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論語詳解206子罕篇第九(1)子まれに言う*

論語子罕篇(1)要約:後世の創作。ニセ孔子先生は、めったに利益追求や天の定めた運命や情け深さについて語りませんでした、と。「罕」はタモ網の象形で「間」の当て字、学をてらった儒者の幼稚な承認欲求から当て字されました。

論語:原文・書き下し

原文(唐開成石経)

子罕言利與命與仁

校訂

東洋文庫蔵清家本

子罕言利與命與仁

  • 宮内庁本同。

後漢熹平石経

(なし)

定州竹簡論語

(なし)

標点文

子罕言、利與命與仁。

復元白文(論語時代での表記)

子 金文言 金文利 金文与 金文命 金文与 金文仁 甲骨文

※仁→(甲骨文)。論語の本章は「罕」の字が論語の時代に存在しない。本章は漢帝国以降の儒者による創作である。

書き下し

まれふ、ためさだめなさけを。

論語:現代日本語訳

逐語訳

孔子別像
先生はまれに、利益と天命と仁義を語った。

意訳

論語 儒者 孔子 人形
儒者「孔子先生は利益・運命・究極の愛情の話をめったにしなかったのであるぞよ。」

従来訳

下村湖人

先師はめったに利益の問題にはふれられなかった。たまたまふれられると、必ず天命とか仁とかいうことと結びつけて話された。

下村湖人『現代訳論語』

現代中国での解釈例

孔子極少談論:私利、命運、仁道。

中国哲学書電子化計画

孔子がごく希に語ったのは、私利、運命、仁道だった。

論語:語釈

子(シ)

子 甲骨文 子 字解
「子」(甲骨文)

論語の本章では”(孔子)先生”。初出は甲骨文。論語ではほとんどの章で孔子を指す。まれに、孔子と同格の貴族を指す場合もある。また当時の貴族や知識人への敬称でもあり、孔子の弟子に「子○」との例が多数ある。なお逆順の「○子」という敬称は、上級貴族や孔子のような学派の開祖級に付けられる敬称。「南子」もその一例だが、”女子”を意味する言葉ではない。字形は赤ん坊の象形で、もとは殷王室の王子を意味した。詳細は論語語釈「子」を参照。

罕(カン)

罕 金文 罕 字解
(戦国金文)

論語の本章では、”まれに”。論語では本章のみに登場。長い柄のついた、魚や鳥を捕るタモ網形の道具が原義。初出は戦国末期の金文。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。近音に「閒」(間)。「閒」に”すき間が空く”→”めったに無い”の意があるが、この語義は春秋時代では確認できない。詳細は論語語釈「罕」を参照。

漢儒が「閒」に「罕」の字を当てたのは、学をてらう幼児性から。
儒者の捏造

冗談ではなく本気で書くのだが、儒者は概して、救いがたいほど精神が幼稚で、とうていその所説を真に受けるわけにはいかない。本章のような捏造を儒者は平気でやったと承知してから、論語を読まないと間抜けな事になる。詳細は論語解説・後漢というふざけた帝国を参照。

言(ゲン)

言 甲骨文 言 字解
(甲骨文)

論語の本章では”言う”。初出は甲骨文。字形は諸説あってはっきりしない。「口」+「辛」”ハリ・ナイフ”の組み合わせに見えるが、それがなぜ”ことば”へとつながるかは分からない。原義は”言葉・話”。甲骨文で原義と祭礼名の、金文で”宴会”(伯矩鼎・西周早期)の意があるという。詳細は論語語釈「言」を参照。

利(リ)

利 甲骨文 利 字解
(甲骨文)

論語の本章では”利益”。初出は甲骨文。字形は「禾」”イネ科の植物”+「刀」”刃物”。大ガマで穀物を刈り取る様。原義は”収穫(する)”。甲骨文では”目出度いこと”、地名人名に用い、春秋末期までの金文では、加えて”よい”・”研ぐ・するどい”の意に用いた。詳細は論語語釈「利」を参照。

與(ヨ)

与 金文 與 字解
(金文)

論語の本章では”~と”。新字体は「与」。初出は春秋中期の金文。金文の字形は「牙」”象牙”+「又」”手”四つで、二人の両手で象牙を受け渡す様。人が手に手を取ってともに行動するさま。従って原義は”ともに”・”~と”。詳細は論語語釈「与」を参照。

命(メイ)

令 甲骨文 令字解
「令」(甲骨文)

論語の本章では”天命”。天の定めた運命。論語の時代、「命」は「令」と未分化。現行字体の初出は西周末期の金文。「令」の字形は「亼」”呼び集める”+「卩」”ひざまずいた人”で、下僕を集めるさま。「命」では「口」が加わり、集めた下僕に命令するさま。原義は”命じる”・”命令”。金文で原義、”任命”、”褒美”、”寿命”、官職名、地名の用例がある。春秋末期、BC518ごろの「蔡侯尊」には、「蔡𥎦󱠜虔共大命」とあり、「つつしんで大命を共にす」と訓める。これを”天命”と解せなくもない。詳細は論語語釈「命」を参照。

