論語:原文・書き下し
原文(唐開成石経)
子曰吾未見好德如好色者也
※論語衛霊公篇13と重複。
校訂
東洋文庫蔵清家本
子曰吾未見好德如好色者也
慶大蔵論語疏
子曰吾〔亠不〕1見好徳2如好色者2也
- 「未」の遊び字。
- 新字体と同じ。原字。『敦煌俗字譜』所収。
- 新字体と同じ。原字。
後漢熹平石経
(なし)
定州竹簡論語
子曰:「[吾未見]231……
標点文
子曰、「吾未見好德如好色者也。」
復元白文(論語時代での表記)
※論語の本章は、「未」「如」「色」の用法に疑問がある。
書き下し
子曰く、吾未だ德を好むこと色を好むが如き者を見ざる也。
論語:現代日本語訳
逐語訳
先生が言った。「私は徳の方を色事より好む者を見たことがないなあ。」
意訳
どいつもこいつも君子を名乗るくせに、助平ばかりだ。少しは人格力を磨いたらどうなんだ。
従来訳
先師がいわれた。――
「私はまだ色事を好むほど徳を好む者を見たことがない。」下村湖人『現代訳論語』
現代中国での解釈例
孔子說:「我沒見過喜歡美德如同喜歡美色的人。」
孔子が言った。「私は美徳を美色と同程度に喜ぶ人を見たことが無い。」
論語:語釈
子曰(シエツ)(し、いわく)
論語の本章では”孔子先生が言った”。「子」は貴族や知識人に対する敬称で、論語では多くの場合孔子を指す。「子」は赤ん坊の象形、「曰」は口から息が出て来るさま。「子」も「曰」も、共に初出は甲骨文。辞書的には論語語釈「子」・論語語釈「曰」を参照。
(甲骨文)
この二文字を、「し、のたまわく」と読み下す例がある。「言う」→「のたまう」の敬語化だが、漢語の「曰」に敬語の要素は無い。古来、論語業者が世間からお金をむしるためのハッタリで、現在の論語読者が従うべき理由はないだろう。
吾(ゴ)
(甲骨文)
論語の本章では”わたし”。初出は甲骨文。字形は「五」+「口」で、原義は『学研漢和大字典』によると「語の原字」というがはっきりしない。一人称代名詞に使うのは音を借りた仮借だとされる。詳細は論語語釈「吾」を参照。
春秋時代までは中国語にも格変化があり、一人称では「吾」を主格と所有格に用い、「我」を所有格と目的格に用いた。しかし論語でその文法が崩れ、「我」と「吾」が区別されなくなっている章があるのは、後世の創作が多数含まれているため。
未(ビ)
(甲骨文)
論語の本章では”まだ…ない”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。「ミ」は呉音。字形は枝の繁った樹木で、原義は”繁る”。ただしこの語義は漢文にほとんど見られず、もっぱら音を借りて否定辞として用いられ、「いまだ…ず」と読む再読文字。ただしその語義が現れるのは戦国時代まで時代が下る。詳細は論語語釈「未」を参照。
慶大蔵論語疏では「〔亠不〕」と記す。他の版本との比較から、「未」と釈文するしかない。異体字としての類例を発見できず、現代のギャル文字同様の遊び字と判断した。慶大本では必ずしもこの字体で書いておらず、たとえば論語子罕篇5「子匡に畏る」では通用字と同じく「未」と記している。
見(ケン)
(甲骨文)
論語の本章では”見る”→”出会う”。初出は甲骨文。甲骨文の字形は、目を大きく見開いた人が座っている姿。原義は”見る”。甲骨文では原義のほか”奉る”に、金文では原義に加えて”君主に謁見する”(麥方尊・西周早期)、”…される”(沈子它簋・西周)の語義がある。詳細は論語語釈「見」を参照。
好(コウ)
(甲骨文)
論語の本章では”好む”。初出は甲骨文。字形は「子」+「母」で、原義は母親が子供を可愛がるさま。春秋時代以前に、すでに”よい”・”好む”・”親しむ”・”先祖への奉仕”の語義があった。詳細は論語語釈「好」を参照。
德(トク)
(金文)
論語の本章では”能力”。初出は甲骨文。新字体は「徳」。甲骨文の字形は、〔行〕”みち”+〔丨〕”進む”+〔目〕であり、見張りながら道を進むこと。甲骨文で”進む”の用例があり、金文になると”道徳”と解せなくもない用例が出るが、その解釈には根拠が無い。前後の漢帝国時代の漢語もそれを反映して、サンスクリット語puṇyaを「功徳」”行動によって得られる利益”と訳した。孔子生前の語義は、”能力”・”機能”、またはそれによって得られる”利得”。詳細は論語における「徳」を参照。文字的には論語語釈「徳」を参照。
