以上、君主より政治に長けた「宰相」がいて当然と思っていたからだろうか。
呉はたぶん、周人=中国人にだまされて、あるいはウソで蔑称として書かれたのかも。
参考記事
- 論語述而篇34余話「周王朝の図々しさ」
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