論語:原文・書き下し
原文(唐開成石経)
齊景公問政於孔子孔子對曰君君臣臣父父子子公曰善哉信如君不君臣不臣父不父子不子雖有粟吾得而食諸
校訂
東洋文庫蔵清家本
齊景公問政於孔子孔子對曰君〻臣〻父〻子〻/公曰善哉信如君不君臣不臣父不父子不子雖有粟吾豈得而食諸
後漢熹平石経
(なし)
定州竹簡論語
(なし)
標点文
齊景公問政於孔子。孔子對曰、「君君、臣臣、父父、子子。」公曰、「善哉。信如君不君、臣不臣、父不父、子不子、雖有粟、吾豈得而食諸。」
復元白文(論語時代での表記)
豈
※景→競・粟→米(甲骨文)。論語の本章は、「豈」が論語の時代に存在しない。ただし無くとも文意が変わらない。「問」「子」「信」「如」の用法に疑問がある。
書き下し
齊の景公政を孔子に問ふ。孔子對へて曰く、君君たれ、臣臣たれ、父父たれ、子子たれ。公曰く、善き哉。信に如し君君たら不、臣臣たら不、父父たら不、子子たら不んば、粟有りと雖も、吾豈得而諸を食はむや。
論語:現代日本語訳
逐語訳
斉の景公が政治を孔子に問うた。孔子が答えて言った。「君は君らしく、臣は臣らしく、父は父らしく、子は子らしくなさるよう。」景公が言った。「よろしい。まことに、君が君らしくなく、臣が臣らしくなく、父が父らしくなく、子が子らしくなければ、私に穀物があると言っても、どうしてそれを取って食べるだろうか。」
意訳
景公「政治とは何じゃな。」
若き日の孔子「君臣父子、各自が自分の身分からはみ出なさないよう、ギリギリ法律で縛り上げることです。」
景公「ほほほ、その通りじゃのう。それが出来ねばわしは、国君の身にありながら、飯もおちおち食えぬわいのう。じゃあの。」
従来訳
斉の景公が先師に政治について問われた。先師はこたえていわれた。――
「君は君として、臣は臣として、父は父として、子は子として、それぞれの道をつくす、それだけのことでございます。」
景公いわれた。――
「善い言葉だ。なるほど君が君らしくなく、臣が臣らしくなく、父が父らしくなく、子が子らしくないとすれば、財政がどんなにゆたかであっても、自分は安んじて食うことは出来ないだろう。」下村湖人『現代訳論語』
現代中国での解釈例
齊景公問政。孔子說:「君象君、臣象臣、父象父、子象子。」齊景公說:「說得好極了!如果君不象君、臣不象臣、父不象父、子不象子,即使糧食再多,我能吃到嗎?」
斉の景公が政治を問うた。孔子が言った。「君主は君主らしく、臣下は臣下らしく、父は父らしく、子は子らしい(のが肝要です)。」斉の景公が言った。「よくぞ言った。もし君主は君主らしく、臣下は臣下らしく、父は父らしく、子は子らしくなかったら、もし食料が大量にあっても、私は食べられるだろうか?」
論語:語釈
齊(セイ)
(甲骨文)
論語の本章では「斉国」。字の初出は甲骨文。新字体は「斉」。「シ」は”ころものすそ”の意での漢音・呉音。それ以外の意味での漢音は「セイ」、呉音は「ザイ」。「サイ」は慣用音。甲骨文の字形には、◇が横一線にならぶものがある。字形の由来は不明だが、一説に穀粒の姿とする。甲骨文では地名に用いられ、金文では加えて人名・国名に用いられた。詳細は論語語釈「斉」を参照。
景*公(ケイコウ)
論語では孔子とも縁の深かった、東方の大国・斉の君主。?-BC490。BC547、孔子5歳の年に即位し、BC490、孔子62歳の年に在位のまま没した。名君とは言いがたいものの、賢臣である晏嬰の助けを得て大過なく斉を治めた。
BC522、孔子30歳の年、魯を訪問して孔子に政治を問うている(論語顔淵篇11)。BC517、孔子35歳の年、斉国に亡命した孔子を受け入れ、領地まで指定して召し抱えようとしたが、晏嬰の反対にあって取りやめた(『史記』孔子世家)。
