論語:原文・書き下し
原文(唐開成石経)
子曰主忠信毋友不如己者過則勿憚改
※論語学而篇8後半と重複。
校訂
東洋文庫蔵清家本
子曰主忠信無友不如己者過則勿憚改
慶大蔵論語疏
子曰主忠信无1〔友丶〕2不如巳3者4〔辶内冋〕5則勿憚攺6
- 「無」の異体字。初出「睡虎地秦簡」。
- 「友」の異体字。「魏寇憑墓志」(北魏)刻。
- 「己」の異体字。「乙瑛碑」(後漢)刻。
- 新字体と同じ。原字。
- 「過」の異体字。「北魏故樂安王(元悦)妃馮氏墓誌銘」刻。
- 「改」の異体字。原字。
後漢熹平石経
(なし)
定州竹簡論語
(なし)
※重複する論語学而篇8もなし。
標点文
子曰、「主忠信、無友不如己者。過則勿憚改。」
復元白文(論語時代での表記)
忠 憚
※本章は赤字が論語の時代に存在しない。「信」の用法に疑問がある。論語の本章は、前漢以降の儒者による創作である。
書き下し
子曰く、忠と信を主り、己に如か不る者を友とする無かれ。過ちては則ち改むるに憚る勿れ。
論語:現代日本語訳
逐語訳
先生が言った。「自分と他人を偽らないようにせよ。自分より劣りの者を友にするな。間違えたら改めるのを誤魔化すな。」
意訳
自分も他人もだますな。馬鹿と付き合うな。間違えたらすぐに改め、改めるのを恥ずかしいと思うな。
従来訳
先師がいわれた。――
「忠実に信義を第一義として一切の言動を貫くがいい。安易に自分より知徳の劣った人と交って、いい気になるのは禁物だ。人間だから過失はあるだろうが、大事なのは、その過失を即座に勇敢に改めることだ。」下村湖人『現代訳論語』
現代中国での解釈例
孔子說:「孔子說:「一切要以忠信為本,不要結交不如自己的朋友,有錯誤不要怕改正。」
孔子が言った。「全てはまごころと信頼で行うのを基本とせねばならない。自分より劣りの友人と付き合ってはならない。間違えたら改めるのを恐れてはならない。」
論語:語釈
子曰(シエツ)(し、いわく)
論語の本章では”孔子先生が言った”。「子」は貴族や知識人に対する敬称で、論語では多くの場合孔子を指す。「子」は赤ん坊の象形、「曰」は口から息が出て来るさま。「子」も「曰」も、共に初出は甲骨文。辞書的には論語語釈「子」・論語語釈「曰」を参照。
この二文字を、「し、のたまわく」と読み下す例がある。「言う」→「のたまう」の敬語化だが、漢語の「曰」に敬語の要素は無い。古来、論語業者が世間からお金をむしるためのハッタリで、現在の論語読者が従うべき理由はないだろう。
主(シュ)
(甲骨文)
論語の本章では”まもる”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。字形は位牌の形で、原義は”位牌”。金文の時代では氏名や氏族名に用いられるようになったが、自然界の”ぬし”や、”あるじとする”の語義は戦国初期になるまで確認できない。詳細は論語語釈「主」を参照。
本章では動詞として読むしかないが、”あるじとする”の派生義”まもる”と解した。『大漢和辞典』に語釈があり、出典は三国時代の辞典『広雅』。
忠(チュウ)
「忠」(金文)/「中」(甲骨文)
論語の本章では”忠実”。初出は戦国末期の金文。ほかに戦国時代の竹簡が見られる。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。字形は「中」+「心」で、「中」に”旗印”の語義があり、一説に原義は上級者の命令に従うこと=”忠実”。ただし『墨子』・『孟子』など、戦国時代以降の文献で、”自分を偽らない”と解すべき例が複数あり、それらが後世の改竄なのか、当時の語義なのかは判然としない。「忠」が戦国時代になって現れた理由は、諸侯国の戦争が激烈になり、領民に「忠義」をすり込まないと生き残れなくなったため。詳細は論語語釈「忠」を参照。
信(シン)
(金文)
論語の本章では、”他人を欺かないこと”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は西周末期の金文。字形は「人」+「口」で、原義は”人の言葉”だったと思われる。西周末期までは人名に用い、春秋時代の出土が無い。”信じる”・”信頼(を得る)”など「信用」系統の語義は、戦国の竹簡からで、同音の漢字にも、論語の時代までの「信」にも確認出来ない。詳細は論語語釈「信」を参照。
