論語:原文・書き下し
原文(唐開成石経)
子曰知者不惑仁者不憂勇者不懼
- 「勇」字:〔甬力〕。
※論語憲問篇30と酷似。
校訂
東洋文庫蔵清家本
子曰智者不惑/仁者不憂/勇者不懼
慶大蔵論語疏
子曰〔矢口日〕1者2不〔弋くく〕3(心)4/仁者2不憂/〔䒑田勹丿〕5者2不懼
- 「智」の異体字。「北魏光州靈山寺〓下銘」刻。
- 新字体と同じ。原字。
- 「或」の異体字。「唐宮官司設墓誌」刻。
- 「或」字の下に書き足し。
- 「勇」の異体字。「唐薛義墓誌」刻字近似。
後漢熹平石経
(なし)
定州竹簡論語
子曰:「智者不惑,仁者不憂,241……
標点文
子曰、「智者不惑、仁者不憂、勇者不懼。」
復元白文(論語時代での表記)
惑 懼
※仁→(甲骨文)。論語の本章は、「惑」「懼」の字が論語の時代に存在しない。本章は戦国末期以降の儒者による創作である。
書き下し
子曰く、智き者は惑は不、仁ある者は憂へ不、勇む者は懼れ不。
論語:現代日本語訳
逐語訳
先生が言った。「智者は迷わず、仁者は憂えず、勇者は恐れない。」
意訳
頭の良い者は、何が正しいか迷わない。
情け深い者は、復讐の憂いがない。
勇ましい者は、恐れない。
従来訳
先師がいわれた。――
「知者には迷いがない。仁者には憂いがない。勇者にはおそれがない。」下村湖人『現代訳論語』
現代中国での解釈例
孔子說:「明智的人不會迷惑,仁愛的人不會憂愁,勇敢的人不會害怕。」
孔子が言った。「智恵ある人は迷わない、人情家は心配しない、勇敢な人は恐れない。」
論語:語釈
子曰(シエツ)(し、いわく)
論語の本章では”孔子先生が言った”。「子」は貴族や知識人に対する敬称で、論語では多くの場合孔子を指す。「子」は赤ん坊の象形、「曰」は口から息が出て来るさま。「子」も「曰」も、共に初出は甲骨文。辞書的には論語語釈「子」・論語語釈「曰」を参照。
この二文字を、「し、のたまわく」と読み下す例がある。「言う」→「のたまう」の敬語化だが、漢語の「曰」に敬語の要素は無い。古来、論語業者が世間からお金をむしるためのハッタリで、現在の論語読者が従うべき理由はないだろう。
知(チ)→智(チ)
唐石経は「知」と記し、清家本は「智」と記し、慶大本は「智」の異体字で記し、定州竹簡論語では、普段は「智」の異体字「𣉻」と釈文されるが、論語の本章の場合は「智」と記して注記がない。時系列に従い「智」へと校訂した。論語の伝承について詳細は「論語の成立過程まとめ」を参照。
原始論語?…→定州竹簡論語→白虎通義→ ┌(中国)─唐石経─論語注疏─論語集注─(古注滅ぶ)→ →漢石経─古注─経典釈文─┤ ↓↓↓↓↓↓↓さまざまな影響↓↓↓↓↓↓↓ ・慶大本 └(日本)─清家本─正平本─文明本─足利本─根本本→ →(中国)─(古注逆輸入)─論語正義─────→(現在) →(日本)─────────────懐徳堂本→(現在)
(甲骨文)
論語の本章では”知るということ”。現行書体「知」の初出は春秋早期の金文。春秋時代までは「智」と区別せず書かれた。甲骨文で「知」・「智」に比定されている字形には複数の種類があり、原義は”誓う”。春秋末期までに、”知る”を意味した。”知者”・”管掌する”の用例は、戦国時時代から。詳細は論語語釈「知」を参照。
慶大蔵論語疏は「智」の異体字「〔矢口日〕」と記す。上掲「北魏光州靈山寺〓下銘」刻。文字的には論語語釈「智」を参照。
者(シャ)
(金文)
論語の本章では”~である者”。旧字体は〔耂〕と〔日〕の間に〔丶〕一画を伴う。新字体は「者」。ただし唐石経・清家本ともに新字体と同じく「者」と記す。現存最古の論語本である定州竹簡論語も「者」と釈文(これこれの字であると断定すること)している。初出は殷代末期の金文。金文の字形は「木」”植物”+「水」+「口」で、”この植物に水をやれ”と言うことだろうか。原義は不明。初出では称号に用いている。春秋時代までに「諸」と同様”さまざまな”、”~する者”・”~は”の意に用いた。漢文では人に限らず事物にも用いる。詳細は論語語釈「者」を参照。
