論語詳解213子罕篇第九(9)鳳鳥至らず°

論語子罕篇(9)要約:後世の創作。鳳凰ホウオウは、天下太平になると飛んでくるおめでたい鳥。龍馬は同じくおめでたい獣。しかし待てど暮らせど鳳凰は飛んできませんし、龍馬も出ません。ニセ孔子先生はぼそりと「しくじったかな」。

このページの凡例

論語:原文・書き下し →項目を読み飛ばす

原文

子曰、「鳳鳥不至、河不出圖、吾已矣夫。」

校訂

定州竹簡論語

……「[鳳鳥不至,河不□□,吾已矣夫]!」221


→子曰、「鳳鳥不至、河不出圖、吾已矣夫。」

復元白文(論語時代での表記)

子 金文曰 金文 鳳 金文鳥 金文不 金文至 金文 河 金文不 金文出 金文図 金文 吾 金文已 矣 金文矣 金文夫 金文

※論語の本章は、「鳳」の用法に疑問がある。春秋時代に存在しない熟語を用いている。「世が治まるとめでたい鳳凰が飛んでくる」「黄河が図を出して人に啓示を与えた」という伝説は、論語の時代に確認できない。本章は前漢儒による創作である。

書き下し

いはく、鳳鳥おほとりいたらず、しるしいださず、われぬるかな

論語:現代日本語訳 →項目を読み飛ばす

逐語訳

孔子別像
先生が言った。「鳳凰ホウオウが飛んでこない。黄河は図を出さない。私は終わったな。」

意訳

いまやっと工作が実って、呉王が覇者になろうとしているのだが…。

孔子 人形
おかしいな。天が祝って、めでたい鳳凰が飛んできたり、黄河からありがたい龍馬が上がってきて、宇宙の真理を示した図を世に送り出してもいいはずなのだが…しくじったかな。

従来訳

下村湖人

先師がいわれた。――
「鳳鳥も飛んで来なくなった。河からは図も出なくなった。これでは私も生きている力がない。」

下村湖人先生『現代訳論語』

現代中国での解釈例

孔子說:「鳳凰不飛來,黃河不出圖,這些象徵出聖人的現象都沒出現,看來我完了。」

中国哲学書電子化計画

孔子が言った。「鳳凰は飛んでこない。黄河は図を出さない。これら聖人の現れる象徴が、全て出てこない。多分私は終わったのだ。」

論語:語釈 →項目を読み飛ばす

、「 。」


子曰(シエツ)(し、いわく)

論語 君子 諸君 孔子

論語の本章では”孔子先生が言った”。「子」は貴族や知識人に対する敬称で、論語では多くの場合孔子を指す。「子」は赤ん坊の象形、「曰」は口から息が出て来るさま。「子」も「曰」も、共に初出は甲骨文。辞書的には論語語釈「子」論語語釈「曰」を参照。

子 甲骨文 曰 甲骨文
(甲骨文)

この二文字を、「し、のたまわく」と読み下す例がある。「言う」→「のたまう」の敬語化だが、漢語の「曰」に敬語の要素は無い。古来、論語業者が世間からお金をむしるためのハッタリで、現在の論語読者が従うべき理由はないだろう。

鳳*(ホウ)

鳳 金文 鳳凰 語釈
(金文)

論語の本章では”めでたい鳥”。初出は甲骨文。字形は鳥が翼を広げた様。甲骨文の字形では、「鳥」は止まり木に止まって休んでいる姿、「風」は鳥が翼を広げ風に乗っている姿で表される。西周早期には実在の鳥だったらしく、春秋末期までに、”(天が遣わす)めでたい鳥”の語義が確認できない。『学研漢和大字典』によると、殷が風神として鳳をまつったことから、のち、めでたいしるしとなった、という。甲骨文にそれらしき記述はあるが、実は欠損がひどくて語義を確定しがたい。詳細は論語語釈「鳳」を参照。

聖王が出てくると飛んできて、その庭先で音楽に合わせて舞い踊るというお目出度いラノベが『書経』などに書かれている。ラノベの成立が論語の時代に遡るかはともかく、めでたい鳥の存在自体は孔子も知っていたと思われる。

『史記』五帝本紀・帝舜の記述によると、中国で最初に鳳凰が飛んできたのは、舜の時代だという。居ない聖王に居ない聖鳥の組み合わせ。

鳥(チョウ)