慶大蔵論語疏は新字体と同じく「徳」と記す。〔罒〕と〔心〕の間の〔一〕を欠く。『敦煌俗字譜』に所収。甲骨文以来の字形史を考えればこちらの方が原字と言ってよく、〔一〕画を記すのは後漢の隷書から。
如(ジョ)
「如」(甲骨文)
「如」は論語の本章では”…のようである”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。字形は「口」+「女」。甲骨文の字形には、上下や左右に部品の配置が異なるものもあって一定しない。原義は”ゆく”。詳細は論語語釈「如」を参照。
色(ソク)
(金文)
論語の本章では”色事”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は西周早期の金文。「ショク」は慣用音。呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)は「シキ」。金文の字形の由来は不詳。原義は”外見”または”音色”。詳細は論語語釈「色」を参照。
者(シャ)
(金文)
論語の本章では”~である者”。旧字体は〔耂〕と〔日〕の間に〔丶〕一画を伴う。新字体は「者」。ただし唐石経・清家本ともに新字体と同じく「者」と記す。現存最古の論語本である定州竹簡論語も「者」と釈文(これこれの字であると断定すること)している。初出は殷代末期の金文。金文の字形は「木」”植物”+「水」+「口」で、”この植物に水をやれ”と言うことだろうか。原義は不明。初出では称号に用いている。春秋時代までに「諸」と同様”さまざまな”、”~する者”・”~は”の意に用いた。漢文では人に限らず事物にも用いる。詳細は論語語釈「者」を参照。
慶大蔵論語疏は新字体と同じく「者」と記す。「耂」と「日」の間の「丶」を欠く。旧字の出典は後漢の「華山廟碑」、文字史から見れば旧字体の方がむしろ新参の字形。
也(ヤ)
(金文)
論語の本章では、「かな」と読んで詠嘆の意。「なり」と読んで断定の意と解してもよいが、断定の語義は春秋時代では確認できない。初出は事実上春秋時代の金文。字形は口から強く語気を放つさまで、原義は”…こそは”。春秋末期までに句中で主格の強調、句末で詠歎、疑問や反語に用いたが、断定の意が明瞭に確認できるのは、戦国時代末期の金文からで、論語の時代には存在しない。詳細は論語語釈「也」を参照。
論語:付記
検証
論語の本章は、論語衛霊公篇13と重複し、前漢中期の定州竹簡論語には載るが、春秋戦国の誰一人引用していない。定州竹簡論語とほぼ同時期の『史記』孔子世家には載るが、「色」を”いろごと”の意に用いた例は、戦国時代以降にならないと現れない。
以上から見て史実性が怪しいのだが、文字史的には完全に論語の時代に遡れ、偽作を申し立てる物証がないので、とりあえず史実として扱って構わない。
解説
論語の本章、新古の注は次の通り。
古注『論語集解義疏』
子曰吾未見好德如好色者也註疾時人薄於德而厚於色故以發此言也疏子曰至者也 時人多好色而無好徳孔子患之故云未見以厲之也云責其心也
本文「子曰吾未見好德如好色者也」。
注釈。当時の人間が徳に薄く色に厚いのを歎いたのである。だからこう言ったのである。
付け足し。先生は窮極を言った。当時の人は多く色を好み徳を好む者が無く先生はこれを心配した。だから”見たことが無い”と言って当時の人をとがめた。その心は、心を責めたのである。
徳に関しては一切言わずじまい。普段あれほどどうでもいいことをベラベラと書き連ねるくせに、この少なさは何だろう。「だからこう」以降は繰り返しか、省いても文意が変わらないことばかりだ。
新注『論語集注』
好,去聲。謝氏曰:「好好色,惡惡臭,誠也。好德如好色,斯誠好德矣,然民鮮能之。」史記:「孔子居衛,靈公與夫人同車,使孔子為次乘,招搖市過之。」孔子醜之,故有是言。
好の字は尻下がりに読む。
謝良佐「色好みを好み、悪臭を嫌うのが、人の本心である。色のように徳を好み、本心から徳を好み切った事例は、民がめったに出来ない事である。」
