論語:原文・書き下し
原文(唐開成石経)
子曰可與共學未可與適道可與適道未可與立可與立未可與權
校訂
東洋文庫蔵清家本
子曰可與共學未可與適道/可與適道未可與立/可與立未可與權
慶大蔵論語疏
子曰可〔レ丶人〕1共〔臼丨冖子〕2、未可与3〔辶亠丷冂口〕4道/可与3立(適道未可)5/可与3立未可6与3〔扌亠隹〕7〻
- 「以」の崩し字。「隋故秘書監左光禄大夫陶丘〓侯蕭〓墓誌」刻。
- 「學」の異体字。「偽周魏州莘縣尉王君夫人成氏墓誌」(唐?)刻。
- 新字体と同じ。「魏孝文帝弔比干文」(北魏)刻。
- 「適」の異体字。「魏王夫人元華光墓誌」(北魏)刻。
- 傍記。
- 虫食いあり。「立」は半ばほど虫食い。他の句より推測。
- 「權」の異体字。「隋元仁宗墓誌」刻。
後漢熹平石経
(なし)
定州竹簡論語
(なし)
標点文
子曰、「可以共學、未可與適道。可與立。可與立、未可與權〻。」
復元白文(論語時代での表記)
權
※論語の本章は、「權」の字が論語の時代に存在しない。「未」「適」の用法に疑問がある。本章は戦国時代以降の儒者による創作である。
書き下し
子曰く、共に學ぶを以てす可きも、未だ興に道を適く可からざらば、興に立つ可し。興に立つ可きも、未だ興に權を權る可からず。
論語:現代日本語訳
逐語訳
先生が言った。「一緒に学ぶことが出来るが、もし一緒に道を行くことが出来ないなら、共に立つがよい。共に立つ事が出来ても、それでは一緒にたくらみを考えることは出来ない。」
意訳
諸君。同じ塾生でも、将来の志望が違う者はいるから、嫌わないで友達になれ。だが友達になれたからと言って、口に出せない相談事はあるものだ。
従来訳
先師がいわれた。――
「共に学ぶことの出来る人はあろう。しかし、その人たちが共に道に精進することの出来る人であるとは限らない。共に道に精進することの出来る人はあろう。しかし、その人たちが、いざという時に確乎たる信念に立って行動を共にしうる人であるとは限らない。確乎たる信念に立って行動を共にしうる人はあろう。しかし、その人たちが、複雑な現実の諸問題に当面して、なお事を誤らないで共に進みうる人であるとは限らない。」下村湖人『現代訳論語』
現代中国での解釈例
孔子說:「共同學習,不一定能共同進步;共同進步,不一定能共同創業;共同創業,不一定能共同開拓。」
孔子が言った。「共に学んでも、共に進めるとは限らない。共に進めても、ともに事業を興せるとは限らない。共に事業を興せても、共に切り開けるとは限らない。」
論語:語釈
子 曰、「可 以(與) 共 學、未 可 與 適 道、可 與 (適 道、未 可 與 )立。可 與 立、未 可 與 權 權。」
子曰(シエツ)(し、いわく)
論語の本章では”孔子先生が言った”。「子」は貴族や知識人に対する敬称で、論語では多くの場合孔子を指す。「子」は赤ん坊の象形、「曰」は口から息が出て来るさま。「子」も「曰」も、共に初出は甲骨文。辞書的には論語語釈「子」・論語語釈「曰」を参照。
この二文字を、「し、のたまわく」と読み下す例がある。「言う」→「のたまう」の敬語化だが、漢語の「曰」に敬語の要素は無い。古来、論語業者が世間からお金をむしるためのハッタリで、現在の論語読者が従うべき理由はないだろう。
可與(カヨ)→可以(カイ)
唐石経を祖本とする現伝論語では、「可與」と記して”一緒に…できる”。慶大蔵論語疏は「可以」と記して”~できる”。
論語の本章は現存最古の論語の版本である定州竹簡論語に全体を欠き、次いで最古の文字列を伝えるのは慶大本になる。これに従って校訂した。