BC500、孔子52歳の年、晏嬰が世を去る。その後孔子が魯国の政権を握ったとき、魯の強大化を恐れて女楽団を送り、孔子失脚の遠因を作ったと『史記』は言う(BC497、孔子55歳)。
(前漢隷書)
「景」の初出は前漢の隷書。ただし春秋末期に「競」を「景」と釈文する例がある。字形は「日」”太陽”+「京」”たかどの”。高々と明るい太陽のさま。同音は「京」のみ。「ひかり」の意では漢音は「ケイ」、呉音は「キョウ」。「かげ」の意では漢音は「エイ」、呉音は「ヨウ」。戦国までは「競」で「景」を表した。春秋末期の金文に人名としての「競」の例があり、戦国の竹簡では「齊競公」と記している。詳細は論語語釈「景」を参照。
つまり論語や孔子に縁の深い斉の景公は、死去の直後は「競公」とおくり名されて呼ばれていたことになる。「競」は甲骨文より人名にも用いるが、春秋末期までの用例では現代漢語と同じく”競う”の意。景公ならぬ競公は、じわじわと国を乗っ取ろうとする田氏(=陳氏)に”張り合った殿さま”というおくり名を付けられたことになる。
同時代の衛の君主は、賢臣と勇将を抱え(論語憲問篇20)、民にも慕われていたし、じわじわと圧迫を加えてくる大国晋によく抵抗したやり手の殿さまだったが(『春秋左氏伝』定公八年)、「霊公」”国を滅ぼすようなバカ殿”とおいうおくり名を付けられたことに現在ではなっている。春秋戦国のおくり名が、果たして現伝のそのままだったという保証はどこにも無い。
「公」(甲骨文)
「公」の初出は甲骨文。字形は〔八〕”ひげ”+「口」で、口髭を生やした先祖の男性。甲骨文では”先祖の君主”の意に、金文では原義、貴族への敬称、古人への敬称、父や夫への敬称に用いられ、戦国の竹簡では男性への敬称、諸侯への呼称に用いられた。詳細は論語語釈「公」を参照。
問(ブン)
(甲骨文)
論語の本章では”質問する”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。「モン」は呉音。字形は「門」+「口」。甲骨文での語義は不明。西周から春秋に用例が無く、一旦滅んだ漢語である可能性がある。戦国の金文では人名に用いられ、”問う”の語義は戦国最末期の竹簡から。それ以前の戦国時代、「昏」または「𦖞」で”問う”を記した。詳細は論語語釈「問」を参照。
政(セイ)(まつりごと)
(甲骨文)
論語の本章では”政治(の要点)”。初出は甲骨文。ただし字形は「足」+「丨」”筋道”+「又」”手”。人の行き来する道を制限するさま。現行字体の初出は西周早期の金文で、目標を定めいきさつを記すさま。原義は”兵站の管理”。論語の時代までに、”征伐”、”政治”の語義が確認できる。詳細は論語語釈「政」を参照。
論語の本章は『定州竹簡論語』に欠いているが、そこでは通常「正」と書く。すでにあった「政」の字を避けた理由は、おそらく秦帝国時代に、始皇帝のいみ名「政」を避けた名残。加えて”政治は正しくあるべきだ”という儒者の偽善も加わっているだろう。詳細は論語語釈「正」を参照。
仮に論語の本章が史実とするなら、この時孔子はまだ30歳の若造であり、下級役人か仕官前の庶民で、景公との身分差は歴然としていた。年齢も景公の方が一世代は上。その孔子に、景公が具体的な政治の方策を問うたとは思えず、漠然と「政治とは何か」を問うてやった、に違いない。
一説によるとこの時景公は魯国を訪問中だったが、かたや孔子は無位無冠、景公と対談できることがすでに奇跡に近い幸運。想像するに、孔子を保護下に置いていた門閥家老家の孟孫氏の当主・孟僖子が、宴席の雑談で”見どころのある若者がいます”と言って、景公に紹介したのではないか。
飛行機は離陸時に最もエンジンを吹かす。孔子の離陸には、既存の門閥の支援があったと考えたい。
