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論語詳解211B子罕篇第九(7)牢曰く、子云く*

論語子罕篇(7)要約:後世の創作。孔子先生が、地獄のような底辺から這い上がった記憶をぼそりと弟子に漏らしたという話。若い頃は、どんな事をしてでも食い扶持を稼ぐしかなかった、と。弟子に愚痴ってそれで慕われるのでしょうか。

論語:原文・書き下し

原文(唐開成石経)

牢曰子云吾不試故藝

校訂

東洋文庫蔵清家本

牢曰子云吾不試故藝

慶大蔵論語疏

牢曰子云吾不〔言㦮〕1故藝

  1. 「試」の異体字。「唐守左金吾衛大將軍試太常卿上柱國彭城劉希陽南陽韓夫人合祔墓誌」刻字に近似。

後漢熹平石経

(なし)

定州竹簡論語

(なし)

標点文

牢曰、「子云、『吾不試、故藝。』」

復元白文(論語時代での表記)

牢 金文曰 金文 子 金文雲 金文 吾 金文不 金文 故 金文芸 金文

※論語の本章は試の字が論語の時代に存在しない。「藝」の字の用法に疑問がある。本章は戦国時代以降の儒者による創作である。

書き下し

らういはく、いはく、われもちゐられず、ゆゑげいありと。

論語:現代日本語訳

逐語訳

琴牢
弟子のロウが言った。「先生はこう言った。”私は試されなかった。だから多芸になった”と。」

意訳

(前章からの続き)

孔子 人形
子貢よ。牢も言ってたろう。ワシの若い頃は、いろんな仕事で食いつないだもんさ。

従来訳

下村湖人

門人の牢も、こんなことをいった。――
「先生は、自分は世に用いられなかったために、諸芸に習熟した、といわれたことがある。」

下村湖人『現代訳論語』

現代中国での解釈例

牢說:「孔子說過:『我沒有被重用,所以學會了許多技藝。』」

中国哲学書電子化計画

牢が言った。「孔子はむかし言った。”私は高い地位に就けて貰えなかった、だから沢山の技能を学べた”と。」

論語:語釈

、「 、『 。』」


牢*(ロウ)

新古の注では孔子の弟子という。新注を書いた朱子によると、姓は琴、字は子開、またの字は子張と言う。「なんでもやりすぎ」の顓孫師・子張とは別人。

ただし朱子は先行する『論語注疏』に「牢,弟子琴牢也」とあるのをそのまま受け売りしただけで、『論語注疏』も「家語弟子篇云、琴牢、衞人也。字子開。一字張。此云弟子子牢、當是耳。」と『孔子家語』に責任を投げている。

前漢年表

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『孔子家語』は、後漢から魏にかけての王粛が偽作したという冤罪は定州漢墓竹簡から晴れたが、それでも前漢中期までしか遡れず、孔子逝去から四世紀は過ぎている。論語の本章に偽作の疑いがあることを合わせ考えて、漢儒がこしらえた架空の人物とみるのが理に叶う。

牢 甲骨文 牢 字解
(甲骨文)

「牢」の字は論語では本章のみに登場。初出は甲骨文。字形は家畜を小屋に入れたさま。甲骨文・春秋末期までの金文では、”家畜をいけにえにする(祭)”の意に用いた。詳細は論語語釈「牢」を参照。

甲骨文の字形は、檻に入っているのは羊だったり、牛だったり、上掲のように馬だったりする。要するに家畜を閉じこめる檻が原義。論語の時代、人を閉じこめるには木箱を作って閉じこめたらしい。

囚 睡虎地秦墓竹簡 牢屋
「囚」(秦系戦国文字)

人を檻に閉じこめる「囚」の文字は、甲骨文の昔からあるが(論語語釈「昷」)、字形が四角いことから、閉じこめるのが木箱だったことを示す。上掲は時代が下った、始皇帝が中国を統一した頃の秦国の字で、簡易に丸っと囲っている。穴に閉じこめたさまだろう。

