論語:原文・書き下し
原文(唐開成石経)
顔淵問仁子曰克己復禮爲仁一日克己復禮天下歸仁焉爲仁由己而由人乎哉顔淵曰請問其目子曰非禮勿視非禮勿聽非禮勿言非禮勿動顔淵曰回雖不敏請事斯語矣
- 「淵」字:最後の一画〔丨〕を欠く。唐高祖李淵の避諱。
校訂
諸本
東洋文庫蔵清家本
顔淵問仁子曰剋己復禮爲仁/一日剋己復禮天下歸仁焉/爲仁由己而由人乎哉/顔淵曰請問其目/子曰非禮勿視非禮勿聽非禮勿言非禮勿動/顔淵曰回雖不敏請事斯語矣
- 「淵」字:〔氵丿丰丰丨〕。
後漢熹平石経
(なし)
定州竹簡論語
……[非]禮勿[視]311……
標点文
顏淵問仁。子曰、「剋己復禮爲仁。一日剋己復禮、天下歸仁焉、爲仁由己、而由人乎哉。」顏淵曰、「請問其目。」子曰、「非禮勿視、非禮勿聽、非禮勿言、非禮勿動。」顏淵曰、「回雖不敏、請事斯語矣。」
復元白文(論語時代での表記)
焉
※仁→(甲骨文)・剋→克・請→青。論語の本章は、「焉」の字が論語の時代に存在しない。「問」「由」「乎」「目」「動」「語」の用法に疑問がある。本章の少なくとも一部は戦国時代以降の儒者による創作である。
書き下し
顏淵仁を問ふ。子曰く、己に剋ちて禮に復らば仁と爲る。一日だも己に剋ちて禮を復まば、天下仁に歸り焉。仁を爲すは己に由る、し而人に由らむ乎哉。顏淵曰く、請ふらくは其の目を問ふ。子曰く、禮に非らば視る勿れ、禮に非らば聽く勿れ、禮に非らば言ふ勿れ、禮に非らば動く勿れ。顏淵曰く、回敏からずと雖も、請ふらくは斯の語を事とし矣を。
論語:現代日本語訳
逐語訳
顔淵が貴族の条件(仁)を問うた。先生が言った。「自分に勝って貴族の常識に従うのを仁という。一日でも自分に勝って礼法に従えば、天下は仁の情けへ帰る。仁を行うのは自分が主体だ。他人が主体だろうか。」顔淵が言った。「仁の細目をお願いして問います。」先生が言った。「貴族の常識にかなっていなければ見るな。貴族の常識にかなっていなければ聞くな。貴族の常識にかなっていなければ言うな。貴族の常識にかなっていなければ動くな。」顔淵が言った。「私は頭の回転が速くないですが、どうかこの教えを原則にさせて下さい。」
意訳
顔回「貴族の条件(仁)とは何ですか。」
孔子「自分の欲望に勝って貴族の常識に従うのを仁という。(たった一日でも欲望を抑えて礼法に従えば、誰でも仁の情けを実践する、と孟子が付け足した。)ただし仁を行うのは自分でしかない。他人に求めるものではない。」
顔回「仁の実践方法を教えて下さい。」
孔子「貴族の常識にかなっていなければ、見るな。聞くな。言うな。動くな。」
顔回「私は頭の回転が速くないですが、今のお教えを肝に銘じましょう。」
従来訳
顔渕が仁の意義をたずねた。先師はこたえられた。――
「己に克ち、私利私欲から解放されて、調和の大法則である礼に帰るのが仁である。上に立つ者が一たび意を決してこの道に徹底すれば、天下の人心もおのずから仁に帰向するであろう。仁の実現は先ず自らの力によるべきで、他にまつべきではない。」
顔渕がさらにたずねた。――
「実践の細目について、お示しをお願いいたしたいと存じます。」
先師がこたえられた。――
「非礼なことに眼をひかれないがいい。非礼なことに耳を傾けないがいい。非礼なことを口にしないがいい。非礼なことを行わぬがいい。」
顔渕がいった。――
「まことにいたらぬ者でございますが、お示しのことを一生の守りにいたしたいと存じます。」下村湖人『現代訳論語』
現代中国での解釈例
顏淵問仁。孔子說:「用堅強的意志、頑強的拼搏精神,主持正義、捍衛道德、維護和平,這就是仁。一旦做到了這一點,普天下的人都會崇敬你、追隨你、向你學習。為崇高理想而奮斗要靠的是自己,難道還能靠別人嗎?顏淵說:「請問其詳?」孔子說:「違反禮法的事不要看、不要聽、不要說、不要做。」顏淵說:「我雖不才,願照此辦理。」
顔淵が仁を問うた。孔子が言った。「強固な意志で、頑強に精神を戦わせ、正義を守り、道徳を護衛し、平和を維持する、これが即ち仁だ。一端この境地に至ると、天下全ての人がお前を崇めるようになり、付き従って学ぶだろう。崇高な理想を掲げて奮闘するのはひとえに自分次第であり、よもや他人任せにはするまいな?」顔淵が言った。「詳しく教えて頂けますか。」孔子が言った。「礼法に外れたことは見るな、聞くな、言うな、するな。」顔淵が言った。「私は才能が乏しいですが、この真理を目標にします。」
論語:語釈
顏淵(ガンエン)
孔子の弟子、顏回子淵。あざ名で呼んでおり敬称。詳細は論語の人物:顔回子淵を参照。『孔子家語』などでも顔回を、わざわざ「顔氏の子」と呼ぶことがある。後世の儒者から評判がよく、孔子に次ぐ尊敬を向けられているが、何をしたのか記録がはっきりしない。おそらく記録に出来ない、孔子一門の政治的謀略を担ったと思われる。孔子の母親は顔徴在といい、子路の義兄は顔濁鄒(ガンダクスウ)という。顔濁鄒は魯の隣国衛の人で、孔子は放浪中に顔濁鄒を頼っている。しかも一説には、顔濁鄒は当時有力な任侠道の親分だった(『呂氏春秋』)。詳細は孔子の生涯(1)を参照。
「顏」(金文)「顏」の新字体は「顔」だが、定州竹簡論語も唐石経も清家本も新字体と同じく「顔」と記している。ただし文字史からは「顏」を正字とするのに理がある。初出は西周中期の金文。字形は「文」”ひと”+「厂」”最前線”+「弓」+「目」で、最前線で弓の達者とされた者の姿。「漢語多功能字庫」によると、金文では氏族名に用い、戦国の竹簡では”表情”の意に用いた。詳細は論語語釈「顔」を参照。
「淵」(甲骨文)「淵」の初出は甲骨文。「渕」は異体字。字形は深い水たまりのさま。甲骨文では地名に、また”底の深い沼”を意味し、金文では同義に(沈子它簋・西周早期)に用いた。詳細は論語語釈「淵」を参照。「上海博物館蔵戦国楚竹簡」では「淵」を「囦」と記す。上掲「淵」の甲骨文が原字とされる。
問(ブン)
(甲骨文)
