論語:原文・書き下し
原文(唐開成石経)
子曰歲寒然後知松柏之後彫也
校訂
東洋文庫蔵清家本
子曰歲寒然後知松柏之後彫也
慶大蔵論語疏
子曰〔山戌一川〕1寒然〔彳𠂊夂〕2知松栢3之後彫也
- 「歲」の異体字。「魏元偃墓誌」(北魏)刻。
- 「後」の異体字。「漢建威將軍□〓碑」刻。「隋處士范高墓志」刻字に近似。
- 「柏」の異体字。「魏李挺墓誌」(東魏)刻。『干禄字書』(唐)所収。
後漢熹平石経
(なし)
定州竹簡論語
(なし)
標点文
子曰、「歲寒、然後知松柏之後彫也。」
復元白文(論語時代での表記)
松
※論語の本章は「松」の字が論語の時代に存在しない。本章は漢儒による創作である。
書き下し
子曰く、歲寒うして、然る後に松柏之後れて彫むを知る也。
論語:現代日本語訳
逐語訳
先生が言った。「その年が寒い時、マツやヒノキが他の樹木に後れて枯れることを知るなあ。」
意訳
息子も顔回も子路も世を去った。
今年は寒いな。…おやそのはずだわ、マツやヒノキまで枯れているじゃないか。
従来訳
先師がいわれた。――
「寒さに向うと、松柏の常盤木であることがよくわかる。ふだんはどの木も一様に青い色をしているが。」下村湖人『現代訳論語』
現代中国での解釈例
孔子說:「天冷時,才知道鬆柏最後凋謝。」
孔子が言った。「気候が寒くなって、やっとマツやヒノキが最後に枯葉を落とすことに気付く。」
論語:語釈
子曰(シエツ)(し、いわく)
論語の本章では”孔子先生が言った”。「子」は貴族や知識人に対する敬称で、論語では多くの場合孔子を指す。「子」は赤ん坊の象形、「曰」は口から息が出て来るさま。「子」も「曰」も、共に初出は甲骨文。辞書的には論語語釈「子」・論語語釈「曰」を参照。
この二文字を、「し、のたまわく」と読み下す例がある。「言う」→「のたまう」の敬語化だが、漢語の「曰」に敬語の要素は無い。古来、論語業者が世間からお金をむしるためのハッタリで、現在の論語読者が従うべき理由はないだろう。
歲*(セイ)
(甲骨文)
論語の本章では”この一年”。初出は甲骨文。初出の字形は「戉」”まさかり”で、派生字で近音の「越」”時間が進む”の意。日本で言う「年越し」とはこの意をよく表している。甲骨文の段階で「夂」”あし”の形を加えて”まさかり”と区別した例がある。旧字体の部品が「𣥂」であるのに対し新字体は「小」で、総画数は同じだが字形は「歳」。「サイ」は呉音。甲骨文から”とし”の意に用いた。詳細は論語語釈「歳」を参照。
慶大蔵論語疏では異体字「〔山戌一川〕」と記す。「魏元偃墓誌」(北魏)刻。
中国で木星を歳星と呼ぶのは、黄道(星座を固定した背景と考えた場合の天球上を1年かけて太陽が進む軌道)に沿って約12年で天球を一周することから、暦上での1年の基準とされたため。同様の天文学がバビロニアにもあったとwikiはいう。
寒*(カン)
(金文)
論語の本章では”寒い”。初出は西周早期の金文。字形は「宀」”屋根”+「人」+「夂」”足”+「二」”地面”+「十」4つ”凍ったさま”。屋内の土間まで凍る寒さのさま。西周末期までに原義のほか、地名・人名・器名に用いた。ただし春秋時代の用例は見られない。詳細は論語語釈「寒」を参照。
北海道の地名に見える「寒」の字のいくつかは、アイヌ語の「サム」”傍ら”に当てた字という。
然(ゼン)
(金文)