原始論語?…→定州竹簡論語→白虎通義→ ┌(中国)─唐石経─論語注疏─論語集注─(古注滅ぶ)→ →漢石経─古注─経典釈文─┤ ↓↓↓↓↓↓↓さまざまな影響↓↓↓↓↓↓↓ ・慶大本 └(日本)─清家本─正平本─文明本─足利本─根本本→ →(中国)─(古注逆輸入)─論語正義─────→(現在) →(日本)─────────────懐徳堂本→(現在)
「可以」は現代中国語でも”~できる”を意味する助動詞だが、初出は戦国時代で論語の時代には見られない。春秋時代までの漢語は一字一意が原則で、熟語はまだ現れていなかった。これが論語の本章を戦国時代以降の創作とする証拠の一つになる。
(甲骨文)
「可」の初出は甲骨文。字形は「口」+「屈曲したかぎ型」で、原義は”やっとものを言う”こと。甲骨文から”~できる”を表した。日本語の「よろし」にあたるが、可能”~できる”・勧誘”…のがよい”・当然”…すべきだ”・認定”…に値する”の語義もある。詳細は論語語釈「可」を参照。
(金文)
「與」の新字体は「与」。初出は春秋中期の金文。金文の字形は「牙」”象牙”+「又」”手”四つで、二人の両手で象牙を受け渡す様。人が手に手を取ってともに行動するさま。従って原義は”ともに”・”~と”。詳細は論語語釈「与」を参照。
慶大蔵論語疏は新字体と同じく「与」と記す。上掲「魏孝文帝弔比干文」(北魏)刻。『敦煌俗字譜』所収。
(甲骨文)
「以」の初出は甲骨文。人が手に道具を持った象形。原義は”手に持つ”。論語の時代までに、名詞(人名)、動詞”用いる”、接続詞”そして”の語義があったが、前置詞”~で”に用いる例は確認できない。ただしほとんどの前置詞の例は、”用いる”と動詞に解せば春秋時代の不在を回避できる。詳細は論語語釈「以」を参照。
慶大蔵論語疏は「〔レ丶人〕」と崩し字で記す。上掲「隋故秘書監左光禄大夫陶丘〓侯蕭〓墓誌」刻。
共(キョウ)
(甲骨文)
論語の本章では”共に”。原義の”差し出す”の派生義と考えられなくはない。初出は甲骨文。字形は「又」”手”二つ=両手+「口」。原義は”両手でものを捧げ持つさま”。派生義として”敬う”。「供」の原字。論語の時代までに”謹んで従う”の用例があり、「恭」を「共」と記している。また西周の金文に、”ともに”と読み得る例がある。詳細は論語語釈「共」を参照。
學(カク)
(金文)
論語の本章では”学ぶ”。「ガク」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)。初出は甲骨文。新字体は「学」。原義は”学ぶ”。座学と実技を問わない。上部は「爻」”算木”を両手で操る姿。「爻」は計算にも占いにも用いられる。甲骨文は下部の「子」を欠き、金文より加わる。詳細は論語語釈「学」を参照。
慶大蔵論語疏は異体字「〔臼丨冖子〕」と記す。「偽周魏州莘縣尉王君夫人成氏墓誌」(唐?)刻。
未(ビ)
(甲骨文)
論語の本章では”まだ…ない”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。「ミ」は呉音。字形は枝の繁った樹木で、原義は”繁る”。ただしこの語義は漢文にほとんど見られず、もっぱら音を借りて否定辞として用いられ、「いまだ…ず」と読む再読文字。ただしその語義が現れるのは戦国時代まで時代が下る。詳細は論語語釈「未」を参照。
適(テキ)
(楚系戦国文字)
論語の本章では”行く”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は西周の金文。ただし字形は「啻」。現行字形の初出は戦国文字。同音は存在しない。字形は〔辶〕+「啇」。「啇」の古形は「啻」で、「啻」は天の神を祭る禘祭を意味した。おそらく神意にかなうことから、「適」の原義は”かなう”。詳細は論語語釈「適」を参照。