論語の本章では”質問する”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。「モン」は呉音。字形は「門」+「口」。甲骨文での語義は不明。西周から春秋に用例が無く、一旦滅んだ漢語である可能性がある。戦国の金文では人名に用いられ、”問う”の語義は戦国最末期の竹簡から。それ以前の戦国時代、「昏」または「𦖞」で”問う”を記した。詳細は論語語釈「問」を参照。
仁(ジン)
(甲骨文)
論語の本章「天下歸仁焉」では、後世の創作の疑いがあるため「なさけ」と訓読して”情け深さ”。その他は「よきひと」と訓読して”貴族(らしさ)”。初出は甲骨文。字形は「亻」”ひと”+「二」”敷物”で、原義は敷物に座った”貴人”。詳細は論語語釈「仁」を参照。
通説的な解釈、”なさけ・あわれみ”などの道徳的意味は、孔子没後一世紀後に現れた孟子による、「仁義」の語義であり、孔子や高弟の口から出た「仁」の語義ではない。字形や音から推定できる春秋時代の語義は、敷物に端座した”よき人”であり、”(理想的な)貴族の姿”を意味する。詳細は論語における「仁」を参照。
子曰(シエツ)(し、いわく)
論語の本章では”孔子先生が言った”。「子」は貴族や知識人に対する敬称で、論語では多くの場合孔子を指す。この二文字を、「し、のたまわく」と読み下す例がある。「言う」→「のたまう」の敬語化だが、漢語の「曰」に敬語の要素は無い。古来、論語業者が世間からお金をむしるためのハッタリで、現在の論語読者が従うべき理由はないだろう。
(甲骨文)
「子」の初出は甲骨文。論語の本章では、「子曰」で”先生”、「猶子也」で”息子”、「二三子」で”諸君”の意。字形は赤ん坊の象形。春秋時代では、貴族や知識人への敬称に用いた。詳細は論語語釈「子」を参照。
(甲骨文)
「曰」の初出は甲骨文。原義は「𠙵」=「口」から声が出て来るさま。詳細は論語語釈「曰」を参照。
克*(コク)→剋*(コク)
現存最古の論語本である定州竹簡論語はこの部分を欠損し、唐石経は「克」と記し、清家本は「剋」と記す。清家本の年代は唐石経より新しいが、より古い古注系の文字列を伝えており、唐石経を訂正しうる。従って「克」→「剋」へと校訂した。語義は変わらない。
(甲骨文)
論語の本章では”勝つ”→”制御し切る”。初出は甲骨文。字形はかぶとに飾りを付け凱旋する人。甲骨文から”勝つ”・”勝ち取る”の意に用い、派生義として”~できる”の意に用いた。戦国の金文からは明瞭に”…出来る”の意に用いた。詳細は論語語釈「克」を参照。
「剋」前漢隷書
清家本は「剋」と記す。初出は戦国最末期の秦系戦国文字。論語の時代に存在しない。字形は〔克〕+〔刂〕”かたな”で、兜をかぶり刀を持った武装兵の姿。同音に刻、克。戦国最末期から”勝つ”の意に用いた。論語時代の置換候補は部品の「克」。詳細は論語語釈「剋」を参照。
己(キ)
(甲骨文)
論語の本章では”自分”。初出は甲骨文。「コ」は呉音。字形はものを束ねる縄の象形だが、甲骨文の時代から十干の六番目として用いられた。従って原義は不明。”自分”の意での用例は春秋末期の金文に確認できる。詳細は論語語釈「己」を参照。
復(フク)
(甲骨文)
論語の本章では”戻る”。初出は甲骨文。ただしぎょうにんべんを欠く「复」の字形。両側に持ち手の付いた”麺棒”+「攵」”あし”で、原義は麺棒を往復させるように、元のところへ戻っていくこと。ただし”覆る”の用法は、戦国時代まで時代が下る。詳細は論語語釈「復」を参照。
禮(レイ)
(甲骨文)
論語の本章「一日克己復禮」では後世の創作の疑いがあるため「ゐや」と訓読して”礼儀作法”。その他では「よきつね」と訓読して”貴族の常識”。孔子生前の語義は徹頭徹尾この意味で、”礼儀作法”に限らない。詳細は論語における「礼」を参照。
字の新字体は「礼」。しめすへんのある現行字体の初出は秦系戦国文字。無い「豊」の字の初出は甲骨文。両者は同音。現行字形は「示」+「豊」で、「示」は先祖の霊を示す位牌。「豊」はたかつきに豊かに供え物を盛ったさま。具体的には「豆」”たかつき”+「牛」+「丰」”穀物”二つで、つまり牛丼大盛りである。詳細は論語語釈「礼」を参照。
爲(イ)
(甲骨文)
論語の本章では”~になる”。新字体は「為」。字形は象を調教するさま。甲骨文の段階で、”ある”や人名を、金文の段階で”作る”・”する”・”~になる”を意味した。詳細は論語語釈「為」を参照。
仁(ジン)
(甲骨文)
論語の本章では”貴族”、または”常に憐れみの気持を持ち続けること”。後者のような偽善的な意味は、孔子没後一世紀に生まれた孟子が提唱した「仁義」から。詳細は論語における「仁」を参照。
字の初出は甲骨文。字形は「亻」”ひと”+「二」”敷物”で、原義は敷物に座った”貴人”。詳細は論語語釈「仁」を参照。
剋己復禮爲仁(おのれにかちてよきつねにかえらばよきひととなる)
「克己復禮」が主部で、「爲」が動詞”…になる”、「仁」は目的語で”貴族”。全体で、”自分を制御し切って貴族の常識の範疇からはみ出さなければ、それで貴族となる”の意。
人は我欲に振り回されて、ついつい常識から外れたことをして仕舞いがちだが、自分で気付いて常識に立ち戻って行動する。その常識が貴族の常識であれば、そういう行動こそが自分を貴族にするのだ、という孔子の教説を示している。
孔子塾生は一部の例外を除けばみな庶民の出で、塾で当時の貴族=「君子」にふさわしい技能教養を身につけて成り上がろうとした。師匠の孔子もまた父親が誰か分からない、流浪の巫女の私生児で、社会の底辺から成り上がって一国の宰相格まで出世した。孔子の教説には、事実の裏付けがあった。
春秋時代後半の当時、弩(クロスボウ)の発明によって戦場のあり方が変わり、戦士でもあった血統貴族の地位が揺らいだ。そこへ新時代にふさわしい技能教養を身につけた孔子塾生がのし上がっていったわけで、「血統によってバラモンとなるのではない」と教えた、同時代のブッダの主張との類似を見て取れる。詳細は論語における「君子」を参照。