鳥 甲骨文 鳥 字解

論語の本章では”とり”。初出は甲骨文。字形はとりの象形。項羽骨文から春秋末期までの間、”とり”の意のほか氏族名・人名に用いた。詳細は論語語釈「鳥」を参照。

「鳳鳥」の二字で”ほうおう・めでたいとり”を意味しているが、春秋時代までの漢語は一字一語が原則で、「鳳」といえば鳥に決まっているから、こういう熟語は用いなかった。本章が後世の創作である疑惑を与えている。

あるいは「鳳不至」とだけ言えば通じる所、わざわざ「鳥」を加えて四文字にしたのは、「河不出圖」と字数を合わせるため。つまり孔子が歌うように言ったか、後世の儒者が机上ででっち上げたかのいずれかになる。

不(フウ)

不 甲骨文 不 字解
(甲骨文)

漢文で最も多用される否定辞。初出は甲骨文。「フ」は呉音、「ブ」は慣用音。原義は花のがく。否定辞に用いるのは音を借りた派生義だが、甲骨文から否定辞”…ない”の意に用いた。詳細は論語語釈「不」を参照。

至(シ)

至 甲骨文 至 字解
(甲骨文)

論語の本章では”やって来る”。甲骨文の字形は「矢」+「一」で、矢が届いた位置を示し、”いたる”が原義。春秋末期までに、時間的に”至る”、空間的に”至る”の意に用いた。詳細は論語語釈「至」を参照。

河(カ)

河 甲骨文 河 字解
(甲骨文)

論語の本章では”黄河”。「ガ」は呉音。初出は甲骨文。甲骨文の字形には「人」が含まれており、その多くが首かせを付けられている。人をいけにえにして投げ込む大河のことで、具体的には洪水を繰り返す黄河を指す。甲骨文の例では「燎」”火あぶり”にしたあと「牢」”動物の生け贄”を川に投げ入れ、さらに奴隷の羌族を十人投げ入れようか、と占っている。華北文明圏では主流である黄河を「河」と呼び、華南文明圏では主流の長江を「江」kŭŋ(平)と呼んだ。黄河文明圏の産物である『論語』には「河」は出てきても、「江」はただの一字も出てこない。詳細は論語語釈「河」を参照。

出(シュツ/スイ)

出 金文 出 字解
(甲骨文)

論語の本章では”ものを出す”。初出は甲骨文。「シュツ」の漢音は”出る”・”出す”を、「スイ」の音はもっぱら”出す”を意味する。呉音は同じく「スチ/スイ」。字形は「止」”あし”+「カン」”あな”で、穴から出るさま。原義は”出る”。論語の時代までに、”出る”・”出す”、人名の語義が確認できる。詳細は論語語釈「出」を参照。

圖(ト)

論語の本章では”黄河の神が人類に与えるめでたい書物”。中国儒者のお目出度いラノベでは、「河図」と「洛書」の二種類があり、河図は龍馬というめでたい獣がもたらし、洛書は洛水という河川からめでたいカメが背負って出てくるものとされた。

論語の本章では河図のみ言及があって洛書には触れていないので、ラノベの古い形式を伝えているのか、机上ででっちあげた儒者の作り込み不足なのかは分からない。


『三才図会』鳳・龍馬 東京大学東洋文化研究所蔵

「河が図を出して人に啓示を与える」という伝説は、文献上では周代に淵源があると言われる『周易』繫辞伝上11など春秋末期以前の文献に見られるが、いずれも後世無茶苦茶に書き換えられ創作を押し込まれた本で、とうてい伝説が当時からあった証拠にならない。下掲『論語之研究』によると、繫辞伝は前漢初期の馬王堆漢墓発掘文書にも含まれていないという。

物証としてこの伝説は、戦国の竹簡までには見られない。秦末から後漢にかけて創作されたと考えるのが合理的。

図 金文 図 字解
(金文)

「圖」の新字体は「図」。「ズ」は呉音。新字体は「図」。初出は西周早期の金文。字形は「囗」”城壁”+「啚」”城壁外の領民”。二つ合わせて”版図”・”領域”の意。春秋末期までの用例は、”領域”・”描く”・”絵図”だけで、”計画する”・”思い描く”の語義は確認できない。

吾(ゴ)

吾 甲骨文 吾 字解
(甲骨文)