慶大蔵論語疏は異体字「〔辶亠丷冂口〕」と記す。「魏王夫人元華光墓誌」(北魏)刻。
道(トウ)
「道」(甲骨文・金文)
論語の本章では”みち”→”生き方”。動詞で用いる場合は”みち”から発展して”導く=治める・従う”の意が戦国時代からある。”言う”の意味もあるが俗語。初出は甲骨文。字形に「首」が含まれるようになったのは金文からで、甲骨文の字形は十字路に立った人の姿。「ドウ」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)。詳細は論語語釈「道」を参照。
適道未可
唐石経を祖本とする現伝論語は、慶大本の文字列と次のように異なっている。()はあとから格外に記した傍記。なお参考までに、慶大本に次いで現存最古の古注本である宮内庁蔵清家本(1327~28写)の文字列も記すが、唐石経と同じ。ただし前章の最終句「勇者不懼」から続けて記している。
慶大本 | 子曰、 | 可以共學、 | 未可與適道、 | 可與立。 | (適道 | 未可) | 可與立、 | 未可與權〻。 |
唐石経 清家本 龍雩本 |
子曰、 | 可與共學、 | 未可與適道。 | 可與適道、 | 未可與立。 | 可與立、 | 未可與權。 |
慶大本は遅くとも初唐・盛唐以前、おそらくは隋(581-618)以前に中国で筆写され、日本に伝来したとされる。一方唐石経は晩唐の初頭、開成二年(837)に刻まれた。科挙の試験対象である儒教経典にさまざまな文字列のものが混在していては採点に不都合なので、文字列を統一して公開したわけ。当然ながら以前の文字列とは異なる部分が少なくない。
その唐石経を、翌838に渡唐した最後の第19次遣唐使などに行って見て帰って来たか、伝え聞いた日本人が、文字列の異同に疑いを持ち、唐石経に従って訂正したのが慶大本の傍記部分だろう。「可」が重複するが、この程度の記入ミスは人間には常時あることだ。
江戸末まで日本人にとって先進国とはすなわち中国だったから、中国から最新の「正しい」文字列が伝わったのを、まじめに真に受けて、なんとか慶大本の文字列を「正し」くしようとした工夫の跡がうかがえる。
立(リュウ)
(甲骨文)
論語の本章では”立つ”。立って共に並ぶこと。初出は甲骨文。「リツ」は慣用音。字形は「大」”人の正面形”+「一」”地面”で、地面に人が立ったさま。原義は”たつ”。甲骨文の段階で”立てる”・”場に臨む”の語義があり、また地名人名に用いた。金文では”立場”・”地位”の語義があった。詳細は論語語釈「立」を参照。
權*(ケン)
(秦系戦国文字)
論語の本章では”たくらみ”・”たくらみを考える”。初出は楚系戦国文字。論語の時代に存在しない。”重さ”の意に限り、近音の「縣」が論語時代の置換候補となる。字形は「木」+音符「雚」。同音は「卷」とそれを部品とする漢字群など。「ゴン」は呉音。戦国時代に”はかりごと”・”重さをはかる”の意に用いた。詳細は論語語釈「権」を参照。
慶大蔵論語疏は異体字「〔扌亠隹〕」と記す。「隋元仁宗墓誌」刻。
〻
「子〻孫〻」史頌鼎・西周末期
慶大蔵論語疏は「權」字の後ろに重文号(繰り返し記号)として小さく「二」を記し、現行では「〻」と記す。よって「權〻」で”はかりごとをはかる”の意。wikipediaによると「二」を重文号に用いたのは殷代に始まり、周以降も受け継がれたという。訳者が確認した初出は西周早期「㢭白鬲」(集成697)で、「其萬年子〻孫〻永寶用」とある。