於(ヨ)
(金文)
論語の本章では”~に”。初出は西周早期の金文。ただし字体は「烏」。「ヨ」は”~において”の漢音(遣隋使・遣唐使が聞き帰った音)、呉音は「オ」。「オ」は”ああ”の漢音、呉音は「ウ」。現行字体の初出は春秋中期の金文。西周時代では”ああ”という感嘆詞、または”~において”の意に用いた。詳細は論語語釈「於」を参照。
孔子(コウシ)
論語の本章では”孔子”。いみ名(本名)は「孔丘」、あざ名は「仲尼」とされるが、「尼」の字は孔子存命前に存在しなかった。BC551-BC479。詳細は孔子の生涯1を参照。
論語で「孔子」と記される場合、対話者が目上の国公や家老である場合が多い。本章もおそらくその一つ。詳細は論語先進篇11語釈を参照。
(金文)
「孔」の初出は西周早期の金文。字形は「子」+「乚」で、赤子の頭頂のさま。原義は未詳。春秋末期までに、”大いなる””はなはだ”の意に用いた。詳細は論語語釈「孔」を参照。
「子」(甲骨文)
「子」は貴族や知識人に対する敬称。初出は甲骨文。字形は赤ん坊の象形で、古くは殷王族を意味した。春秋時代では、貴族や知識人への敬称に用いた。孔子のように学派の開祖や、大貴族は、「○子」と呼び、学派の弟子や、一般貴族は、「子○」と呼んだ。詳細は論語語釈「子」を参照。
對(タイ)
(甲骨文)
論語の本章では”回答する”。初出は甲骨文。新字体は「対」。「ツイ」は唐音。字形は「丵」”草むら”+「又」”手”で、草むらに手を入れて開墾するさま。原義は”開墾”。甲骨文では、祭礼の名と地名に用いられ、金文では加えて、音を借りた仮借として”対応する”・”応答する”の語義が出来た。詳細は論語語釈「対」を参照。
曰(エツ)
(甲骨文)
論語で最も多用される、”言う”を意味する言葉。初出は甲骨文。原義は「𠙵」=「口」から声が出て来るさま。詳細は論語語釈「曰」を参照。
君君(クンクン)(きみはきみたれ)
(甲骨文)
論語の本章では”君主は君主らしくしろ”。「君」の初出は甲骨文。甲骨文の字形は「丨」”通路”+「又」”手”+「口」で、人間の言うことを天界と取り持つ聖職者。春秋末期までに、官職名・称号・人名に用い、また”君臨する”の語義を獲得した。詳細は論語語釈「君」を参照。
臣臣(シンシン)(おみはおみたれ)
(甲骨文)
論語の本章では”家臣は家臣らしくしろ”。「臣」の初出は甲骨文。「ジン」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)。甲骨文の字形には、瞳の中の一画を欠くもの、向きが左右反対や下向きのものがある。字形は頭を下げた人のまなこで、原義は”奴隷”。甲骨文では原義のほか”家臣”の意に、金文では加えて氏族名や人名に用いた。詳細は論語語釈「臣」を参照。
父父(フフ)(ちちはちちたれ)
(甲骨文)
論語の本章では「父親は父親らしくしろ」。「父」の初出は甲骨文。手に石斧を持った姿で、それが父親を意味するというのは直感的に納得できる。金文の時代までは父のほか父の兄弟も意味し得たが、戦国時代の竹簡になると、父親専用の呼称となった。詳細は論語語釈「父」を参照。
子子(シシ)(こはこたれ)
論語の本章では”子供は子供らしくしろ”。上掲「子」の語釈通り、「子」の原義は”王子”であり、春秋時代の「子」は”こども”ではなく”貴族”で、「子子」を「こはこたれ」と解するのは春秋時代の漢語として無理がある。
善(セン)
(金文)
