論語詳解229子罕篇第九(25)忠信をまもり*

論語子罕篇(25)要約:学而篇の重複。馬鹿とは付き合うな。馬鹿がうつるぞ、と孔子先生。しかし先生の言葉とは思えません。道徳的にではなくて、史実の孔子塾で、差別を煽れば血の雨が降るからです。

このページの凡例

論語:原文・書き下し →項目を読み飛ばす

原文

子曰、「主忠信、毋*友不如己者。過則勿憚改。」

論語学而篇8と重複。

校訂

武内本

唐石経無を毋に作る。


→子曰、「主忠信、無友不如己者。過則勿憚改。」

復元白文

論語 主 金文信 金文 論語 無 金文友 金文 史墻盤論語 不 金文如 金文論語 己 金文論語 者 金文 論語 過 金文論語 則 金文論語 勿 金文論語 改 金文

※本章は赤字が論語の時代に遡れない。論語の本章は、戦国時代以降の儒者による捏造である。

書き下し

いはく、まごころまことまもり、おのれかざるものともとするかれ。あやまちてはすなはあらたむるにはばかなかれ。

論語:現代日本語訳 →項目を読み飛ばす

逐語訳

論語 孔子 切手
先生が言った。「自分と他人を偽らないようにせよ。自分より劣りの者を友にするな。間違えたら改めるのを誤魔化すな。」

意訳

ニセ孔子
自分も他人もだますな。馬鹿と付き合うな。間違えたらすぐに改め、改めるのを恥ずかしいと思うな。

従来訳

論語 下村湖人

先師がいわれた。――
「忠実に信義を第一義として一切の言動を貫くがいい。安易に自分より知徳の劣った人と交って、いい気になるのは禁物だ。人間だから過失はあるだろうが、大事なのは、その過失を即座に勇敢に改めることだ。」

下村湖人『現代訳論語』

現代中国での解釈例

孔子說:「孔子說:「一切要以忠信為本,不要結交不如自己的朋友,有錯誤不要怕改正。」

中国哲学書電子化計画

孔子が言った。「全てはまごころと信頼で行うのを基本とせねばならない。自分より劣りの友人と付き合ってはならない。間違えたら改めるのを恐れてはならない。」

論語:語釈 →項目を読み飛ばす

、「 。」


論語 主 金文 論語 主
(金文)

論語の本章では”まもる”。『大漢和辞典』の第一義は”あるじ”。『学研漢和大字典』による原義は、燃え立つほのお。詳細は論語語釈「主」を参照。

論語 忠 金文 論語 忠
(金文)

論語の本章では”お中の心”。つまり真心で、自分を偽らないこと。初出は戦国時代の金文で、論語の時代に存在しない。『学研漢和大字典』による原義は、中身が充実していること。詳細は論語語釈「忠」を参照。

論語 信 金文 論語 信
(金文)

論語の本章では、人としてのぞましい言葉。”正直”。『学研漢和大字典』による原義は、一度言明したことを押し通すこと。詳細は論語語釈「信」を参照。

論語 如 古文 論語 如 字解
(古文)

論語の本章では”対等であること”。『大漢和辞典』の第一義は”ごとくす”。『字通』による原義は、祝詞を前に神に祈ること。詳細は論語語釈「如」を参照。

勿(ブツ)

論語 勿 金文 論語 勿 解字
(金文)

論語の本章では”~するな”。『大漢和辞典』の第一義は”旗”。『学研漢和大字典』による原義は、さまざまな色の吹き流し。詳細は論語語釈「勿」を参照。

憚(タン)

論語 憚 金文 論語 憚
(金文)

論語の本章では”いやがり、苦しむこと”。『大漢和辞典』の第一義は”はばかる”。『学研漢和大字典』による原義は、薄く平らなはたきを描いた象形文字+心。心がはたきのように震えること。詳細は論語語釈「憚」を参照。