論語:付記
検証
論語の本章は前漢中期の定州竹簡論語に無く、春秋戦国の誰一人引用も再録もしていない。前後の漢帝国で、断片的な引用が見られるのみ。すわわち、前漢中期の董仲舒『春秋繁露』に「然後可與適道矣。」とあるのが初出だが、これは論語の本章と必ずしも関連しているとは言えない。
それよりやや時代が下る前漢中期『塩鉄論』に「孔子曰、可與共學、未可與權。」とあり、定州竹簡論語が埋蔵された頃には、本章は論語の一部として成立していたと見られる。ただし「適道」については前漢末期・劉向『説苑』に「孔子曰、可與適道,未可與權也。」とあるまで、「與立」については、後漢末の徐幹『中論』に「仲尼曰、可與立、未可與權。」とあるまで時代が下る。
いずれにせよ、「權」の字の、”はかりごと”の意での論語の時代に於ける不在は動かず、”重さを量る”の意で春秋末期に遡れるが、本章を単なる計量の話と解するのは無理がある。「可以」の春秋時代における不在を含めて、漢儒による創作と考えるべきだろう。
ただし訳者の個人的感想を言えば、「あいつ、嫌いです!」と訴える弟子に対して、「誰だって将来の希望はそれぞれだ。そんなことで毛嫌いしないで仲良くしなさい。ただし、友達だからといって何でも相談できるわけではないのを、忘れないようにな。」と諭す孔子の姿は、史実と言ってしまいたい。
解説
孔子一門を、大人しい学者の集団と見るのは的外れで、それは弟子の中の一部でしかなく、宗匠の孔子はその範疇から外れる。孔子一門は、素手で人を殴刂殺せるえげつない暴カを身につけた革命集団で、それが中国各地で政府転覆の陰謀を逞しくした。孔子とすれ違うように春秋末から戦国初の世を生きた、墨子は証言する。
子貢は南郭恵子のつてで田常に会い、呉を伐つように勧め、斉国門閥の高・国・鮑・晏氏が、田常が起こそうとしていた乱の邪魔を出来なくさせ、越に勧めて呉を伐たせた。三年の間に、斉は内乱、呉は亡国に向かってまっしぐら、殺された死体が積み重なった。この悪だくみを仕掛けたのは、他でもない孔子である。(『墨子』非儒篇下)
だが論語時代の史料から、孔子一門の政治活動の記録は、綺麗さっぱり消されている。歴代の儒者が、残された記録をどのように扱ったかは言うまでもない。論語の書き換えすら平気で行った儒者の魔の手をすり抜けた珍しい書が、清末まで忘れられていた『墨子』である。
なお論語の本章について、武内義雄『論語之研究』は以下のように言う。
この章末に「可与立、未可与権」という。権の字は孟子・公羊・易伝に見える。孟子は権と礼とを対用し、公羊は権と経とを対用する。この章で「可与立」と言うのは礼に立つ意であるから、孟子の用法に近い。おそらく孟子頃の文か。(p.97)
その通り、「権」の字を書いた秦の役人は
秦の南郡に属する県の官吏を務めていた喜という人物で、紀元前262年に生まれた。紀元前217年に年表が途切れるので、この年に死去したと見られている。
とwikipediaにある。つまり始皇帝による統一(BC221)が進みつつあった時代だった。孟子の生没はBC372-BC289ごろとされるから、武内博士の推論は当たっていると言ってよい。
論語の本章、新古の注は次の通り。古注は次章と一体化しており、本章部分のみ記す。
古注『論語集解義疏』
子曰可與共學未可與適道註適之也雖學或得異端未必能之道者也可與適道未可與立註雖能之道未必能以有所成立者也可與立未可與權註雖能有所立未必能權量其輕重之極也
本文「子曰可與共學未可與適道」。