論語の本章では”わたし”。初出は甲骨文。字形は「五」+「口」で、原義は『学研漢和大字典』によると「語の原字」というがはっきりしない。一人称代名詞に使うのは音を借りた仮借だとされる。詳細は論語語釈「吾」を参照。

春秋時代までは中国語にも格変化があり、一人称では「吾」を主格と所有格に用い、「我」を所有格と目的格に用いた。しかし論語でその文法が崩れ、「我」と「吾」が区別されなくなっている章があるのは、後世の創作が多数含まれているため。

已(イ)

已 甲骨文 以 字解
(甲骨文)

論語の本章では”終わった”。初出は甲骨文。字形と原義は不詳。字形はおそらく農具のスキで、原義は同音の「以」と同じく”手に取る”だったかもしれない。論語の時代までに”終わる”の語義が確認出来、ここから、”…てしまう”など断定・完了の意を容易に導ける。詳細は論語語釈「已」を参照。

矣(イ)

矣 金文 矣 字解
(金文)

論語の本章では、”(きっと)…てしまった”。初出は殷代末期の金文。字形は「𠙵」”人の頭”+「大」”人の歩く姿”。背を向けて立ち去ってゆく人の姿。原義はおそらく”…し終えた”。ここから完了・断定を意味しうる。詳細は論語語釈「矣」を参照。

夫(フ)

夫 甲骨文 論語 夫 字解
(甲骨文)

論語の本章では「かな」と読んで詠歎の意。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。論語では「夫子」として多出。「夫」に指示詞の用例が春秋時代以前に無いことから、”あの人”ではなく”父の如き人”の意で、多くは孔子を意味する。「フウ」は慣用音。字形はかんざしを挿した成人男性の姿で、原義は”成人男性”。「大夫」は領主を意味し、「夫人」は君主の夫人を意味する。固有名詞を除き”成人男性”以外の語義を獲得したのは西周末期の金文からで、「敷」”あまねく”・”連ねる”と読める文字列がある。以上以外の語義は、春秋時代以前には確認できない。詳細は論語語釈「夫」を参照。

已矣夫

論語の本章では、「やんぬるかな」と読んで”終わりきってしまったなあ”→”しくじってしまったなあ”。

論語:付記

中国歴代王朝年表

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検証

論語の本章は定州竹簡論語に載り、文字史的には論語の時代まで遡れるのだが、鳳凰伝説も河図伝説も論語の時代に物証が存在せず、後世の創作と断じてよい。下記の通り定州竹簡論語を除けばこの伝説は、後漢初期の文献からしか見られないからだ。

本章は春秋戦国の誰一人引用も再録もせず、再出は定州竹簡論語にやや先行する『史記』孔子世家と、ほぼ同時期の『塩鉄論』。後者が成立したきっかけについては、論語八佾篇4余話「文系おたくのメルヘン」を参照。

前漢年表

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論語の本章に言う「河図」の概念はセットとなる「洛書」とともに、甲骨文・金文・戦国文字のどれにも確認できず、伝説が定着するのは後漢初期になってからで、再出は後漢初期の王充『論衡』か、または同時代の班固『漢書』からになる。

それにやや先行する新帝国を開いた王莽が、度の過ぎたオカルトマニアだったことは教科書通りだが、新滅亡後の革命戦争で最終勝者となった後漢の光武帝も、度の過ぎたオカルトマニアで王莽と大して変わらない。詳細は論語解説「後漢というふざけた帝国」を参照。

後漢年表

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解説

上掲の検証通り、論語の本章は後世の創作の可能性がある。少なくとも現伝の論語の編者は、前章の次に本章を持ってくることで、孔子が「呉国に政治の手練手管を教え尽くした、しかし失敗した」と読めるように工夫している。

その孔子の工作は途中までうまく行き、呉は越を制圧後、度々北上して斉を脅かすまでになった。呉王夫差の覇気、賢臣伍子胥・名将孫武の存在がそれを可能にした。
伍子胥 孫武

孔子不在の魯国も多大な影響を受け、属国寸前にまでなっている。孔子の生まれた頃の魯国は晋の属国で、おかげで斉の侵攻を防げたのだが、今度は呉に引き回されることになった。それを裏で孔子が操っていたとすると、魯はすでに孔子を無視することが出来なくなった。

