論語:原文・書き下し
原文(唐開成石経)
唐棣之華偏其反而豈不爾思室是遠而子曰未之思也夫何逺之有
校訂
諸本
- 武内本:邢疏本句末哉の字なし。
- 宮内庁蔵宋版論語注疏:句末哉の字なし。
- 早大蔵論語集注:注疏本に倣って句末哉の字なし。
東洋文庫蔵清家本
唐棣之華偏其反而豈不爾思室是遠而/子曰未之思也夫何逺之有哉
慶大蔵論語疏
〔戸丨口〕1〔木录〕2之〔士廿一小〕3(華)4〔亻尸冊〕5其〔𠂇㐅丶〕6而/豈不𠂢7(尓)8思室是〔辶龶丨丶〕9而/子曰未之思也夫何〔辶龶丨丶〕9之有
- 「唐」の異体字。「唐段沙彌造象記」刻。
- 「棣」の異体字。「魏貴華恭夫人墓誌」(北魏)刻。
- 「華」の異体字。未詳。
- 傍記。
- 「偏」の異体字。「周左金吾郎将楊順墓誌」(武周)刻。
- 「犮」”抜く”字の異体字。「魏寇憑墓誌」(北魏)刻字に近似。「反」に転用した遊び字。
- 「𠂢」”支流”字。「尓」に転用した遊び字。
- 「爾」の異体字。傍記。
- 「遠」の異体字。「唐趙州長史孟貞墓志」刻。
後漢熹平石経
(なし)
定州竹簡論語
(なし)
標点文
「唐棣之華、偏其反而。豈不爾思。室是遠而」。子曰、「未之思也、夫何遠之有。」
復元白文(論語時代での表記)
棣 豈
※偏→扁。論語の本章は赤字が論語の時代に存在しない。「未」「夫」「何」の用法に疑問がある。本章は漢儒による創作である。
書き下し
唐棣之華は、偏りて其れ反ること而り。豈爾を思は不らむや、室是れ遠きこと而りと。子曰く、未だ之を思はざる也、夫れ何の遠きこと之れ有らむ。
論語:現代日本語訳
逐語訳
逸詩に言う。「スモモの花びら/てんでばらばらに、げに/いかであなたを/忘れよう/その道遠く/行かれぬとは、げに」
先生が言った。「そこまで相手を思っていないな、この歌い手は。恋しているなら、何の遠いことがあるものか。」
意訳
春になった。
庭のスモモの花が散り、それぞれ勝手に舞い落ちる。
そうだよ。
だれも彼も、忘れ得ぬ人々ばかりだ。
しかし呉国はあまりに遠く、天下太平の世も遠い。
そうだよ。
「昔はこんな事、思いもしなかったのだがな。」
従来訳
民謡にこういうのがある。
ゆすらうめの木
花咲きゃ招く、
ひらりひらりと
色よく招く。
招きゃこの胸
こがれるばかり、
道が遠くて
行かりゃせぬ。先師はこの民謡をきいていわれた。――
「まだ思いようが足りないね。なあに、遠いことがあるものか。」下村湖人『現代訳論語』
現代中国での解釈例
有一首詩這樣說:「唐棣開花,翩翩搖擺,我能不思念嗎?衹是離得太遠了。」孔子說:「不是真的思念,如果真的思念,再遠又有什麽關繫?」
とあるうたにこのようにある。「スモモの花が咲いた。ひらひらとひるがえる。私は思えないのか? ただ行くにはあまりに遠いのだ。」孔子が言った。「まじめに思っていない。もしまじめに思っているなら、もはや距離が何の関係がある?」
論語:語釈
唐棣*(トウテイ)
『学研漢和大字典』によると「唐棣」はにわうめのことで、棠棣・郁李とも、という。ニワウメの開花時期は4月ごろと言われる。春、淡紅色または白い花が咲く。
ニワウメの花。Photo via http://www.flower-photo.info/
またスモモであるとする説もある。下掲のように孔子の死去は現在の暦で3月上旬と推定されるから、早春に咲くスモモと考えるのにも理がある。ただ逝去の日にちはあくまで推定で、『史記』孔子世家に「以魯哀公十六年四月己丑卒」とあるのを根拠とする。
論語の時代、熟語は原則として存在しない。「棣」だけで”ニワウメ”を意味するが、「唐」”大きい”を付けたのは歌の字数を合わせるためとするのが理に叶う。
(甲骨文)
「唐」の初出は甲骨文。字形は「庚」”太陽を観測するさま”+「𠙵」”くち”。太陽に祈る姿だろうと想像されるが、原義ははっきりしない。前漢中期の『史記』以降、架空の聖王である堯の氏は、「陶唐氏」とされるのが確定した。甲骨文には大量の用例があるが、地名・人名・氏族名に用いた。金文でも同様だが、殷の開祖湯王を「唐」と記した例がある(春秋末期「叔尸鐘」集成285)。詳細は論語語釈「唐」を参照。
唐石経は特に避諱せず「唐」と記す。皇帝のいみ名と違い、国号は避諱の対象にならなかったと見える。
慶大蔵論語疏は異体字「〔戸丨口〕」と記す。「唐段沙彌造象記」刻。
(楚系戦国文字)