秦の統一戦争で、破った趙の兵を”穴埋めにした”と史記にあり、有名な焚書坑儒の坑儒とは、学者を穴に入れて閉じこめることだった。統一戦争によって、続々とざんばら髪にされた捕虜が秦国に送り込まれるようになり、一々木箱をこしらえてはいられなくなったためだろうか。

曰(エツ)

曰 甲骨文 曰 字解
(甲骨文)

論語で最も多用される、”言う”を意味する言葉。初出は甲骨文。原義は「𠙵」=「口」から声が出て来るさま。詳細は論語語釈「曰」を参照。

子(シ)

子 甲骨文 論語 孔子
「子」

論語の本章では”孔子先生。初出は甲骨文。論語ではほとんどの章で孔子を指す。まれに、孔子と同格の貴族を指す場合もある。また当時の貴族や知識人への敬称でもあり、孔子の弟子に「子○」との例が多数ある。なお逆順の「○子」という敬称は、上級貴族や孔子のような学派の開祖級に付けられる敬称。「南子」もその一例だが、”女子”を意味する言葉ではない。字形は赤ん坊の象形で、もとは殷王室の王子を意味した。詳細は論語語釈「子」を参照。

云(ウン)

云 甲骨文 云 字解
(甲骨文)

論語の本章では”言う”。初出は甲骨文。字形は「一」+”うずまき”で、かなとこ雲(積乱雲)の象形。甲骨文では原義の”雲”に用いた。金文では語義のない助辞としての用例がある。”いう”の語義はいつ現れたか分からないが、分化した「雲」の字形が現れるのが楚系戦国文字からであることから、戦国時代とみるのが妥当だが、殷末の金文に”言う”と解せなくもない用例がある。詳細は論語語釈「云」を参照。

吾(ゴ)

吾 甲骨文 吾 字解
(甲骨文)

論語の本章では”わたし”。初出は甲骨文。字形は「五」+「口」で、原義は『学研漢和大字典』によると「語の原字」というがはっきりしない。一人称代名詞に使うのは音を借りた仮借だとされる。詳細は論語語釈「吾」を参照。

春秋時代までは中国語にも格変化があり、一人称では「吾」を主格と所有格に用い、「我」を所有格と目的格に用いた。しかし論語でその文法が崩れ、「我」と「吾」が区別されなくなっている章があるのは、後世の創作が多数含まれているため。

不(フウ)

不 甲骨文 不 字解
(甲骨文)

漢文で最も多用される否定辞。初出は甲骨文。「フ」は呉音、「ブ」は慣用音。原義は花のがく。否定辞に用いるのは音を借りた派生義だが、甲骨文から否定辞”…ない”の意に用いた。詳細は論語語釈「不」を参照。

試*(シ)

試 睡虎地秦墓竹簡 試 字解
(秦系戦国文字)

論語の本章では”仮採用される”。初出は秦系戦国文字。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。字形は「言」+「大」”人の正面形”+「戈」。言葉と事実の一致を試し、ウソならば処刑すること。同音に「詩」「邿」”周代の国名”「始」「弑」「幟」。詳細は論語語釈「試」を参照。

試 異体字
慶大蔵論語疏では異体字「〔言㦮〕」と記す。上掲「唐守左金吾衛大將軍試太常卿上柱國彭城劉希陽南陽韓夫人合祔墓誌」刻字に近似。

故(コ)

故 金文 故 字解
(金文)

論語の本章では、”だから…”。『大漢和辞典』の第一義は”もと・むかし”。攵(のぶん)は”行為”を意味する。初出は西周早期の金文。ただし字形が僅かに違い、「古」+「ボク」”手に道具を持つさま”。「古」は「𠙵」”くち”+「中」”盾”で、”口約束を守る事”。それに「攴」を加えて、”守るべき口約束を記録する”。従って”理由”・”それゆえ”が原義で、”ふるい”の語義は戦国時代まで時代が下る。西周の金文では、「古」を「故」と釈文するものがある。詳細は論語語釈「故」を参照。