一日剋己復禮、天下歸仁焉(いちじつだもコッッキフクレイせば、テンカジンにキしなん)
論語の本章では、”たった一日でも克己復礼すれば、天下は仁の情けに立ち戻るだろう”。文字史からも内容からも、この部分は戦国時代以降の創作で孔子の発言ではない。
まず「焉」字の春秋時代における不在から、この句は孔子の発言とは言えなくなる。もっとも、「焉」”かならずそうなってしまう”無しでも文意はほぼ変わらないが、それでもこの句は何を言っているのかよく分からない。
「一日克己復礼」するのが誰だか分からないからで、仮に文脈上「克己復礼しなさい」と孔子に言われた顔淵だとすると、無名に死んだ顔淵が一日克己復礼したところで、天下が皆おりこうさんになって「仁にたちもどる」とはメルヘンの過ぎる馬鹿げた景色だ。
史実の孔子塾は実用的な成り上がり塾で、このようなメルヘンを語り合うオタクのサークルではない。教えに実用性が無ければ、あっという間に弟子は逃げていなくなっただろう。また顔淵が一日克己復礼すると、天下の誰もが貴族になってしまっては、それこそ孔子塾の存在意義が問われる。
従ってこの句に限り、「仁」は孟子の言いだした「仁義」で解釈すべきで、一介の儒者がたった一日克己復礼すれば、天下万民がおりこうさんになるという、口車だけで戦国の諸侯をたぶらかしてメシを食った孟子らしいメルヘンと断じてよい。
なお武内義雄『論語之研究』によると、ここの「一日」は「一に曰く」の誤りだという(p.164)。現伝の論語は各種の伝承の折衷本で(→論語の成立過程まとめ)、編者が異聞をここに書き込んだという。その場合の解釈は以下の通り。
子曰く、己に克ちて礼に復るを仁と為す。一に曰く、己に克ちて礼に復らば、天下仁に帰し焉と。仁を為すは己に由り、し而人に由らん乎哉。
先生が言った。自分に勝って礼法に戻るのが仁である。(ある本に曰く、自分に勝って礼法に戻れば、天下は仁に満ちあふれるだろう。)仁を実践するのは自分自身だ。人に求めるものではないだろう。
これの当否については、定州竹簡論語が欠損しており、何とも言えない。『論語集釋』はこの説を記していないから、江戸儒者の独自見解だが、多数決で古典の真義が決まるわけでもない。
(甲骨文)
「一」の漢音は「イツ」、「イチ」は呉音。初出は甲骨文。重文「壹」の初出は戦国文字。字形は横棒一本で、数字の”いち”を表した指事文字。詳細は論語語釈「一」を参照。
(甲骨文)
「日」の初出は甲骨文。「ニチ」は呉音。原義は太陽を描いた象形文字。甲骨文から”昼間”、”いちにち”も意味した。詳細は論語語釈「日」を参照。
(甲骨文)
「天」の初出は甲骨文。字形は人の正面形「大」の頭部を強調した姿で、原義は”脳天”。高いことから派生して”てん”を意味するようになった。甲骨文では”あたま”、地名・人名に用い、金文では”天の神”を意味し、また「天室」”天の祭祀場”の用例がある。詳細は論語語釈「天」を参照。
(甲骨文)
「下」の初出は甲骨文。「ゲ」は呉音。字形は「一」”基準線”+「﹅」で、下に在ることを示す指事文字。原義は”した”。によると、甲骨文では原義で、春秋までの金文では地名に、戦国の金文では官職名に(卅五年鼎)用いた。詳細は論語語釈「下」を参照。
(甲骨文)
「歸」の新字体は「帰」。甲骨文の字形は「𠂤」”軍隊”+「帚」”ほうき→主婦権の象徴”で、軍隊が王妃に出迎えられて帰還すること。詳細は論語語釈「帰」を参照。
(金文)
「焉」の初出は戦国早期の金文で、論語の時代に存在せず、論語時代の置換候補もない。漢学教授の諸説、「安」などに通じて疑問辞と解するが、いずれも春秋時代以前に存在しないか、疑問辞としての用例が確認できない。ただし春秋時代までの中国文語は、疑問辞無しで平叙文がそのまま疑問文になりうる。
字形は「鳥」+「也」”口から語気の漏れ出るさま”で、「鳥」は装飾で語義に関係が無く、「焉」は事実上「也」の異体字。「也」は春秋末期までに句中で主格の強調、句末で詠歎、疑問や反語に用いたが、断定の意が明瞭に確認できるのは、戦国時代末期の金文からで、論語の時代には存在しない。詳細は論語語釈「焉」を参照。
爲仁由己、而由人乎哉(よきひととなるはおのれによる、してひとによらんかな)
論語の本章では、”貴族になるもならないも自分次第で、他人任せでなれるものではないぞ”。前句「一日克己復禮、天下歸仁焉」とは全く相反することを説いており、ここからも前句が後世の挿入であることを示している。ただし「由」「乎」の用法に疑問がある。
孔子塾生は「自分が」成り上がりたいから弟子になったので、「天下」や「他人」はどうでもいいか、関わるとしても二の次だった。
「由」(甲骨文)
「由」の初出は甲骨文。上古音は「油」と同じ。字形はともし火の象形だが、甲骨文では”疾病”の意で、また地名・人名に用いた。金文では人名に用いた。”よって”・”なお”・”すじみち”の意は、戦国時代の竹簡から。平芯の石油ランプが出来るまで、人間界では陽が落ちると事実上闇夜だったから、たしかに灯火に”たよる・したがう”しかなかっただろう。詳細は論語語釈「由」を参照。
(甲骨文)
「而」の初出は甲骨文。原義は”あごひげ”とされるが用例が確認できない。甲骨文から”~と”を意味し、金文になると、二人称や”そして”の意に用いた。英語のandに当たるが、「A而B」は、AとBが分かちがたく一体となっている事を意味し、単なる時間の前後や類似を意味しない。詳細は論語語釈「而」を参照。
(甲骨文)