仁(ジン)

仁 甲骨文 孟子
(甲骨文)

論語の本章では、”常にあわれみの気持を持ち続けること”。初出は甲骨文。字形は「亻」”ひと”+「二」”敷物”で、原義は敷物に座った”貴人”。詳細は論語語釈「仁」を参照。

仮に孔子の生前なら、単に”貴族(らしさ)”の意だが、後世の捏造の場合、通説通りの意味に解してかまわない。つまり孔子より一世紀のちの孟子が提唱した「仁義」の意味。詳細は論語における「仁」を参照。

論語:付記

中国歴代王朝年表

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検証

論語の本章はそっくり前漢中期の『史記』孔子世家に引用がある。しかしそれ以外は春秋戦国時代を含め、先秦両漢の文献に見られない。定州竹簡論語にも欠いており、『史記』の引用箇所も成立年代が疑わしいのだが、とりあえず前漢儒の創作と判断してよい。

解説

この論語子罕篇は、朱子の章分けに従えば全部で32章の長さになる。

1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16
内容
17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 32
内容

論語は一般的に「子曰く」で始まる孔子の独白的説教だが、この子罕篇では半分ほどに止まる。孔子が弟子の誰かを評した言葉も独白に加えていいのだが、それでなお前半は全く別の篇の思いがする。

前半の多くを占めているのは、弟子による孔子の回想録で、孔子と弟子の対話を記した2篇も、おそらくは回想録の一種だろう。つまり論語子罕篇は、前半と後半で編集意図が異なっている。

前篇泰伯編が、もと孔子と呉使節との応対実況中継だったのを、後漢の儒者が滅茶苦茶に叩き壊したもようはすでに見た(論語泰伯編3解説)。この子罕篇にはそういう無茶は無いが、前半の回想録と後半二つを、ニコイチででっち上げたと言われても仕方が無い。

では前半が回想録なのはいいとして、後半の編集意図は何だろう。20-23章に固まって評されているのは顔淵、27・28章で評されているのは子路。顔淵は孔子に最も愛された弟子とされ、孔子の逝去の前々年に世を去っている。他の弟子と違い、その死を孔子が嘆いた伝説はいくつか伝わる。

顔淵が死んだ。先生は泣き、悲しみのあまりわなわなと震えた。
弟子「先生。礼法にそむきます。」
孔子「回(=顔淵)が死んだんだぞ。礼法など知ったことか。」(論語先進篇9)

子路は記録に残る限り孔子の最初の弟子で、縁戚でもあった。孔子の逝去前年に世を去った。顔淵の死の前年には孔子の一人息子鯉が世を去っており、立て続けに愛する若者に死なれた孔子は、さすがにがっくり来て世を去った。

ただし顔淵がそこまで偉い人物だったという話は孔子の生前には無く、神格化して拝み始めたのは、いわゆる儒教の国教化を始めた前漢の董仲舒からになる。董仲舒が平気で捏造をやらかす破廉恥漢であることは、論語公冶長篇24余話「人でなしの主君とろくでなしの家臣」参照。

本篇の後半は子路追悼ばなしがおわると、老人晩年のグチのような話が続く。もちろん話者は孔子である。つまり本篇後半は、顔淵の死から始まる孔子の逝去ばなしとして読めるよう排列されている。

だが例によって論語の本文は偽作だから、孔子最晩年の史実を伝える物語ではないから、各章は前後の章と何の関係も無いと読んだ方がいい。古代人にも関わらず「死ねばそれまで」と確信していた孔子の凄み(論語解説・孔子はなぜ偉大なのか)は、そうやって理解すると分かりやすい。

話を論語の本章に絞ろう。

「聖人」孔子が「利」益追求をめったに口にしなかった、というのは儒者によっても都合のいい話で、世間的にその通り通ったが、儒教の大事な教説の一部である天「命」と「仁」義をめったに言わなかったのは、おかしな話ではないか、と日本の江戸儒や漢学教授が言い出した。

そこで一生懸命、辻褄を合わせようといろいろなことを書いた。本章が偽作と知れた以上馬鹿馬鹿しいのだが、一例のみ挙げておく。

論語 宮崎市定 宮崎市定 論語

子、罕に利を言う。命とともにし、仁と与にす。

孔子が利益を話題にすることは極めて稀であった。その時でも、必ず天命に関連し、又は仁の道に関連する場合に限られた。

命と共に利を言うとは、如何に利を求めようとしても天命の如何によっては必ずしも成功しないから、それに執着してはならぬこと、仁と共に言うとは、仁道に背いてまで利を求めるのは許されないこと、などであろう。(宮崎市定『論語』)