「棣」の初出は楚系戦国文字。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。字形は「木」+音符「隶」。同音は「東」とそれを部品とする膨大な漢字群など。文献上の初出は論語の本章だが、『春秋左氏伝』には地名の一部として見え、『詩経』にも複数の用例がある。”ニワウメ”を意味する漢字は「栘」(初出楚系戦国文字)、「栯」(初出不明)、「薁」(初出説文解字)、「鬱」(初出甲骨文)。部品の「隶」の初出は春秋末期の金文だが、どう読んでも”ニワウメ”の意とは思えない。詳細は論語語釈「棣」を参照。
慶大蔵論語疏は異体字「〔木录〕」と記す。「魏貴華恭夫人墓誌」(北魏)刻。
之(シ)
(甲骨文)
論語の本章では”…の”・”これ”。初出は甲骨文。字形は”足”+「一」”地面”で、あしを止めたところ。原義はつま先でつ突くような、”まさにこれ”。殷代末期から”ゆく”の語義を持った可能性があり、春秋末期までに”~の”の語義を獲得した。詳細は論語語釈「之」を参照。
華(カ)
(金文)
論語の本章では”花”。初出は西周早期の金文。字形は満開に咲いた花を横から描いた象形で、原義は”花”。金文では地名・国名・氏族名・人名に用いた。詳細は論語語釈「華」を参照。
慶大蔵論語疏は格内に「〔士廿一小〕」と記し、「華」と傍記する。未詳だが、傍記により「華」字と判断する。
偏*(ヘン)
(篆書)
論語の本章では、花びらが”片寄る”。たがいに揃った落ち方をしないさま。論語では本章のみに登場。初出は後漢の説文解字。戦国の竹簡にも「偏」と釈文されている字はあるが、原字がネット上で公開されていない。論語時代の置換候補は部品で近音の「扁」。字形は「亻」+「扁」”かたよる”。片寄った人格のさま。同音は「篇」、「翩」、「猵」”カワウソ”。文献上の初出は論語の本章。同音の「篇」「翩」(初出説文解字)にも”ひるがえるさま”の語釈がある。詳細は論語語釈「偏」を参照。
慶大蔵論語疏は異体字「〔亻尸冊〕」と記す。上掲「周左金吾郎将楊順墓誌」(武周)刻。武周とは則天武后時代の王朝名。
其(キ)
(甲骨文)
論語の本章では”それ”という指示詞。初出は甲骨文。甲骨文の字形は「𠀠」”かご”。それと指させる事物の意。金文から下に「二」”折敷”または「丌」”机”・”祭壇”を加えた。人称代名詞に用いた例は、殷代末期から、指示代名詞に用いた例は、戦国中期からになる。詳細は論語語釈「其」を参照。
反(ハン)
「反」(甲骨文)
論語の本章では”ひるがえる”。初出は甲骨文。字形は「厂」”差し金”+「又」”手”で、工作を加えるさま。金文から音を借りて”かえす”の意に用いた。その他”背く”、”青銅の板”の意に用いた。詳細は論語語釈「反」を参照。
慶大蔵論語疏は「犮」”抜く”字の異体字「〔𠂇㐅丶〕」と記す。上掲「魏寇憑墓誌」(北魏)刻字に近似。「反」に転用したギャル文字同様の遊び字。
而(ジ)
(甲骨文)
論語の本章では”そして”。初出は甲骨文。原義は”あごひげ”とされるが用例が確認できない。甲骨文から”~と”を意味し、金文になると、二人称や”そして”の意に用いた。英語のandに当たるが、「A而B」は、AとBが分かちがたく一体となっている事を意味し、単なる時間の前後や類似を意味しない。詳細は論語語釈「而」を参照。
論語の本章では、語末の調子を整える助字として読まないのが通例だが、”そうだよ”の意を表すものとして今回解した。
豈(キ)
(秦系戦国文字)
論語の本章では”どうして…だろうか”。反語の意。初出は戦国最末期の「睡虎地秦簡」。論語時代の置換候補は存在しない。字形はおそらく「豆」”たかつき”+”蓋”+”手”。原義は不明。「漢語多功能字庫」によると「鼓」の初文「壴」”太鼓”と同形というが、上古音がまるで違う。『説文解字』は「凱歌」の「凱」の初文と言うが、「豈」は初出から”どうして…であろう”の意で用いられており、後漢儒の空耳アワーに過ぎない。近音同訓に「幾」があるが、春秋末期までに”どうして…だろうか”の用例が確認できない。詳細は論語語釈「豈」を参照。
不(フウ)
(甲骨文)
漢文で最も多用される否定辞。初出は甲骨文。「フ」は呉音、「ブ」は慣用音。原義は花のがく。否定辞に用いるのは音を借りた派生義だが、甲骨文から否定辞”…ない”の意に用いた。詳細は論語語釈「不」を参照。
爾(ジ)
(甲骨文)
論語の本章では”あなた”。初出は甲骨文。字形は剣山状の封泥の型の象形で、原義は”判(を押す)”。のち音を借りて二人称を表すようになって以降は、「土」「玉」を付して派生字の「壐」「璽」が現れた。甲骨文では人名・国名に用い、金文では二人称を意味した。詳細は論語語釈「爾」を参照。
慶大蔵論語疏は「𠂢」”支流”字と記し、「爾」の異体字「尓」と傍記する。転用した遊び字。