藝(ゲイ)

芸 甲骨文 芸 字解
(甲骨文)

論語の本章では”技能”。この語義は春秋時代では確認できない。原字「埶」の初出は甲骨文。現行書体の初出は後漢の隷書。字形は人が苗を手に取る姿で、原義は”植える”。甲骨文では原義に、”設置する”に、金文でも原義に用いた。”技術”の語義は戦国時代から。”芸術”・”見せ物”の語義は、先秦両漢の漢語に見られない。詳細は論語語釈「芸」を参照。

論語:付記

中国歴代王朝年表

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検証

論語の本章は定州竹簡論語に含まれていないが、ごく短い章のため、簡の欠損の可能性は高い。全体をやや先行する前漢中期の『史記』孔子世家が載せている。ただし『史記』が後世いじられなかった可能性はほぼ皆無に近い。

ともあれ文字史から、論語の本章は偽作と断じるしかない。

本章の主人公である牢について、上掲の通り淵源は『孔子家語』。

琴牢,衛人,字子開,一字張。與宗魯友,聞宗魯死,欲往弔焉。孔子弗許,曰:「非義也。」


琴牢、衛国の出身。あざ名は子開。またのあざ名は張。宗魯と友人で、その死を聞いて弔いに行こうとした。だが孔子は許さず、「筋違いだ」と言った。(『孔子家語』七十二弟子解33)

宗魯の名は『春秋左氏伝』に見える。

齊豹見宗魯於公孟,為驂乘焉。將作亂,而謂之曰,公孟之不善,子所知也,勿與乘,吾將殺之。對曰,吾由子事公孟,子假吾名焉,故不吾遠也,雖其不善,吾亦知之,抑以利故,不能去,是吾過也,今聞難而逃,是僭子也,子行事乎,吾將死之,以周事子,而歸死於公孟,其可也。


(衛霊公に対して反乱を起こした)斉豹は、元はといえば宗魯を霊公の兄である公孟チュウに紹介した人物で、その縁で宗魯は公孟の馬車に同乗する護衛官になった。斉豹は反乱を起こすに当たり、宗魯に言った。

「公孟どのの乱行はそなたも知るとおりだ。公孟どのが次に出掛けるときには、言い訳を作って同乗しないがよかろう。私は公孟どのを討ち果たすつもりでいるから。」

宗魯は憤然として言い返した。「もともと、あなた様のご紹介に与って私は護衛官になれたのです。その御縁が無ければ、私は今も無名の乱暴者に過ぎなかったでしょう。だから私を事から無関係になさいますな。

公孟さまのご乱行は、もちろんそれがしも承知しています。ですが我が身かわいさに逃げ出すことなど出来ません。お話を伺ってしまったのは、私の罪ですから、危ないからと逃げたなら、あなた様への不義理になります。

あなた様のなさることに口出しは致しませんが、その代わり死ぬと致しましょう。それがあなた様への恩返しであり、死を以て公孟さまに申し訳を立てましょう。それ以外にするべき事などありません。」(『春秋左氏伝』昭公二十年2)

宗魯はこのあと公孟をかばって戦死するのだが、春秋の世にはこういう忠義があった、という話を『春秋左氏伝』はいくつも伝える。今の中国人とはまるで別の人種で、左伝が作り事なのか、春秋の中国人がやはり別人種なのか。

魯の昭公二十年(BC522)と言えば孔子は数えで三十歳、まだ無名ながら魯を訪れた斉の景公と対話したとされる(論語顔淵篇11)。当時魯国政府か門閥の季孫家または孟孫家の下級官吏だったはずで、有名弟子の顔淵は翌年の生まれ。すると琴牢は子路に匹敵する初期の弟子となる。