論語の本章では”よろしい”。みごとである、と解してもよい。「善」はもとは道徳的な善ではなく、機能的な高品質を言う。「ゼン」は呉音。字形は「譱」で、「羊」+「言」二つ。周の一族は羊飼いだったとされ、羊はよいもののたとえに用いられた。「善」は「よい」「よい」と神々や人々が褒め讃えるさま。原義は”よい”。金文では原義で用いられたほか、「膳」に通じて”料理番”の意に用いられた。戦国の竹簡では原義のほか、”善事”・”よろこび好む”・”長じる”の意に用いられた。詳細は論語語釈「善」を参照。
哉(サイ)
(金文)
論語の本章では”~なことよ”。詠嘆の意。初出は西周末期の金文。ただし字形は「𠙵」”くち”を欠く「𢦏」で、「戈」”カマ状のほこ”+「十」”傷”。”きずつく”・”そこなう”の語釈が『大漢和辞典』にある。現行字体の初出は春秋末期の金文。「𠙵」が加わったことから、おそらく音を借りた仮借として語気を示すのに用いられた。金文では詠歎に、また”給与”の意に用いられた。戦国の竹簡では、”始まる”の意に用いられた。詳細は論語語釈「哉」を参照。
信(シン)
(金文)
論語の本章では、”まことに”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は西周末期の金文。字形は「人」+「口」で、原義は”人の言葉”だったと思われる。西周末期までは人名に用い、春秋時代の出土が無い。”信じる”・”信頼(を得る)”など「信用」系統の語義は、戦国の竹簡からで、同音の漢字にも、論語の時代までの「信」にも確認出来ない。詳細は論語語釈「信」を参照。
如(ジョ)
「如」(甲骨文)
「如」は論語の本章では”…のような(もの)”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。字形は「口」+「女」。甲骨文の字形には、上下や左右に部品の配置が異なるものもあって一定しない。原義は”ゆく”。「ニョ」は呉音。詳細は論語語釈「如」を参照。
不(フウ)
(甲骨文)
漢文で最も多用される否定辞。初出は甲骨文。「フ」は呉音、「ブ」は慣用音。原義は花のがく。否定辞に用いるのは音を借りた派生義だが、甲骨文から否定辞”…ない”の意に用いた。詳細は論語語釈「不」を参照。
雖(スイ)
(金文)
論語の本章では”ではあるが、それでも”。初出は春秋中期の金文。字形は「虫」”爬虫類”+「隹」”とり”で、原義は不明。春秋時代までの金文では、「唯」「惟」と同様に使われ、「これ」と読んで語調を強調する働きをする。また「いえども」と読んで”たとえ…でも”の意を表す。詳細は論語語釈「雖」を参照。
有(ユウ)
(甲骨文)
論語の本章では”所有する”。初出は甲骨文。ただし字形は「月」を欠く「㞢」または「又」。字形はいずれも”手”の象形。金文以降、「月」”にく”を手に取った形に描かれた。原義は”手にする”。原義は腕で”抱える”さま。甲骨文から”ある”・”手に入れる”の語義を、春秋末期までの金文に”存在する”・”所有する”の語義を確認できる。詳細は論語語釈「有」を参照。
粟(ショク)
(燕系戦国文字)
論語の本章では”穀物”または”アワ”。初出は燕系戦国文字。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補は部品の「米」。「ゾク」は慣用音、「ソク」は呉音。同音は存在しない。字形は「果」+「米」で、イネ科の穀物が実ったさま。原義は”穀物”。「粟」にも「米」にも、ともに”麦以外の穀物一般”の意がある。詳細は論語語釈「粟」を参照。
吾(ゴ)
(甲骨文)
論語の本章では”わたし”。初出は甲骨文。字形は「五」+「口」で、原義は『学研漢和大字典』によると「語の原字」というがはっきりしない。一人称代名詞に使うのは音を借りた仮借だとされる。詳細は論語語釈「吾」を参照。