「乎哉」(コサイ)は「哉」と組み合わせで詠嘆の意。一字ずつ分解すると、「乎」は疑問、「哉」は詠嘆で、”…かなぁ”という訳になる。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。論語の本章では形容詞・副詞についてそのさまを意味する接尾辞。この用例は春秋時代では確認できない。字形は持ち手の柄を取り付けた呼び鐘を、上向きに持って振り鳴らし、家臣を呼ぶさまで、原義は”呼ぶ”こと。甲骨文では”命じる”・”呼ぶ”を意味し、金文も同様で、「呼」の原字となった。句末の助辞として用いられたのは、戦国時代以降になるという。詳細は論語語釈「乎」を参照。
(金文)
「哉」の初出は西周末期の金文。ただし字形は「𠙵」”くち”を欠く「𢦏」で、「戈」”カマ状のほこ”+「十」”傷”。”きずつく”・”そこなう”の語釈が『大漢和辞典』にある。現行字体の初出は春秋末期の金文。「𠙵」が加わったことから、おそらく音を借りた仮借として語気を示すのに用いられた。金文では詠歎に、また”給与”の意に用いられた。戦国の竹簡では、”始まる”の意に用いられた。詳細は論語語釈「哉」を参照。
請(セイ)
(戦国金文)
論語の本章では”もとめる”。初出は戦国末期の金文で、論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補は部品の「靑」(青)。字形は「言」+「靑」で、「靑」はさらに「生」+「丹」(古代では青色を意味した)に分解できる。「靑」は草木の生長する様で、また青色を意味した。「請」では音符としての役割のみを持つ。詳細は論語語釈「請」を参照。
其(キ)
(甲骨文)
論語の本章では”その”という指示詞。初出は甲骨文。甲骨文の字形は「𠀠」”かご”。それと指させる事物の意。金文から下に「二」”折敷”または「丌」”机”・”祭壇”を加えた。人称代名詞に用いた例は、殷代末期から、指示代名詞に用いた例は、戦国中期からになる。詳細は論語語釈「其」を参照。
目(ボク)
(甲骨文)
論語の本章では”中心となる項目”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。「モク」は呉音。字形は目の象形。原義は”め”。甲骨文では原義、”見る”、地名・人名に用いた。金文では氏族名に用いた。詳細は論語語釈「目」を参照。
非(ヒ)
(甲骨文)
論語の本章では”~でない”。初出は甲骨文。甲骨文の字形は互いに背を向けた二人の「人」で、原義は”…でない”。「人」の上に「一」が書き足されているのは、「北」との混同を避けるためと思われる。甲骨文では否定辞に、金文では”過失”、春秋の玉石文では「彼」”あの”、戦国時代の金文では”非難する”、戦国の竹簡では否定辞に用いられた。詳細は論語語釈「非」を参照。
勿(ブツ)
(甲骨文)
論語の本章では”~するな”。初出は甲骨文。金文の字形は「三」+「刀」で、もの切り分けるさまと解せるが、その用例を確認できない。甲骨文から”無い”を意味し、西周の金文から”するな”の語義が確認できる。詳細は論語語釈「勿」を参照。
視(シ)
(甲骨文)
論語の本章では、”見る”。新字体は「視」。初出は甲骨文。甲骨文の字形は大きく目を見開いた人で、原義は”よく見る”。現行字体の初出は秦系戦国文字。甲骨文では”視察する”の意に、金文では”見る”の意に用いられた(𣄰尊・西周早期)。また地名や人名にも用いられた。詳細は論語語釈「視」を参照。
聽(テイ)
(甲骨文)
論語の本章では”聞く”。初出は甲骨文。新字体は「聴」。「チョウ」は呉音。字形は「口」+「耳」+「人」で、人の口から出る音を耳で聞く人のさま。原義は”聞く”。甲骨文では原義、”政務を決裁する”、人名、国名、祭祀名に用いた。金文では”聞き従う”の意に、また人名に用いた。詳細は論語語釈「聴」を参照。
言(ゲン)
(甲骨文)
論語の本章では”言う”。初出は甲骨文。字形は諸説あってはっきりしない。「口」+「辛」”ハリ・ナイフ”の組み合わせに見えるが、それがなぜ”ことば”へとつながるかは分からない。原義は”言葉・話”。甲骨文で原義と祭礼名の、金文で”宴会”(伯矩鼎・西周早期)の意があるという。詳細は論語語釈「言」を参照。
動(トウ)
毛公鼎・西周末期
論語の本章では”動く”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は西周末期の金文。ただし字形は「童」。その後は楚系戦国文字まで見られず、現行字体の初出は秦の嶧山碑。その字は「うごかす」とも「どよもす」とも訓める。初出の字形は〔䇂〕(漢音ケン)”刃物”+「目」+「東」”ふくろ”+「土」で、「童」と釈文されている。それが”動く”の語義を獲得したいきさつは不明。「ドウ」は慣用音。呉音は「ズウ」。西周末期の金文に、「動」”おののかせる”と解釈する例がある。春秋末期までの用例はこの一件のみ。原義はおそらく”力尽くでおののかせる”。詳細は論語語釈「動」を参照。
回(カイ)
「回」(甲骨文)
論語の本章では、顔回子淵のいみ名(本名)。いみ名は自分自身か、同格以上の者が呼ぶ際の呼称。論語の本章の場合、師である孔子に対する次章で、へり下った言い方。
「回」の初出は甲骨文。ただし「亘」と未分化。現行字体の初出は西周早期の金文。字形は渦巻きの象形で、原義は”まわる”。詳細は論語語釈「回」を参照。
雖(スイ)
(金文)
論語の本章では”ではあるが、それでも”。初出は春秋中期の金文。字形は「虫」”爬虫類”+「隹」”とり”で、原義は不明。春秋時代までの金文では、「唯」「惟」と同様に使われ、「これ」と読んで語調を強調する働きをする。また「いえども」と読んで”たとえ…でも”の意を表す。詳細は論語語釈「雖」を参照。
不(フウ)
(甲骨文)
漢文で最も多用される否定辞。初出は甲骨文。「フ」は呉音、「ブ」は慣用音。原義は花のがく。否定辞に用いるのは音を借りた派生義だが、甲骨文から否定辞”…ない”の意に用いた。詳細は論語語釈「不」を参照。
敏(ビン)
(甲骨文)