論語の本章では”そうなる”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は春秋早期の金文。「ネン」は呉音。初出の字形は「黄」+「火」+「隹」で、黄色い炎でヤキトリを焼くさま。現伝の字形は「月」”にく”+「犬」+「灬」”ほのお”で、犬肉を焼くさま。原義は”焼く”。”~であるさま”の語義は戦国末期まで時代が下る。詳細は論語語釈「然」を参照。
後(コウ)
(甲骨文)
論語の本章では時間的な”以後”。「ゴ」は慣用音、呉音は「グ」。初出は甲骨文。その字形は彳を欠く「幺」”ひも”+「夂」”あし”。あしを縛られて歩み遅れるさま。原義は”おくれる”。甲骨文では原義に、春秋時代以前の金文では加えて”うしろ”を意味し、「後人」は”子孫”を意味した。また”終わる”を意味した。人名の用例もあるが年代不詳。詳細は論語語釈「後」を参照。
慶大蔵論語疏は異体字「〔彳𠂊夂〕」と記す。「漢建威將軍□〓碑」刻。「隋處士范高墓志」刻字に近似。
知(チ)
(甲骨文)
論語の本章では”知る”。現行書体の初出は春秋早期の金文。春秋時代までは「智」と区別せず書かれた。甲骨文で「知」・「智」に比定されている字形には複数の種類があり、原義は”誓う”。春秋末期までに、”知る”を意味した。”知者”・”管掌する”の用例は、戦国時時代から。詳細は論語語釈「知」を参照。
松(ショウ)
(戦国金文)
初出は戦国時代の金文。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。字形は「木」+「公」。「公」は音符で、藤堂説ではスキマの空いた葉の姿を意味するとする。原義は”マツの木”。同音に”マツ”を意味する漢字は無い。戦国時代の晋の金文で氏族名・地名に用い、戦国の竹簡で原義に用いた。この文字の出現以前、漢語でマツをどのように呼んだかは明らかではない。詳細は論語語釈「松」を参照。
柏(ハク)
(甲骨文)
論語の本章では”ヒノキ科の常緑の針葉樹”。初出は甲骨文。字形は「白」”どんぐり”+「木」で、ドングリのなる木。原義は”カシワ”。のちに指す樹木の種類が増え、もっぱらドングリを付けないヒノキ科の側柏(コノテガシワ)や扁柏(ヒノキ)、圓柏(カイヅカイブキ)、羅漢柏(アスナロ)を意味するようになった。詳細は論語語釈「柏」を参照。
慶大蔵論語疏では異体字「栢」と記す。上掲「魏李挺墓誌」(東魏)刻。『干禄字書』(唐)所収。
松柏(ショウハク)
マツもヒノキも、中国では墓に植える木だったことから、”墓”の意がある。すると読み下しから変更の必要がある。
(今年は寒い。だからこそ、先だった顔回や子路、息子の孔鯉の後を追って、私にも死期が迫ったことを知った。)
之(シ)
(甲骨文)
論語の本章では”…の”。初出は甲骨文。字形は”足”+「一」”地面”で、あしを止めたところ。原義はつま先でつ突くような、”まさにこれ”。殷代末期から”ゆく”の語義を持った可能性があり、春秋末期までに”~の”の語義を獲得した。詳細は論語語釈「之」を参照。
彫*(チョウ)
(金文)
論語の本章では”枯れて縮まる”。初出は春秋早期の金文。字形は「氵」+「周」。「稠密」と言うように、「周」の音には”ぎゅっと縮まる”の意があるらしく、水気を含んだものをしぼるさま。春秋早期の金文で、”(しぼられ)衰える”の意に用いた。詳細は論語語釈「彫」を参照。
也(ヤ)
(金文)
論語の本章では、「かな」と読んで詠歎の意。初出は事実上春秋時代の金文。字形は口から強く語気を放つさまで、原義は”…こそは”。春秋末期までに句中で主格の強調、句末で詠歎、疑問や反語に用いたが、断定の意が明瞭に確認できるのは、戦国時代末期の金文からで、論語の時代には存在しない。詳細は論語語釈「也」を参照。