孔子 笑い 季康子
それは孔子が大手を振って帰国できる環境が整ったことでもあり、門閥家老筆頭の季康子は、腰を低くして孔子に帰国を願った(哀公十一年、BC484、孔子68歳)。だから孔子は帰国したのだが、呉の勢いは頂点を過ぎており、二年後には留守を越に襲われて没落が始まる。

孔子年表
BC 魯哀公 孔子 魯国 その他
488 7 64 衛・出公に仕える? 呉に百牢を出す。季康子、子貢を派遣して自分の出張を撤回させる。邾を攻める。 呉、強大化し繒の会盟で無理な要求を魯に突きつける
487 8 65 弟子の有若、迎撃部隊から外される。斉と和睦 呉、邾の要請で魯を攻撃。斉、魯を攻め三邑を取る。邾、呉の力で復国
485 10 67 夫人の幵官氏死去。子貢を派遣して呉から援軍を引き出す。陳から衛に入る〔衛世家〕 呉と同盟して斉を攻める 斉・悼公、鮑牧にされ簡公即位、田乞死去し田常継ぎ、魯を攻めんとして子貢諫止
484 11 68 孔文子に軍事を尋ねられる。衛を出て魯に戻る。のち家老の末席に連なる。弟子の冉求、侵攻してきた斉軍を撃破 呉と連合して斉に大勝
482 13 70 息子の鯉、死去 呉王夫差、黄池に諸侯を集めて晋・定公と覇者の座を争う。晋・趙鞅、呉を長と認定(晋世家)。呉は本国を越軍に攻められ、大敗

呉国の没落は魯での孔子の地位を下げ、帰国して三年後には閑職に追いやられ、相談役のような地位に落ち、その後息子の葬儀にも十分な費用がないほど困窮した(論語先進篇7)。呉の没落には子貢が糸を引いており、あるいは師弟で政治構想が異なったかも知れない。
孔子 不気味 子貢 遊説

ただしそれも、『史記』孔子世家では孔子の指示とされている。なお『史記』では論語本章の発言を、聖獣であるはずの麟が誤って捕らえられ、孔子が絶望した直後のこととし、「河は図を出ださず、雒は書を出ださず、吾、已んぬるかな。」と多少違う表現で記している。

吉川幸次郎
さらに吉川本によると、儒教の国教化に尽くした漢の董仲舒は、孔子は自分で帝王になるつもりだったが、それをことほぐ霊長霊獣が出なかったので、絶望したと理解していたという。董仲舒についてより詳しくは、論語公冶長篇24余話を参照。

鳳凰 鸚鵡返文武二道

恋川春町『鸚鵡返文武二道』

加えてはるか後世の江戸時代人は、鳳凰などいるわけがないとからかっており、庶民の箸の上げ下ろしにも難癖を付けた松平定信をからかって、あまりに有り難い政治だから鳳凰が飛んできたとはやし立てた。本を書いた恋川春町は定信の逆鱗に触れ、自に追い込まれたという。

なお武内義雄『論語之研究』では、本章について以下のように言う。

武内義雄 論語之研究
鳳鳥や河図の話は易伝と深い関係のある讖緯シンイ説(=予言)であるから、この章も易伝と同じ頃の文であろう。(p.97)

BC186ごろの馬王堆漢墓から出てきた易には、易伝がないと言う。BC186と言えば漢の高祖劉邦が死去した直後だから、論語の本章も相当新しいということになる。

余話

役人としてまずい

上掲「圖」(図)の語釈通り、”ありがたい君主が生まれると、めでたい雲がたなびく”たぐいの、頭がお目出度い絵空事は、どう頑張っても秦帝国より前には上らないのだが、今なおこういうのを担ぎ回っているおかしな国があると聞く。21世紀に生き残った古代国家と言うべきだ。

その「図」を言い回った明らかな記録があるのは、前漢を乗っ取った王莽で、「石を掘り出したら予言が書いてあった」類のを、天のお告げとして大いに言い回った。これを「シン」と言って、世の人が古代で蒙昧だったと言うより、王莽の自信のなさを思うべきである。

中国人は古代から、一銭にもならないお告げを担ぎ回るようには出来ていない。王莽は前漢の外戚の一員だが、王朝末期は朝廷に馬鹿と欲タカリばかり残り、王莽程度の小知恵回りが、切れ者として通って仕舞った。それをよく自覚していたから、オカルトに頼ったというわけだ。