論語の本章では”素早い”→”知能が鋭い”。新字体は「敏」。初出は甲骨文。甲骨文の字形は頭にヤギの角形のかぶり物をかぶった女性+「又」”手”で、「失」と同じく、このかぶり物をかぶった人は隷属民であるらしく、おそらくは「羌」族を指す(→論語語釈「失」・論語語釈「羌」)。原義は恐らく、「悔」と同じく”懺悔させる”。論語の時代までに、”素早い”の語義が加わった。詳細は論語語釈「敏」を参照。
事(シ)
(甲骨文)
論語の本章では”修行する項目”。字の初出は甲骨文。甲骨文の形は「口」+「筆」+「又」”手”で、原義は口に出した言葉を、小刀で刻んで書き記すこと。つまり”事務”。「ジ」は呉音。論語の時代までに”仕事”・”命じる”・”出来事”・”臣従する”の語義が確認できる。詳細は論語語釈「事」を参照。
斯(シ)
(金文)
論語の本章では”これら”。個別のちまちました事柄だけではなく、孔子の示した精神全体を指す。初出は西周末期の金文。字形は「其」”籠に盛った供え物を祭壇に載せたさま”+「斤」”おの”で、文化的に厳かにしつらえられた神聖空間のさま。意味内容の無い語調を整える助字ではなく、ある状態や程度にある場面を指す。例えば論語子罕篇5にいう「斯文」とは、ちまちました個別の文化的成果物ではなく、風俗習慣を含めた中華文明全体を言う。詳細は論語語釈「斯」を参照。
語(ギョ)
(金文)
論語の本章では”交わされた言葉”。誰かから聞いた話。この語義は春秋時代では確認できない。初出は春秋末期の金文。「ゴ」は呉音。字形は「言」+「吾」で、初出の字形では「吾」は「五」二つ。「音」または「言」”ことば”を互いに交わし喜ぶさま。春秋末期以前の用例は1つしかなく、「娯」”楽しむ”と解せられている。詳細は論語語釈「語」を参照。また語釈については論語子罕篇20余話「消えて無くならない」も参照。
矣(イ)
(金文)
論語の本章では、”…してしまおう”。初出は殷代末期の金文。字形は「𠙵」”人の頭”+「大」”人の歩く姿”。背を向けて立ち去ってゆく人の姿。原義はおそらく”…し終えた”。ここから完了・断定を意味しうる。詳細は論語語釈「矣」を参照。
論語:付記
検証
上掲語釈で検討した通り、「一日克己復禮、天下歸仁焉」を除けば、論語の本章は文字史的にも内容からも、史実の孔子と顔淵の対話と解してよい。ただし語法的には疑問が残り、後世にかなり手を加えられたことは疑う余地がない。
解説
論語の本章と似た話が、『春秋左氏伝』に孔子の発言として載っている。
仲尼曰,古也有志,克己復禮,仁也,信善哉,楚靈王若能如是,豈其辱於乾谿。
仲尼が言った。「昔から言い伝えられていることがある。”自分に勝って『礼』に従うのが、『仁』である”と。その通りだ。楚の霊王は、もしこの言葉通りにしていたら、乾谿で家臣にバカにされるようなこともなかっただろうに。」(『左伝』昭公十二年)
楚の霊王は気ままに家臣を殺しておきながら、その氏族の復讐を警戒しなかったため、近臣にもそっぽを向かれて、逃亡の果てに自分で縊れ死んだ。乾谿とはその直前に出陣した地名だが、そこで対話した家臣に遠回しにバカにされ、自分のまわりが敵だらけなのを悟って野垂れ死にした。
文字史から、『春秋左氏伝』が孔子の友人である左丘明の筆であるとは言えないが、内容的にかなり詳細で、春秋時代が終わってそう遠くない時代にまとめられたとは言えよう。行動がちゃらんぽらんだった霊王の行状から察するに、やはり「禮」を”貴族の常識”と解するのには理がある。そして「仁」を「仁義」の意で解せないことも、この例から知れるだろう。
論語の本章、新古の注は次の通り。
古注『論語集解義疏』
顔淵問仁子曰尅已復禮為仁疏馬融曰尅己約身也孔安國曰復反也身能反禮則為仁矣一日尅己復禮天下歸仁焉註馬融曰一日猶見歸況終身乎為仁由己而由人乎哉註孔安國曰行善在己不在人者也顔淵曰請問其目註苞氏曰知其必有條目故請問之也子曰非禮勿視非禮勿聽非禮勿言非禮勿動註鄭𤣥曰此四者尅己復禮之目也顔淵曰回雖不敏請事斯語矣註王肅曰敬事此語必行之
本文「顔淵問仁子曰尅已復禮為仁」。
付け足し。馬融「尅己とは身を慎むことである。」
孔安国「復とは戻ることである。我が身を礼に戻すことが出来れば、つまり仁になるのである。」
本文「一日尅己復禮天下歸仁焉」。
注釈。馬融「たった一日でも天下が仁の情けに帰るのであるから、生涯やればなおさらである。」
本文「為仁由己而由人乎哉」。
注釈。孔安国「善行を行うのはあくまでも自分の問題で、他人の関わる事では無いのである。」
本文「顔淵曰請問其目」。
注釈。包咸「克己復礼には必ず箇条があると悟っていたので、だからそれを問うたのである。」
本文「子曰非禮勿視非禮勿聽非禮勿言非禮勿動」。
注釈。鄭玄「この四つが克己復礼の条目である。」
本文「顔淵曰回雖不敏請事斯語矣」。
注釈。王粛「語られたこの項目に敬意を払って必ず行う、というのである。」
新注『論語集注』
顏淵問仁。子曰:「克己復禮為仁。一日克己復禮,天下歸仁焉。為仁由己,而由人乎哉?」仁者,本心之全德。克,勝也。己,謂身之私欲也。復,反也。禮者,天理之節文也。為仁者,所以全其心之德也。蓋心之全德,莫非天理,而亦不能不壞於人欲。故為仁者必有以勝私欲而復於禮,則事皆天理,而本心之德復全於我矣。歸,猶與也。又言一日克己復禮,則天下之人皆與其仁,極言其效之甚速而至大也。又言為仁由己而非他人所能預,又見其機之在我而無難也。日日克之,不以為難,則私欲淨盡,天理流行,而仁不可勝用矣。程子曰:「非禮處便是私意。既是私意,如何得仁?須是克盡己私,皆歸於禮,方始是仁。」又曰:「克己復禮,則事事皆仁,故曰天下歸仁。」謝氏曰:「克己須從性偏難克處克將去。」顏淵曰:「請問其目。」子曰:「非禮勿視,非禮勿聽,非禮勿言,非禮勿動。」顏淵曰:「回雖不敏,請事斯語矣。」目,條件也。顏淵聞夫子之言,則於天理人欲之際,已判然矣,故不復有所疑問,而直請其條目也。非禮者,己之私也。勿者,禁止之辭。是人心之所以為主,而勝私復禮之機也。私勝,則動容周旋無不中禮,而日用之間,莫非天理之流行矣。事,如事事之事。