論語:付記
検証
論語の本章は春秋戦国の誰一人引用も再録もせず、前漢中期の定州竹簡論語にも無いが、やや先行する『史記』伯夷伝に「子曰」以外が引用されている。『史記』が後世いじられなかったわけがないが、前漢時代には本章が成立していたと考えてよい。ただし文字史上から、論語の時代には遡れず、前漢儒による創作と断じて構わない。
解説
従来訳のように、マツやヒノキを讃える章と解釈するのは、朱子の新注をやや改変したもの。
范氏曰:「小人之在治世,或與君子無異。惟臨利害、遇事變,然後君子之所守可見也。」謝氏曰:「士窮見節義,世亂識忠臣。欲學者必周於德。」
范祖禹「小人の世を治めるに在るや、或いは君子と異い無からん。惟うに利害に臨み、事変に遇いて、然る後に君子の守る所を見る可き也。」謝氏曰く、「士の窮するや節義を見し、世乱れて忠臣を識る。学びの者必ず徳に周からんを欲す。」
范祖禹「凡人が世を治めても、あるいは君子と違いは無いだろう。しかし利害が絡んだり、突発的事件が起こると、君子の高潔さが現れるのだ。」
謝良佐「君子は追い詰められるほど高潔さを示し、世の中が乱れると忠義の臣が現れる。学問をする者は、必ず徳を身につけなければならない。」(『論語集注』)
もちろん范祖禹も謝良佐も、自分は君子だと思っている。そして言っている事は、実は古注のコピペだ。他に何を言う才も人生経験も無かったのだろう。とりわけ謝良佐は、「知行合一」”自分が正しいと思うなら何でも正義”という、〒囗にお墨付きを与えた毒男だった。
この句がどんなに、中朝日の文系バカな〒囗刂ス卜の言い訳になってきたか分からない。中国の古拙な似顔絵は、存外その人物を表し、謝良佐はなるほどそのように描かれている。宋儒のろくでもなさについては、論語雍也篇3余話「宋儒のオカルトと高慢ちき」を参照。
また論語の本章は、故事ことわざ「一葉落ちて天下の秋を知る」の元ネタの元ネタ。
見一葉落、而知歲之將暮。睹瓶中之冰、而知天下之寒。(『淮南子』説山訓)
一葉落つるを見、し而歳之将に暮れなんとするを知る。瓶中之氷るを睹、し而天下之寒きを知る。
木の葉が一枚舞い落ちるのを見て、その年がもうすぐ終わるのを知る。水瓶の水が凍るのを見て、世界が寒くなったのを知る。
マツやヒノキが枯れるとは余程の寒さ。しかし論語時代の気候調査は訳者の手に余るし、気温変動のように天文学・地質学的な数値やデータとなると、個別の数値には大きな変動があるので、書き物的話題として扱うことが難しい。しかし概して、古代は現代より寒冷だった。
論語の時代は日本史で言う縄文時代の末期に当たり、その時代日本では、気温が2度下がり、海面が低下し(弥生海退)、漁労活動に壊滅的な打撃を与えたとされる。論語と中国史と気温の変動を参照。
さらに論語の本章は、『史記』孔子世家に記された、死去直前の孔子の言葉に対応するもの。
孔子、因って歎じて、歌いて曰く、「太山壊れんか、梁柱摧けんか、哲人萎えんか。」因って以て涕下る。
孔子は子貢を前にして嘆き、歌った。「大きな山も、いずれ崩れてしまう。太い梁や柱も、いずれ折れてしまう。世を悟った人も、いずれ枯れてしまう。」歌いながら涙を流した。
なお上掲の新注は、朱子とその引き立て役の高慢ちきを書いたものではあるが、宋代の儒者については一つだけ、つけ加えねばならないことがある。
それは宋王朝が亡ぼうとしたとき、太平の世なら蝶よ花よとチヤホヤされて一生を終えるはずの状元=科挙の主席合格者だった文天祥が、義勇軍を組織してモンゴル帝国と戦ったことであり、離島に追い詰められた最後の皇帝を儒者たちは守り、いよいよとなった時に幼い皇帝と共に身を投げたこと。高慢ちきでワイロ取りの偽善者ばかりだったが、最後だけは立派だった。