論語:解説・付記

論語学而篇「君子重からざらば」の後半と同文だが、孔子の肉声だとする立場には賛成しかねる。その解釈は上掲従来訳の通り。賛成しかねる理由については、リンク先を参照。

なお従来の論語本章の解釈は、朱子の受け売りである(『論語集注』学而篇)。

友所以輔仁,不如己,則無益而有損。

友は仁を輔くる所以にして、己に如かざらば、則り益無くして損有り。

論語 朱子 新注
友というのは互いに仁を養成する助けとなるべき者だ。自分未満の人間は、益が無く損ばかりだ。

これを不仁というのではないだろうか? 君子に対する小人の区別は、孔子本人にもあることは、論語にたびたび出てくる通りだが、論語学而篇でも述べたように、塾内での差別やいじめを助長するようなことを、孔子本人が言う訳がない。孔子はウチとソトを峻別する人だった。

論語 孔子 論語 樊遅 和み
確かに小人を友とするわけにはいかないだろうが、小人は孔子にとって、同時に愛すべき対象でもあった。孔子は樊遅ハンチに仁を問われて、端的に「人を愛することだ」と答えている(論語顔淵篇22)。役に立たないから付き合わないといった発想は、軍国主義者ならではと思う。

その樊遅が畑仕事で稼ぎたい、と言った際、孔子は樊遅を「小人」と言っているが(論語子路篇4)、これは”タワケめ”と叱り飛ばしたのではなく、樊遅が眼前から去ってから”おバカさんだなぁ”とつぶやいた愛情表現であることが分かる。

また塾内に限らずとも、論語学而篇6で、「ひろく衆を愛しなさい」と教えている。衆とは人々であって、君子小人に関係が無い。役に立つ立たないという判断は、奪ってやろうとする利己主義で、若き孔子がさんざん煮え湯を飲まされた所だったはず。

 論語義疏
なお吉川幸次郎は、皇侃オウガンの『論語義』によると、本章は古論語にはなかったと書いている。下記の通り大ウソである。吉川は漢文が読めず、従って『論語義疏』=古注も読めず、読めないくせに京大教授で学界の権威として君臨した、とんでもないデタラメ男だと判明する。

それでは儒者の感想文。

古注『論語集解義疏』

子曰主忠信無友不如己者過則勿憚改註慎其所主所友有過務改皆所以為益者也疏子曰至憚改 此事再出也所以然者范寗云聖人應於物作教一事時或再言弟子重師之訓故又書而存焉

本文「子曰主忠信無友不如己者過則勿憚改」。
注釈。仕える相手、付き合う相手を慎重に選び、間違いがあったら改めるよう努めることは、全て向上する原動力である。

付け足し。先生は改めるのを嫌がる極致を言った。本章は重出である。そうなった理由について范寗が言った。「聖人は相手によって教え方を変えた。同じ話を場合によって繰り返した。弟子は先生の教えを尊んで、だからもう一度書き留めたのだ。」

新注『論語集注』

重出而逸其半。

重出の上半分をのがしている。

警告

漢文業界の者は嘘つき中国人そっくりで、微塵も信用ならぬ(→理由)ので、数言申し上ぐ。


出典明記の引用は自由だが(ネット上では可動リンク必須)、盗用・剽窃は居合を嗜む有段者の訳者が、櫓櫂の及ぶ限り追い詰める。言い訳無用。訳者が「やった」と思ったら、全国どこでも押し込む。頭にきたら海外にも出かけ、バッサリやってすぐ帰る。訳者は暇であるし、惜しむものを持っていないし、面倒が苦にならぬゆえ、こうして古典を研究している。

刀の手入れは毎日している。そして未だ人を斬ったことが無い。

盗作・剽窃の通報歓迎。下手人を成敗した後、薄謝進呈。他人にやらせた者も同罪、まずそ奴から追い回してぶっ○○る。もし長生きしたいなら、悪いことはせぬものだ。それでもやるなら、覚悟致せ。

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コメント

  1. […] 吉川が漢文を読めなかった決定的証拠がある。論語子罕篇25について、吉川は「古注によると本章は古論語には無かった」と書いているが、日中の版本を確認しても、どこにもそのようなことは書いていない。自分で読まず(読めず)誰かに訳させたか、又聞きでデタラメを書いているのである。 […]