論語詳解235子罕篇第九(32)唐棣の華*

論語子罕篇(32)要約:すももの花びら、ひらひらと。いかであなたを、忘れよう。孔子先生の辞世の句、であるかのように、おそらくは後漢の儒者がでっち上げた作り話。歌の出典は古い詩とされますが、それすら怪しいと分かる一節。

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論語:原文・書き下し →項目を読み飛ばす

原文

「唐棣之華、偏其反而。豈不爾思。室是遠而」。子曰、「未之思也、夫何遠之有*。」

校訂

武内本

清家本により、文末に哉の字を補う。邢疏本句末哉の字なし。

復元白文

 唐 金文之 金文華 金文 其 金文反 金文而 金文 其 金文不 金文爾 金文思 金文 室 金文是 金文遠 金文而 金文 子 金文曰 金文 未 金文之 金文思 金文也 金文 夫 金文何 金文遠 金文之 金文有 金文

※豈→其。論語の本章は赤字が論語の時代に存在しない。也の字を断定で用いている。本章は後漢の儒者による捏造である。

書き下し

唐棣たうていはなは、へんとしてひるがへれり、しかり。あになんぢおもはざらむや、しつとほければなり、しかりと。いはく、いまこれおもはざるなりなんとほきことからむ。

論語:現代日本語訳 →項目を読み飛ばす

逐語訳

逸詩に言う。「スモモの花びら/ひらひらと、げに/いかであなたを/忘れよう/その道遠く/行かれぬとは、げに」

論語 孔子別像
先生が言った。「そこまで相手を思っていないな、この歌い手は。恋しているなら、何の遠いことがあるものか。」

意訳

春になった。
庭のスモモの花が散り、ひらひらと舞い落ちる。
そうだよ。
だれも彼も、忘れ得ぬ人々ばかりだ。
しかし呉国はあまりに遠く、天下太平の世も遠い。
そうだよ。

ニセ孔子
「昔はこんな事、思いもしなかったのだがな。」

従来訳

論語 下村湖人

民謡にこういうのがある。

ゆすらうめの木
花咲きゃ招く、
ひらりひらりと
色よく招く。
招きゃこの胸
こがれるばかり、
道が遠くて
行かりゃせぬ。

 先師はこの民謡をきいていわれた。――
「まだ思いようが足りないね。なあに、遠いことがあるものか。」

下村湖人『現代訳論語』

現代中国での解釈例

有一首詩這樣說:「唐棣開花,翩翩搖擺,我能不思念嗎?衹是離得太遠了。」孔子說:「不是真的思念,如果真的思念,再遠又有什麽關繫?」

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とあるうたにこのようにある。「スモモの花が咲いた。ひらひらとひるがえる。私は思えないのか?ただあまりに遠いのか?」孔子が言った。「まじめに思っていない。もしまじめに思っているなら、もはや距離が何の関係がある?」

論語:語釈 →項目を読み飛ばす

。」。 、「 。」


唐棣(トウテイ)

論語 唐 篆書 論語 棣 篆書
(篆書) 

和名ニワザクラと吉川本に言う。その花期は4月上旬。藤堂本ではスモモと言う。訳者は下記の理由でスモモ説をとる。

「棣」の初出は後漢の説文解字。論語の時代に存在しない。論語では本章のみに登場。カールグレン上古音はdʰiəd(去)。同音は東とそれを部品とする膨大な漢字群など。

『学研漢和大字典』によると「唐」は会意文字で、「口+庚(ぴんとはる)」で、もと、口を張って大言すること。讜(トウ)と同じ。その原意は「荒唐」という熟語に保存されたが、単独ではもっぱら国名に用いられる。「大きな国」の意を含めた国名である、という。

「棣」は会意兼形声文字で、隶は、逮(とどく)の原字で、前のものに後ろのものがとどくこと。棣は「木+(音符)隶(テイ)・(タイ)」。次々に花が並んで列をなす木、という。