北宋の徽宗皇帝も「朕」という偉そうな自称をかなぐり捨てて、「天下万民の諸君、今さらどう言っても追いつかないが、どうか私(余)を許してくれ!」と叫んだ声を発布した。政府との信頼が決定的に失われている現在では信じがたいが、民百姓はこぞって義勇軍に参加した。
『宋史』本紀の末文は、まるで『平家物語』壇ノ浦のくだりを彷彿とさせる。訳文を載せたが、可能ならば、書き下し文で読むことを勧める。訳者は、いわゆる中華文明のうち善きものの伝統は、ここで絶えたと思っている。
言い換えると、孔子の中国は宋の滅亡とともに滅び去った。後に残ったのは、ひたすら福禄寿の奴隷に徹する、昆虫のように合理的な利益追求に過ぎない。現代の中国・台湾も、もちろんその範疇にある。中華文明はもとから身勝手だったが、宋が滅ぶとあらわになった。
- 論語学而篇4余話「中華文明とは何か」
日本で言えば、「尼ぜ、われをばいづちへ具さんとするぞ」と問う幼い安徳帝に、「西に向かいて御念仏さぶろうべし。波の下にも都のさぶろうぞ」と答えた二位の尼のような光景は、すっかり絶え果てたと言ってよい。壇ノ浦の合戦から94年後、宋帝国は滅亡した。
論語の本章、古注は次の通り。
古注『論語集解義疏』
子曰嵗寒然後知松栢之後凋也註大寒之嵗衆木皆死然後知松栢之小凋傷平嵗則衆木亦有不死者故須嵗寒而後别之喻凡人處治世亦能自修整與君子同在濁世然後知君子之正不苟容也疏子曰至凋也此欲明君子徳性與小人異也故以松柏匹於君子衆木偶乎小人矣言君子小人若同居聖世君子性本自善小人服從教化是君子小人竝不為惡故堯舜之民比屋可封如松柏與衆木同處春夏松柏有心故本蓊鬱衆木從時亦盡其茂美者也若至無道之主君子秉性無回故不為惡而小人無復忌憚即隨世變改桀紂之民比屋可誅譬如松柏衆木同在秋冬松柏不改柯易葉衆木枯零先盡而此云嵗寒然後知松柏後凋者就如平叔之注意若如平嵗之寒衆木猶有不死不足致別如平世之小人亦有脩飾而不變者唯大寒嵗則衆木皆死大亂則小人悉惡故云嵗寒也又云然後知松栢後凋者後非俱時之日凋非枯死之名言大寒之後松柏形小凋衰而心性猶存如君子之人遭值積惡外逼闇世不得不遜跡隨時是小凋矣而性猶不變如松柏也而琳公曰夫嵗寒別木遭困别士寒嚴霜降知松柏之後凋謂異凡木也遭亂世小人自變君子不改其操也
本文「子曰嵗寒然後知松栢之後凋也」。
注釈。寒波が押し寄せた年は、もろもろの樹木がみな枯れ果てたあとでも、マツやヒノキは少しだけ傷んだだけなのを知れる。普通の年なら、もろもろの樹木の内にも枯れないものがあるから、寒波の年でないとこの違いは分からない。これは小人(凡人)が、もし治世なら君子と同じように自分で自分を改善できるが、乱世になってようやく、君子の正しさが判明するし、小人とは似て以つかないことが分かる。
付け足し。先生はしぼむことの極致を言った。これは君子の徳性が小人とは異なる事を明らかにしようとしたものである。だからマツやヒノキが孤高に立つのを君子に譬え、世の小人どもがただ群れているのをもろもろの樹木に例えた。君子と小人は、もし同じ聖王の治める世の中なら、もともと善良な君子は、小人の頭を洗脳して大人しくさせるから、小人も君子と並んで悪事を働かない。だから堯舜の民は同じ屋根の下で栄えることが出来る。これはマツやヒノキが、もろもろの樹木と春や夏を共にするようなものである。マツやヒノキにだけ、心があるのだ。だから樹木の茂りは、雑木の場合は季節に従い、その茂りも美しいほどに至る。