思(シ)
「思」(金文)
論語の本章では”思う”。初出は春秋末期の金文。画数が少なく基本的な動作を表す字だが、意外にも甲骨文には見えない。字形は「囟」”人間の頭”+「心」で、原義は頭で思うこと。金文では人名、戦国の竹簡では”派遣する”の用例がある。詳細は論語語釈「思」を参照。
室(シツ)
(甲骨文)
論語の本章では”居間 ”。初出は甲骨文。同音は「失」のみ。字形は「宀」”屋根”+「矢」+「一」”止まる”で、矢の止まった屋内のさま。原義は人が止まるべき屋内、つまり”うち”・”屋内”。甲骨文では原義に、金文では原義のほか”一族”の意に用いた。戦国時代の金文では、「王室」の語が見える。戦国時時代の竹簡では、原義・”一族”の意に用いた。「その室家に宜しからん」と古詩「桃夭」にあるように、もとは家族が祖先を祀る奥座敷のことだった。詳細は論語語釈「室」を参照。
是(シ)
(金文)
論語の本章では”これ”。初出は西周中期の金文。「ゼ」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)。字形は「睪」+「止」”あし”で、出向いてその目で「よし」と確認すること。同音への転用例を見ると、おそらく原義は”正しい”。初出から”確かにこれは~だ”と解せ、”これ”・”この”という代名詞、”~は~だ”という接続詞の用例と認められる。詳細は論語語釈「是」を参照。
遠(エン)
(甲骨文)
論語の本章では”遠く長い”。初出は甲骨文。字形は「彳」”みち”+「袁」”遠い”で、道のりが遠いこと。「袁」の字形は手で衣を持つ姿で、それがなぜ”遠い”の意になったかは明らかでない。ただ同音の「爰」は、離れたお互いが縄を引き合う様で、”遠い”を意味しうるかも知れない。詳細は論語語釈「遠」を参照。
慶大蔵論語疏は異体字「〔辶龶丨丶〕」と記す。「唐趙州長史孟貞墓志」刻。
子曰(シエツ)(し、いわく)
論語の本章では”孔子先生が言った”。「子」は貴族や知識人に対する敬称で、論語では多くの場合孔子を指す。「子」は赤ん坊の象形、「曰」は口から息が出て来るさま。「子」も「曰」も、共に初出は甲骨文。辞書的には論語語釈「子」・論語語釈「曰」を参照。
この二文字を、「し、のたまわく」と読み下す例がある。「言う」→「のたまう」の敬語化だが、漢語の「曰」に敬語の要素は無い。古来、論語業者が世間からお金をむしるためのハッタリで、現在の論語読者が従うべき理由はないだろう。
未(ビ)
(甲骨文)
論語の本章では”まだ…ない”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。「ミ」は呉音。字形は枝の繁った樹木で、原義は”繁る”。ただしこの語義は漢文にほとんど見られず、もっぱら音を借りて否定辞として用いられ、「いまだ…ず」と読む再読文字。ただしその語義が現れるのは戦国時代まで時代が下る。詳細は論語語釈「未」を参照。
也(ヤ)
(金文)
論語の本章では、「や」と読んで詠嘆の意か、「なり」と読んで断定の意に用いている。本章は他の部分で後世の創作が確定するので、詠歎に解さねばならない理由が無いが、解してはならない理由も無い。断定の語義は春秋時代では確認できない。初出は事実上春秋時代の金文。字形は口から強く語気を放つさまで、原義は”…こそは”。春秋末期までに句中で主格の強調、句末で詠歎、疑問や反語に用いたが、断定の意が明瞭に確認できるのは、戦国時代末期の金文からで、論語の時代には存在しない。詳細は論語語釈「也」を参照。
夫(フ)
(甲骨文)
論語の本章では「それ」と読んで指示詞。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。論語では「夫子」として多出。「夫」に指示詞の用例が春秋時代以前に無いことから、”あの人”ではなく”父の如き人”の意で、多くは孔子を意味する。「フウ」は慣用音。字形はかんざしを挿した成人男性の姿で、原義は”成人男性”。「大夫」は領主を意味し、「夫人」は君主の夫人を意味する。固有名詞を除き”成人男性”以外の語義を獲得したのは西周末期の金文からで、「敷」”あまねく”・”連ねる”と読める文字列がある。以上以外の語義は、春秋時代以前には確認できない。詳細は論語語釈「夫」を参照。
何(カ)
「何」(甲骨文)
論語の本章では”どのような”→”なぜ”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。字形は「人」+”天秤棒と荷物”または”農具のスキ”で、原義は”になう”。甲骨文から人名に用いられたが、”なに”のような疑問辞での用法は、戦国時代の竹簡まで時代が下る。詳細は論語語釈「何」を参照。