注釈。適とは行くことである。学んでも異端に走る者が出るから(論語為政篇16)、必ずしも正しい道に進めるわけではない。
本文。「可與適道未可與立」。
注釈。正しい道に進んでも、ふさわしい立場に立てるとは限らない。
本文。「可與立未可與權」。
注釈。立場を得ても、ものごとの重要性を見極めることが出来るとは限らない。
新注『論語集注』
可與者,言其可與共為此事也。程子曰:「可與共學,知所以求之也。可與適道,知所往也。可與立者,篤志固執而不變也。權,稱錘也,所以稱物而知輕重者也。可與權,謂能權輕重,使合義也。」楊氏曰:「知為己,則可與共學矣。學足以明善,然後可與適道。信道篤,然後可與立。知時措之宜,然後可與權。」洪氏曰:「易九卦,終於巽以行權。權者,聖人之大用。未能立而言權,猶人未能立而欲行,鮮不仆矣。」程子曰:「漢儒以反經合道為權,故有權變權術之論,皆非也。權只是經也。自漢以下,無人識權字。」愚按:先儒誤以此章連下文偏其反而為一章,故有反經合道之說。程子非之,是矣。然以孟子嫂溺援之以手之義推之,則權與經亦當有辨。
可與とは、共に同じ事をするということである。
程頤「共に学ぶことが出来れば、何を目指しているかが分かる。共に道を行くことが出来れば、進んだ歩みを知れる。共に立つことが出来れば、決意が固まって変わらなくなる。権とは天秤の重りである。それでものの軽重がはかれる。ともにはかれるなら、軽重を図れると評してよく、目指す正義を共有できる。」
楊時「自分を整えられるなら、必ず共に学び切れる。学問が善悪の基準を悟るほど進んだら、やっと道を行くことが出来る。道を信じることが深ければ、やっと立つことが出来る。時運の求めを知れば、ともに企むことが出来る。」
洪興祖「易の九卦は、巽により権を行うことで終わる。権とは、聖人が行う大いなることだ。まだ立つこともはかりごとも言えないのに、人が建てないままで行うと、そのせいで死なない者は少ない。」
程頤「漢の儒者は反するものを合わせて同じ道を通らせ権をはかった。だから”権変権術の論”を言い回ったが、みな間違っている。権とはただ、真理の筋道に過ぎない。漢から以降、権の字の意味が分かった者は誰もいない。」
わたし愚かな朱熹が考えるに、昔の儒者は本章を、間違えて次の章とくっつけて読んだ。だから「反経合道の説」が生まれた。程頤先生はそれを間違いとしたが、正しい。男女の区別をうるさく言った孟子は、「じゃ、兄嫁が溺れても助けちゃいけないんですね」と言われて「バカ言うな」と答えたが、そのでんでいえば、権と経は分かれて当然なのだ。
新注の黒魔術を語っている部分は無視してよい。詳細は論語雍也篇3余話「宋儒のオカルトと高慢ちき」を参照。
余話
いちゃついたらいかん
上記語釈の通り、「權」(権)とは元は「さおばかり」の分銅のことで、”重さを計量する”ことだった。だがこの字が現れるとほぼ同時に、”権力”・”陰謀”の意を持った。つまり音としての「ケン」には、”重さを量る”→”社会の資源配分をする”の意がすでにあったと思われる。
孔子とすれ違うように春秋末から戦国初期を生きた墨子も、両義を言っている。
於所體之中,而權輕重之謂權。權,非為是也,非非為非也。權,正也。
物体の重心であり、つまり重さが釣り合う場所を「権」という。人為で決まらないが、人間が認識しないと意味が無い。だから「権」とは「正」なのだ。(『墨子』大取3)
欲正權利,且惡正權害。
権力がもたらす利益を求めるなら、権力の弊害を憎んで正さねばならない。(同・経上85)
『墨子』も論語同様、歴史人物の墨子没後さんざんいじくられたから、必ずしも墨子の生の言葉とは言えないが、早いうちから”権力”の意味があったと察することは出来る。孔子没後一世紀に生まれた孟子も、両義で言っている。