史記「孔子は衛にいて、靈公は夫人と同じ車に乗り、孔子を二番目の車に乗せた。そして盛り場をうろついた」。孔子はこの扱いに怒って、だからこう言った。
徳について何一つ説明していない。偉そうに説教して生涯を終えた連中が、徳が何か知らなかったのである。謝良佐は朱子学の一味と言うよりのちの陽明学の祖で、「知行合一」=自分が正しいと思うことならどんなことをやっても正義だ、という〒囗刂ス卜の理屈を言い出した。
朱子は論語の本章について、何一つ言う資格が無い。夭折せず記録に残っただけでも、息子三人、娘五人の子だくさんである。要するにど助平おやじで、徳を知らない上に大いに色を好んだのだ。そして他人には色事禁止と言い出した図々しさは、すでに論語学而篇7に記した。
余話
論語の本章は、上掲の通り『史記』の記述では、衛の霊公と南子夫人とのドライブに付き合わされた孔子のぼやきとする。だから論語衛霊公篇13と重複する。霊公との関わりで語ったとされる言葉が、なぜ時期的にずれる論語本章に載せられたかは分からない。
一つの感想として、この論語子罕篇は、前章の「逝くものは斯くの如きか」以降、孔子の最晩年についての思い出話が多い。同時代の賢者ブッダで言えば、中村元『ブッダ最後の旅』(マハーパリニッバーナ経)に当たる部分で、共に弟子にとっては忘れられない話だった。
それを踏まえて本章を読むと、『史記』のいう衛の霊公うんぬんあたりの発言ではなく、晩年になって世間を見回しても、そして弟子を見回しても、「徳」を教える事は遂には出来なかった、という孔子の嘆きと受け取れる。確かに、「徳」を言葉で説明するのは難しい。
繰り返しで恐縮だが、ブッダもまた教説の一つ一つについて、「それを説明するのは難しい」と言っている。対して質問者がが「では、たとえを以て説明することは出来るでしょうか」と問うと、「友よ、それはできるのです」と答えた。訳者もブッダの真似が出来るだろうか。
徳は目に見えない。言葉にまとめると論語における「徳」になるが、訳者如きが徳の何たるかについて、知り尽くしてはいない。従ってこうすれば徳を発揮できる、と言える境地に達していない。しかし、この人には徳があるなとか、言いようも無く気圧された経験はある。
それはスペックではないから数値に出来ない。従って理系人をうならせることは出来ない。子供に分からせることも出来ない。だが理系人だろうと子供だろうと、群れている中をひょいひょいと歩いて通り過ぎることは出来る。威圧するのではない。むしろ威圧してはいけない。
威張り返る前にすることがある。まず五感を信じることだ。よく目で見、耳で聞き、鼻で嗅ぎ、肌で感じ、舌で味わうことだ。自分がどの立ち位置に居るかを知らなければ、対処法の選択が出来ない。有形無形の武装は、用いるべき場面で用いないとかえって自分を損なう。
武道の稽古の一環として、訳者はあるとき方法を思いついた。それは散歩に出て、出来る限り静かに歩くことだ。目標はスズメを飛び立たせないことだが、未だにその境地には達していない。飛び立たせるのは気の毒だから、出来るだけ静かに歩く稽古をする。その心が肝心。
この点は、論語八佾篇4「林放礼の本を問う」と心得は同じ。食事の前後には丁寧に「いただきます」をする。命を頂いていることを必ず思う。そんな修行を十年もしていると、道の歩き方にも方法があると知る。その結果、まちのニイちゃんがたむろしていても通ることは可能。
方法は簡単、君子危うきに近寄らずである。ニイちゃんでなくとも要領は同じ。狭い歩道を大手を振って歩くDK爺婆は多いが、「彼らは強いられているのだ。他にどうしようもないではないか」(マルクス・アウレリアス・アントニヌス『自省録』)。どいてやればいい。
無論相手が攻撃してきたら即座に叩きのめす用意は常にある。刃物を持ち歩くのはひょろひょろのすることだ。しかしできることなら、かわして自滅させるのが一番いい。知らん顔して行ってしまえばいいのだ。そんな用意で道を行く。だが今日もスズメを飛び立たせてしまった。
修行の至らないことである。
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