春秋時代までは中国語にも格変化があり、一人称では「吾」を主格と所有格に用い、「我」を所有格と目的格に用いた。しかし論語でその文法が崩れ、「我」と「吾」が区別されなくなっている章があるのは、後世の創作が多数含まれているため。
豈(キ)
(秦系戦国文字)
論語の本章では”どうして…だろうか”。反語の意。
『学研漢和大字典』「豈」条
「あに~(な)らんや」とよみ、「どうして~であろうか(まさかそんなことはあるまい)」と訳す。強い肯定となる反語の意を示す。
藤堂先生もここは説明をお間違いになられたと申すべきで、強い「肯定」ではなく「否定」となる反語の意を示す。
吾豈得而諸を食はむや。
私はどうして穀物が手元にあっても食べ(られ)るだろうか、いや食べ(られ)はしない
この字は唐石経を祖本とする現伝論語では記さないが、それ以前に日本に伝来した古注系論語では記しており、隋代以前は記されていたと判定できる。
原始論語?…→定州竹簡論語→白虎通義→ ┌(中国)─唐石経─論語注疏─論語集注─(古注滅ぶ)→ →漢石経─古注─経典釈文─┤ ↓↓↓↓↓↓↓さまざまな影響↓↓↓↓↓↓↓ ・慶大本 └(日本)─清家本─正平本─文明本─足利本─根本本→ →(中国)─(古注逆輸入)─論語正義─────→(現在) →(日本)─────────────懐徳堂本→(現在)
字の初出は戦国最末期の「睡虎地秦簡」。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。字形はおそらく「豆」”たかつき”+”蓋”+”手”。原義は不明。「漢語多功能字庫」によると「鼓」の初文「壴」”太鼓”と同形というが、上古音がまるで違う。『説文解字』は「凱歌」の「凱」の初文と言うが、「豈」は初出から”どうして…であろう”の意で用いられており、後漢儒の空耳アワーに過ぎない。近音同訓に「幾」があるが、春秋末期までに”どうして…だろうか”の用例が確認できない。詳細は論語語釈「豈」を参照。
得(トク)
(甲骨文)
論語の本章では”手に入れる”。初出は甲骨文。甲骨文に、すでに「彳」”みち”が加わった字形がある。字形は「貝」”タカラガイ”+「又」”手”で、原義は宝物を得ること。詳細は論語語釈「得」を参照。
而(ジ)
(甲骨文)
論語の本章では”そして”。初出は甲骨文。原義は”あごひげ”とされるが用例が確認できない。甲骨文から”~と”を意味し、金文になると、二人称や”そして”の意に用いた。英語のandに当たるが、「A而B」は、AとBが分かちがたく一体となっている事を意味し、単なる時間の前後や類似を意味しない。詳細は論語語釈「而」を参照。
食(ショク)
(甲骨文)
論語の本章では”たべる”。初出は甲骨文。甲骨文の字形は「亼」+点二つ”ほかほか”+「豆」”たかつき”で、食器に盛った炊きたてのめし。甲骨文・金文には”ほかほか”を欠くものがある。「亼」は穀物をあつめたさまとも、開いた口とも、食器の蓋とも解せる。原義は”たべもの”・”たべる”。詳細は論語語釈「食」を参照。
諸(ショ)
(秦系戦国文字)
論語の本章では”これら”。大量のアワ、または数種類の穀物それぞれを指す。論語の時代では、まだ「者」と「諸」は分化していない。「者」の初出は西周末期の金文。現行字体の初出は秦系戦国文字。金文の字形は「者」だけで”さまざまな”の意がある。詳細は論語語釈「諸」を参照。
論語の本章では、「吾食諸」ではなく「得而(得て)」が入っている。論語では「得+名詞の類」、つまり後ろに目的語を持つ動詞「得」のほかに助動詞として「得+動詞の類」も見られる。
だが後者の用法では、修飾する動詞との間に「而」を入れる例の方が多い。
漢語には時代によって文法に何らかの変化があったか、平叙文と否定文で一定の規則があったことを想像できる。
論語:付記