無(ブ)
(甲骨文)
論語の本章では”するな”。初出は甲骨文。「ム」は呉音。甲骨文の字形は、ほうきのような飾りを両手に持って舞う姿で、「舞」の原字。その飾を「某」と呼び、「某」の語義が”…でない”だったので、「無」は”ない”を意味するようになった。論語の時代までに、”雨乞い”・”ない”の語義が確認されている。戦国時代以降は、”ない”は多く”毋”と書かれた。詳細は論語語釈「無」を参照。
(金文)
唐石経の「毋」の、現行書体の初出は戦国文字で、無と同音。春秋時代以前は「母」と書き分けられておらず、「母」の初出は甲骨文。「毋」と「母」の古代音は、頭のmが共通しているだけで似ても似付かないが、「母」məɡ(上)には、”暗い”の語義が甲骨文からあった。詳細は論語語釈「毋」を参照。
唐石経に先行する慶大蔵論語疏では異体字「无」と記す。詳細は論語語釈「无」を参照。
原始論語?…→定州竹簡論語→白虎通義→ ┌(中国)─唐石経─論語注疏─論語集注─(古注滅ぶ)→ →漢石経─古注─経典釈文─┤ ↓↓↓↓↓↓↓さまざまな影響↓↓↓↓↓↓↓ ・慶大本 └(日本)─清家本─正平本─文明本─足利本─根本本→ →(中国)─(古注逆輸入)─論語正義─────→(現在) →(日本)─────────────懐徳堂本→(現在)
友(ユウ)
(甲骨文)
論語の本章では”友人”。初出は甲骨文。甲骨文の字形は複数人が腕を突き出したさまで、原義はおそらく”共同する”。論語の時代までに、”友人”・”友好”の用例がある。詳細は論語語釈「友」を参照。
慶大蔵論語疏は異体字「〔友丶〕」と記す。「魏寇憑墓志」(北魏)刻。
如(ジョ)
(甲骨文)
論語の本章では”~のようである”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。甲骨文の字形は「女」+「𠙵」”くち”で、”ゆく”の意と解されている。春秋末期までの金文には、「女」で「如」を示した例しか無く、語義も”ゆく”と解されている。詳細は論語語釈「如」を参照。
己(キ)
唐石経・清家本は「己」と記し、慶大本は「巳」と記す。唐代の頃、「巳」「已」「己」は相互に通用し事実上の異体字で、唐石経は「已」を「巳」と記すが、本章の「己」はそのまま「己」と記す。
(甲骨文)
論語の本章では”自分”。初出は甲骨文。「コ」は呉音。字形はものを束ねる縄の象形だが、甲骨文の時代から十干の六番目として用いられた。従って原義は不明。”自分”の意での用例は春秋末期の金文に確認できる。詳細は論語語釈「己」を参照。
(甲骨文)
慶大蔵論語疏は「巳」(シ)と記す。初出は甲骨文。字形はヘビの象形。「ミ」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)。甲骨文から十二支の”み”を意味し、西周・春秋の金文では「已」と混用されて、完了の意、句末の詠嘆の意、”おわる”の意に用いた。「己」とは区別されていたが、後漢後半になると「己」を表すために「巳」を用いる例がなる。詳細は論語語釈「巳」を参照。
後漢の「乙瑛碑」で「巳」と記しているのを確認出来る。
者(シャ)
(金文)
論語の本章では”そういう者”。旧字体は〔耂〕と〔日〕の間に〔丶〕一画を伴う。新字体は「者」。ただし唐石経・清家本ともに新字体と同じく「者」と記す。現存最古の論語本である定州竹簡論語も「者」と釈文(これこれの字であると断定すること)している。初出は殷代末期の金文。金文の字形は「木」”植物”+「水」+「口」で、”この植物に水をやれ”と言うことだろうか。原義は不明。初出では称号に用いている。春秋時代までに「諸」と同様”さまざまな”、”~する者”・”~は”の意に用いた。漢文では人に限らず事物にも用いる。詳細は論語語釈「者」を参照。
慶大蔵論語疏は新字体と同じく「者」と記す。「耂」と「日」の間の「丶」を欠く。「国学大師」によると旧字の出典は後漢の「華山廟碑」、文字史から見れば旧字体の方がむしろ新参の字形。
過(カ)
(金文)
論語の本章では”あやまちをおかす”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は西周早期の金文。字形は「彳」”みち”+「止」”あし”+「冎」”ほね”で、字形の意味や原義は不明。春秋末期までの用例は全て人名や氏族名で、動詞や形容詞の用法は戦国時代以降に確認できる。詳細は論語語釈「過」を参照。