慶大蔵論語疏は新字体と同じく「者」と記す。「耂」と「日」の間の「丶」を欠く。もと正字。旧字の出典は「華山廟碑」(後漢)。
不(フウ)
(甲骨文)
漢文で最も多用される否定辞。初出は甲骨文。「フ」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)、「ブ」は慣用音。原義は花のがく。否定辞に用いるのは音を借りた派生義だが、甲骨文から否定辞”…ない”の意に用いた。詳細は論語語釈「不」を参照。
惑(コク)
(金文)
論語の本章では”まよう”。初出は戦国時代の竹簡。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。「ワク」は呉音。同音に語義を共有する漢字は無い。字形は「或」+「心」。部品の「或」は西周初期の金文から見られ、『大漢和辞典』には”まよう・うたがう”の語釈があるが、原義は長柄武器の一種の象形で、甲骨文から金文にかけて地名・人名や、”ふたたび”・”あるいは”・”地域”を意味したが、「心」の有無にかかわらず、”まよう・うたがう”の語義は、春秋時代以前には確認できない。詳細は論語語釈「惑」を参照。
慶大蔵論語疏は「或」の異体字「〔弋くく〕」と記す。「唐宮官司設墓誌」刻。さらに下に「心」形を書き足している。書き足したのはおそらく読者の日本人で、晩唐に国策によって刻まれた唐石経にならったと思う。
原始論語?…→定州竹簡論語→白虎通義→ ┌(中国)─唐石経─論語注疏─論語集注─(古注滅ぶ)→ →漢石経─古注─経典釈文─┤ ↓↓↓↓↓↓↓さまざまな影響↓↓↓↓↓↓↓ ・慶大本 └(日本)─清家本─正平本─文明本─足利本─根本本→ →(中国)─(古注逆輸入)─論語正義─────→(現在) →(日本)─────────────懐徳堂本→(現在)
仁(ジン)
(甲骨文)
論語の本章では、”常に憐れみの気持を持ち続けること”。初出は甲骨文。字形は「亻」”ひと”+「二」”敷物”で、原義は敷物に座った”貴人”。詳細は論語語釈「仁」を参照。
仮に孔子の生前なら、単に”貴族(らしさ)”の意だが、後世の捏造の場合、通説通りの意味に解してかまわない。つまり孔子より一世紀のちの孟子が提唱した「仁義」の意味。詳細は論語における「仁」を参照。
憂(ユウ)
(金文)
論語の本章では”うれう”。頭が重く心にのしかかること。初出は西周早期の金文。字形は目を見開いた人がじっと手を見るさまで、原義は”うれい”。『大漢和辞典』に”しとやかに行はれる”の語釈があり、その語義は同音の「優」が引き継いだ。詳細は論語語釈「憂」を参照。
勇(ヨウ)
(金文)
論語の本章では、”勇気がある”。現伝字形の初出は春秋末期あるいは戦国早期の金文。部品で同音同訓同調の「甬」の初出は西周中期の金文。「ユウ・ユ」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)。字形は「甬」”鐘”+「力」で、チンカンと鐘を鳴るのを聞いて勇み立つさま。詳細は論語語釈「勇」を参照。
慶大蔵論語疏は異体字「〔䒑田勹丿〕」と記す。上掲「唐薛義墓誌」刻字近似。
懼(ク)
「懼」(金文)
論語の本章では『大漢和辞典』の第一義と同じく”おそれる”。「グ」は呉音。初出は戦国末期の金文。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。字形は「忄」+「瞿」で、「瞿」は「目」二つ+「隹」。鳥が大きく目を見開くさま。「懼」全体でおそれおののくさま。原義は”恐れる”。戦国の金文でも竹簡でも原義に用いた。詳細は論語語釈「懼」を参照。