たいていは漢文が読めず、不勉強極まりない漢学教授の中にあって、宮崎博士は珍しく漢文が読めた人だが、それでも「などであろう」とここでは書かねばならなかった。常に「であらう」としか書けなかった、同僚の吉川幸次郎が無知無能だったのとは一線を画している。

吉川幸次郎

同世代の漢学教授の中で、宮崎博士と東大の藤堂博士は戦争中応召して出征した。吉川は中国人の仮装をして京大構内に逃げ、次いで海外に逃亡した。迫る事態に対してどこまでまじめになれるかは、戦争も古典も同じだし、逃げる奴の話は逃げばなしになって当然だろう。

ともあれ「そういう説もある」とT大教授の宇野哲人も書いた。この解釈の発端は、江戸儒の荻生徂徠らしい。原典である『論語徴』のネット公開版をパラパラと読んでみたが途中でアホらしくなって読む気が失せた。徂徠の勝手な思い込みと断じてかまわないと思っている。

論語は一般的に、短い章ほど難しいと言われている。新古の注を付けた儒者もわけが分からなかったのか、本章には腫れ物に触るようなことしか書いていない。

古注『論語集解義疏』

子罕言利與命與仁註罕者希也利者義之和也命者天之命也仁者行之盛也寡能及之故希言也


本文。「子罕言利與命與仁。」注釈。罕とは”めったにない”の意である。利とは正義を調和させた何事かである。命は天の命令である。仁は立派な行いのことである。利と仁を実践し、天命を知る事が出来る者はめったにいないので、めったに言わなかったのである。

新注『論語集注』

子罕言利與命與仁。罕,少也。程子曰:「計利則害義,命之理微,仁之道大,皆夫子所罕言也。」


本文。「子罕言利與命與仁。」
罕とは、少ないことである。

程頤「利益を追求すれば正義に背く。天命のことわりはかすかで分かりづらい。仁義の道は大きすぎて分からない。全部孔子先生がたまにしか言わなかったことである。」

おそらく前漢儒が論語の本章をかく偽作した理由は明らかで、「利」を言わせなかったのは、本尊孔子は「聖人」に仕立て、善男善女は愚夫愚婦に仕立て、拝ませお賽銭を取るため。「命」「仁」を言わせなかったのは、その解釈権を独占して講釈料を取るためである。

古注儒による「利」の誤魔化しようから、その気分が知れるだろう。

余話

腕の二三本

孔子が聖人などではないことは、たびたび書いてきた。

ペニシリン無き時代に70過ぎまで生きた超人ではあっても、カミホトケ的な人間が古代を生き抜けるはずがないからだ。「聖人」とは何かについては、儒者や漢学教授それぞれに勝手な意見があるだろう。だが「自分にとって一方的に都合のよい偉人」という一点は揺るぐまい。

そんな人物の実在を夢想するのは、よほど世間から甘やかされないと不可能だし、「つらいゆえに聖人をあこがれる」のも、そんなのいない、と観念出来る程度の知能を持たないか、まだまだひどい目に遭い足りていない。そういう者は幼稚なのだから、説教は聞くに値しない。

たいていの人間は、救いの無い宇宙に生きている。だが救いが無いとぐるぐる思っていては、この世を楽しく生きられない。救いが無いと百も承知で、なお楽しく生きる方はあるのだろうか。孔子はひたすら頭と体を鍛えろと言った。出来ない事をどこまで潰すかが人生だ、と。

身長2mを超し、社会の底辺から宰相にまで成り上がった男にふさわしい教説と言える。そういう筋肉的に実戦的なのが孔子の教説で、抽象的で道徳的な論語の章は、九分九厘が後世の創作である。そして北京語で脳をナオチンというように、中国人は脳を筋肉の一種と思っている。

時に閲覧者諸賢は、広く生物を何者だと思っているだろう。いわゆるセントラルドグマなどが知られるが、生物学者にも定義は難しいらしい。だが一つの説として、「情報を解釈するもの」という。ならば人は天命を変えられないかも知れないが、自由に解釈は出来る。

インドア派で運動が嫌いな人でも、屋内で静かに読書に親しむことは出来るだろう。かくいう訳者ももとはインドア派で、「スポーツしない奴は人間扱いしない」というバブル末期の同調圧力にはほとほとうんざりさせられた。だが万物は流転し、万物の関係は絶えず破綻する。

当時そうやって同調を迫った者に対し、素手で●を●り●せるまで稽古したこんにちの訳者が、ニコニコしていられるのはそれゆえだ。「むかし私に言ったりやったりしたようなことを、いまやってごらん。その代わり腕の二三本は覚悟して貰うよ」と思えばこそである。

過去は取り返しがつかないが、自分の未来はやり方次第で救える。元気出していきましょう。

『論語』子罕篇:現代語訳・書き下し・原文
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