慶大蔵論語疏は異体字「〔辶内冋〕」と記す。「北魏故樂安王(元悦)妃馮氏墓誌銘」刻。
則(ソク)
(甲骨文)
論語の本章では、「A則B」で”AはBである”。初出は甲骨文。字形は「鼎」”三本脚の青銅器”と「人」の組み合わせで、大きな青銅器の銘文に人が恐れ入るさま。原義は”法律”。論語の時代=金文の時代までに、”法”・”則る”・”刻む”の意と、「すなわち」と読む接続詞の用法が見える。詳細は論語語釈「則」を参照。
「すなわち」と訓む一連の漢字については、漢文読解メモ「すなわち」を参照。
勿(ブツ)
(甲骨文)
論語の本章では”~するな”。初出は甲骨文。金文の字形は「三」+「刀」で、もの切り分けるさまと解せるが、その用例を確認できない。甲骨文から”無い”を意味し、西周の金文から”するな”の語義が確認できる。詳細は論語語釈「勿」を参照。
憚(タン)
(金文・篆書)
論語の本章では”いやがり、苦しむこと”。『大漢和辞典』の第一義は”はばかる”。論語では本章と、重出の子罕篇25にしか見られない。初出は戦国末期の金文。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補も無い。字形は單(単)+「心」。「単」の原義は”武器”とも”うちわ”とも言い、諸説あって明瞭でない。詳細は論語語釈「憚」を参照。
改(カイ)
(甲骨文)
論語の本章では”あらためる”。初出は甲骨文。甲骨文の字形は「巳」”へび”+「攴」”叩く”。蛇を叩くさまだが、甲骨文から”改める”の意だと解釈されており、なぜそのような語釈になったのか明らかでない。詳細は論語語釈「改」を参照。
慶大蔵論語疏は異体字「攺」と記し、偏の「己」が「巳」になっている。文字史からはこちらの方が古形に近い。
論語:付記
検証
論語の本章は前漢中期の定州竹簡論語に欠いており、重複する論語学而篇8も定州竹簡論語で欠いている。文字史的にも論語の時代には遡れない。つまり前漢中期までは存在しなかった章とみてよく、早くとも前漢末期までにしか遡れない。
しかも1件を除き、春秋戦国を含めた先秦両漢の誰一人引用していないし、再録していない。「主忠信」に限ると論語顔淵篇10にも見られるが偽作が確定している。例外となる1件は、論語に並ぶ孔子の言行録である『孔子家語』。
孔子之舊曰原壤,其母死,夫子將助之以木槨。子路曰:「由也昔者聞諸夫子,無友不如己者,過則勿憚改。夫子憚矣。姑已,若何?」孔子曰:「凡民有喪,匍匐救之,況故舊乎?非友也,吾其往。」
孔子の幼なじみに原壤という男がいて(論語憲問篇46・偽作)、その母親が亡くなったので、先生は葬儀の手伝いに行き棺をおおう木箱を作ろうとした。
子路が進み出て苦情を言った。「先生は私に以前説教なさいましたね、自分より劣りの者と付き合うな、し損なったらやり方を改めるのをためらうな、と。先生は今ためらってませんか。出掛ける前に、少し頭を冷やしたらどうですか。」
孔子「人と生まれた以上死別は付き物だ。そんな時は匍ってでもお他人様を手助けしてやるべきで、まして幼なじみならなおさらだ。友人であろうがなかろうが、ワシは行くぞ。」(『孔子家語』屈節解4)
『孔子家語』が三国魏の王粛による偽作との冤罪は、論語と同様に定州漢墓竹簡の発掘によって晴れたのだが、これまた論語と同様、全篇がホンモノであるわけがない。従って本章の「無友」以降ですら、前漢中期より前には遡れない。
解説
論語には本章だけでなく複数の重複があるが、江戸儒の伊藤仁斎は「特に大事な教えだから聖人様は重ねてお教えになったのだ」と泣き濡れたような有り難がりようをしている。仁斎センセイは好意的に見てもトーマス・マンの言う「誠実なナチ」で、おつむやその中身を信用してよいとは言えない。有り難がっているのが現代人ならなおさら間抜けだ。
現伝の論語が揃うのは後漢末から南北朝にかけて編まれた古注『論語集解義疏』だが、本章については無記名の、つまり三国魏の何晏が付けたと判断すべき注釈しかなく、重複する論語学而篇8でも、重複部分への注を付けたのは後漢末期の鄭玄しかいない。