検証
論語の本章は、全く同じ話が『史記』孔子世家に載っている。つまり論語の本章は、前漢武帝期にはすでに成立していたことになる。それが定州竹簡論語に無いのは、墓泥棒が焼いてしまったか、考古学研究所に暴れ込んだ紅衛兵が粉みじんに壊してしまったか、のいずれかになる。
ただ物証として、「君君臣臣」の言葉が見られるのは戦国時代の竹簡からになり、場合によっては論語の本章は、戦国時代の偽作の可能性がある。
□(仁)者,子惪(德)也。古(故)夫夫,婦婦,父父,子子,君君,臣臣,六者客(各)
…仁は貴族のわきまえるべき道徳である。だから夫は夫らしく、妻は妻らしく、父は父らしく、子は子らしく、主君は主君らしく、臣下は臣下らしく、それぞれの…(戦国中末期「郭店楚簡」六德23。同35にも「夫夫」~「六者客」が見られる)
文字史的には「豈」が論語の時代に存在しないが、唐石経系統の現伝論語がこの字を欠くように、無くとも文意はほぼ変わらない。また内容的には「おのおのが自分の身分や立場の範囲内で行動するなら、政治はうまく回る」という、のちに司法官僚として上級貴族入りする若き日の孔子にふさわしい発言で、史実と考えて差し支えない。
解説
だがもちろん、人は誰もが、自分にはめられたタガを外そうとやっきになる生き物だから、これで政治が回ると考えるのは、現実を知らない思い上がった法律家にありがちな夢想で、それだけに論語の本章は、地方行政や宰相職で苦労する以前の、孔子若年時の話と考えるのがふさわしい。
世間や政治の、酸いも甘いも噛み分けた後に言った論語為政篇1の発言と比較すれば、本章の孔子がまだワカゾーだったことがはっきりする。
政治のかなめは利益分配だ。かねのキンキラキンを見たら、誰だって同じ表情になるだろ?
孔子は父が誰とも分からない、流浪の拝み屋の私生児に生まれたが(孔子の生涯1)、その学才を魯国門閥三家老家(三桓)の一つ、孟孫家の当主だった孟僖子(『史記』では孟釐子)に認められ、跡継ぎの孟懿子とその弟である南宮敬叔の家庭教師に雇われた、と『史記』孔子世家は記す。
孟孫家は魯国の大司空を家職としており、大司空は春秋時代までは「大司工」または「大司攻」(「攻」は工具を手に取った姿)と記され、国家的土木建設事業の最高官だった。その常備動員力は囚人であり、言わば副業として司法をも管掌した。孔子は孟孫家とのゆかりで、のちに大司冦(最高裁判事とも、検事総長とも訳しうる)となって魯国の中央政界に加わった。
それ以前、初めての高等官職と言える中都というまちの宰(知事)に就いた際、始めたのは「男女が共に道を歩いてはいかん」という規則の押しつけと、商人がはかりを誤魔化さないよう、おまわりとチクリ屋をバラ撒く監視だった。まことに思い上がった司法官らしい行政で、これが庶民から徹底的に嫌われる原因になった。その結果、孔子は魯国から亡命せざるを得なくなった。
更にそれ以前、孔子は下級の「司空」を務めたことが『史記』孔子世家に記されており、その頃起きた魯国公昭公の「殿ご乱心」に付き合う形で、昭公の斉国逃亡に同行している。論語の本章の対話は、『史記』孔子世家ではその時、BC517、孔子35歳で斉に一時逃亡していたときの話とする。
その時景公は即位して30年で、年齢も40は過ぎていただろう。孔子と違って政治の難しさ、人間がいかに言うこと聞かん生き物かをよく知っていたはずで、論語の本章の説教を、「そうだねそうだね」と生暖かい目で聞いてやったに相違なく、だからこそ孔子を家臣に雇わなかった。
春秋の貴族はファンタジーものに出てくる同業とは違って、家臣や領民にそっぽを向けられると、まず地位から引きずり下ろされるし、少なからず天寿を全うできない。斉国公も同様で、その四割は自然死できず無残な最期を遂げている(論語雍也篇24余話「畳の上で死ねない斉公」)。