また『学研漢和大字典』によると「唐棣」はにわうめのこと。春、淡紅色または白い花が咲く。棠棣(トウテイ)・郁李(イクリ)とも、という。なおニワウメの開花時期は4月ごろと言われる。
論語 唐棣 ニワウメ
ニワウメの花。Photo via http://www.flower-photo.info/

論語の本章では”ひるがえるさま”。論語では本章のみに登場。初出は前漢の隷書。論語の時代に存在しない。カールグレン上古音はpʰi̯an(平)。同音は篇、翩、猵”カワウソ”。に”ひるがえるさま”の語釈があるが、初出は後漢の高彪碑か説文解字

偏其反而

論語 偏 古文 論語 反 金文
「偏」(古文)・「反」(金文)

論語の本章では、”花びらが散って、ひらひらとひるがえるさま”。而は語末の調子を整える助字として読まないのが通例だが、”そうだよ”の意を表すものとして今回解した。

武内本には、「偏は飜の仮借、動揺の貌」という。意味は上記と同じ。

夫何遠之有

この部分の語順は、本来「夫何有遠」でよいが、「之」を使って倒置している。

論語:解説・付記

論語 武内義雄 論語之研究
武内義雄『論語之研究』によると、論語の本章は他の章と体裁が異なっており、「あるいは後人の附加か」という。しかし孔子の晩年を伝えるための虚構である子罕篇の最後の章として、ふさわしいと後漢の儒者は思ったのだ。一読して胸に迫らせる効果を期待したのである。

論語の本章は一部の儒者や日本の漢学教授がのん気なことを言っているような、そんな軽い話を思わせるためのものではない。引用の詩も『詩経』に載せられなかった詩=逸詩だというが、これを孔子の辞世の句と思わせたのだ。当然、『詩経』に入っている道理がない。

スモモの花が咲くのは早春だから、孔子はその散るのを眺めつつ、かく歌い、そして亡くなったかのように儒者は描いた。死去の推定月日は3/4だが、花は違えど、西行法師の辞世「願はくは花の下にて春死なん そのきさらぎの望月のころ」を想起させる。
論語 唐棣 スモモ
スモモの花。Photo via https://photo-pot.com/

目指した政道を実現できず、期待した呉国も孔子70の時、留守を越に攻められ大敗し、一挙に落ちぶれて亡国へ。同じ年、息子の鯉が死去、翌年顔回が死去、翌年子路も死去。孔子は絶望して、世を終えたと儒者は思わせた。麒麟がどうのこうのも、おそらくその演出。

BC482

哀公13 孔子70 息子の鯉、死去 呉王夫差、諸侯を集めて晋と覇者の座を争う。一方本国を越軍に攻められ、大敗
481 14 71 斉を攻めよと哀公に進言、容れられず 弟子の顔回死去。孟懿子死去。魯で麒麟が捕らわれる。斉・簡公、陳成子によって殺される
480 15 72 弟子の子路死去
479 16 73 死去。西暦推定日付3/4。曲阜城北の泗水シスイ河畔に葬られる ギリシア、プラタイアの戦い
473 22 越、呉を滅ぼす

本章で論語子罕篇は終わりだが、次の郷党篇はメモ的性格が強く、論語を二分する前半はここで終わる。『論語之研究』によると、論語冒頭の学而篇と郷党篇は、まだ二篇しかなかった論語の古い部分という。そして第二為政篇から第八泰伯篇までは、別の本だった。

この七篇を河間七篇本と言い、魯に残った曽子の系統が編集したという。論語の前半は、二篇本=魯斉二篇本の間に割り込ませて膨らますように、河間七篇本をつけ加えた。そしてさらに、孔子の晩年を描いたこの子罕篇が加わり、それだけで独立できる論語の前半となった。