論語:付記
検証
論語の本章は前漢中期の定州竹簡論語にはあるが、春秋戦国を含めた先秦両漢の誰一人引用していないし、再録していない。わずかに前漢中期の『淮南子』に「知道者不惑、知命者不憂。」とあり、前漢末期の劉向『説苑』に「知命者不惑。」とあり、後漢から晋に書けて編まれたとされる『通玄真経』に「通道者不惑,知命者不憂。」とあるのみ。「惑」の字の論語時代に於ける不在と合わせ、前漢儒による創作と考えるのが筋が通る。
解説
武内義雄『論語之研究』によると、この論語子罕篇の成立は論語の中でも最も新しいという。子罕篇は論語が現伝の二十篇にまとまる過程で、異聞や伝承をもとにつけ加えられた部分だという。また本章について、以下のように言う。
論語憲問篇30は、本章と酷似している。本章の成立は定州竹簡論語に記載があることから、前漢宣帝期(BC74-BC49)よりは下らない。元は孔子の言葉だったのを、戦国時代末期にに「懼」の字が出来てから書き改められ、それが二系統に分かれて現伝論語に取り込まれた。
漢代の学界の通例として、史料批判を行わない。儒者は伝承のたぐいも孔子に関係があれば、重複を恐れず取り込んだ。その代わり子罕篇には明白な編集意図があり、孔子の晩年と死去までを描く事で、祖師・孔子の姿を伝えようとしている。
なお本章からしばらく、論語から「仁」が消える。再登場は論語顔淵篇第十二の1からだ。仁とは孔子の生前は貴族らしさのことで、弟子が貴族らしくなるように教育したのだから、論語子罕篇1の言う「子まれに仁を言う」はウソだが、仁ばっかり教えたわけではないらしい。
頭→
この画像は論語の中で、「仁」がどこにどの程度出現するかを示した分布範囲で、これだけでは取り立てて何がどうとも言えない。ただ真ん中の空白の直前が、本章であることを知っていて頂くために示した。ただし冒頭の集中は、いささか異常であると感じはする。
それはやはり論語学而篇が、全体の導入部であることから来るのだろう。孔子の生前、仁の条件は明記された箇条書き(=のちの「礼」関連経典)になっておらず、とりとめの無いものだったから、それを言葉にして言える弟子は少なかったのだろう。だが教説の中心には違いない。
さて、「知者は惑わず」「勇者は懼れず」は現代の感覚でも理解は出来る。しかし孟子が言い回った「仁義」の人が、憂えないという理屈を、儒者はどうかこつけたのだろう。以下に新古の注を示す。
古注『論語集解義疏』
子曰智者不惑註苞氏曰不惑亂也仁者不憂註孔安國曰不憂患也勇者不懼疏子曰至不懼 此章談人性分不同也云智者不惑者智以照了為用故於事無疑惑憂患也仁人常救濟為務不嘗侵物故不憂物之見侵患也孫綽云安於仁不改其樂故無憂也云勇者不懼者男以多力為用故無怯懼於前敵也繆協云見義而為不畏強禦故不懼也 註孔安國曰不憂患也 內省不疾故無憂患也
本文「子曰智者不惑」。
注釈。包咸「迷って乱れないという事である。」
本文「仁者不憂」。
注釈。孔安国「心配しないという事である。」
本文「勇者不懼」。
付け足し。先生は恐れない窮極を言った。本章は、人の性根とはそれぞれ違うことを語っている。智はそれで明るくして用を足す。だから物事に疑いや心配が無くなる。仁者はいつも人を救うことに努めている。今までただの一度も、他者を傷付けたことが無い。だから自分を傷付けるような物事があっても、心配しない。
孫綽「仁の境地に安心しきってその楽しみを止めようとしないから、心配が無いのである。
「勇者不懼」とは、男は筋力で用を足す。だから敵を前にして怖がらない。
繆協「成すべき正義がある機会で恐れず戦うのである、だから怖がらないのである。」
注釈。孔安国「心配しないのである。」
自分にやましいことが無ければ、心配は起こらないのである(論語顔淵篇4)。
新注『論語集注』