有(ユウ)
(甲骨文)
論語の本章では”存在する”。初出は甲骨文。ただし字形は「月」を欠く「㞢」または「又」。字形はいずれも”手”の象形。原義は両腕で抱え持つこと。詳細は論語語釈「有」を参照。
哉(サイ)→×
(金文)
論語の本章では”…だなあ”。詠歎を表す。初出は西周末期の金文。ただし字形は「𠙵」”くち”を欠く「𢦏」で、「戈」”カマ状のほこ”+「十」”傷”。”きずつく”・”そこなう”の語釈が『大漢和辞典』にある。現行字体の初出は春秋末期の金文。「𠙵」が加わったことから、おそらく音を借りた仮借として語気を示すのに用いられた。金文では詠歎に、また”給与”の意に用いられた。戦国の竹簡では、”始まる”の意に用いられた。詳細は論語語釈「哉」を参照。
上掲の通り唐石経以降の中国伝承本はこの字を欠くが、日本伝承の正平本・文明本・足利本・根本本は記す。ただし慶大蔵論語疏はこの字を欠く。論語の本章は最古の版本である定州竹簡論語に全体を欠き、漢石経にも欠き、次いで古い文字列は慶大本になる。これに従って校訂した。論語の伝承について詳細は「論語の成立過程まとめ」を参照。
原始論語?…→定州竹簡論語→白虎通義→ ┌(中国)─唐石経─論語注疏─論語集注─(古注滅ぶ)→ →漢石経─古注─経典釈文─┤ ↓↓↓↓↓↓↓さまざまな影響↓↓↓↓↓↓↓ ・慶大本 └(日本)─清家本─正平本─文明本─足利本─根本本→ →(中国)─(古注逆輸入)─論語正義─────→(現在) →(日本)─────────────懐徳堂本→(現在)
晩唐のはじめに唐石経が刻まれるまで、論語の版本にはさまざまな系統があった。それまで伝わった版本は古注系統だが、若干の文字の異同はむしろあって当たり前。だが儒学を科挙の試験科目に据えた唐王朝は、採点に困ったのだろう、国が傾いてから儒教経典の定本を定めて石経に刻んだ。
清家本は古注系統だが、唐石経より以前に日本に伝わった論語の伝承の線上にある。慶大本が記さない「哉」字を清家本が記すのは、さまざまな版本が日本に輸入されていたことを物語る。
夫何遠之有
この部分の語順は、本来「夫何有遠」でよいが、「之」を使って倒置している。「哉」無しでも、”なんで遠いなんて事があるものか”という詠嘆の語気を表している。
論語:付記
検証
論語の本章は、前漢中期の定州竹簡論語には無いが、先行する董仲舒『春秋繁露』に、「唐」を「棠」と違えて記されている。だが春秋戦国時代の誰一人引用も再録もしていない。引用の詩は現伝の『詩経』には見えず、「唐棣之華」が国風・召風にあるのみだが、そもそも『詩経』が史実の怪しい詩集なので(論語八佾篇20解説参照)、検証の材料とするには足りない。
「豈」の字は無くとも文意は変わらないが、無いと律詩として崩壊する。「棣」の字の論語時代に於ける不在は、あるいは「隶」と記した可能性はあるが、物証が出ていない以上断じることは出来ない。本章が前漢の董仲舒によって偽作されたのはほぼ確実。
解説
武内義雄『論語之研究』によると、論語の本章は他の章と体裁が異なっており、「あるいは後人の附加か」という。しかし孔子の晩年を伝えるための虚構である子罕篇の最後の章として、ふさわしいと後漢の儒者は思ったのだ。一読して胸に迫らせる効果を期待したのである。
論語の本章は一部の儒者や日本の漢学教授がのん気なことを言っているような、そんな軽い話を思わせるためのものではない。引用の詩も『詩経』に載せられなかった詩=逸詩だというが、これを孔子の辞世の句と思わせたのだ。当然、『詩経』に入っている道理がない。
スモモの花が咲くのは早春だから、孔子はその散るのを眺めつつ、かく歌い、そして亡くなったかのように儒者は描いた。死去の推定月日は3/4だが、花は違えど、西行法師の辞世「願はくは花の下にて春死なん そのきさらぎの望月のころ」を想起させる。
スモモの花。Photo via https://photo-pot.com/
目指した政道を実現できず、期待した呉国も孔子70の時、留守を越に攻められ大敗し、一挙に落ちぶれて亡国へ。同じ年、息子の鯉が死去、翌年顔回が死去、翌年子路も死去。孔子は絶望して、世を終えたと儒者は思わせた。麒麟がどうのこうのも、おそらくその演出。
BC482 | 哀公13 | 孔子70 | 息子の鯉、死去 | 呉王夫差、諸侯を集めて晋と覇者の座を争う。一方本国を越軍に攻められ、大敗 |