つまりいくつかあった『孔子伝』のうち一冊を、ここで読み終えたに等しい。

最後に、前章からの宿題?となっていた、儒者の感想文を記す。バカバカしいことしか書いていないから、読むのはおすすめできない。

古注『論語集解義疏』

子曰可與共學未可與適道註適之也雖學或得異端未必能之道者也可與適道未可與立註雖能之道未必能以有所成立者也可與立未可與權註雖能有所立未必能權量其輕重之極也唐棣之華偏其反而豈不爾思室是逺而註逸詩也唐棣栘也華反而後合賦此詩以言權道反而後至於大順也思其人而不得見者其室逺也以言思權而不得見者其道逺也子曰未之思也夫何逺之有哉註夫思者當思其反反是不思所以為逺也能思其反何逺之有言權可知唯不知思耳思之有次序斯可知矣疏子曰至有哉 此章明權道之難也云可與共學未可與適道者夫正道易行權事難達既欲明權故先從正起也道謂所學之道也言凡人乃可與同處師門共學而已既未得彼性則未可便與為友共適所志之道也云可與適道未可與立者立謂謀議之立事也亦人性各異或能學問而未必能建立世中正事者故可與共適所學之道而未便可與共立事也云可與立未可與權者權者反常而合於道者也自非通變逹理則所不能故雖可共立於正事而未可便與之為權也故王弼曰權者道之變變無常體神而明之存乎其人不可豫設尤至難者也張憑云此言學者漸進階級之次耳始志於學求發其蒙而未審所適也既向方矣而信道未篤則所立未固也又既固又未達變通之權也明知反而合道者則日勸之業亹亹之功其㡬乎此矣云唐棣之華偏其反而者引明權之逸詩以證權也唐棣棣樹也華花也夫樹木之花皆先合而後開唐棣之花則先開而後合譬如正道則行之有次而權之為用先反後至於大順故云偏其反而言偏者明唯其道偏與常反也云豈不爾思室是逺而者言凡思其人而不得見者其居室遼逺故也人豈不思權權道𤣥邈如其室奥逺故也云子曰云云者又引孔子言證權可思也言權道易思但未有思之者耳若反道而思之則必可得故云大何逺之有也 註適之至者也 異端非正典也人各自有性彼或不能寜學正道而唯能讀史子故未可使與之共之於正道也 註雖有至極也 能權量輕重即是曉權也 註逸詩至逺也 如前釋也云權道反而後至於大順者初逆而後從也

本文「子曰可與共學未可與適道」。
注釈。適とは行くことである。仮に学んでも、それが異端ならば(論語為政篇16)、孔子の聖道を行くことは出来ないのである。

本文「可與適道未可與立」。
注釈。孔子の聖道を行くことが出来ても、必ずしもその道で大成できるとは限らないのである。

本文「可與立未可與權」。
注釈。もし孔子の聖道で大成できても、必ずしも物事の優先順序を窮極まで極めることは出来ないのである。

本文「唐棣之華偏其反而豈不爾思室是逺而」。
注釈。これは詩経に収録されなかった詩である。唐棣とは栘(イ。にわうめ)である。花びらがひるがえってまた出会うさまである。この詩を詠むことで、一時的な権謀ものちには社会の基本となることを言っている。その人を思っても逢うことが出来ない出来ないのは、その住まいが遠いからである、と詠むことで、一時的な権謀は部外者に見ることが出来ないのは、遠く離れた所で行われるからだ、と言っている。

本文「子曰未之思也夫何逺之有哉」。
注釈。そもそも思っている者は、繰り返し思うものだ。だがこの歌では、繰り返し思わないのを距離のせいにしている。もし繰り返し思うのなら、遠いという事があり得ようか?これは、権謀は知ることが出来るが、思う事は出来ないことを言っている。ものを思うのには順序があり、思うための材料を思えなければ、思う事は出来ない。だからただ、知ることが出来るだけだ。

付け足し。先生は存在への疑問の極致を言った。本章は権謀の道が困難であることを明らかにしている。そもそも正道は行いやすく、権謀は達成しがたい。権謀の道を明らかにしようと思うなら、まず正道に従わねばならない。

ここで言う道とは、儒学の道を言う。他人とは所詮、師匠を同じくして共に学ぶことができるのがせいぜいだ、と言っている。その性根が分からないのに、友達づきあいは出来ない。志望を同じくしたときに、助け合えるだけだ。