なお論語の本章は、一説には『史記』斉世家にある、「〔景公〕二十六年(BC522)、(景公が)魯の近郊で狩りをし、ついでに魯に入り、晏嬰と共に魯の礼法を学んだ」時という(孔子30歳)。となると孔子はまだなりたての判事であり、得意がって司法国家論を振り回すにふさわしい。
当時斉国は陳国出身の権臣・陳氏(=田氏)に乗っ取られかけており、それを国公の景公も宰相の晏嬰も知りながら、どうすることも出来なかった。上掲語釈の通り、景公はその実当時は「競公」とおくり名され、そのこころは”田氏と張り合った殿さま”だった。
太公望の血統を引く姜氏斉公室は、景公の没後104年に滅ぶのだが、さらにその14年後に生まれた孟子は、景公を「景公」と記している。おそらくは田氏斉公室の都合により書き換えられたのだが、あるいはそれに孟子が手を貸しているかも知れない。
その景公時代の斉国の様子を、『春秋左氏伝』は以下のように伝える。
(孔子滞在中のBC516、)景公と晏嬰が国公宮の正殿で対座していた。景公がため息混じりに言った。
「あーあ。立派な宮殿じゃが、いったい誰の手に渡ってしまうのじゃろうか。」
晏嬰「お気を確かに。何を仰りたいのですか。」
景公「多分徳(=物理的力)のある奴が持って行ってしまうんじゃろうなー。」
晏嬰「はぐらかさないで下さい。陳氏(=田氏)のことでしょう。陳氏にものすごい徳があるわけではありませんが、着々と民に恩を売っています。我が斉の枡目は、豆(4升)・区(4豆)・釜(4区)・鐘(10釜)の順と決まっています。ところが行政を牛耳る陳氏は、納税の際には底上げした枡で取り、配給の際にはふちを足した枡で配っています。つまり税収でバラマキをやっているのですが、足りないからと言って殿は、改めて重く取り立ているではありませんか。そんな恨みの中で陳氏が厚くばらまけば、民の信望が陳氏に集まるのは当たり前です。詩に言うではありませんか。
何もお返しできませんが、
せめて歌を歌って舞いましょう。(小雅・車舝)
陳氏がバラマキをするたびに、民は歌い舞い踊っておりますぞ。殿のご子孫が政治を少しでも怠り、その時陳氏がまだ滅んでなければ、斉国は陳氏の国になるでしょうな。」
景公「言う通りじゃなあ。じゃが何とかワシの子孫が生き残る道は無いか。」
晏嬰「ただ礼の定めだけが、この動きを押しとどめられます。礼の定めが生きている間は、勝手に施しをしようと、国とは関係がありません。農民は夜明けから耕作にいそしみ、職人は手職を変えようとはせず、商人も商売替えしようとせず。役人は無茶な行政をせず、家老が殿より威張り返ることも無く、おおやけの税収を勝手に使うことは出来ません。」
景公「その通りじゃな。じゃが、ワシは今まで礼をないがしろにしてきた。今になってやっと、礼で国が治まると知ったぞ。」
晏嬰「礼で国が治まるのは、天地の始めからの道理です。俸禄を払う君主が命じ、貰う臣下が従う。父が可愛がり、子が孝行する。兄が愛し、弟が敬う。夫が気を遣い、妻が従う。姑が可愛がり、嫁が従う。お互い様の当たり前の関係が、礼なのです。だから殿が公約を反故にしなければ、役人は従いウソをつきません。見習って世の父親も子を可愛がって仕事を教え、子は孝行して行いに気を付けます。兄が弟を愛して助けになってやれば、弟は敬って従います。夫が妻に気を遣い言っている事に無理が無ければ、妻は穏やかになって言動を正しくします。姑が嫁を可愛がって言うことを聞けば、嫁も姑の願いを聞きいれて穏やかになります。これが礼の持つ、よき効果です。」
景公「その通りじゃな。今やっと、ワシは礼に使い道があるのを聞いた。」