481 | 14 | 71 | 斉を攻めよと哀公に進言、容れられず | 弟子の顔回死去。孟懿子死去。魯で麒麟が捕らわれる。斉・簡公、陳成子によって殺される |
480 | 15 | 72 | 弟子の子路死去 | |
479 | 16 | 73 | 死去。西暦推定日付3/4。曲阜城北の泗水河畔に葬られる | ギリシア、プラタイアの戦い |
473 | 22 | 越、呉を滅ぼす |
本章で論語子罕篇は終わりだが、次の郷党篇はメモ的性格が強く、論語を二分する前半はここで終わる。『論語之研究』によると、論語冒頭の学而篇と郷党篇は、まだ二篇しかなかった論語の古い部分という。そして第二為政篇から第八泰伯篇までは、別の本だった。
この七篇を河間七篇本と言い、魯に残った曽子の系統が編集したという。論語の前半は、二篇本=魯斉二篇本の間に割り込ませて膨らますように、河間七篇本をつけ加えた。そしてさらに、孔子の晩年を描いたこの子罕篇が加わり、それだけで独立できる論語の前半となった。
つまりいくつかあった『孔子伝』のうち一冊を、ここで読み終えたに等しい、ということになるのだが、ここで論語本が数種類あったと言い始めた初めは、それがあったと言っている前漢武帝時代から130年ほどのちの王充で、失われたはずの本を見てきたように語っている。
とうてい、信用できる道理が無い。以下、論語の本章の新古の注。
古注『論語集解義疏』
唐棣之華偏其反而豈不爾思室是逺而註逸詩也唐棣栘也華反而後合賦此詩以言權道反而後至於大順也思其人而不得見者其室逺也以言思權而不得見者其道逺也子曰未之思也夫何逺之有哉註夫思者當思其反反是不思所以為逺也能思其反何逺之有言權可知唯不知思耳思之有次序斯可知矣疏子曰至有哉 此章明權道之難也云可與共學未可與適道者夫正道易行權事難達既欲明權故先從正起也道謂所學之道也言凡人乃可與同處師門共學而已既未得彼性則未可便與為友共適所志之道也云可與適道未可與立者立謂謀議之立事也亦人性各異或能學問而未必能建立世中正事者故可與共適所學之道而未便可與共立事也云可與立未可與權者權者反常而合於道者也自非通變逹理則所不能故雖可共立於正事而未可便與之為權也故王弼曰權者道之變變無常體神而明之存乎其人不可豫設尤至難者也張憑云此言學者漸進階級之次耳始志於學求發其蒙而未審所適也既向方矣而信道未篤則所立未固也又既固又未達變通之權也明知反而合道者則日勸之業亹亹之功其㡬乎此矣云唐棣之華偏其反而者引明權之逸詩以證權也唐棣棣樹也華花也夫樹木之花皆先合而後開唐棣之花則先開而後合譬如正道則行之有次而權之為用先反後至於大順故云偏其反而言偏者明唯其道偏與常反也云豈不爾思室是逺而者言凡思其人而不得見者其居室遼逺故也人豈不思權權道𤣥邈如其室奥逺故也云子曰云云者又引孔子言證權可思也言權道易思但未有思之者耳若反道而思之則必可得故云大何逺之有也 註適之至者也 異端非正典也人各自有性彼或不能寜學正道而唯能讀史子故未可使與之共之於正道也 註雖有至極也 能權量輕重即是曉權也 註逸詩至逺也 如前釋也云權道反而後至於大順者初逆而後從也
本文「唐棣之華偏其反而豈不爾思室是逺而」。
注釈。これは詩経に収録されなかった詩である。唐棣とは栘(イ。にわうめ)である。花びらがひるがえってまた出会うさまである。この詩を詠むことで、一時的な権謀ものちには社会の基本となることを言っている。その人を思っても逢うことが出来ないのは、その住まいが遠いからである、と詠むことで、一時的な権謀は部外者に見ることが出来ないのは、遠く離れた所で行われるからだ、と言っている。
本文「子曰未之思也夫何逺之有哉」。
注釈。そもそも思っている者は、繰り返し思うものだ。だがこの歌では、繰り返し思わないのを距離のせいにしている。もし繰り返し思うのなら、遠いという事があり得ようか?これは、権謀は知ることが出来るが、思う事は出来ないことを言っている。ものを思うのには順序があり、思うための材料を思えなければ、思う事は出来ない。だからただ、知ることが出来るだけだ。
付け足し。先生は存在への疑問の極致を言った。本章は権謀の道が困難であることを明らかにしている。そもそも正道は行いやすく、権謀は達成しがたい。権謀の道を明らかにしようと思うなら、まず正道に従わねばならない。
ここで言う道とは、儒学の道を言う。他人とは所詮、師匠を同じくして共に学ぶことができるのがせいぜいだ、と言っている。その性根が分からないのに、友達づきあいは出来ない。志望を同じくしたときに、助け合えるだけだ。
「可與適道未可與立」とあるが、立とは権謀を企むことだ。人の性根はそれぞれ違うから、もし学問が共に出来ても、世の中で中立を保てるとは限らない。だから共に学ぶことが出来ても、権謀を共にすることは出来ないのだ。