「可與適道未可與立」とあるが、立とは権謀を企むことだ。人の性根はそれぞれ違うから、もし学問が共に出来ても、世の中で中立を保てるとは限らない。だから共に学ぶことが出来ても、権謀を共にすることは出来ないのだ。

「可與立未可與權」とあるが、權とは通常の手段では無いが孔子の聖道にかなうものをいう。変化とそのことわりに通じなければ、行うのは不可能だ。だからともに正道に立つことは出来ても、共に権謀を企むことは出来ない。

だから王弼は言った。「権謀とは正道の変形である。変化にはもとより常態が無い。神通力で権謀を明らかにするのは人でも出来うるが、先行きを予想するのは、至難の技である。」

張憑「この言葉は、儒学を学ぶ者の学習順序を示している。始めは学に志し、その無知を改めようと願い、まだ知らない事を知ろうとするのである。すでに学に志したのに、途中で心がくじけたら、必ず中途半端で終わるのである。もし決意が固くても、変化のことわりを知り権謀を企むことは出来ないのである。互いにひるがえって背け合うのがまた道を同じくするのは、毎日精進し、積み重ねを積み重ねてやっと、権謀を企てられるようになるのだ。」

「唐棣之華偏其反而」とは、この詩を引用することで、権謀の何たるかを明かそうとしているのだ。唐棣とはスモモの木である。華とは花びらである。そもそも樹木の花は、まず一緒になってから開く。ところがスモモの花は、先に開いてから一緒になる。これは正道に譬えるなら、何事も順序があり、権謀に譬えるなら、まず互いに背を向けてから、その後社会の基礎になるのを言っている。だから「偏其反而」と言った。偏というのは、その道が常道からは外れたことを言ったのである。

「豈不爾思室是逺而」とあり、そもそも思うだけで逢えない者が出るのは、互いの住まいが遠いせいである。人はどうして権謀を思わないだろうか。権道をあるいは玄邈(真っ暗なようす)といい、それは住まいが遠いようなものだ。

「子曰うんぬん」とあり、ここで孔子の言葉を引いて人は権謀を思えることを示している。見坊は思うのは簡単で、ただ思いもしないものがこの世に居るだけだ。もし道に背いて権謀を思うなら、間違いなく思うのはたやすい。だから「夫何逺之有也」と言った。

注釈。そこへ赴くことの窮極である。異端とは、正しい経典に無い教えである。人にはそれぞれ個性があり、ある人は正しい学問になじめない可能性がある。付ける薬はただ、正史と儒教の宗匠が残した本を読むことだけだ。だから、まだ共に正道を歩むことが出来ないことがあるのだ。

注釈。あってもしかし、ということの極みである。物事の優先順位がよく分かるのは、つまり権謀を知り尽くすことである。

注釈。この詩経から漏れた詩は遠さの極みを歌う。過去の解釈の通りだ。権道が常道に背くように見えてのちには社会の基本となるのである。始めは逆らい、後に従うのである。

『論語』子罕篇おわり

お疲れ様でした。

警告

漢文業界の者は嘘つき中国人そっくりで、微塵も信用ならぬ(→理由)ので、数言申し上ぐ。


出典明記の引用は自由だが(ネット上では可動リンク必須)、盗用・剽窃は居合を嗜む有段者の訳者が、櫓櫂の及ぶ限り追い詰める。言い訳無用。訳者が「やった」と思ったら、全国どこでも押し込む。頭にきたら海外にも出かけ、バッサリやってすぐ帰る。訳者は暇であるし、惜しむものを持っていないし、面倒が苦にならぬゆえ、こうして古典を研究している。

刀の手入れは毎日している。そして未だ人を斬ったことが無い。

盗作・剽窃の通報歓迎。下手人を成敗した後、薄謝進呈。他人にやらせた者も同罪、まずそ奴から追い回してぶっ○○る。もし長生きしたいなら、悪いことはせぬものだ。それでもやるなら、覚悟致せ。

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