それなら琴牢伝説がもっと沢山伝わっていて当然だが、「琴牢」は先秦両漢のうち上掲『孔子家語』一点しか記載が無い。やはり漢儒の創作人物とするのが理屈に合う。

孔子年表
BC 昭公 孔子 魯国 その他
522 20 30 このころ、初期の弟子を取る。魯に来た斉の景公と問答。弟子の冉雍ゼンヨウ冉求ゼンキュウ宰我生まれる 斉・景公と晏嬰、魯に行く
521 21 31 弟子の顔回生まれる 昭公、晋に朝見しようとするも断られる
520 22 32 弟子の子貢生まれる 周・景王崩御、跡目争い。晋の六卿が平定し敬王擁立

解説

論語の前章と並び本章も、孔子の多芸多才を述べているが、この話は半ばウソである。孔子が当時の貴族が身につけるべき、あらゆる技能や教養に精通し、加えて当時の誰よりももの知りだったことは間違いないが、孔子はかなり若い時期から才を見出されて、門閥に仕えている。

魯国の門閥三家老家を三桓と言い、その一角の孟孫家の当主・孟僖子は、若き孔子の学才を見て、跡取りの孟懿子と、その弟南宮敬叔の家庭教師に招いた。孟懿子は孔子とほぼ同年に世を去っており、つまり同世代と思われ、その孟懿子兄弟が基礎教養を学ぶのだから、教師の孔子共々少年だったろう。

その後しばらく孔子が何をしていたか記録が無いが、三桓筆頭の季氏に仕えたり国営牧場の管理人をしたりしているから、若い頃の孔子はその出身から見れば、決して身分は低くない。そして洛陽に留学して学問の総仕上げをするについては、国公と孟懿子兄弟の援助を得ている(孔子年表)。

司馬遷 史記
それ以外は、孔子の前半生はほとんど分かっていない。司馬遷が『史記』に孔子の伝記を記す際、史料を収集したほかに、現地の魯国に出向いて古老から話を聞き取ったのはほぼ確実だが、古老がほらを吹く可能性はむしろ高く、史実としてそのまま受け取るわけにもいかない。

しかし孔子の前半生を示す一番確実な史料は、論語と『史記』をおいて他になく、あるとしても『春秋左氏伝』があるのみだが、これには孔子の前半生はほとんど皆無と言っていい。司馬遷はただ聞いたことを記すのではなく、挿話同士に矛盾がないか検討してから記している。

それは同時に、事実が隠され、よくできた作り事が『史記』に載ったおそれを意味するが、現代人が頼れる史料が他にない以上、改めて『史記』などの記録から、孔子の前半生を想像するしかない。つまり史料を一度分解して、読者がつじつまを合わせて再構成するのだ。

それは誰が構成しても同じになるという、科学のような厳密さは持たないが、科学の最たる物理学も、量子論などになると実験が利かず、「こう解釈するとつじつまが合う」の形式で進められる。現に量子論は実験不可能だが、電脳のチップは量子論に基づいて作られた。

その結果こんにちのITがあるわけで、この事実を前にして、やっと量子論は正しかった、と人々が納得している。いや、あらゆる電子機器を前にして、量子論に思いをはせる人の方がごく少数だ。それは趣味として論語や中国史に興味を持つ人も同じだろう。

だから現代語訳に意味があるわけで、論語を原書で読もうとする人はほとんどいない。理の当然で、それなりに訓練が要るからだ。訳者としてはその珍獣の如きいっぴきとして、全くの想像ではない、それなりに記録のつじつまが取れるような訳を、ここで提供したいと思う。

その一つを披露すれば、論語の本章が文字史の上から、後世の創作と決まると、句読を換えて全くの別の解釈が出来ることになる。春秋時代ごろまでは、一人称「吾」は主格と所有格に用い、「我」を所有格と目的格に用いた。しかし後世ではこの区別が無くなるから、次のような句読が出来る。