だがもし無道の王が出ても、君子が事なかれ主義でやり過ごすから、悪事を働きはしないが、小人は誰はばかることも無くなり、世情に従って右往左往する。だから桀紂のような暴君の民は、同じ屋根の下で重税と厳刑に苦しむのは、マツやヒノキが雑木と秋冬を共にするようなものである。マツやヒノキは枝は落とさないが葉は落とし、雑木はまるごと枯れ果てる。だから本章で言う「嵗寒然後知松柏後凋」とは、平叔(何晏の字)が注目したとおりである。もし平年の寒さなら、雑木も枯死せずに済むのだから、マツやヒノキとの違いが分からない。もし普通の世の小人なら、身を慎んで悪さをしない。しかし寒波の年は、雑木は一本怒らず枯れ果ててしまう。同様に大乱の世では、小人は一人残らず悪党になるから、「嵗寒」と言ったのだ。また「然後知松栢後凋」とあるが、「後」とあるからには、枯れ果てたものと共に時を見ていない。「凋」とは枯れずに生き残ったものの名である。つまり寒波のあと、マツやヒノキはややしぼんで衰えるが、その心はまだ生き残っている。君子のような人は、悪党の暴虐にさらされ、世間は真っ暗な世の中になると、世情に従わないわけには行かない。これがややしぼむことである。だがその性根は相変わらずなのは、マツやヒノキと同じである。
琳公「そもそも寒波が来て樹木に見分けが付くのは、困難によって士の区別がつくようなものだ。寒さが厳しく霜も降って、マツやヒノキがしぼんだのがわかる。つまり雑木と区別がつく。乱世に遭うと、小人は全自動で悪党に変身するが、君子はその操を変えようとはしないのである。」
つまり君子を称する輩が、全自動で元から悪党だったから、中国では昔から善人が浮かび上がれず、今なおあんな国のままなのだ。宋末になって戦った士大夫はそう思ったに違いない。
余話
人は見かけに
上掲の謝良佐のみならず、宋儒の似顔絵は当人の、ろくでもない人格を表した例が多い。滅びかけの元帝国から宋学は中国の国教になったが、漢文が読めずひたすら伏し拝んだ江戸儒と異なり、中国人の少なくとも絵描きは、これらの者どもが何をしたか知って描いたと見える。
現存のこれら似顔絵で、古いのはたいてい明代のものだが、こういう笑い話が残っている。
一人要寫行樂圖。連紙墨謝儀。共只三分。画者乃用水墨于荊川紙上。画一背像。其人曰。寫真全在容顏。如何背了。画者曰。我勸你莫把面孔見人罷。
ある者が墨絵で似顔絵を描いて貰うのに、絵師に銀三分しか出さなかった。絵師は本来絹に描くべきところ、透けて見えるほど薄い安物紙に、客の後ろ姿を描いた。
客「似顔絵を描いてくれと頼んだんだ。なんで背中なんか描くんだ。」
絵師「ああたのようなお人にはね、世間様に会わせる面ぁなんざ無い、と申し上げているんですよ。」(『笑府』巻八・行楽図)
「行樂圖」とはピクニックの風景ではなく、明代の漢語では”似顔絵”の意。「銀三分」がいかほどか、『笑府』の別の段には、毛皮のハンカチ一枚を質入れした価値、または溺れた人を助ける謝礼には少なすぎる金額として記されている。「行樂圖」には次のような噺もある。
有持券借債者。主人曰。不須券。只畵一幅行樂圖來可也。問其故。曰。怕日後討債時。不是這般面孔耳。
証文を書いて金を借りようとする者がいた。
金主「証文は要らない。今のああたの似顔絵でいい。」
借り手「なぜです?」
金主「催促の時を思うと恐ろしい。ああたが今のように、笑みを作っているわけがない。」(『笑府』巻三・借債)
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