「可與立未可與權」とあるが、權とは通常の手段ではないが孔子の聖道にかなうものをいう。変化とそのことわりに通じなければ、行うのは不可能だ。だからともに正道に立つことは出来ても、共に権謀を企むことは出来ない。
だから王弼は言った。「権謀とは正道の変形である。変化にはもとより常態が無い。神通力で権謀を明らかにするのは人でも出来うるが、先行きを予想するのは、至難の技である。」
張憑「この言葉は、儒学を学ぶ者の学習順序を示している。始めは学に志し、その無知を改めようと願い、まだ知らない事を知ろうとするのである。すでに学に志したのに、途中で心がくじけたら、必ず中途半端で終わるのである。もし決意が固くても、変化のことわりを知り権謀を企むことは出来ないのである。互いにひるがえって背け合うのがまた道を同じくするのは、毎日精進し、積み重ねを積み重ねてやっと、権謀を企てられるようになるのだ。」
「唐棣之華偏其反而」とは、この詩を引用することで、権謀の何たるかを明かそうとしているのだ。唐棣とはスモモの木である。華とは花びらである。そもそも樹木の花は、まず一緒になってから開く。ところがスモモの花は、先に開いてから一緒になる。これは正道に譬えるなら、何事も順序があり、権謀に譬えるなら、まず互いに背を向けてから、その後社会の基礎になるのを言っている。だから「偏其反而」と言った。偏というのは、その道が常道からは外れたことを言ったのである。
「豈不爾思室是逺而」とあり、そもそも思うだけで逢えない者が出るのは、互いの住まいが遠いせいである。人はどうして権謀を思わないだろうか。権道をあるいは玄邈(真っ暗なようす)といい、それは住まいが遠いようなものだ。
「子曰うんぬん」とあり、ここで孔子の言葉を引いて人は権謀を思えることを示している。見坊は思うのは簡単で、ただ思いもしないものがこの世に居るだけだ。もし道に背いて権謀を思うなら、間違いなく思うのはたやすい。だから「夫何逺之有也」と言った。
注釈。そこへ赴くことの窮極である。異端とは、正しい経典に無い教えである。人にはそれぞれ個性があり、ある人は正しい学問になじめない可能性がある。付ける薬はただ、正史と儒教の宗匠が残した本を読むことだけだ。だから、まだ共に正道を歩むことが出来ないことがあるのだ。
注釈。あってもしかし、ということの極みである。物事の優先順位がよく分かるのは、つまり権謀を知り尽くすことである。
注釈。この詩経から漏れた詩は遠さの極みを歌う。過去の解釈の通りだ。権道が常道に背くように見えてのちには社会の基本となるのである。始めは逆らい、後に従うのである。
「正史」のなんたるかは、論語郷党篇12余話「せいっ、シー」を参照。
新注『論語集注』
「唐棣之華,偏其反而。豈不爾思?室是遠而。」棣,大計反。唐棣,郁李也。偏,晉書作翩。然則反亦當與翻同,言華之搖動也。而,語助也。此逸詩也,於六義屬興。上兩句無意義,但以起下兩句之辭耳。其所謂爾,亦不知其何所指也。子曰:「未之思也,夫何遠之有?」夫,音扶。夫子借其言而反之,蓋前篇「仁遠乎哉」之意。程子曰:「聖人未嘗言易以驕人之志,亦未嘗言難以阻人之進。但曰未之思也,夫何遠之有?此言極有涵蓄,意思深遠。」
本文「唐棣之華,偏其反而。豈不爾思?室是遠而。」
棣は、大-計の反切で読む。唐棣とは、スモモのことである。偏の字は、晋書では翩と書いている。つまり反とは翻と意味が同じだ。花びらが舞い落ちるさまを言ったのである。而は助辞で意味が無い。引用の詩は『詩経』から漏れたうたである。詩の分類としては興の部門に属する。はじめの二句には意味が無い。下の句を導くために歌われただけだ。爾”あなた”とあるが、実のところ誰を指したのか分からない。
本文。「子曰:未之思也,夫何遠之有?」
夫は扶の音で読む。先生は歌詞を借りて”そうではない”の意を表したので、論語述而篇19「仁遠からんか」の趣旨を改めて語った。
程頤「聖人は思い上がった人の性根を言葉で叩き直そうとはしなかったし、人のやる気を説教して削ぐようなことはしなかった。ただ、”思っていないな。どうして遠いことがあろうか”とだけ言った。この言葉には極めて深い含蓄があり、こめた思いは深い。」
程頤は安定して下らない出任せを言っている。どういう含蓄や思いなのか言わないと、言われても何が何やら分からない。宋儒の書き物は宋儒の勉強不足と幼稚な自己顕示欲をわきまえて読むべきで、まともに付き合うべきではない。詳細は論語雍也篇3余話「宋儒のオカルトと高慢ちき」を参照。
余話
サーユイユイ?