だが武将としても一流だった後漢の光武帝までが、このオカルトに凝りに凝った(論語解説「後漢というふざけた帝国」)。これはもう当人の性格だったとしか言いようが無いが、存外「図」の字の語義を自覚していたらしい。「図」は「はかる」と読んで”だます”の意でもある。

つまり天下をだまして天下を取ったわけだ。欺しおおせたからには光武帝の器量がうかがえるわけで、欺されない切れ者をも従えてみせたからこそ創業皇帝になった。対して自分以上の者が怖くてしょうがない者が権力者になるから、王朝末期は馬鹿じみるのである。

詳細は論語雍也篇11余話「生涯現役幼児の天子」を参照。

「いくさとは詐欺師と詐欺師の欺し合いに他ならない」と孫子は言い切った。敵を欺す手を作戦といい、陸軍部隊がだいたい百人を超えると、隊長の補佐として参謀が付く。「はかりごとあずかる」者の意で、「謀」とは「言」葉を口に含んで表に出さず、相手を欺すことをいう。

古くは口を「𠙵」と書いた。口に含んだまま味わうべきものを、横棒をつけ加えて「甘」と書いた。古代に甘味などそうそうあるものではなく、今なお奇跡の食材として日本人には親しい梅の実を、「木」の先に実るから「某」と書く。のち正体不明の者の意に転じた。

だから梅をわざと「うめ」と書く。「梅」古音でmwəgとも書くのは、音読みでm系統の漢語には、古くから”奥深い”の意があったからだ。奥深く子を宿す人を「母」məgと書き、奥知れない水を「海」xməgと書く。奥深い=隠すでもある。ゆえに「某」も古音はməgと読む。

だから仲人を「媒」と書く。男女の家を行き来して、うまく話をまとめるわけである。相手の欠点を口に出したら、まとまるものもまとまらない。だから嫁いだり迎えたりした瞬間に、「欺された」と思う男女が後を絶たなかった。「某」の意味する所を思うべきである。

陸軍に対して海軍では、千人以上もの乗員を指揮する海軍大佐にも、参謀は付かなかった。艦には副長がいるものの、参謀と言うより艦長代理といった性格の職で、当直に立った時のみ指揮権を持つ。新米少尉でも当直士官なら艦を指揮する。「船頭多くして」を防ぐためである。

英語のcaptainは”頭である者”の意で、陸では百人隊ケントゥリア長=中隊長たる大尉をそう呼び、海では艦長たる大佐をそう呼ぶ。それを超えた長に参謀が付く。ゆえにおおむね大隊に参謀がいるのに対し、海では司令官を兼ねた大佐=代将コモドーア以上でないと参謀が付かない。ペリーも代将だった。

外国の海軍もの映画では、当直に代わって艦長が直接指揮する際、「艦長が指揮を執る!」と乗員がわざわざ声に出して通告するさまが見られる。帝国海軍や海自でどうなっているかは知らないが、同様ではなかろうか。人の命が掛かっている組織での、命令系統の厳格さを思う。

ミッドウェーの敗因を、軍令部連合艦隊の権限争いに求める説がある。確かにその通りだし、昭和の帝国海軍は両者の立てた作戦が衝突した。だが立案の権限は法制上軍令部にあっても、何せ広い海のことだから、現場に行ったらぜんぜん状況が変わっていたりする。

加えて帝国海軍の草創期は、まだ無線も実用化されていなかった。しかし現場判断で作戦を変えようにも、軍令部長と同格の司令官でないと、命令違反になって行政上まずい。ゆえに英国海軍にならい帝国海軍も、二つの部署を併置した。海軍が公共財であるからには仕方がない。

帝国海軍の体質の古さを笑うなら、英国海軍のそれをも笑うべきだろう。日本海海戦の翌年、巨大戦艦ドレッドノートを就役させたのは、英国海相でも王立艦隊司令長官でもなく軍令部長フィッシャーだった。「超弩級」の語源だが、この艦は英国民を幸せにしたのだろうか。

現在の海上自衛隊も海上幕僚部と艦隊司令部が併置されている。個人が一瞬で全世界と情報授受できる時代になっても、作戦と指揮は分離する必要がある。事実この区別が曖昧だった帝国陸軍は、実情に合わない作戦が横行したばかりか、派遣の参謀が好き勝手やって敗滅した。

そして勢いのある企業は必ず独裁でもある。よそ様を古代呼ばわりは出来ないかも知れない。



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