請事斯語,顏子默識其理,又自知其力有以勝之,故直以為己任而不疑也。程子曰:「顏淵問克己復禮之目,子曰,『非禮勿視,非禮勿聽,非禮勿言,非禮勿動』,四者身之用也。由乎中而應乎外,制於外所以養其中也。顏淵事斯語,所以進於聖人。後之學聖人者,宜服膺而勿失也,因箴以自警。其視箴曰:『心兮本虛,應物無跡。操之有要,視為之則。蔽交於前,其中則遷。制之於外,以安其內。克己復禮,久而誠矣。』其聽箴曰:『人有秉彝,本乎天性。知誘物化,遂亡其正。卓彼先覺,知止有定。閑邪存誠,非禮勿聽。』其言箴曰:『人心之動,因言以宣。發禁躁妄,內斯靜專。矧是樞機,興戎出好,吉凶榮辱,惟其所召。傷易則誕,傷煩則支,己肆物忤,出悖來違。非法不道,欽哉訓辭!』其動箴曰『哲人知幾,誠之於思;志士勵行,守之於為。順理則裕,從欲惟危;造次克念,戰兢自持。習與性成,聖賢同歸。』」愚按:此章問答,乃傳授心法切要之言。非至明不能察其幾,非至健不能致其決。故惟顏子得聞之,而凡學者亦不可以不勉也。程子之箴,發明親切,學者尤宜深玩。
本文「顏淵問仁。子曰:克己復禮為仁。一日克己復禮,天下歸仁焉。為仁由己,而由人乎哉?」
仁とは、本心から道徳を全うしようとする行為である。克は勝つことである。己とは自分の欲望を言う。復は戻ることである。礼は天のことわりが地上界を運営する原則である。為仁とは、心の道徳を全うしようとする方法である。たぶん心が備える完全な道徳は、天のことわりに他ならず、人の欲望によっては実行できず、損なわれる事も無い。だから仁を実践する者は必ず我欲に勝って礼法に戻らねばならないのである。つまり天のことわりにまったく従うことで、人が生まれながらに持つ道徳を自分に取り戻せるのである。歸とは、手を貸し従うことでもある。また「一日克己復禮」と言ったのは、つまり天下の人が皆仁に手を貸し従う法で、言葉を尽くして克己復礼の効果と素早さの偉大なことを説いたのである。また「為仁由己」といい、他人が関われることでは無いと言ったのは、克己復礼はあくまで自分の問題であり、人任せにすれば問題が起きると説いた。毎日克己に励むのは難しいことではなく、つまり我欲をことごとく滅ぼせば、天のことわりがそのまま作用し、仁の通用しないところが無くなるからである。
程頤「礼にそぐわないことはつまり我欲である。我欲を持ったままで、どうして仁が実践できようか? 我欲を滅ぼし去ってやっと、皆が礼に立ち戻るようになり、ここからまさに仁の実践が始まるのである。」
「克己復礼とは、行為のすみずみまで仁に則ることで、だから天下が仁に立ち戻ると言った。」
謝良佐「克己するには、必ず人間の本性に従い、片寄りや滞りが取り憑いて離れないなら、まずそれを取り除かねばならない。」
本文「顏淵曰:請問其目。子曰:非禮勿視,非禮勿聽,非禮勿言,非禮勿動。顏淵曰:回雖不敏,請事斯語矣。」
目とは条目のことである。顔淵は先生の話を聞いて、天のことわりと人の欲望の境目を知った。つまり話をそれで悟ったわけで、それ以上疑問があったわけでは無いのだが、箇条書きにして教えて下さいと乞うた。礼でないものとは、自分の自我である。勿とは、禁止の言葉である。この項目は、人の心が従うべきもので、我欲に勝ち礼に立ち戻る方法である。自分に勝ったなら、普段の立ち居振る舞いが礼法から外れることが無く、日々の生活そのものが、天のことわりに従わないことがない。事とは、仕事に従事するという意味である。この言葉に従事することを望んだのは、顔子にとって理論ははっきり分かっていたものの、努力して実践しなければならないことも知っていた。だから言われてすぐに自分の修めるべき道だと心得て疑わなかったのである。
程頤「顔淵が克己復礼の項目を問い、先生は”礼法にそぐわないものは見るな、聞くな、言うな、するな”と答えた。四つとも身体の働きである。だから自分自身の問題であり自分以外への応対でもあり、現れた行動を慎むことで自身を修養しようとするのである。顔淵がこの項目を修養したのは、聖人への道を進むためだった。後世、聖人の道を学ぶ者は、よくこの項目を叩き込んで見失ってはならない。この戒めに従って自分を戒めるべきである。見ることについての戒めとはこうである。”心はもともと空っぽで、自分でないものに応対したところで跡が残りはしない。心を制御する要点は、心をよく見つめることだ。目の前を塞がれてよく見えないのは、その時心は移り気に動いている。自分の行動を慎むことで、心を安らげるのである。克己復礼には、時間を掛けて本物にする必要があるのだ”。聞くことについての戒めはこうである。”人間には常識というものがある。それは天から与えられた本来の性質に従う。だが知識や誘惑がそれをねじ曲げ、とうとう正しい道から外れさせる。このことわりをまず呑み込めば、余計な知識が止まって心が安定する。でたらめな話に少々の事実が含まれていても、礼法にそぐわないなら聞くな。”言葉についての戒めとはこうである。”人が心を動かすにも、何を言うかで評価される。言うべきで無いことを言いデタラメを言いながら、内心は静かに落ち着いていることがあるのだ。(以下うんざりしたので訳すのを止めた)矧是樞機,興戎出好,吉凶榮辱,惟其所召。傷易則誕,傷煩則支,己肆物忤,出悖來違。非法不道,欽哉訓辭!』其動箴曰『哲人知幾,誠之於思;志士勵行,守之於為。順理則裕,從欲惟危;造次克念,戰兢自持。習與性成,聖賢同歸。』」愚按:此章問答,乃傳授心法切要之言。非至明不能察其幾,非至健不能致其決。故惟顏子得聞之,而凡學者亦不可以不勉也。程子之箴,發明親切,學者尤宜深玩。
訳者が宋儒の言い分をまじめに聞く気が無い理由は、論語雍也篇3余話「宋儒のオカルトと高慢ちき」を参照。
余話
かぶれ者の饗宴
トルストイ『戦争と平和』の冒頭はフランス語で始まっている。敵方がナポレオンだからという理由よりも、当時小説を読むようなロシアの有閑階級が、なべて西欧かぶれだったことに起因する。ドストエフスキーもまた「西欧的だ*」と賛美されて、やっと文壇に立つことが出来た。