權,然後知輕重;度,然後知長短。物皆然,心為甚。
王殿下、重りがあってやっと、人はものの重さを知り、物差しがあってやっと、ものの長さを知るのです。世のものごととは全てこうで、心はその代表と言ってよいのです。(『孟子』梁恵王上7)
淳于髡曰:「男女授受不親,禮與?」孟子曰:「禮也。」曰:「嫂溺則援之以手乎?」曰:「嫂溺不援,是豺狼也。男女授受不親,禮也;嫂溺援之以手者,權也。」曰:「今天下溺矣,夫子之不援,何也?」曰:「天下溺,援之以道;嫂溺,援之以手。子欲手援天下乎?」
淳于髡「お前ら儒者は、未婚の男女はいちゃついたらいかんと言っているな。それが礼儀か。」
孟子「ああそうだよ。」
淳于髡「ではあによめが溺れそうになったら、手で救ってはいかんのか。」
孟子「家族が溺れているのに、救わないのはケダモノのすることだ。男女がいちゃつかんのは礼儀にかなうが、あによめに手を差し伸べるのは、礼儀より人命を重んじるからだ。」
淳于髡「今の天下はまさに戦国で、民は溺れるように苦しんでいる。なのにああたは知らんぷりして、手を伸ばして助けない。ああたの言うケダモノではないか。」
孟子「天下万民の苦しみを救うのは、それが人の道というものだ。救うのがあによめの場合は、手を差し伸べる。お前さんはその腕一本で、天下を救おうというのかね?」(同・離婁上17)
「援」にてへんが入っていることに注意しないと、後者の意味はわからない。”腕を差し伸べて救う”ことで、「助」などとは意味が違う。漢字は字が違えば意味が違い、そうでなければ古今の書体の違いか、方言の違いと思い知らないと、まともに漢文を読むのは不可能だ。
ともあれ、本章を偽作したであろう漢儒は、むしろ”権力”の意で使った例が多い。
哀公問於孔子曰:「寡人聞東益不祥,信有之乎?」孔子曰:「不祥有五,而東益不與焉。夫損人自益,身之不祥;棄老而取幼,家之不祥;釋賢而任不肖,國之不祥;老者不教,幼者不學,俗之不祥;聖人伏匿,愚者擅權,天下不祥。不祥有五,東益不與焉。」
若殿「東に勢力を張り出すのは不吉と聞いた。本当かのう。」
孔子「不吉な事柄の種類は五つと決まっており、東にどうこうは関係ありません。
人をいじめて利益を得るのは、身の不吉です。老人を捨てて若い者にいい思いをさせるのは、家の不吉です。賢者を捨てて馬鹿者を任官させるのは、国の不吉です。老人が教えず、若い者が学ばないのは、世間の不吉です。聖人が逃げ隠れ、馬鹿者が権力を好き勝手するのは、天下の不吉です。
不吉はこの五つと決まっており、東にどうこうは関係ありません。」(『孔子家語』正論解26)
『孔子家語』が三国魏の王粛による偽作という、朱子の言葉に図乗りして歴代の儒者がべったり貼り付けた冤罪は、論語同様に定州漢墓竹簡の発掘で覆ったが、それでも前漢中期より古くはなく、現伝論語と同程度の信頼性しか無い。
家語中說話猶得,孔叢子分明是後來文字,弱甚。
『孔子家語』には後世の作り話と思われるのが含まれ、『孔叢子』は明らかに後世の字が使ってある。ものすごく怪しい。(『朱子語類』論修礼書6)
家語只是王肅編古錄雜記。其書雖多疵,然非肅所作。孔叢子乃其所注之人偽作。
『孔子家語』は王粛が古記録の雑多な記述をとりまとめた本で、怪しい点が多いが、話そのものは王粛の偽作とまでは言えない。『孔叢子』の方は、注釈を付けた人物が、自分でこしらえた偽作である。(同・戦国漢唐諸子2)
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