訳者には中国詩の知識が、中学程度しかない。従ってその解説を標榜する書き物の、真偽を判断することは出来ない。日中の漢文業者には、どちらも油断ならない詐欺師が少なからずいることをたびたび示してきた。従ってせめて人柄が誠実な人の書き物を信用するしかない。
吉川幸次郎が中国人の扮装をして京大構内に逃げ隠れ、さらに国外逃亡して徴兵を逃れたことは自分で白状している。だが同じく京大に勤務した宮崎市定博士は、応召して出征した。同じように東大の藤堂明保博士は、開戦時シンガポールにいたにも拘わらず、現地で応召した。
吉川の卑劣が明らかになっているのは、戦後のおかしな価値観により、徴兵から逃げ回ったのがあたかも正義であるかのように語れたからだ。だが日本中の父や夫や息子や兄弟が戦場に引っ張られる中、所詮は卑劣漢で、対して逃げられるのに従軍を甘受した人はまともと思う。
ただし藤堂博士は戦後になって頭が真っ赤になってしまい、東大で暴れ回った幼稚なDKどもを支持して東大教授を辞めてしまった。これで漢学業界が真人間の集まりになるきっかけが失われたのだが、それでも主義主張に自分の筋を通す藤堂博士の人柄は信用できる。
従って以下は、藤堂博士『学研漢和大字典』と『漢文概説』に全く依拠して述べる。
韻
詩は何よりも「うた」である…詩が「うた」である以上、耳にあたえる効果をたいせつにするのはどの言語でも同じだ。うたをうたってある程度の長さ(句)で一息つく。また最後のひびきが耳に残る。また一くぎりうたって一息つく。また最後の響きが耳に残る。余韻とはがんらい耳に残る響きをいうが、この一くぎりごとのひびき(脚韻)が同じなら整ったいい感じに聞こえる。このように韻を合わせるのを「韻を踏む(押韻)」「脚韻を踏む」などという。
楽しい内容の詩にはのびのきく韻がふさわしいし、悲しい内容の詩にはすんづまりの韻が似合う。…韻が中国の詩形を組み立てる三要素の第一ということになる。(『学研漢和大字典』中国の詩)
律
…ことばの性質にあった適当な長さが…詩形を組み立てる要素になる。…略して「律」(がんらいは、きまりの意)といえばよい。
古くは前十一~前七世紀のうたを集めた…最古の詩集『詩経』の基本リズムは四音節である。漢字は字の数と音節の数が一致する一字一音だからこれを「四言」といった。イチ・ニッ・サン・シッというこの四言のリズムは、くりかえしのきく安定して長続きのする調子なので、労働のテンポから来たといわれる。また前三世紀、戦国時代の『楚辞』の基本リズムが、イチ・ニッ・サン、イチ・ニッ・サン、と情熱的で変化に富む三音節(三言)であるのは、踊りのテンポからきたという。
漢代におこった…六朝時代(三-六世紀)に主流となった五音節詩(五言詩)だった。そして、同じ六朝時代に民謡として育ちつつあった七音節詩(七言詩)が、やがて主流になったのが唐代だといえる。(同)
平仄
うたにはメロディーがある。…宋以前の漢語の発音は、現代中国語とはかなり違うが、それでも日本語より高低差のはげしい点では同じといえる。…だからわれわれにはこのメロディーのもと(平仄)が感じにくい。
高低アクセントが…組織立てられたのは五世紀のことである。…おおらかにのばせる平らなアクセント(平)が、すんづまりでひねったアクセント(仄。これはさらに上・去・入に分けられる)に属するかという分類が行われるようになった。(同)
以上を踏まえ、論語の本章に引用の詩を吟味する。付けた発音記号はカールグレン上古音といい、先秦両漢時代の中国語の再建音のうち、世界で最もひろまっているものだ。
偏其反而 pʰi̯an(平) ɡʰi̯əɡ(平) pi̯wăn(上) ȵi̯əɡ(平)
豈不爾思 kʰi̯ər(上) pi̯ŭɡ(平/上) ȵi̯ăr(上) si̯əɡ(平/去)