本文:牢曰子云吾不試故藝
訓読:牢曰く、子吾に云へり、試さざれば故に藝ありと。


訳文:牢が言った。「先生が私に言った、”試練に遭わないから多芸の振りが出来る”と。」

この句読は、論語の本章が創作されたと思しき漢代の漢語として、不自然ではない。「吾」を目的格に用いた例は、例えば戦国最末期の『荀子』に「以迎吾入」とあるし、前漢後期の『説苑』に「是進吾過而黜吾善也」とあり、しかも孔子より一世代は上の趙簡子の言葉として伝えている。

ただしだからといって、訳者はこの解釈が論語の本章の最適解だとは主張しない。通説が出任せ極まる儒者に追随しているだけなのはもとより承知だが、儒者が出任せばかり言っていたと断じるのもまた、独断と偏見が過ぎるからだ。

ただ閲覧者諸賢にご理解頂きたいのは、漢文は宿命として多様な解のありうる言語であり、その解釈を「儒者だから」「中国人だから」「古い解釈だから」と他者に丸投げしてはならないということだ。漢文が読めるとは、権威から自由になることであり、怠惰な追随者の末席に連なることでは決してないと訳者は信じる。

それをふまえ、論語の本章、古注は次の通り。

古注『論語集解義疏』 

牢曰子云吾不試故藝註鄭𤣥曰牢弟子子牢也試用也言孔子自云我不見用故多能伎藝也疏牢曰至故藝 試用也子牢述孔子言緣我不被時用故得多學伎藝也繆協云此葢所以多能之義也言我若見用將崇本息未歸純反素兼愛以忘仁遊藝以去藝豈唯不多能鄙事而已


本文「牢曰子云吾不試故藝」。
注釈。鄭玄「牢とは、弟子の子牢のことである。試とは、採用されることである。その心は、孔子は自分で”私は採用されなかったから、多くの手仕事が出来るようになった”と言った、ということである。」

付け足し。子牢はどうやって手仕事を身につけるかの窮極を言った。試とは用いられることである。子牢は孔子の言葉を述べて、”私は当時用いられなかったから、多くの学問や手仕事を身につけた”と言った。

繆協「これは多分、多芸多才になった理由ではない。”もし用いられていたら、本来為すべき事に注力して下らないことを止め、純粋な仕事に戻って粗雑から離れ、博愛心を起こして仁をも忘れ、技芸に精通してその技芸をも忘れるに至っただろう。どうして単に、下らない芸にばかり多才でいただろうか”と言っているのだ。」

本サイトで引用した古注の文字列は、「中国哲学書電子化計画」から四庫全書本を引用し、中華書局本を参照して校訂しているが、江戸儒の根本武夷が足利本をいじくり、経(本文)-注-疏(注の付け足し)の形式に改めたのはそのままにしてある。

原始論語?…→定州竹簡論語→白虎通義→
             ┌(中国)─唐石経─論語注疏─論語集注─(古注滅ぶ)→
→漢石経─古注─経典釈文─┤ ↓↓↓↓↓↓↓さまざまな影響↓↓↓↓↓↓↓
       ・慶大本  └(日本)─清家本─正平本─文明本─足利本─根本本→
→(中国)─(古注逆輸入)─論語正義─────→(現在)
→(日本)─────────────懐徳堂本→(現在)

従って慶大本など根本本より古い古注は、論語の本章の経のすぐあとに疏が「試用也」と記されている。ところが慶大本では「用試也」となっており、経と合わない。この部分からも、慶大本の文字列は雑であることが分かる。

新注は次の通り。

新注『論語集注』

牢曰:「子云,『吾不試,故藝』。」牢,孔子弟子,姓琴,字子開,一字子張。試,用也。言由不為世用,故得以習於藝而通之。吳氏曰:「弟子記夫子此言之時,子牢因言昔之所聞有如此者。其意相近,故并記之。」