つまり後漢末期までは、論語子罕篇の一部としての本章が存在していた証拠はなく、従って元ネタは学而篇8で、後漢が滅んだ頃に重複と重々知りながら、儒者が本章をねじ込んだことになる。
車や飛行機の世界で、ダメになった二機三機から部品をかき集めて、動ける一機をこしらえるのをニコイチ・サンコイチという。自分で整備までするバイク乗りを5年もやれば、そうぜざるを得ない機会は一度はやって来る。本章はその逆で、イチニコのでっち上げと言うべきか。
論語の本章、新古の注は次の通り。
古注『論語集解義疏』
子曰主忠信無友不如己者過則勿憚改註慎其所主所友有過務改皆所以為益者也疏子曰至憚改 此事再出也所以然者范寗云聖人應於物作教一事時或再言弟子重師之訓故又書而存焉
本文「子曰主忠信無友不如己者過則勿憚改」。
注釈。仕える相手、付き合う相手を慎重に選び、間違いがあったら改めるよう努めることは、全て向上する原動力である。
付け足し。先生は改めるのを嫌がる極致を言った。本章は重出である。そうなった理由について范寗が言った。「聖人は相手によって教え方を変えた。同じ話を場合によって繰り返した。弟子は先生の教えを尊んで、だからもう一度書き留めたのだ。」
新注『論語集注』
重出而逸其半。
重出の上半分をのがしている。
余話
オー、フロイデ!
論語の本章の「忠」とは”目上に忠実な”こと、「信」とは”ウソをつかぬ”こと。だが自分に自信の無い人間は、本章と違い「己にしかざる」者しか「友」に出来ない。つまり、見下げる対象しか自分の身近に置きたくなく、平均的造作の女性が同性不細工を連れ歩きたがるのと同列。
そうすると自分が美女に見えるからだ。商品価格は陳列場所で異なるという、アキンドとしての感覚に優れていると申すしかないが、世にも「オタサーの姫」という言葉がある。文系の大学院など不細工男ばかりの集団では、不細工な女性であろうと数が少なければ大モテにモテる。
ウソだと思うならいっぺん入院してみるといい。
見た目の不細工は生まれつきで責められないが、身だしなみがだらしない、不潔であるなどの性癖は、自覚次第でどうにかなるから、当人が責めを負わねばならない。そういう感覚すら生まれ持った遺伝と環境に左右されるのかも知れないが、それでは人として生まれたかいがない。
かいなくたたむみっともなさの一つに自己陶酔があり、例えば訳者はカラオケを歌うのも聞くのも好きでない。人前で歌うなど自己陶酔の粋と言うべきで、いたたまれなくなるからだ。他にもクラシックの演奏会に連れて行かれると、楽器の前でたいていは奏者が不機嫌な顔をしている。
とりわけソリストがそうで、男のくせに陣痛のような苦悶の表情を浮かべていたりもする。そんなにイヤならやめたら良かろうと思うのだが、その例を一つしか聞かない。チェロ奏者のエンリコ・マイナルディは、日本公演の際に客が聞かないで写真ばかり撮るので弾くのをやめたらしい。
これは昭和の日本人の自信のなさを示す話で、別に音楽などどうでもよく、西洋の高名な音楽家の演奏会場に居たことを、写真を見せ他人に自慢したいから押しかけたのだ。だから当時の海外では、「出っ歯、眼鏡、カメラ」を標識にして日本人をバカにした漫画が出回ったりした。
だがこれは多分に、人種差別が当然とされた時代を反映しており、バカにしても怖くないからバカにしたというわけだ。だからといってこういう自己陶酔が、必ずしも軽蔑の対象になるとは限らないと訳者は思っている。それなりに粒が揃った集団では、行為の前に人格が評価を左右する。
訳者の出た高校にいたさる先輩、お父上は地元大の音楽教授、ご当人も声楽など音楽の達者で、放課後は先輩の歌うドイツ語が「オー、フロイデ!」と校内に大音声で聞こえた。訳者など不逞の輩が多かった我が母校では、誰だろうとヘンはヘンだと漫画に貼り出されのが通例のところ。
だが先輩は人柄が善かったから、「オー」が聞こえても生徒一同、「また○○さんが歌ってるよ」と思ったのみ。もちろん、多少の痛々しい憐れみが無かったとは言えないが、それはおかしみの範囲に収まるもので、越えてバカにする者はかえってまわりから痛々しがられた。
音楽も論語を読むのもその意味で同じ。人柄の悪い者は論語など読んでいる場合ではない。
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