室是遠而 ɕi̯ĕt(入) ȡi̯ĕɡ(上) ɡi̯wăn(上/去) ȵi̯əɡ(平)
第二句から最終の第四句まで韻を踏み、四言律詩で、おおむね平声で各句を終えていることがわかる。しかも第三句に「豈」”どうして…だろうか?”という感情を示す語があるため、ほかの句は「之」「其」「是」といった本来無くてよい語を加えて四言に揃えたことがわかる。
日本の民謡で「ホイ」「アリャアリャ」と入るようなものだが、引用詩も同様に、「之」「其」「是」どれも肯定の意を示す語で、「豈」も反語=強い肯定だから語義を同列にする。これは何を意味しているのか? 上掲現代中国での解釈のような、悲しい歌ではないのだ。
現代中国での解釈例
スモモの花が咲いた。ひらひらとひるがえる。私は思えないのか? ただ行くにはあまりに遠いのだ。
引用詩は各句とも「楽しい内容の詩」に「ふさわしい」「のびのきく韻」であり、「おおらかにのばせる平らなアクセント」で終わり、全体は「くりかえしのきく安定して長続きのする調子」である四言詩の形を取る。つまり歌い手は鼻で相手をせせら笑って行きたくないわけだ。
以上、藤堂博士への依拠を終える。
だから孔子は「そこまで相手を思っていないな、この歌い手は」と評した。仮に論語の本章が史実なら、歌と孔子の評それぞれの意がよく似合う。「棣」「豈」の、論語時代に於ける不在はともあれ、ほかの言葉で歌われていたのだとする推測は成り立ちうる。
ただし論語の本章をこの部分に編入した漢儒の時代、宮廷には楽府がおかれて各地の民謡を集めて記録した。何せ広大な中国のことである。多様な民謡がありその影響で詩の構成要素が大幅に変わったのは引用した藤堂博士の解説通りだ。漢儒が引用詩の意図を理解していたか疑わしい。
何せ自分らの栄耀栄華のために、火の無いところへ煙を立てまくった儒者のことである(論語公冶長篇24余話「人でなしの主君とろくでなしの家臣」)。詩の解釈などいくらでもねじ曲げた。「豈」の初見は秦帝国が成立する頃だが、始皇帝はウソツキには本気で怒る性格だった。
従って儒者が経典を勝手にいじくることが出来たとは思えない。だから本章の歌と評には史実性があるものの、前漢の董仲舒あたりか愚劣な後漢儒(後漢というふざけた帝国)がこの子罕篇を膨らまし、あたかも孔子の辞世のように見せる目的で組み込んだと訳者は睨んでいる。
だから上掲の古注が、わけのわからないことばかり書き付けているのはもっともだ。読めなかったのを誤魔化している。ただし帝政期の儒者はぞんがい楽な稼業でない。仕官しないと生活の手段が無く、例外は実家が大地主で兄弟がいない場合だけだ。それは希有な例外だ。
カネに余裕がある当主が、妾を沢山かかえないわけがないからだ。女が寄ってこない理由もない。安里屋ユンタはごく普通の貧乏男にとって珍無類の奇跡だから歌になった。ごく当たり前の日常など、地獄すぎて誰も歌詞に書かないし、だれも曲を作って歌おうとは思わない。
「サーユイユイ」なわけがない。
話を中華帝国の儒者に戻そう。仕官できても道は険しい。儒教経典を読める学者を理由に朝廷に抱えられた者が、論語を読めませんと言えば罷免される。弱り目に祟るのが中国人のさがで、辞めたらあることないこと言われ多くは収監→少なからず刑死の憂き目に遭う。
言われるのは人を押しのけて仕官したからで、多くの人間に「死んでしまえ」と恨まれている。官界は常に買い手市場だから、おとしめに掛かる敵はわんさかいる。だから在任中はせっっせとワイロを取って蓄える必要があるのだ。カネしか頼りになるものがないからだ。
だから読めませんでしたとは死んでも言えない。儒者の書き物はそれを踏まえて読むべきだ。
参考動画
『論語』子罕篇おわり
お疲れ様でした。
コメント