晏嬰「これはいにしえの聖王が天から受けた教えです。それに従って民を治めたのです。だから礼を、最も尊いものとして従ったのです。」(『春秋左氏伝』昭公二十六年)
これはものすごくうさん臭いのではなかろうか。「おのおのが分を守れば政治が回る」と言った孔子の説教を、引き延ばして長話に仕立てたに過ぎない。ワカゾー孔子を生暖かい目で見て雇わなかった景公と、「夫儒者滑稽而不可軌法」”あんなチンドン屋ども、役に立ちませんぞ”(『史記』孔子世家)と景公に向かって儒者を評した晏嬰が、孔子の弟子のようなことを語り合うわけが無い。
春秋時代を知る史料として、『春秋左氏伝』は欠かせないのだが、論語の多くの章が偽作であるように、『左伝』にも文字史的に怪しい記述はかなりある。それでも頼らざるを得ないのが現在の春秋時代研究なのだが、つけるべき時には眉につばをつけて読まねばならない。
ただ上掲の引用につけ加えるなら、孔子の生前「礼」とは”貴族の常識”を指し、礼儀作法に限定されなかった。その意味では引用の「礼」は春秋時代の漢語としてふさわしい。「礼」を”礼儀作法”に限定させたのは孔子没後一世紀に生まれた孟子で、さらに法令のようなものとして取り扱ったのは、やはりさらに60年時代が下る荀子からになる。詳細は論語における「礼」を参照。
論語の本章、新古の注は次の通り。
古注『論語集解義疏』
齊景公問政於孔子孔子對曰君君臣臣父父子子註孔安國曰當此時陳恒制齊君不君臣不臣父不父子不子故以此對也公曰善哉信如君不君臣不臣父不父子不子雖有粟吾豈得而食諸註孔安國曰言將危也陳氏果滅齊也
本文「齊景公問政於孔子孔子對曰君君臣臣父父子子」。
注釈。孔安国「この時まさに、斉国公は陳氏の当主・陳恒の言うがままにされており、君臣・父子関係が乱れていた。だからこのように答えたのである。」
本文「公曰善哉信如君不君臣不臣父不父子不子雖有粟吾豈得而食諸」。
注釈。孔安国「景公は、本当に危機にあると言った。果たして陳氏は斉を滅ぼした。」
古注『論語集解義疏』
齊景公問政於孔子。齊景公,名杵臼。魯昭公末年,孔子適齊。孔子對曰:「君君,臣臣,父父,子子。」此人道之大經,政事之根本也。是時景公失政,而大夫陳氏厚施於國。景公又多內嬖,而不立太子。其君臣父子之間,皆失其道,故夫子告之以此。公曰:「善哉!信如君不君,臣不臣,父不父,子不子,雖有粟,吾得而食諸?」景公善孔子之言而不能用,其後果以繼嗣不定,啟陳氏弒君篡國之禍。楊氏曰:「君之所以君,臣之所以臣,父之所以父,子之所以子,是必有道矣。景公知善夫子之言,而不知反求其所以然,蓋悅而不繹者。齊之所以卒於亂也。」
本文「齊景公問政於孔子。」
斉の景公は、いみ名を杵臼という。魯の昭公の末年、孔子は斉に行った。
本文「孔子對曰:君君,臣臣,父父,子子。」
これは人の道の中心であり、政治の根本である。この時景公は悪政を行い、家老の陳氏が斉国人にバラマキをやって人気を集めていた。また景公は気分次第で公子たちの待遇を変えたため、跡継ぎを決めていなかった。つまり君臣と父子の関係が、どちらも無軌道になっていた。だから孔子はこのように説教したのである。
本文「公曰:善哉!信如君不君,臣不臣,父不父,子不子,雖有粟,吾得而食諸?」
景公は孔子の説教を誉めながらも従うことが出来ず、景公の跡継ぎはとうとう決まらないまま、陳氏が主君を殺して斉国を乗っ取るのを助ける結果になった。
楊時「主君、家臣、父、子がそれらしくいられるのは、全て道徳に従うからだ。景公は孔子先生の説教を誉めはしたが、一体自分が何をすべきだと言われているかが分からず、上っ面は喜ぶ振りをしながら、実のところ耳に痛くてイヤだったのだろう。斉国が反乱で滅んだ理由はこれである。」
余話
(思案中I)
コメント