ロシアの西欧かぶれには二種類いた。西欧を拝み奉る西欧派と、ロシアにこそ神から授けられた価値があると主張したスラヴ派である。どちらも西欧に対するアレルギー反応から発生した生き物で、自分と西欧をともに上から目線で見られないという点で、同類の存在に他ならない。
西欧派が有力になると、「遅れたロシアがいけない」と言いつつ国内で連続〒囗を起こしてただの人民まで殺した。スラヴ派が有力になると、「聖都コンスタンティノポリスを解放せよ」と言いつつトルコと戦争を繰り返し、「バルカンのスラヴ人を助けよ」と言いつつロシア軍を膨らませた。
だが卑屈な人間はバカにされる。ロシア軍がいくら膨らもうとも、西隣りのドイツ、その軍部はせせら笑っていた。「背後のロシア人はのろまだから、動員に時間がかかるに違いない」とふんで、フランスと気軽に戦争を始める気でいた。トルコにも遠慮無くドイツ軍を送り込んだ。
令名高い?大モルトケが軍歴を積んだのは、平時に派遣されたトルコで、一次大戦で彼我の兵卒を数字とした算術にふけり、ベルダンの目を覆う無残を実現化したファルケンハインも、トルコで軍歴を積んだ。大戦のトルコ軍で勝利が知られたのは、ケマルパシャと派遣ドイツ軍だけだった。
ドイツがセルビアに宣戦すると、日露戦でこりたニコライ2世は全面動員を命じた。すでに総力戦、全土で悲痛と共に兵が貨物列車で前線に向かい、鉄道ダイヤは戦時に書き換え。独帝は「セルビア援助の部分動員だけに」と露帝に懇願したが、ニコライにも不可能だった。
かぶれ者の双方が一次大戦を招き、1700万人以上が世を去った。猛威を思うべきである。
上掲語釈の通り、春秋時代の「仁」とは貴族の常識を実践することで、その常識も文字では示せなかった。それは戦場で我が身に刃が迫った瞬間、とっさに引くか踏み込むかの判断をさせ、朝廷で政論の際、とっさに適切な理由を挙げて政敵を論破し、外交では譲歩を引き出した。
つまり武芸を含めて幅広い教養を体に叩き込み、心理的に相手を圧倒できるようになるまで体を張って稽古する必要のあるもので、たかが本を読んだ「お勉強」で身に付くものではない。同時に、刀を振り回す能しか無い暴れん坊が、仁の体現者と言えないのはもちろんだ。
訳者は当たり前の事を言っているつもりでいる。文字列だけ読んで、トランペットを吹けるようになった人を聞いたことがないからだ。同様に、通信教育だけで黒帯を取った者に、怖じる諸賢がいるだろうか。学歴自慢にはこういう道理が分からない馬鹿者が少なくないが、捨て置こう。
春秋の君子は必ず戦士を兼ねたし、家臣や領民にそっぽを向かれると、天寿すら全うできない存在だった(論語雍也篇24余話「畳の上で死ねない斉公」)。将校として兵卒の苦労を知らなければ、戦場で率いた家の子郎党を従えられないし、孔子の生きた春秋後期は、なおさらそうだった。
なぜなら弩(クロスボウ)の実用化に伴って、軍の主力が徴兵された歩兵になりつつあったからで、面識もない兵卒に戦場で「進め!」と命じるためには、「このお人の言うことは聞こう」と思わせるほどの人格力がなければならなかった。でないと自分が取り残されて死ぬ羽目になる。
孔子の生まれる90年ほど前からそうだった。
楚人未既濟,司馬曰,彼眾我寡,及其未既濟也,請擊之。公曰,不可,既濟而未成列,又以告,公曰,未可,既陳而後擊之,宋師敗績,公傷股,門官殲焉…二十三年…夏,五月,宋襄公卒,傷於泓故也。
(宋軍が川を挟んで対峙した)楚軍が渡りきらない所で、(宋の)将軍が襄公に進言した。「我が軍は圧倒的に少数です。いま楚は渡河の最中で、兵力が分断されています。各個撃破の好機です。今すぐ前進の下知を願います。」襄公「だめだ。」
やがて楚軍は渡り終えたが、陣を構えるのに手間取った。宋の将軍「今こそ下知を!」襄公「だめだ。」すると陣を構え終えた楚軍が、列を連ねて「ザッザッザッ」と押しはじめた。
宋軍はそのまま踏み潰され(て多くが逃げ)た。旗本だけが頑張っていたが、やがてそれも潰されて襄公は股に傷を負い、旗本は全員戦死した。…翌年五月、襄公は傷が元で死去した。(『春秋左氏伝』僖公二十二年・二十三年)
対して帝政期の君子は全く別物になった。戦場にも行かないただの役人で、それも仕事は部下に全部投げて利権をあさるだけの存在になった。こういう社会の寄生虫が、二千年以上いまなお続いているのは、「天命を受けた皇帝」や「人民の党指導部」に都合のよい防波堤だからに他ならない。
人は文句の言いやすい方へ文句を言うからで、広義の宗教で神聖不可侵になっている存在より、身近な役人の悪事を言い立てる。そういう苦情や暴力沙汰を、役人は自分事だから一生懸命に消しにかかる。たまに頂点に苦情が届いたら、「悪代官」を成敗することで好感度を上げたりもする。
ロシアも同様。リューリク朝の崩壊後しばらくの無秩序を経て、「あいつならいいんじゃね?」とユーグ・カペーそっくりの理由で、旧来からの貴族=諸侯(бояре)らによってツァーリに推戴されたロマノフ家は、ピョートル大帝が諸侯を権力の場から排除して、独裁官僚制を確立した。
だが貴族のいない君主制は無い。現代日本に「上級国民」がいるように、明治政府が役人に授爵したように、ロシア帝国の官僚は新時代の貴族(дворянин*)になった。語の由来であるдворは”場”・”土地”の意で、дворянинは”宮廷という場の人”であり、”土地を持つ人”でもある。
以降今に至るまでロシアは中国同様の役人天国で、たまの苦情に皇帝や書記長や大統領が「悪代官」を成敗したのも同じ。成敗を信じた帝国の臣民が、血の日曜日事件で裏切られたのちは地獄の内戦、次いでソ連という非世襲の独裁君主制が始まって、現連邦も体制は変わらない。
天国も宗教によりさまざまだが、仏教の天人は運が尽きると体が腐ってしまうらしい。キリスト教の天国には天使がいるらしいが、階級差別が激しく、神に怒られ地獄行きになる堕天使もいると聞く。日中露の役人界も差別が激しく、いつ神のようなものに監獄行きにされるか分からない。