子曰:「知者不惑,仁者不憂,勇者不懼。」明足以燭理,故不惑;理足以勝私,故不憂;氣足以配道義,故不懼。此學之序也。
原文「子曰:知者不惑,仁者不憂,勇者不懼。」明るければ灯明として十分なことわりで、だから迷わない。ことわりをよく理解すれば我欲に勝てる、だから心配が無い。気力が十分なら道義を実践できる、だから恐れない。これこそが学びの順序というものだ。
余話
アホがつけた薬
日本人は長い間、中国人には日本人に無い深い哲理があると信じ込まされてきた。だから武道にも日本武道的哲学を中国武道に求めたりする。だがたいていがっかりして終わる。中国武道の半分はハッタリで出来ていて、それはそれで有効であっても、深い哲理は見られない。
論語の本章に言う「智」(知)にも、”情報”を超える思索的意味をくっつけて解釈したがる。
この章は知仁勇の徳を有する者の心の状態を説いたのである。(宇野哲人『論語新釈』)
何を言っているかわかるだろうか。「徳」を何やら有り難げだがはっきりと言い切れない何事かの意味でしか使っていないから、何を解いたか分からないのである。間違いなく宇野本人も、漢語の「徳」”能力”の語義は知らなかったはずだ(論語における「徳」)。
宇野をたびたび引用したが繰り返すと、宇野は明治から大正にかけて帝大教授として日本漢学業界のボスだった男で、まるで漢文が読めないから江戸儒の出鱈目を繰り返してお茶を濁した。そうとは知らぬ渋沢栄一が論語を読みたいから個人教授を願った。
ところが知れきった出鱈目ばかり説教するので呆れて、博士とも教授とも先生とも書くのを忘れて「宇野さん」と『論語と算盤』に記している。宇野は帝大漢学教授の地位を息子に世襲させた。こちらは掛け値無しの知的低能で、著書らしきものを読むと本物のアホだと誰でも気付く。
宇野(父)に対して中国人は、「知」など大したものではないと見切っていた。
有持竹竿入城者。橫進之不得。直進之不得。截之。則又可惜也。正躊躇間。旁人曰。十里外有李三老。智人也。盍與啇之。適三老騎驢而至。衆欣躍往迎。見其坐于尻上。問云。曷不坐中央。曰。繮繩長耳。
ある百姓が長い竹竿をかついでまちの城門を入ろうとしたが、横たえたままでは門につっかえて入れず、立ててみてもつっかえて入れない。切るしかないか、もったいないなと悩んでいると、通りすがりの人に教えられた。
「ここから十里ほど離れたところに、李三というおじいさんが住んでいて、まことに智恵者だから、案内してあげましょうか。」そこへ丁度、李三老がロバに乗ってまちへやってきた。
「李三さま! 李三さま!」と皆の衆がわいわいと迎えたところ、じいさんはロバの尻の上に乗っている。
ある者「あのー、李三さま、どうしてシリに?」
李三老「うみゅ。手綱が長かったのでな。」(『笑府』巻六・李三老)
漢語には張三李四といって、「張」「李」はありふれた姓、「三」「四」は三男四男の意で、全体で”どこにでもいるオッサン”の意。「李三老」も”どこにでもいるじいさん”の意で、「智人也」と呼ばれても大した人間ではない、とからかっているのだ。
日本では昭和の終わりごろから、「老害」という言葉が言われ始めた。その頃まで老人は珍しかったし、人類の知恵袋でもあったから尊敬されたが、李三老のたぐいが長生きしても、役立たずの知識が溜まっただけと知られ、数も増えたから、長生きされると迷惑と思われ始めた。
宇野と息子が帝大教授に居座って、漢文業界が惑になってしまったのはその一例である。
だが李三老の役立たずが長年かけて積み上がったように、日本人に対する老人を敬えという洗脳も長年を掛けてきたから、無意識に擦り込まれてなかなか剝がれない。言い換えると可燃性のガスが溜まっているようなもので、ひとたび破裂すればすさまじい差別になって現れよう。
訳者はその対象になるのだろうから、今から逃げ隠れする算段を始めている。
コメント