本文「牢曰:子云,『吾不試,故藝』。」
牢とは孔子の弟子で、姓は琴、あざ名は子開、あるいは子張。試とは用いることである。世間に用いられなかったので、技能に精通し習熟したと言っている。

呉棫「弟子が孔子先生のこの言葉を記したとき、子牢もまた、同じ様なことを聞いはずだと思った。先生の言葉と子牢の話の中身が近かったので、だから合わせて書き記した。」

余話

収斂進化

論語の本章「用いられないから多芸になる」が偽作であるのは動かないが、同様の理屈は生物のからくりで理解出来てしまえはする。鳥の羽根はもとは体毛だったと聞くし、タコと人間はともに高度な眼を持ちながら、発祥の器官はそれぞれ違うという。進化の転用の妙である。

論語の前章で余話に記したように、宰相も用いないと勲章に変わるが、すぐさま他の官職が代行するようになる。死んでも主宰権を離さない皇帝でも、自分でない圧倒的多数の中国人からより抜かれた家臣には、政才の優れた者が必ずいるから、政務を代行させるほかないからだ。

臣下ももちろんその呼吸は飲み込んでいる。二・二六事件の叛乱将校が、「天皇陛下御親政」とか言いながら、その実担ぎ挙げて自分らが好き放題する気満々だったように、君主とはたいていアホとみなされ、能力面で圧倒できたのは王朝開祖やそれに準じる者しかいない。

重複をおそれず記せば、中国史上指折りの名君と評される清の康煕帝について、カトリックの宣教師が鍵盤楽器を献上したところ、帝が指一本で「ポン」と音を鳴らすたび、付き添いの宦官どもが「陛下すごいすごい!」と拍手喝采したという。

「こういう環境で人間がまともに育つのは奇跡に近い」と宣教師が書いている。その奇跡的な清の歴代皇帝も、臣下に主宰権を奪われるのを嫌がったから、官制上宰相はおらず、明帝国を引き継ぎ皇帝の学術顧問団である内閣大学士の筆頭者が、事実上の宰相と見なされていた。

だが宰相府としての内閣がすぐに退化させられたのは中華政治史の必然で、もとは臨時兵站総監部だった軍機処が宰相府へと転じたのは、教科書の記す通りである。だがそれもさっさと退化させられ、清末の宰相だった李鴻章は、都知事と外相は兼ねたが軍機大臣ではなかった。

事は東洋に限らない。(悪)名高きドイツ参謀本部も元は兵站総監部だった。それが第一次大戦が始まると、参謀本部が政治をも左右し、宰相は参謀次長の御用聞きに成り下がった。これも進化の妙には違いないが、ドイツ軍部の蛮行を思うと、肯定的な「妙」と言うのをためらう。

ためらうのはドイツばかりではない。本朝も立法府が退化させられている。近代国家の国会の発祥は英国で、その役割は第一に予算の承認だった。だが現代日本国の予算は、行政府の勝手気ままに出動できる特別会計が、収入源や支出先の決まった一般会計の2.5~5倍程度ある。

これは憲政の、つまり憲法と国体の危機に他ならない。それも低い投票率よりもっと重大な危機だ。訳者が左翼を中心とする憲法業者を、外国の回し者と断じて聞く耳を持たないのは、9条ばかり言い募り、この危機に何一つ抵抗しないか、その姿勢を宣伝しないことにある。

戦争と聞けば誰もが怯えて当然だから、9条9条と言い回るとカネになる。だが自分で確定申告できない人が大半であるように、帳簿や経理は誰もが理解出来るとは限らない。つまり憲法業者は国民の味方のふりをしているが、その実与党より国民をバカにしていると言ってよい。

結果立法府の代わりを怪しげな団体が務めているが、政治とはもともとこんなものだ。

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