例えば明治政府は文武官の階級を同列の表に並べ、上から親任官・勅任官・奏任官・判任官といって、最高の親任官は天皇から直接辞令を貰った。これが三権の長以外でも今なお続いており、高検長官まで親任される法務省は、ポストが他省より多いので子供のように威張り返っている。
対してロシアの官僚貴族はピョートルに従軍義務を課されたが、帝政も中頃になるとその義務を解除され、『戦争と平和』のピエールのように、従軍も仕官もせず、酒を飲みながら空理空論を振り回し、食べ散らかしてはでくでくと肥え太り、ぶらぶら遊びほうけている者が出始めた。
ピエールを「太った男」とトルストイが描いたのは、そういう含みを持たせている。総大将のクトゥーゾフも太っていたが、あれは将軍だから太っていていいので、抜刀して戦列に並ぶ将校は、太っていては前線の乏しい配給に耐えられないし、戦場を駆け回って兵を指揮することも出来ない。
『戦争と平和』時代の皇帝はアレクサンドル1世だが、先々代のエカテリーナ女帝の頃から貴族将校は、西欧かぶれの高慢ちきになりつつあり、兵の反感をよそにペラペラと半可なフランス語を振り回したから、「兵の前で外国語をしゃべるな!」とドイツ出身の女帝に厳命されている。
今この稿を書いている2023年6月、岸田首相のバカ息子が首相秘書の任にあるのをいいことに、首相公邸で遊びほうけているのでクビにされたが、多かれ少なかれ日本の高級官僚は、玉座に近い地位にいる者ほど働かず、まるで現実的でない命令を下し、尻拭いを全部部下にかぶせている。
日本の原子力政策も同様で、いわゆる「原発ムラ」は利権にまみれ、3.11と同時に無能視された。だが反対することで利益を得ている「反原発ムラ」もあって、3.11と同時に株を上げ、例の「何でも反対」で日本の原子力どころか、エネルギー問題まで好き勝手にして人々をしいたげている。
2022年末ごろから、超過タヒ問題が指摘されるようになった。原因はいまなお不明のままだが、人間は生物であり生物は生存にエネルギーを必要とし、それにかかる労力が個体の能力を上回ると、例外なくタヒんでしまう。だから石油と並んで電気料金の異様な値上がりが、無関係なはずがない。
訳者は身内にT大で原子力工学を専攻した者や、原子力関連企業で働いていた者を持つ。それゆえに、「原子力ムラ」の者どもがいかに無責任かを知っていると同時に、「反原子力ムラ」の者どもが、いかに暴力的かも知っている。社宅の同級生は、子供のころ者どもに誘拐されかけた。
表沙汰にならなかったのは、被害を受けたら泣き寝入りしろという、今では想像も付かない常識が昭和後半の日本に定着していたからであり、伝えるべきメディアも、おおかた反ムラの同列だったからでもある。ゆえに原発の現場は現場の作業員が、被害と汚名を甘受しつつ守っていた。
また福島事故の原因は、そもそも反ムラの「何でも反対」により、原子炉の保安改良工事すら出来なくなり、老朽化を知りつつ運転せざるを得なかったからだ、と原子炉の運転免許を持つ者から直接聞いた。そして事故の日、現場の勇士たちが我が身を返り見ず炉内に突入し、暴走を止めた。
反発ムラの財源がどこか、悪名高いКГБでもない訳者は知りようがない。平日の昼間に他人の社宅をうろつき、下校する児童を付け狙う連中の生活費が、どこから出ているか知るのは不可能だ。ソ連崩壊に伴ってやっとカチンの森事件の主犯が判明したように、簡単に知れる事ではない。
かぶれ者のカンパでまかなえるわけもない。福島原発の排水を中共は「汚染水」と呼び続け、2023年5月「全世界に災いを被らせる」と「人民網」で声明した。対して台湾は6/19、交流協会に働きかけ、日本産農作物の輸入を拡大させると「台湾中央放送」の日本語番組で声明した。
誘拐などするのは反ムラの連中でも、刀を振り回すしか能の無い暴れん坊と同様のたぐいだろう。上層部は手を汚すことなく、偉そうに空理空論を振り回していれば、日本共産党の元党首のように、旧ソ連の党幹部(номенклатура)のように、贅沢三昧に過ごしていること必定である。
人間はたまには、ものさしを買い直した方がいい。そうでなくとも、タテに見たらヨコにも見ると、ものがよく見える。エクセルに行と列があるように。原発も可不可で見るのではなく、横から関係者を見ると、末端に粗暴な破落戸がいて、上澄みに欲タカリの高慢ちきがいることが分かる。
かつて日本軍の精強さは、下士官の充実にあると言われた。今の自衛隊もそう言われるし、豊かな社会は中間層がたっぷりとしている。そしてたぶん中間層だけが、自分の居る場にしがみつかずに、外から見てみようとか、よそへ行ってみようとか、好奇心を持ち実行する余裕がある。
上下双方の極端では、利権や承認やサディズムへの強い欲求が中途半端に満たされてしまうので、人は極端から離れられない。だが𠂊ス刂と同じで同量ではすぐに効かなくなり、常に餓えることになる。だから帝政以降歴代中国の権臣は、国家予算級のワイロを貯め込みまだ欲しがった。
庖有肥肉,廐有肥馬,民有飢色,野有餓莩,此率獸而食人也。
孟子が申しました。「恵王殿下、さきほどお城の台所のそばを通りましたが、でんと大きな肉がいくつもつり下がっておりました。お馬小屋を通りましたら、たっぷり餌を食って肥え太った馬が揃っておりました。そしてお城の外では民が腹を空かせ、野原には飢え死にして誰も弔わぬ骸骨がころがっております。こういうのを、ケダモノをけしかけて人を喰わせる、というのです。」(『孟子』梁恵王上)
中国の官僚制は孔子が始めた。孟子が仁を仁義”あわれみ”に言い換えたのも無理は無い。
参考記事
- 論語公冶長篇15余話「マルクス主義とは何か」
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